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2006年03月09日

0507節分会

『江戸名所図会』巻之六 開陽之部

【浅草寺へ奉納】

 

  【浅草寺へ奉納】                             鬼平熱愛倶楽部 2001 相州藤沢宿の秋山小兵衛

 

【浅草寺へ奉納】                                        鬼平熱愛倶楽部 0206 豊麻呂

 

【浅草寺へ奉納】                                          鬼平熱愛倶楽部  2011 おまさ

 

【浅草寺へ奉納】                                    鬼平熱愛倶楽部 2018 田無の弱法師

 

 【浅草寺へ奉納】                              鬼平熱愛倶楽部 2019 みやこのお豊

 

【浅草寺へ奉納】                               鬼平熱愛倶楽部 2020 茶木登茂一

 

 【浅草寺へ奉納】                                  鬼平熱愛倶楽部 2021 靖酔

 

 【浅草寺へ奉納】                              鬼平熱愛倶楽部 2024  所沢のおつる

 

                                            鬼平熱愛倶楽部 2026 西坂

 

 【浅草寺へ奉納】                                                                                                 鬼平熱愛倶楽部 2029  むらい

 

                                      鬼平熱愛倶楽部 2030 足立の山勝

 

                                                                     朝日カルチャーセンター[鬼平]クラス 2106  木下博介

 

                            朝日カルチャーセンター[鬼平]クラス 2110 島川富男

投稿者 nishiot : 2006年03月09日 16:36

コメント

熱愛倶楽部の皆様お元気ですね、塗絵素晴らしいですね!以前は、西尾先生始め皆様にお世話になりました。浅草寺節分会は、段位ページで皆様の絵を拝見して、一括観ようと思い、ここに参りました。さすが西尾先生ですね、直ぐにこちらの、どんな検索にも対応されてます。ここの絵は、それぞれの個性が一番強く出ています。一枚々々素晴らしい出来栄えです。さらにコメントの伝法院については、懐かしさが思い出されます。十何年か前、書院から見た庭や、庭からの風景が、今でも鮮明に現れます。東京のマン真中に、庭と空がある風景。電柱やコンクリートビルがない風景。今は年に5,6回位浅草に行ければいいでしょうか。昔は毎週のように行ってました。今度の展示「松」の絵、拝見に参ります。

投稿者 長谷部 : 2006年10月04日 22:00


江戸開府で、いちはやくにぎわったのが浅草寺かいわい。寺側が催したさまざまのプロモーション策の功であろう。 節分会(え)のお札播きの功徳もその一つ(衆徒のあまりの熱狂・競いあいぶりに、その筋が明治17年に禁止令をだした)。 2006年1月21日、雪旦の節分会を塗り絵した鬼平熱愛倶楽部の有志は、寺側への奉納を果たしたが、当日は朝から雪が降りやまず、期せずして、広重「浅草金竜山」が眼前に出現した。 奉納後に許されて見学した伝法院の庭園も千載一遇の雪景色。 だからというわけではないが、広重『江戸百景』中、ぼくのベスト5の1が、これ。

投稿者 西尾忠久 : 2006年09月12日 15:45


おKさん、素晴らしいレポートになって興味あるお札撒きの中止のいきさつが良く分かりました。撒いたお札の数の何と半端なこと。何となくご利益の程が伺い知れますね。 活字の分とぶんとをお寺の裁量で使い分けてるなど一景から随分多くの事を知りました。有り難いことです。

投稿者 永代橋際蕎麦やのおつゆ : 2006年04月11日 00:10


亀戸のおK様 「浅草寺節分会」についての詳しいご報告ありがとうございました。 中々解らなかった、お札撒き廃止の経緯がやっとわかりました。来年の節分が一層楽しみになります。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年04月10日 13:56


