2003年 2月

――敬称略・逆日付順――



2月27日〜19日  15日〜9日  5日〜2日

2月27日〜19日
2003年02月27日(木) 06:38

長谷川家について


発信:居眠り隠居さん

貴名HP、一鬼平ファンとして興味深く、楽しく、心躍らせ、ワクワクしながら拝見しました。
ところで、長谷川家の出自について、ちょっと気になるところがありましたので、差出がましいとは存じましたが一筆啓上致しました。私もこの事について研究中なのです。

「平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷の流れをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣の代になって、大和の国・長谷川に住し、これより長谷川姓を名のったそうな。のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。義元が織田信長の奇襲をうけ、桶狭間に戦死し、今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった。長谷川正長は、織田・徳川の連合軍が、甲斐の武田勝頼と戦い、大勝利を得た長篠の戦争において、[奮戦して討死す。年三十七]とものの本にある。この長谷川正長の次男に、伊兵衛宣次という人があり、これが、長谷川平蔵の先祖ということになる。伊兵衛宣次から八代の当主が、長谷川平蔵宣以だ」

以上、文庫巻3「あとがきに代えて」からですが、千葉琢穂著『藤原氏族系図第2巻秀郷流』の下河邉氏族――長谷川氏の項によると、正長が討死を遂げたのは長篠の合戦ではなく、三方原合戦ですね。そのほかの記述はすべて符合しています。

下河辺氏族について
天慶の乱(10世紀中ごろ)で平将門を討ち取り、室町期のお伽草子『俵藤太物語』の主人公として、龍王の頼みを聞き大ムカデを退治した伝説的な英雄、藤原秀郷より八代、太田太夫行政の子たちがそれぞれ成人し、兄政光は下野国小山に居を定め、小山・結城の祖となります。弟四郎行光は天仁2年(1111)、源義綱反逆の時、その鎮圧の軍功によって、下総国葛飾郡下河邉庄に地頭として住し、家号を下河邉と定めました。下河辺氏発祥の起源です。下河辺氏の初代をこの行光にするか、次の義行にするか、『尊卑分脈』でも分かれますが、本題とは関係がないので、省略します。ちなみに、この下河辺庄を現在の地名で現せば茨城、埼玉県史などによると古河、五霞、総和、松伏、栗橋、庄和、杉戸、吉川、春日部、岩槻、越ヶ谷、三郷、野田など茨城、埼玉、千葉3県に係る、幅10キロ長さ50キロにも及ぶ地域であったようです。

二代行義はまたの名を清親、藤三郎、四郎、恒清坊と号し、源三位頼政とともに平氏打倒のために戦い、『平家物語』では藤三郎清親、平治物語では藤三郎行吉の名で活躍ぶりが描かれています。宇治川の戦いに敗れた後、僧形となり荼毘にふした頼政の遺灰を笈に隠し身を潜めますが、子の行平が頼朝によって元のごとく下河辺庄司を安堵されたので古河に帰還、息子を別当に古河城内に頼政明神を建立しました。

三代下霜河辺庄司次郎行平は鎌倉幕府草創期、頼朝の側近中の側近として活躍しました。頼朝は「日本無双の弓の名手」とたたえ、「頼家君の御弓の師」に任命。ついには「下河辺庄司行平が事、将軍家ことに芳情を施
さるるのあまり、子孫において永く門葉に準ずべきの旨、今日御書を下さると云々」(『吾妻鏡』建久611月6日)という最高の栄に浴した、知る人ぞ知る武将。『吾妻鏡』には 100箇所ほど行平に関する記述があり、その弟たちには次のような人たちがいます。(略)

忠義、武勇の四郎政儀は頼朝の寵愛をえ、河越重頼の女を娶り、後継の男子にも恵まれ常州南郡惣地頭職としてその前途は洋々、順風満帆と思われていました。この頃、頼朝と義経兄弟の仲が微妙になります。頼朝は「義経が馬鹿なことをするのも独り身だから。妻帯すれば変わるだろう。どこぞに良い姫はいないか」白羽の矢がたったのが河越重頼の郷姫、つまり四郎政義の妻の妹です。
兄弟仲が日毎に険悪化しているのを知っている重頼や政義はいやな予感に襲われたことでしょう。しかし最高権力者の意に逆らうことは出来ず、「河越太郎重頼の息女上洛す。源廷尉に相嫁せんがためなり。これ武衛の仰せによって、兼日に約諾せしむと云々。重頼が家の子2人、郎従30餘輩、これに従ひ首途すと云々」(元歴元年〔1184〕9月14日の条)ということになったが、果たせるかな、郷姫輿入れから1年後、
「・…今日河越重頼が所領等収公せらる。これ義経の縁者たるによってなり。・…また下河邉四郎政義、同じく所領等を召し放たる。重頼の婿たるが故なり」(文治元年〔1185〕11月12日の条)まさに悪夢は現実のものとなったのでした。重頼は斬られ、政義は石岡以南の広大な領地を取り上げられ、その身は兄行平の許にお預けとなり、その領地は行平の子が相続しました。政義はいわば、義経処分という大義名分の犠牲になったのではないでしょうか。しかし政義ほどの武士ですから、やがてまた『吾妻鏡』に名が出てきます。
文治3年(1187)11月11日には頼朝の上洛に先立って、朝廷への貢馬が3頭進発しますが、政義はその使者として京に向かいます。建久元年(1190)11月7日、入洛した頼朝に従い先陣畠山重忠の随兵3番手として行列に加わっています。同2年正月3日小山朝政が頼朝に飯を献じたおり、御剣は下河邉行平、御弓箭は小山宗政、沓は同朝光、鷲羽は下河辺政義、砂金は朝政自らが奉持して御坐の前に置いた、とあります。
同年8月18日頼朝の新造の御厩に、下河辺行平らから贈られた16頭の馬を、政義ら5人の武士が試乗、将軍にご覧にいれました。同3年6月13日、頼朝が新造御堂の現場に来ます。畠山重忠、下河辺政義、城四郎、工藤小次郎ら梁棟を引く。その力は力士数十人の如きで見る者を驚かした・…。まだまだありますが、割愛します。下河辺政義は復権したと見て間違いはないでしょう。その後正義は益戸姓を名乗り、かつての領地常陸国南郡方面に出て活躍したものと考えられます。南郡惣地頭職時代は志築(茨城県千代田町)に館や山城を築いたといわれ、益戸となってから千代田町と八郷町の境界線上にある権現山に、半田砦を築いたようですが、浅学の身、詳しいことはよく分かりません。

