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							| 2003年1月10日(金) 21:22 | 
						 
						
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								帯川の源助の出身地は長野県下伊那郡阿南町? | 
						 
						
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								発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス 
									
									   堀 眞治郎さん | 
						 
						
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								文庫巻11[穴]に初めて登場、京扇をあつかう〔玉風堂平野屋〕源助は、『鬼平犯科帳』に顔を見せる盗人の中でも、とりわけユニークな一人ですね。 
								
								70がらみのこの〔平野屋〕源助、じつは引退前は〔帯川〕の源助といって、「上方から中国すじにかけて」(p108 新装p113 )むかしはならした盗人の頭領あがりの老爺であることは、鬼平ファンならとっくにご存じ。 
								
								ところで、彼の通り名の「帯川」は、吉田東伍博士『大日本地名辞書』には収録されていません。で、『角川地名大辞典』をあたってみて、長野県にあることがわかりました。 
								
								『角川地名大辞典 長野県』版のp292 に記載されている「帯川村」の記述を原文のまま下に示します。 
								 
								おびかわむら 帯川村〈阿南町〉 
									
									〔近世〕江戸期〜明治 8年の村名。伊那郡のうち。売木(うりき)川が知和野川(和合川)に合流するあたりに位置する。 
									
									はじめ飯田藩領、慶長 6年からは幕府領。支配代官所はたびたび変遷し、元文 4年から知久氏預りで固定した。 
									
									「天正高帳」では向方と合わせて70石余となっており、「正保知行付」で帯川村として村高10石。「元禄郷帳」も同高、「天保郷帳」「旧高旧領」はともに10石余。 
									
									売木川と和合川の合流点の狭小な平地と緩傾斜地を利用して農業を行った。宝暦 7年の戸数 8、人口34うち男21、女13。遠州往還の押さえとして関所が置かれていた。その場所は、集落のほぼ中央の井戸沢を渡り、新野村へ行く急坂の小平地という。 
									
									慶長 6年知久則直が 3,000石を以て阿島に封じられ、同時に帯川関の守衛を命じられて明治期まで支配した。関所は 7年ごとに修繕をすることになっており、すべて当村の負担であった。(略) 
									
									明治元年伊那県、同 4年筑摩県に所属。同 8年旦開(あさげ)村の一部となる。 
								 
								
								阿南町は昭和32年 7月 1日に大下条村、旦開村、和合村が合併し、町制施行して成立。したがってかつての「帯川村」は現在の行政地名は阿南町和合(〒399-1611)です。 
								
								池波さんがこの「帯川」という地名をどのようにして知ったかということになりますが、遠州街道の関所があった所でもありますので、街道に関する文献から知り得たのではと考えています。 
								 
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