2003年 1月

――敬称略・逆日付順――



23日〜21日  17日〜13日  10日〜7日  4日〜1日

1月23日〜21日
2003年1月23日(木) 15:38

[1―4 浅草・御厩河岸]について

発信:朝日カルチャーセンター(新宿)〔鬼平〕クラス
   河内三郎さん

昨年10月に報告するようにいわれ、準備していて、発表の機会がなかったレポートです。

海老坂村(現:高岡市 東、西 海老坂)富山平野、庄内の西側で、伏木港と守山町の中間の丘陵部、高岡市では西北部、小矢部川左岸より二上丘陵地帯にかけてひろがる地域です。
北にあたる氷見方面へ向かう海老坂峠は難所として知られています。
海老坂村は、近世初頭、東海老坂村と西海老坂村に分村、明治22年(1889)に射水郡守山村、須田村、五十里村、東海老坂村、西海老坂村が合併して守山村となり、昭和17年(1942)年に高岡市へ編入。
土地の大半を山林が占め、田畑は全体の3割程度。農林業が主体で、明治初頭には養蚕業が盛んになりました。
地勢としては、関西圏、京・大坂の文化圏です。
〔海老坂〕の与兵衛
・盗賊の首領で50歳前後。文中に「越中の生まれ」とあり、〔海老坂〕の通り名から、射水郡海老坂村の出身とかんがえられます。
・盗賊の家系で、3代目といいますから、盗賊界の名門の出ですね。
・大盗賊の理想をつらぬき通した人物で、真の盗賊の3ヵ条を金科玉条として守りました。
・部下思いで、計画はまことに綿密で、実行者(配下)もその妙味にほれこむほどでした。
・度量は大きく金払いがよいので、配下に慕われました。
・一度引退して足を洗ったにもかかわらず、余生を送るための金のため、改めての計画で失敗します。
私の評価
・しょせん、現場の職長クラスかな、と。
・配下を信頼するあまり、部下も自分を信頼としているのはどんなものでしょう?
・過去の実績に自分自身が酔い、老齢になっていることを忘れたようですね。
・過去のお勤めの中心は関西だったはずで、関東(江戸)とは縁が少なく、情報も多くはなかった点についての評価はどんなものでしょう?


管理者:西尾からのレス

ほう、海老坂は関西の文化圏に入りますか。だとすると、〔海老坂〕一門のお勤め範囲が上方中心だったのもうなずけます。
ただ、与兵衛は3代目といいますから、〔海老坂〕……という通り名は親ゆずりのもの。先々代の出身は越中・射水郡海老坂村でも、上方に本宅か妾宅をかまえてて、与兵衛が生まれたのはそこだった、ともかんがえられます。
いや、本妻を海老坂村へ置いていたともいえますが、それだと、狭い村中のこと、潤沢な収入源が村民のうわさになり、釈明に困ったでしょうね。