ところで、下河辺政義には3人の子がいたようです。

○行幹(三郎兵衛尉)――行景(和泉守)――宗行(四郎左衛門尉)――行助(和泉守)――顕助(下野守)
○政平(左衛門・小河次郎)――能忠(七郎)――義廣(七郎・左衛門尉)
○時員(野木・野本乃登守)―ー行時(二郎)――時光(同二郎)――貞光(乃登守)――朝行(四郎左衛門)
(『尊卑文脈』)

○行幹(益戸二郎兵衛尉、母河越重頼女)――行景(和泉守)――宗行(四郎左衛門)――行助(和泉守)――顕助(四郎左衛門尉・下野守・従五位)
○政平(小川二郎左衛門)――朝平(小太郎)――景政(高原四郎)――能忠(小川七郎)――義廣(七郎左衛門尉)
○時貞(野本能登守、行高・従五位下)――行時(二郎)――貞光(能登守)――朝行(四郎左衛門)
(『群書類従完成会編』)

2書を比べると、長男行幹流についてはほぼ相違無し。次男政平流については尊卑文脈の政平と能忠の間に朝平、景政が入り、三男時貞流については群書類従系の行時と貞光の間に時光を加えれば、2書はまったく同一となる。両書とも 800年以前を書いた書としてはかなり正確な、信憑性の高いものと考えてもよいのではないでしょうか。

問題は、先生がお書きになられた「先祖書」の冒頭部分です。
「大織冠釜足より八代鎮守府将軍秀郷九代の後裔下川部四郎、実名知らず」とあるのは、明らかに下河邉四郎政義のことであると断定してもほぼ間違いないのではないでしょうか。
「『寛政呈譜』に下河邉四郎別称(益戸)政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣、大和国長谷川に住す。これにより長谷川を称す」
(藤原氏族系図 第2巻 秀郷流)
とあるのも政平までは間違いのない所だと考えられます。しかし、肝心の三代後に初めて長谷川を名乗った、という次郎左衛門政宣の名が見当たりません。尊卑文脈は、その編纂後のことは記載される筈も無く、下河辺系図もその分流を数代にわたって綿密に書き込むなどということはないのが当たり前です。先生のご指摘の『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』は不勉強でまだ見ておりませんが、これらの先祖書がまるで出鱈目を書いて提出したとはとは考えられません。幕臣が幕府に提出する先祖書を偽ったり、故意に粉飾するなどそんな不謹慎な真似はある筈もなく、当時の武士は他家がどのような家系であるかぐらいのことは知っており、従って虚偽の系図を提出する余地はないと思われます。下河辺氏は『吾妻鏡』にも数多く書かれており、『吾妻鏡』をいちばんよく読んだ日本人・徳川家康は、当然のことながら藤原秀郷や下河辺行平の故実にも明るかったと考えられます。ですから、家康から何代かたってはいても、出自に関して虚偽の申し立てはしていない。ただ年号や何代目かなどの細かい点については、あまりにも古く、かつ家譜の正確な記録を持たないために、若干正確さに欠ける点がある、と見るのが妥当ではないでしょうか。先に引用した、下河辺四郎政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣が、始めて大和に住み長谷川を称したというが、この年代もはっきりしません。そこで同時代に生きた兄行平の四代の後裔はいつ頃生きたかを調べてみると、文永年間(1264〜75)です。次に名前が出るのが、長谷川家の初代とされている、駿河国で今川義元に仕えた長谷川藤九郎正長。主君義元が永禄3年(1560)桶狭間で敗死後、徳川に仕え元亀3年(1570)三方ヶ原の戦で戦死、時に37歳。およそ1270〜1560の間が空白期間となっているのです。この空白期間を埋めるものが、先生お調べの「駿国雑記」ではないかと考えられます。また、正長から以後の系図は先生ご提示の「寛政重修家譜」が他本とも一致しているようです。「末葉下野国住人結城判官頼政三男、小川次郎政平長男小川次郎左衛門正宣長男 始 藤九郎一、元祖  本国生国 駿河 長谷川紀伊守正長」をどのように読めばよいのか、判断に迷うところです。「末葉下野国住人結城判官頼政三男」どこから、なぜ、この語句が出たのかさっぱりわかりません。
下河邉氏の出自で述べましたが、下河邉の兄が小山であります。小山氏から中沼、結城が出ていますので、下河邉と結城とはかなり近い関係にあります。そんなことと関係があるのでしょうか。小川政平は、下河邉四郎政義の次男、それから数代の後裔・政宣が大和に移り住み長谷川を名乗るようになった。さらにその後、その子孫藤九郎正長が駿河に移り住み、駿河長谷川家を興した、これが平蔵家の本家であると考えたいのですが、いかがでしょう?。老人の頭でいろいろ考えますと、ますます糸が複雑に絡みあってしまい、解けなくなってしまいまいそうです。


