0622梅若丸
『江戸名所図会』巻之七 揺光之部
キャプション
梅若丸七歳のとし比叡(ひえ)の月林寺をのがれ出て、花洛(みやこ)北白川の家に帰らんと吟(さまよ)ふて大津の浦に至りけるに、 奥陸(みちのく)の信夫の藤太といへる人あきびとのためにすかしあざむかれて、はるばるとこの隅田川に来ぬることは本文に詳らかなり。 ちなみにいふ、人買ひ藤太は陸奥南部の産なりとて、いまも南部の人はその怨霊あることを恐れて木母寺に至らざること、 矢口の新田明神へ江戸氏の人しじかりて詣でざるがごとし。
(梅若塚は木母寺の境内に鎮座)
『御宿かわせみ』に登場
梅若塚
[7-2 酸漿は殺しの口笛]p54 新装p57
[14-1 梅若塚に雨が降る]p9 新装p9
鬼平熱愛倶楽部 2021 靖酔
投稿者 nishiot : 2006年03月25日 07:46
コメント
闇の恐怖感と人攫いのおぞましさを強調しようと画面全体を暗くしてみました。
ところが塗ってから月の形をみると下弦の月。
下弦の月の出は深夜で、月の入りは朝になります。
梅若が人攫いに連れて行かれている土手を隅田川の東側とすると月はまさに西に入る事になり朝でなければならないことになります。
西側の土手と考えれば夜中に月が昇ってきた所で夜でいいのですが、木母寺があるのは東側ですから辻褄が合わなくなってしまいます。
木母寺の名の由来は梅若丸の梅の字を二つにわけて命名したといわれてます。
さてこの名所図会は朝でしょうか、夜でしょうか。
投稿者 靖酔 : 2006年04月03日 12:13
「訪ね来て 問わば答えよ 都鳥
隅田川原の露と消えぬと」この詩を残し、人買い藤太に隅田川に投げ込まれた梅若丸は息絶え、哀れんだ地元の人が木母寺境内に塚を建てました。
その一周忌法要の時に、我が子を探して京からこの地にたどり着いた母は悲歎に暮れて、此処に庵を築き、尼になるという謡曲「隅田川」の梅若丸の絵ですね。
前掲の木母寺の絵と共にお能や歌舞伎の梅若丸の哀れな話が浮かびます。
投稿者 みやこのお豊 : 2006年03月26日 09:23