参考までに、明治22年(1887)に参謀本部陸地測量部が発行した地図を合成し、掲げました。


参謀本部陸地測量部発行の地図より「東海老坂」「西海老坂

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。

この話題のやりとりの経緯は、新設した、わいわい〔海老坂〕の与兵衛を御覧ください。
 
わいわい談議 与兵衛こちらをクリック



2003年1月21日(火) 13:35

「小股の切れ上がったいい女」の小股……私観

発信:兵庫県西宮市 円満字外科医院〔(自称)虫食いぼけ〕
   院長先生

この言葉は、私も長いあいだ、念頭にありました。
結局、〔あいこ浩〕さんが23例もお集めになったことからもわかるように、諸説紛々、というより各個人の「思いこみ」があるのでしょう。
私はNo.16――
「芸者が歩くときには内輪に足を踏み出し、大股にならぬように歩く。芸者として、修行が積んでくると、女らしく垢抜けしたきりりとした感じに歩けるようになる。それを小股が切れ上がる、というわけだ。つまり、切れ上がるとは、卒業すると言うような意味だな」(吉行淳之介「技巧的生活」)
――に近い感じを持っています。
椅子に腰掛けて左手で左膝を外側に開きます。そしてそれに抵抗するように左膝を閉じようと力を入れます。
このとき右手で太股の内側をつまんでみますと堅く緊張した部分があります。大腿内転筋群といいます。これが私は「小股」だと思っています。
膝を内側に閉めようとしたとき、切り立ったようにこの筋肉が見えるのでしょう。それがぶよぶよした太股では何ともしまりません。
つまり、外側はふくよかでも内側は脂肪の少ないというのでしょうか。「髀肉の嘆」という言葉があります。この髀肉も同じ部位を指しています。男でもここがきりっとしているのがいいのでしょう。
このあたりさすが通人の吉行先生が見抜いておられるのだと思います。
それで思うのですが、私の経験でも確かにそのような女の人がいました。が、それも昭和20年代までです。つまり、その後は女の人の和服(それも普段着に近い)姿が見られなくなったのと、女の人が「内股」に歩くことのなくなったせいと思っています。
手ぬぐい(タオルではありません)を姉さんかぶりにした下宿のおばさんが、はたきと箒を持って、ちょっと内股で、とんとんと軽やかに階段を上がっていく、そんな時この言葉を思い浮かべましたね。
芸者衆がしゃなりしゃなりと歩いているのには、この言葉はむしろ、そぐわない感じでした。もっともこれはお座敷遊びができなかった者のひがみかもしれません。


管理者:西尾からのレス

さすが、院長先生、「大腿内転筋群」ときましたね。うーん、当方の「内転筋群」には、いつのまにか脂肪がまとわりついている!

小股論議は、小股が切れ上がっている(はず)のおまささんのメッセージから始まりました。そもそもの、〔わいわい おまさ〕……はこちらをクリック
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2003年1月21日(火) 11:23

「伊砂(いすか)」村についての史料

発信:静岡県天竜市役所 総務課長
   田辺 鉄さん

「伊砂(いすか)村」は、市史編さん室による「天竜市史々料所在目録第6集」に登載されている「伊藤家文書」の概要に、「伊藤家は屋号を古金石(コガネイシ)といい、江戸時代は五郎右衛門または権蔵をとなえ、旧伊砂村の組頭をつとめた家柄である」とあり、『天竜市歴史年表』には、慶長18年(1613)に「伊砂村円徳寺を開創」の文字が見え、江戸初期にはすでに存在していた村名です。
往時の規模は、『天竜市歴史年表』の1860年(万延元年)の記載に、「伊砂村、家数16軒、米は1両につき4斗3升」とあるだけで、人口や主たる産業の記述はないのでわかりません。
いろいろと調査しましたが、現時点ではこの程度しかわかりません。
なお、参考文献の該当か所をコピーして郵送しましたのでお受けとりください。
「伊砂」は当地では「いすか」と発音され、市のほぼ中央に位置しています。


管理者:西尾からのレス

田辺課長。ありがとうございました。「伊砂(いすか」という珍しい地名は、どうやら天竜市だけにしか存在しないようなので、『鬼平犯科帳』巻3[盗法秘伝」に描かれた、ひとり働きの愛すべき性格の〔伊砂〕の善八を、天竜市の出身と決めてもどこからも文句は出ないでしょう。
あとは、池波さんがいつ、どうして〔伊砂〕という地名を知ったかを、われわれ鬼平ファンがつきとめて、天竜市へ一報しなければいけませんね。

〔伊砂〕の善八の故郷――天竜市のホームページは、
http://www2.shizuokanet.ne.jp/tenryu


参考までに、明治20年(1887)に参謀本部陸地測量部が発行した、「伊砂」が「伊沙」となっている地図を掲げました。「船明(ふなぎら)」にもご注目ください。


参謀本部陸地測量部発行の地図より「伊沙」「松明」「二俣」
「二俣」は『忍びの風』の二俣城のあった所であり、盗賊[二俣]の音五郎(文庫巻3[駿河・宇津谷峠]の出身地)