管理者:西尾からのレス

いやぁ、〔居眠り隠居〕さんどころか、現役顔負けの碩学ぶりです。ご指摘のとおり、「下野国住人結城頼政」は、たしかに下川辺の系図のどこにも見あたりませんね。『寛政譜』の 160年ほど前にまとめられた『寛永系図伝』の長谷川家の項は、藤九郎から始まっています。

「藤九郎 のち紀伊守と号す。駿州小川に生る。のち田中に居住す。今川義元没落ののち、東照大権現につかえたてまつる。元亀3年(1572)12月22日、遠州三方原の戦場におひて討死。37歳。法名存法」

『寛政譜』にある「秀郷流」は記されていません。それで推察できるのは、『寛政譜』提出にあたり、藤原秀郷から小川次郎政平までを、いわゆる系図屋と称する者たちが無理やりつなぐ、例の系図買いの噂です。

 わいわい談議 長谷川平蔵 ←ここをクリック



2003年02月20日(木) 02:55

長谷川家の系図

管理者:西尾から生島(しょうじま)さんへ

02月12日(水)の生島さんの、「え、長谷川平蔵の祖先って、関東出身なの?」に対する追補レスです。
池波さんが「重宝していた」と激白している参考史料の一つに、太田亮著・丹波基二編『新編 姓氏家系辞書』(秋田書店 1974。刊行年は「新編」)があります。『辞書』に7家収録されている長谷川姓の一つが平蔵の家系です。 長谷川氏 大和[称秀郷流、下河辺氏族]家譜に、下河辺政義の二男小川政平より三代政宣に至り、大和国長谷川に住して、長谷川を氏とすると云う。今川義元臣正長より系がある。家紋左三藤巴、釘抜、本支十六家。

『新編 姓氏家系辞書』

 これは『寛政重修諸家譜』を資料にしてまとめられたものであることは、まず間違いありませんね。池波さんが文庫巻3の「あとがきにかえて」で引いたのも太田博士の『姓氏家系辞書』だったこともわかります。いっぽう、前に引用した『駿国雑記』巻38の「長谷川次郎右衛尉政平」では、

 長谷川次郎右衛門尉政平は、(駿河国)止駄(しだ)郡小川(こがわ)村の人である。その前は大和国の長谷川より出、家は代々豊かであったので、村人からは〔小川長者〕と呼ばれていた。

でしたね。『寛政譜』は、辰蔵こと宣義が提出した原稿を幕府の『寛政譜』編纂担当の学者たちが整理・清書したものですが、宣義の原稿が正しいのか、『駿国雑記』の記述が正確なのかは、今後の研究を俟たねばきめられません。ところで、今川に仕えた長谷川は、どのていどの家禄だったか、『駿国雑記』巻43、今川家の分限帳は、

 千石     長谷川藤三郎

 「今川義元臣(長谷川紀伊守)正長」別称は「藤九郎」と『寛政譜』にあります。「今川家分限帳」の誤記なのか、「藤九郎」はいっとき「藤三郎」を称したのか、あるいは別人なのか、これも今後の研究に俟ちましょう。もっとも「分限帳」に、ほかには長谷川姓は見あたりませんが……。

 わいわい談議 長谷川平蔵 →これをクリック



2003年02月20日(木)  00:09

鬼平講座にすご〜く参加したい!!


発信:兵庫県在住 しょうたろうの母さん

こんばんわ、初めまして。
池波正太郎先生の本を読み始めてまだ2年足らずですが、長谷川平蔵こと鬼平の大のファンになりました。図書館で見つけた「鬼平クイズ」の中で鬼平講座の事を知ったのですが、私の住んでいる所は兵庫県なんです。神戸か大阪では鬼平講座開講していないのでしょうか?
 参加したくて、したくて・・・色々調べてはいるのですが・・・
何か情報を教えてください。
剣客商売から読み始め、昨年鬼平犯科帳24巻読んでしまいました。
今は、梅安にはまっています。
池波先生の本を読み始めた時にお腹に赤ちゃんがいる事がわかり、男の子だと判った時から、名前は「しょうたろう」と決めていました。あとは一生懸命主人と字数の本をにらめっこ。産まれて顔を見て「翔太郎」と命名しました。(・・・すみません余談です。)


管理者:西尾からのレス

正真正銘のショータリアンの誕生ですね。すばらしい!さて、神戸か大阪では鬼平講座ですが、寡聞にして存じません。成否はともかく、お住みになっている地方自治体の生涯教育課へ、鬼平講座を開くように要請なさってみてはいかがでしょう?あんがい、実現するかも。
ぼくが講じている〔鬼平〕クラスでは、
1.小説『鬼平犯科帳』の深読み
2.長谷川平蔵の実像
3.長谷川平蔵の時代の江戸
4.池波正太郎という作家
の4分野から攻めていますが、一生かかっても攻めきれそうもありません。
あなたの自治体の生涯教育課が鬼平講座を開いてくれるまでは、このHPをダウンロードして、ご主人、ショータロウ坊やといっしょにお楽しみになっては?90メガもあり、〔鬼平〕クラス50回分ほどの濃い内容になっているはずてす。