浅草寺節分札撒きの始まりの歴史 浅草寺においては元禄(1688~1704)の頃から大衆的に節分会が創始されたようです。当初は寺から「節分般若心経日数所」と記した切紙の御札を授与し享保時代(1716~41)には江戸中に有名になっていたことは文献で知られています。 これが更に発展して、節分会の法要後、豆打の式が終わって前述の節分札、総数一万枚の中、三千三百三十三枚を、本堂外陣の東西の柱に棚を吊って、檜前兄弟の末裔(譜代と称し、半俗、半僧)が下部を従えて登り、「節礼」と大書きした大団扇で煽って撒くようになったのは宝暦(1751~64)以後と思われている。この札を手に入れようという信徒が堂内に満ちて大変な雑踏をきわめ「人の手武蔵野の尾花の如し」と文献にみえている。 1874年(明治7年)ロンドンで出版された銅版画本で「浅草寺の或るシーン」と見出がついている銅版画はまさにこの長谷川雪旦の節分会そのものです。エイメ・ウンベールがスイス特派公使として日本に来朝した1863年(7月薩英戦争)か64年(8月長州征伐)の風景と思われている。 札撒きの廃止の経緯 明治になっても寺社で営まれる大衆的節分会は浅草寺だけであった。毎年多少の怪我人が出るので遂に明治17年(鹿鳴館に仮装舞踏会盛行)に明治政府から禁止令がでて廃止となってしまいました。 その後、昭和8年(国際連盟脱退)本堂大営繕の落慶を機会に昭和11年(2・26事件)より古式札撒の行事が復活されましたが、その後時節柄ということで自主的に中止ということで現在にいたってます。 現在では 七草が終わった頃から節分の当日まで「節分般若心経日数所」に「立春魔訶吉祥所」の切札も出されています。 浅草寺節分札の「分」の字は、「人」の下へ「力」と書く特殊な字体で、この「分」を切り取って妊婦に服させると安産の咒となるといわれています。 この節分会札撒きの歴史は、「浅草寺史談抄」からの抜粋と教化部に電話で伺ったことをまとめさせていただきました。 このコメントは鬼平熱愛倶楽部の皆様の暖かい友情と探求心に支えられて書くことができました。ありがとうございます。

投稿者 亀戸のおK : 2006年04月10日 11:13


「大人の塗り絵」賑やかにどんどんアップされダウンロードして此処へたどり着くと、その瞬間には目は柱ではなく、お札を撒くお坊さまの「吊り台」にいってしまうのです。 瞬間、「この台怖い」 確か、危険があって高い所からの神事は中止になったと聞きましたが。 だから、この絵の風景は貴重ですね。 絵は多勢の参拝者が賑やかで、活気があって楽しい会図ですね。 沢山奉納した会図の浅草寺さまの展示が楽しみになっています。

投稿者 永代橋際蕎麦やのおつゆ : 2006年03月30日 23:44


私達が始めて奉納させていただいた塗り絵なので、思い出一杯ですが、 なんと言っても同じ元絵を熱愛倶楽部と朝日カルチャーの皆様と塗ったことです。 中心の柱、お札を取り合う人々のの彩色に個性が出て、夫々が感じたままに塗って楽しんでいる様子が良く表されていると思います。 「大人の塗り絵」が本当に人生の活性化につながる見本です。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年03月10日 12:31


圧巻ですね 奉納という初体験をした記念すべき塗り絵でした。 しかも、天下の浅草寺さんにです。 奉納の日の平成18年1月21日は東京は未明からの雪でいつもは賑やかな浅草寺の境内も静かな雪景色につつまれていました。 奉納という大イベント終了後に見学した非公開の伝法院の庭とそこから見える五重塔は生涯忘れることのできない素晴らしい景色でした。 鬼平ファンの私にはその後の駒形どぜうと雪見酒も最高のごちそうでした。 すばらしい思い出たっぷりの塗り絵です。

投稿者 亀戸のおK : 2006年03月10日 11:58


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