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。

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1月17日〜12日
2003年1月17日(金) 15:22

池波先生と招福楼

発信:滋賀県八日市市本町 8-11  招福楼ご主人

年末年始のあわただしさにとりまぎれ、お返事が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます。
お問い合わせの件でございますが、池波先生には大変ご贔屓頂いておりました。
「食卓の情景」というタイトルで昭和47〜48年に『週刊朝日』に連載されており、それが昭和55年に新潮社より文庫本として出版されております。
その後、タイトルははっきり覚えておりませんがエッセイ集の中にも私どもを紹介して下さっておりました。
以上のようなところですが、西尾様のお役に立てばよろしいのですが、いい加減なことで申し訳ございません。


管理者:西尾からのレス

美しい小冊子、ありがとうございました。
いま、手元の『完本池波正太郎大成29』(講談社)を確認しましたところ、ご主人のおっしゃるように、『週刊朝日』1972年(昭和47)1月7日号から、翌1973年5月4日号まで、70回の連載でした。
そして、1973年6月30日に朝日新聞社から単行本が刊行され、7年後に新潮文庫になっていました。
『週刊朝日』の連載を企画・担当なさった重金さんもおっしゃていましたが、これ以後、池波さんの食についてのエッセイがふえたと。

『食卓の情景』単行本は重金敦之さんから拝借。

『食卓の情景』(新潮文庫)



〔招福楼〕の小冊子より

写真は〔招福楼〕の小冊子より
http://www.shofukuro.jp

〔招福楼〕東京店は東京駅前の丸ビル35F



2003年1月15日(水) 14:51

帯川関所について

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

「阿南町」のホームページを見て送った、「帯川」に関する私の質問への、長野県下伊那郡 阿南教育委員会のレスです。
私は関所だけの質問をしたわけではないのですが、関所に関することが主体ですが、ご参考にと開示します。

Subject: 帯川関所について

帯川関所についてお問い合わせがありましたので、私の知る範囲でお答えしたいと思います。

遠州街道は、飯田市〜下條村〜阿南町新野〜愛知県東栄町本郷へ通じる道です。
現在の国道 151号は遠州街道を沿った形になります。
帯川関所は現在の阿南町和合帯川地区にありました。昔の遠州街道です。
現在は畑になっており関所跡という看板しかありません。
心川関所は、現在の阿南町和合心川地区にあり、昔の帯川村から現在の長野県平谷村へ通ずる道にありました。
以下は、阿南町史に記載の内容の抜粋です。

「知久規直 6歳の時、家康に謁し大久保忠世に預けられ、13才の時に廩米 300俵を給せられるようになり、22歳の時は関ヶ原の役に参戦し、慶長6年(1601)伊那郡本領の内3000石を給せられた。
そこで規直は、田村に入部し、後に阿嶋屋敷に移住する。
さらに、元和6年(1620)9月には、浪合・小野川・帯川・心川の4関を幕府から預かるようになった。
これは、江戸の守りとして、近江以東に55の関所が設けられ、主要道路はもちろん脇往還である三州街道や脇道等まで厳しく微行者を取り締まったのである。
阿南地区では和合・日吉・帯川の3ケ村が知久氏の預かり地となり支配されるようになり、延宝5年(1777)まで続いたのである。
以来知久氏はこれを支配して、明治維新に至った。」

知久氏は徳川家の旗本だったそうです。
説明不足の点がありますが、概略おわかりいただけましたでしょうか。
関所についての文献は他にもありますが、江戸時代付近の内容的は以上の様なことです。
『鬼平犯科帳』とどのような関わりがあるかわかりませんが、参考になればと思います。