2003年02月19日(水)  15:21

神奈川県の情報


発信:横浜市在住 未熟なファンさん

経緯についてはお答えできませんが、「岡津町」というのが、横浜市泉区にございます。かつての戸塚区から新しく分けられたところだと思います。あるかどうかの返事だけで申し訳ございません。


管理者:西尾からのレス

中村さん。貴重な情報ありがとうございます。
文庫巻6[狐火]に、二代目〔狐火〕を自称する文吉の配下に、〔岡津〕の与平がいます。この与平の出身地が知りたくて問い合わせていました。横浜市泉区岡津町。ふむふむ。もう一つは、静岡県掛川市岡津。横浜市岡津町は、池波さんがよく食事なんかへ行っていた横浜だし,掛川市の岡津は、『鬼平犯科帳』連載前に武田信玄、織田信長、徳川家康などの合戦記録を調べるために旅行していた地区ですし……どちらの岡津が池波さんの頭にあったとおかんがえですか、中村さんは。〔狐火〕の文吉は江戸に不案内だから、横浜生れの〔岡津〕の与平を引き入れたのかも……。

 わいわい談議 〔狐火〕の勇五郎 →これをクリック



2月15日〜9日
2003年2月15日(土) 11:36

〔小房〕の保内商人について

発信:滋賀県 小房(桜川西)の「歴史を誘う会」
   代表 西田善美さん

2月4日付、彦根市の菓子舗〔いと半〕の御隠居さんのメッセージに引用された私の文章に、若干、補足させていただきます。

*近江商人 代表格としては、琵琶湖東部に位置する、八幡商人、日野商人、五個荘商人ですが、それぞれ商いが違いました。
*保内商人 日野・五個荘の狭間にあって、特に呉服、塩相物、紙等を商いの主としていました。行商先は若狭国の小浜と伊勢国の桑名だったと聞いています。発祥は、中世(1400年頃)蒲生郡の延暦寺領、保珍保(荘園)中野、今崎、今堀、小今、市辺、三津屋、蛇溝、柴原、下二俣、尻無、大森の11ヶ村から成る領内のうち、畑作地帯の野方といわれる住人が結集した商人団です。

*御代参街道 お福の方(のちの春日の局)が将軍徳川家光の命により、上洛の途中、伊勢神宮から多賀大社へ参詣させた街道。のち伊勢国へ通じる脇往還(道中奉行の支配下でない道)。


管理者:西尾からのレス

西田さんからじきじきのご教示に、深く感謝。西田さんは、頭初の会の代表のほか、清酒〔志賀盛〕の醸造元・近江酒造(株)の取締役営業部長をなさっている碩学なので、同社の代表銘酒の写真と、URLを掲げておきます。

近江酒造(株) 大吟醸『錦藍』

近江酒造(株)HP
 http://www.shigasakari.com/こちらをクリック

これまでの〔小房〕の粂八談義のやりとりは、
 わいわい談議 粂八こちらをクリック



2003年2月12日(水) 10:42

え、長谷川平蔵の祖先って、関東出身なの?

発信:砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   生島(しょうじま)美奈子さん

02月11日の西尾先生のコメントに、平蔵さんの〔長谷川〕家は、大和の初瀬(はせ)村へ住む前は、関東で〔下川辺〕姓を名のっていたって、ほんとですか?関東武士なら、源氏?


管理者:西尾からのレス

徳川の幕臣となってからの長谷川家が、書き上げた「先祖書」は2つあります。
『寛永諸家系図伝』『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』です。
後者は、老中首座に在職中に家柄・門閥重視の松平定信が編輯をおもいついたもので、提出期限は寛政10年ごろだったようです。
長谷川家では、平蔵宣以は寛政7年(1795)に病没しているので、「先祖書」を提出したのは辰蔵こと宣義でした。その「先祖書」の冒頭に、

「大職冠(藤原)鎌足より八代鎮守府将軍秀郷九代の後胤、下川部四郎、実名知らず、末葉下野国住人結城判官頼政三男、小川次郎政平長男小川次郎左衛門正宣長男 始 藤九郎
一、元祖   本国生国 駿河 長谷川紀伊守正長」


とあります。
池波さんも目にしたのでしょう、文庫巻3に収録の「あとがきに代えて」に、

平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷のながれをくんでいるとかで、のちに下川辺を名のり、次郎左衛門正宣の代になって、大和国・長谷川に住し、これより長谷川を名のった。
のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。


と要約しています。
「下川辺」は、下野国から武州・葛飾までを包含したひろい地域だったとの説もあります。で、結城判官の三男の小川(こがわ)次郎政平は、駿河国(静岡県)志太(しだ)郡小川(現・焼津市)に居を構えていたから小川を称していたともおもえますが、その前に住んでいたのは大和国・初瀬ですから姓は、とうぜん、長谷川。
だとすると、「小川(こがわ)の長谷川次郎左衛門政平」という呼称でないとつじつまがあいません。文化14年(1817)に着任した阿部正信が1年のうちに記したといわれる『駿国雑記』巻38に、「長谷川次郎右衛門尉政平」という項があります。

伝えていう。長谷川次郎右衛門尉政平は、止駄(しだ)郡小川村の人である。その前は大和国の長谷川より出、家は代々豊かであったので、村人からは小川長者と呼ばれていた。
今川氏親につかえて武名も高かった。また、連歌をたしなみ、宗長居士とも親遊があった。仏法を信仰していて賢仲禅師に帰依し、精舎を村中の浜辺に草創した。明応6年(1497)、異人のお告げによって天変を予知し、禅師と相談して精舎を高草山の麓へ移し建てようとした。翌7年8月、海が荒れ、26,000余人もの溺死者が出、精舎の地も巨海となった。
同9年、諸堂を益頭郡坂本村に建てたのが、いまの高草山林叟院(曹洞宗)である。
永正19年(1522 ただしこの年号は18年まで)6月朔日に87歳で卒し、林叟院に葬り、法名は林叟院殿扇庵法永大居士。あるいはいう。政平は永享5年(1433)の生まれで、法永は政平のことではなく、七左衛門尉正宣のことであると。

永享5年の生まれだと、永正19年には 102歳。政平の長男・正宣が87歳で没したとしても、政平16歳のときの子となり、いささか勘定があわないが。
とにかく、長谷川次郎右衛門尉政平のときにはすでに駿河国小川で〔小川長者〕と称されるほどになっていたのだから、「あとがきに代えて」の
「次郎左衛門正宣の代になって、大和国・長谷川に住し」は、いつもの池波さんの早とちりということになりそう。
小川と田中の確認用に、明治20年(1887)に参謀本部陸地測量部が発行した志太郡駿河湾よりの地図を添えます。


参謀本部陸地測量部の作製の地図(1887)による「小川」「田中」と「瀬戸川」。文庫巻6[狐火]の〔瀬戸川〕の源七の〔瀬戸川〕はこれ。

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。

長谷川平蔵についての論議は、
 わいわい談議 長谷川平蔵こちらをクリック



2003年2月11日(火) 20:07

近江の「おん婆(ばぁ)」のこと

発信:滋賀県彦根在住 大森七幸さん

「おん婆」を周辺に聞きましたが、現在までのところでは、言葉として今、使っている人(年配者)はいません。
ただ、私を含め周囲の人は祖母を「うちのおばぁ」とはいいます。「御婆」だと思いますが・・・。
更なる聞き込みを続行し、情報が入り次第ご連絡します。


管理者:西尾からのレス

「うちのおばぁ」と、「ぁ」の小音が入るのですね。守山市の山本さんのコメントに「オンバ」があります。発声次第で、池波さんの耳は「オンバァ」と「ァ」を聞いていたということも想像できますね。



2003年2月11日(火) 9:25

平民でも姓をもつことになったのは……

発信:管理者 西尾のコメント

2月05日の「西尾からの問いかけ」で、この掲示板のプロジェクトの一つ、『鬼平犯科帳』の盗賊の〔通り名〕あるいは〔呼び名〕の出所を確かめるついでに、平民でも姓をもつことになった法律が公布された年月日が知りたい――と書きました。
20年以上も前に買いそろえた『明治文化史』全14巻(原書房)が書庫にあるのをおもい出し、『第2巻 法制』を開いてみました。
1870年(明治 3) 庶民に苗字が許された。
1872年(明治 5) 8月24日(太政官 233号) 華族から平民までいたるまで苗字ならびに屋号の改称が禁じられた。
1875年(明治 8) 平民もかならず苗字を有すべきことと定められた(兵役に関連した陸軍省の上申によるものだったらしい)。以降、家名をもって家を象徴する観念が一般庶民にも定着した。
苗字を持つようにいわれて、土地の名をつけたり、庄屋の苗字をわけてもらったり、菩提寺の僧侶に戒名を頼むみたいに泣きついたり、と庶民の右往左往ぶりが想像できますね。
まあ、長谷川平蔵の祖先だって、大和(奈良県)の初瀬(はせ)に居住し、前の川が初瀬川(長谷川)だったから姓にしただけのことですからね。
長谷川姓の前は〔下川辺〕姓でした。
下川辺庄は武蔵国北葛飾郡、下総国東葛飾郡の一帯であったといわれています。また、下川辺館跡は茨城県古河城がそうだったとの説もあります。



2003年2月10日(月) 16:10

〔琵琶湖畔の「おん婆(ばぁ)」の呼び方

発信:滋賀県守山市在住 山本和夫さん

守山市立図書館の若い女性が出してきた方言の本によると「オンバァ」「オンババ」はなく「オンバ」として、
(1)滋賀県方言調査 藤谷一海編著(昭和50)
  (株)教育出版センター
     東京都豊島区大塚 3-29- 2
 オンバ…………乳母    全滋賀県の方言
 オンバ…………女乞食   近江八幡地域の方言
 オンバ…………おばあさん 全県
 オンバ(卑)…同上    大津(田上)

(2)滋賀県南東部方言例辞典
   増井全典/増井典夫編著(平成 4)
   滋賀女子短大(大津市)勤務
 オンバ…………ばあさん、老人が自分の妻を呼ぶ言葉
     例:うちのオンバに付き添うてもろてるね。