管理者:西尾からのレス

「縁は異なもの」といいます。このHP「有朋(UFO)」に、〔五鉄〕の絵を寄せてくださっている建築家の知久秀章さんこそ、知久規直の子孫です。知久家は、武田が滅んだとき、徳川方へ臣従した 900余家のひとつです。

 知久さんの〔五鉄〕の絵こちらをクリック



阿南町役場発行の地図より遠州街道の宿場
阿南町 北側
阿南町 南側
拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。

 わいわい談議(帯川)の源助 ←ここをクリック



2003年1月15日(水) 14:43

帯川に関する再調査

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

池波さんがどこで「帯川」を見つけたか、再度調査しました。
初心に帰れといわれていますので、再度吉田東伍博士の『大日本地名辞書』第5巻を調べてみました。今度は索引で帯川を探すのではなく信濃(長野)伊那郡をすべて読んでみることにしたのです。
すると 693ページの〔浪合〕の項に、「…村中の渓流末は心川、帯川と一になりて、和知川といひ天龍へ落つるなり」と川の名前として帯川がありました。
また 694ページの〔下条〕の項に、「大下條村の南条雲彩寺の…南条は帯川と合接し、幽僻の窮地なるに…」と地名として帯川が出てきました。また、〔和知川〕の項に、「此谷に心川(和合村)帯川(大下条)の両番所ありて、浪合関と共に知久氏の掌れる間道なりき、遠州山香、参州設楽へ通る」と関所の記述もありました。したがって池波さんが『大日本地名辞書』第5巻を隅から隅まで読まれていたら、この『大日本地名辞書』から帯川の源助の帯川を名づけたのであろうという結論になり、一件落着となりますが、ちょっと待って下さい。
かって帯川村のあった遠州街道には八幡宿−時又宿−阿知原宿−粒良脇宿−山田河内宿−合原宿−雲雀沢宿−粟野宿−門原宿−早稲田宿−帯川宿−新野宿と長野県側に12の宿場があったのです。
そして私が気にしているのは、『鬼平犯科帳』文庫巻8[白と黒]で平蔵が捕らえた門原の重兵衛の出身地がこの門原宿のあったかっての門原村(現長野県下伊那郡阿南町富草)ではないかと推測しているからです。
『大日本地名辞書』第5巻には門原は見当たりません。
CD-ROM『ぽすたるガイド』では3件(岐阜県2件、広島県1件)ヒットしますが、私は阿南町のかつての門原が最有力と考えています。
「帯川」は池波さんが『大日本地名辞書』第5巻から知識があったとして、門原についてはどこから見つけたのかはわかりません。遠州街道に関する情報は『五街道細見』(岸井良衛編・青蛙房)や幕末に刊行された『大日本道中細見記』の復刻版にも載っていませんので、西尾先生の考えておられる『夜の戦士』(角川文庫)等で取材された時か何かで「帯川」「門原」の知識を得たのではと私は考えたいです。
遠州街道に関する情報は下記のURLからのものです。
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/index.html
(長野県の歴史 国宝・重要文化財(建物))


管理者:西尾からのレス

『夜の戦士』(角川文庫)ですが、『甲陽軍鑑』を柱にして創作されています。執筆にあたって池波さんは、武田方の支配地の多くを旅行・取材した、と同小説を再読して感じました。
浜松市生まれの高柳光寿博士の『武田信玄の戦略』は、『甲陽軍鑑』を「悪質の俗書」とこきおろした一方で、歴史は良質の史料を得た上で推理をはたらかせて書くもの、と激白しています。お互い、推理力を鍛えましょう。

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2003年1月15日(水) 11:22

「小股の切れ上がったいい女」の小股って?