管理者:西尾からのレス

図書館までわざわざ足をはこんでいただき、恐縮。
「聖典」には「おん婆(ばぁ)」とルビがふられています。姉川の合戦のロケーションを実地に確認するために取材中の池波さんの耳には、「オンバ」が「オンバァ」と聞こえたのかも知れませんね。
あ、「聖典」ですか? シャーロキアンが原作を「聖典」と呼び、解説本やパスティッシュ(擬作)などとは区別しているのにならって、『鬼平犯科帳』文庫24巻を「聖典」と呼んでみたわけ。シャーロキアンに対して、われわれを〔ショータリアン〕と名づけたのは画家で絵本作家の長尾みのるさん。
もっとも、〔アングロファイル(英国びいき)〕をもじって、〔ショータリアン〕より〔鬼平ファイル〕の方がいいというファンもいることを付けくわえておきます。
長尾さんに謝意をこめて、挿絵を1点、ご紹介。

『富士浅間社祭礼 藁の蛇』

文庫巻17[鬼火]ほかに、駒込の富士浅間神社(文京区本駒込 5- 7-20)が登場しますが、旧暦6月1日の当社の山開きに近隣の農家がつくって売った蛇(じゃ)を描いてもらったものです。


六月一日富士講(『江戸名所図会』)



2003年2月10日(月) 10:46

〔法楽寺〕の直右衛門って北近江出身?

発信:仲間内では、おまさと呼ばれている「おまさ」さん

わたし、おまさ----といっても、仲間うちでのニックネームだけど。
物語中のおまさって、父親の〔鶴(たずがね)〕の忠助が逝去してから、父親も関係していた〔法楽寺〕の直右衛門を頼り、けっきょく、〔乙畑(おつばた)〕の源八の配下になったのでしたね。
〔法楽寺〕って頭領ですが、『蝶の戦記』の姉川の合戦のとき、甲賀の忍者たちがひそんだのが、「法楽寺」なんだけど、池波先生は北近江のここから通り名をとったのでしょうか?
自分の父親のお頭なので、気になって仕方がありません。


管理者:西尾からのレス

たしかに、『蝶の戦記』(文春文庫)下巻には、「法楽寺」って地名が出てきますし、作品は『鬼平犯科帳』の連載に先立つ前年、すなわち1967年(昭和42)から信濃毎日新聞ほかに約1年間にわたって連載されたものですから、『鬼平犯科帳』への波及もあったといえましょう。お尋ねの北近江の「法楽寺」は、1888年(明治21)に参謀本部陸地測量部のつくった地図でみると、浅井長政の居城の小谷山から14キロばかり東南のところにあった集落です。『蝶の戦記』の執筆のために姉川周辺……春照(しゅんしょう)や野村、三田や千草などを現地取材した池波さんの記憶にとどまった地名でもあったのかも。が、〔法楽寺〕の直右衛門の「法楽寺」は、栃木県足利市の本城山の東南麓にある寺からとっているようにおもいます。根拠は、文庫巻4[おみね徳次郎]に登場する直右衛門腹心の〔名草〕の嘉平の「名草」という町がやはり足利市にあるからです。これはかつての「名草村」で「法楽寺」に近いところてはないかとおもうのです。まあ、このあたりは、足利市にお住まいの鬼平ファンのご教示を得たいところです。

『蝶の戦記』上巻(文春文庫)

『蝶の戦記』下巻(文春文庫)


参謀本部陸地測量部の作製の地図(1888)による北近江の「法楽寺」「小谷城」「春照」など。

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。



参謀本部陸地測量部の作製の地図(1887)による足利市近辺の「本城(法楽寺)」と「名越」


拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。

おまさについての論議は、
 わいわい談議 おまさこちらをクリック



2003年2月9日(日) 12:36 

〔伊砂(いすが)〕の善八の〔伊砂〕の語源

発信:管理者 西尾のコメント

文庫巻3[盗法秘伝]の主人公……〔伊砂〕の善八の出身地が静岡県天竜市伊砂であることは、01月02日の猪名川さんのコメントと、01月21日の天竜市役所の田辺総務課長のお便りでほぼ確定しました。
疑問は3つ。
疑問の1。「伊砂」を「イスカ」と読む読み方はどこからきたか。
『日本歴史地名大系第22巻 静岡県の地名』(平凡社 2000年10月25日刊)の「伊砂村(いすかむら)」の項に、「伊須賀」「居須賀」と記したともあり、天竜川をへだてて対岸の「船明(ふなぎら)村の山中の伊須賀山の住人(伊須賀人)が当地を開拓し村が成立した」と『遠江国風土記』を引用しています。当初は「伊須賀村(いすかむら またはいすがむら)」だったのに、天竜川の土砂がつくった砂地だったので、いつのころからか「伊砂」の字をあてるようになったのでしょうか。(ついでに書くと、文庫巻11[一本饂飩]で〔船明(ふなぎら〕)の島平というのが寺内武兵衛の盗人宿の番人をしています)。
疑問の2。「伊須賀」は「いすか」なのか「いすが」なのか。『静岡県の地名』もルビをふっていないので不詳です。地名としての「賀」は「か」と読む例も「が」と読む例もあります。
疑問の3。池波さんはいつ「伊砂」や「船明」を知ったか。信玄は、京へ上るために行路にいる徳川家康を叩こうして遠江へ侵入、天竜市を制圧します。長谷川平蔵の祖が戦死した三方ヶ原合戦の直前です。そのことを書いている『夜の戦士』の執筆中に武田信玄のことを調べていて、取材で天竜市へ宿泊、「伊砂」や「船明」という珍しい町名に興味を抱いたのでは?とすると、池波さんが直木賞を受賞した翌年の、1961年(昭和36)、38歳のころ?

以上の3点についての、あなたのおかんがえもお寄せください。

〔伊砂〕の善八については、

 わいわい談議 善八こちらをクリック



2月5日〜2日
2003年2月5日(水) 17:23

小股の切れ上がったいい女は……

発信:在ロンドン T.Ayashiさん

ロンドンに住みついてもう25年になりますが、『鬼平犯科帳』など池波小説を再読三読しては、かつて働いていた東京――いや、江戸をしのんでいます。ええ、池波小説の文庫はロンドンでも容易に購入できます。
この町で仕事をしながら江戸の雰囲気にひたるなら、切絵図や『江戸名所図会』がふんだんに配されたこのHPがいちばん手近、と在ロンドンの鬼平ファンが集まると話しあいます。
最近では、〔あいこ浩〕さんの小股論議に吹きだしました。というのも、ロンドンでは小股の切れ上がった金髪女がいっぱい歩いているからです。
彼女たちを眺めてながら、池波小説の『蝶の戦記』に書かれている織田信長の奥方――道三のむすめ――お濃の方を思い浮かべています。
「於蝶が好ましいと見る型の女は、どちらかといえば男勝りの気性と容貌をそなえた女性だといってよい。背丈が高く、肉づきも豊満でいながら、お濃の方の顔貌は武者人形の稚気をさえ感じさせる上に、少年のようなりりしさがある。立居ふるまいも胸がすくほどに爽快なものであった」
小股の切れ上がっている(はず)のおまさを自称している方も、お濃の方のような女性かな、と想像しているのですが。


管理者:西尾からのレス

遠路はるばる、ようこそ。5年つづいた雑誌連載『英王室御用達物語』が終り、年に2度、通算15回、取材に訪れていたロンドンと英国には、ここしばらくご無沙汰しています。でも、T.Ayashiさんにいわれておもい出してみると、ロンドンのチェルシーなんかでは、梶芽衣子さんを若くして金髪をのせたような、背が高くて肉づきもいい若い女性をよく見かけました。あれが〔ロンドンおまさ〕ですかね。



2003年2月5日(水) 7:30 

忍者の身分は?

発信:管理者 西尾のコメント

この掲示板の一つの事業として、『鬼平犯科帳』に登場している盗賊の〔通り名〕または〔呼び名〕の出所を確かめています。
池波さんの頭の中には、名前づけの経路が4つあったように類推しています。すなわち、

a.
忍者の名づけから転じた、作り物の名……〔血頭〕、〔狐火〕、〔鯉肝〕、〔墓火〕、〔簑火〕、〔虫栗〕、〔夜兎〕など
b. 博徒の地名を冠したものから転じたもの……〔海老坂〕、〔猫間〕、〔小房〕、〔大滝〕など
これには2種類あり、
イ.自分で取材した土地
ロ.「大日本地名辞書」から拾ったもの
c.
古語や別称から
〔網虫〕→蜘蛛、〔牛子〕→蟻地獄、〔馬蕗〕→牛蒡、〔木の実鳥〕→サル、〔笹熊〕→アナグマ、〔長虫〕→煙官など、〔野槌〕→マムシ、サソリの類
d. 編集者・知人などの姓から

ところで、質問ですが、『夜の戦士』『忍者丹波大介』『蝶の戦記』などの忍者ものには、杉谷信正とか山中大和守俊房といった姓をもった頭領が登場します。
配下には丹波大介、新田小兵衛などの姓もちと、九市や孫兵衛のように名前だけの下忍がいます。
頭領たちは土豪だったとして、丹波大介、新田小兵衛は武士の資格をもっていたのでしょうか。
また、下忍たちの公けの身分は士農工商の、農?
ついでに、平民でも姓をもつことになった法律が公布された年月日も知りたいのですが……。



2003年2月4日(火) 13:10

「小房」の由来

発信:滋賀県彦根市 菓子舗〔いと半〕のご隠居さん

当市の商工会議所を通じての問い合わせに、蒲生町の郷土史家・西田善美氏が応じてくださった文書をそのまま送信します。

桜川西が位置する蒲生町は、琵琶湖の東岸に広がる湖東平野の東南部にある。(略)蒲生町の命名は万葉集に詠まれた蒲生野に由来し、昭和30年(1955)4月1日に朝日村と桜川村が合併してできた町である。
その中にあって、桜川西(小房)は、佐久良川の右岸に位置する沖積扇状地にある。(略)
前記の合併前、桜川西は桜川村小房を称していた。
中世の商人団(座商人)に従事する足子(寄子)と呼ばれる商人がいた。鈴鹿山系を越えて伊勢国の桑名、四日市に至る道筋の村々を商圏とする保内商人の足子〔おふさのひこ太郎〕とある「おふさ」は小房であり、その集団が〔小房〕とされる」
(応永25年[1418]4月19日付「足子交名」=今堀日吉神社文書集成= 581号による)
「保内商人として活躍した行商人の一部は、御代参街道脇……すなわち地元で商いをしたと思われる。
1714年(正徳17)の春日局からはじまる代参、1678年(延宝6)遊行寺僧の街道の利用によって沿道が発展して栩原神社(上小房)付近に商い場があったとしても不思議はない。
保内の(野方)商人の分家にあたる彦太郎商人集団がそこへ移り住んで、小房を称した。小はへり下った謙称語であり、房は束ねた糸の垂れ房とともに、分家の意味もある。〔小房〕は〔私は分家〕という当時の呼称のようにおもわれる」

遅くなりましたが、こんなところでいかが?