発信:朝日カルチャーセンター〔鬼平〕クラス
   あいこ浩さん

「小股の切れ上がった〔江戸前〕のおまささん」の書きこみを読み、先日朝日CC〔鬼平〕オフ会での議論を思い出しました。
鬼平ファンが『鬼平犯科帳』で「小股の切れ上がったいい女」といえば先ず挙げるのが「おまさ」と「お園」、しかし作家の池波正太郎さんは2人を言葉の上で「小股の・・・」とは書いてないですね(どこかに書いているかもしれないけど、小生浅学のため知りません。あったら教えてください)
それなのに「小股の切れ上がった・・・」と言えば、大方の人が、この2人をイメージしてしまうのは何故でしょう?
そもそも「小股の切れ上がった」とは何だろう?まず、この2人の登場場面を『鬼平犯科帳』に見てみましょう。

☆……小肥りな少女だったおまさは、すっきりと〔年増痩せ〕していたのである。
おまさは、三十を超えていた。肌は、江戸の女の常で浅ぐろいが荒れてもいず、身なりもきっちりとしてい、黒くてぱっちりとした双眸とおちょぼ口がむかしのおもかげをやどしていた。
(文庫巻4[血闘]p136 新装p143 )

☆……三十歳になるお園は、根津の門前町の裏で〔三坪〕という居酒屋を、三年前から、独りでいとなんでいる……しかも男知らずの独り暮らしで……
お園は、色白の大女で、左の頬の上に、少し雀斑の粒が散っている。
その躰を地味な着物に包み、盲縞の筒袖の半天を羽織り、紺の前かけに高下駄を履き、髪は無造作に自分の手で後ろへ巻き束ねたのみで、白粉も紅もつけぬ。色気も何もあったものではない。
(文庫巻23巻[隠し子]旧版・新装ともp.p 18〜21)

そこで「小股が切れ上がった……」とは何かを、色々のところから探ってみたので、私見を交えずそのまま列挙します。

(1)足が長くすらりとして、たった姿がきりりと引き締まった女性を形容する言葉。「小股」の「こ」は単なる接頭語で、小股という部位が特別にあるわけではない。

(2)すらりとして小粋(こいき)な女性の容姿を「小股(こまた)の切れ上がったいい女」と表現する。例えば、菱川師宣の浮世絵「見返り美人図」のような。

(3)鳥居清長の浮世絵美人をして「小股の切れ上がった……」というのだという。

(4)相撲の技に、小股掬いというのがあるので、膝関節の上あたりかも知れないとか、襟足といって、女性の白いうなじが色香を放つので、首筋を足に見立てているのかも知れないとか、足袋の親指と、他の四指との間を小股というので、そのあたりを指すのではないかと。

(5)後ろから見たときに足首のところの骨が(踵のすこし上)Vの字にキュキュッなっている様のこと。

(6)「小」を接頭語とする説では「裾さばきの美しい、すらりとした体つきの小粋な女性」となります。

(7)「小股」とは股の付け根の左右を上に走る二本の鼠蹊部の線としますと、「女陰、上付きでまぐわいの具合がとてもとてもよろしい女性」

(8)太宰治、織田作之助、坂口安吾の対談から引用[織田作之助]僕は、背の低い女には小股というものはない、背の高い女には小股というものを股にもっていると思うのだ。
[坂口安吾]しかし小股というものは、どこにあるのだ。
[太宰治]アキレス腱だ。
[坂口安吾]どうも文士が小股を知らんというのはちょっと恥ずかしいな。われわれ三人が揃っておいて……。
ということで、大作家たちにも「小股」の正体は謎だったらしい。

(9)「小股」という器官があるのではなく、「ちょっと股が切れ上がっている」という意味だと考えるのが妥当だろう。では「股が切れ上がる」とはいったいどういう状態を意味するのか。
なんでもこの言葉、もともとは男性の形容に使われていて、「すまた切れあがりて大男」という言葉が、西鶴の「本朝二十不孝」という本に見えるそうだ。股とは、ももそのものではなく、ももとももとの間の空間を意味する。つまり「すまたが切れあがる」とは「足が長い」という意味。
これがのちに女の形容に使われるようなり、「小股が切れ上がる」という形容が生まれたらしい。
ということで、「小股の切れ上がった女」とは、足が長くて尻の位置が高くすらりとした女性をいうのだとか。(『すらんぐ 卑語』)つまり、「ちょっと股の切れ上がった美人」と解釈するのが正しいようです。
要するに、下半身がしまっていて、お尻の上がったスタイルのいい女性を指しているってことですね。