管理者:西尾からのレス

〔小房〕は〔私は分家〕、ですか。要するに、〔おふさの彦太郎〕は名高い〔近江商人〕の流れを汲んでいるわけですね。
〔小房〕の粂八が、預かった船宿〔鶴や〕をりっぱに利益をだす店にしてのけたのも道理なんだ。
まあ、粂八の生まれが「小房」ではなく、琵琶湖畔のどこかの村だとしても、〔近江商人〕の血は入っている…
…いや、保内商人が行商先でにはらませた子かもしれませんね。で、父親はドロン、母親は産後の肥立ちが悪くて逝き、おん婆に育てられた……。
ところで、「おん婆」って琵琶湖畔の用語かしらん?
『蝶の戦記』では、「小房」から山一つ越えた甲賀では〔ねずみのおばば〕だが。

これまでの〔小房〕の粂八談義のやりとりは、

 わいわい談議 粂八こちらをクリック



2003年2月2日(日) 20:49

〔尻毛〕の長右衛門の「尻毛」

発信:砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   猪名川一雄さん

[14―2 尻毛の長右衛門]ですが、「手足も体も毛むくじゃら」とありますので、てっきりお尻からも毛が出ているのかと思ってました。
でも、そんなとこまで他人が知るはずないですし。
それで、地名を検索すると、岐阜市尻毛(しっけ)がありました。「尻毛の長右衛門は駿河・三河・遠江の東海地方で盗めをすることが多い」とありますのでテリトリー的にも附合しますがいかがなものでしょうか。


管理者:西尾からのレス

少年時代、城下町の銭湯で、臀部にも毛がある人を見かけたことがあるので、〔尻毛〕の長右衛門という題名はそういう人のことなんだ、とぼくも思いこんでおり、そんな長右衛門に抱かれたおすみは、なにを考えるか想像したりして……。
斎藤道三や織田信長のことを取材に行って、岐阜市に尻毛(しっけ)という町があることを知った池波さんが、「しめしめ」と記憶されたのかもしれませんね。

 わいわい談議(尻毛)の長右衛門 ←ここをクリック



2003年2月2日(日) 14:56

「初鹿野」について

発信:山梨県東山梨郡大和村役場 総務課
   佐藤光正さん

「初鹿野村」などが合併、大和村が誕生した経緯を『村史』から引用します。
「大和村は、昭和16(1941)年2月に、近隣の5カ村、すなわち木賊(とくさ)村、田野村、日影村、初鹿野村、鶴瀬村が合併してできた行政村である。(略)役場を初鹿野村に置いた。
その後昭和29年(1954)の町村合併促進法に基づいて隣接の勝沼町との合併の運動もあったが、産業経済や地理的立地条件も異にする点が多く併合するところまではいかなかった。しかし、勝沼町に隣接していた深沢地区は、このおり勝沼に合併し、大和町から分離したのである」
昭和10年(1935)の「初鹿野村」の全戸 228が本農業および自作農家で、うち半数が養蚕をしていたから、江戸時代もそんなところであったろうと推察できます。
村全体の人口は、平成12年(2000)に1,541人、少子化や若者の流出でご多分にもれず老齢化がすすんでいます。
『甲斐国志』山川部は、初鹿野山を「マタ初鹿根ニ作ル、山中ニ木賊(とくさ)多シ、故ニ古名ヲ木賊山ト云フ、此ノ山最モ高クシテ……」と記しています。
長谷川平蔵のころに町奉行をしていたという初鹿野河内守信興については、村誌などを調べた範囲では記載がなく、また初鹿野家が村を領していたという記録はありません。


管理者:西尾からのレス

貴重な資料をありがとうございました。〔船形〕の宗平が密偵となるまえに属していた〔初鹿野〕の音松の盗人宿を預かっていたと、文庫巻4[敵(かたき)]にあります。このお頭の出身は「初鹿野村」でしょうが、「自分の部下ばかりでなく、ほかのところの者のめんどうを見てやっていなさる」ということのほかは、年齢も人相もまったく記述されていません。めんどう見がいい性格は東山梨郡人のものでしょうか?
そうそう、〔初鹿野〕の音松には文庫巻10[蛙の長助]の主人公、〔蛙〕の長助という配下もいましたね。
寛政3年(1791)、長谷川平蔵が「銭の値をあげるように」と命じるために両替商などを北町奉行所へ呼びつけた時に同席した奉行が、初鹿野河内守信興(天明8年〜寛政4年 48歳)でした。
初鹿野信興は、依田豊前守政次の三男から初鹿野家へ養子に入った仁です。
初鹿野家の先祖のひとり、加藤伝右衛門昌久が、武田信玄の命で「初鹿野姓」に改めたと『寛政譜』は記しています。「初鹿野村」とは関係がなく、信玄の単なる思いつきだったのでしょうね。
ついでなので、明治20年(1887)に参謀本部陸地測量部が発行した「初鹿野村」近辺の地図をご参考までに付しておきます。


参謀本部陸地測量部発行の地図より「初鹿野村

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。

初鹿野河内守信興の同席による銭相場の、当時の風評は現代語訳『よしの册子』第12回にくわしい。

 『よしの册子』第12回こちらをクリック

〔舟形〕の宗平については、
 わいわい談議 宗平こちらをクリック




お送りいただいたメッセージは、整理・編集して、毎週金曜日にアップします




(c)copyright:2000 T.Nishio All Rights Reserved.