(10)婦人のスラリとしていて粋なからだつきをいう(三省堂広辞林)(広辞苑)

(11)すらりとして小粋な女(集英社 広辞典)

(12)和服を着た女性が、すらりと粋な様子(小学館 国語辞典)

(13)女性の足がすらりと長く、粋な姿(小学館 大辞泉)

(14)きりりとして小粋な女性の形容(三省堂 大辞林)

(15)女の股が長く、すらりとして、いきなさまの形容「十八、九の女の裸参り、身体の白きこと雪の如く、小股の切れ上がったる」(咄・寿々波羅井)・・・(岩波 古語辞典)

(16)「芸者が歩くときには内輪に足を踏み出し、大股にならぬように歩く。芸者として、修行が積んでくると、女らしく垢抜けしたきりりとした感じに歩けるようになる。それを小股が切れ上がる、というわけだ。つまり、切れ上がるとは、卒業すると言うような意味だな」(吉行淳之介「技巧的生活」)

(17)小股とは股の付け根の切れ目のことをいうのだそうだ。あそこのところの略図を「Y」とすると「V」の部分が深く切れていて、しかも、斜め上方に長く切れ込んでいる女性のこと。
 簡単に言えば土手が高いのであります。あの丘がこんもりと盛り上がっているわけであります。(井上ひさし「江戸紫絵巻源氏」)

(18)女陰の陰裂の長さ(折口信夫)

(19)小股の「小」は「股」を飛び越えて「切れ上がった」に係っているのです。
 つまり「股がちょっと切れ上がった」を表しています。結論からいいますと、「足の長くすらりとした」「腰の位置が高い女性」という意味です。   (評論家 奥秋義信)

(20)アキレス腱がくっと締まった女性がサクサクと歩いているといかにもいい女って感じです。

(21)「小股」とは足袋を履いた時の親指と他の指との間を指す。あるいは膝から下の脚の部位を指す。(快感が高まると、女性の身体が反り返ったり、下半身全体、脚の指先まで力が入ることと関係がある?)(BODY DESIGN)

(22)膝から腿のあたりが切れ上がっていて、ちらりちらりとすそが開いてたいへん色っぽいわけです。そこへ風でも吹こうものなら、「小股」があらわになってしまいます。(杉浦日向子 ぶらり江戸学)

(23)近世庶民文化研究会刊行の「近世庶民文化」77号〜あたりに小股論議が載っているそうです。(残念ながら小生未だ読んでいません)
【このことわざの成り立ちが決して曖昧なものである筈がなく、拠ってきたる根拠があると思うのですが、どなたかご存知の方は伝聞でも良いですからお教えください】


管理者:西尾からのレス

ひゃーあ、まさに、KOMATA学ですなあ。
ただ、おまさの父親・忠助の〔鶴(たずがね)〕という通り名は、その高い痩身の姿形によるとかんがえると、むすめのおまさもすらりと高い八頭身だったのではないでしょうか。



2003年1月15日(木) 9:00

岸井左馬之助の春慶寺に石碑が立った

発信:管理者 西尾のコメント

東京都墨田区業平 2-14- 9の春慶寺は、下総(千葉県)臼井から出府してきた鬼平の剣友・岸井左馬之助の寄宿先として、ファンの間ではあまねく知られています。
ある機会にそのことを知った住職・斎藤堯圓師は、当寺がビルへ移転したのをしおに表示の石碑の建立を決意、ついに実現されました。

『岸井左馬之助寄宿の碑』

春慶寺と岸井左馬之助の詳しい経緯は、このHP「井戸掘り人のレポート[岸井左馬之助と春慶寺]をご覧ください。

 井戸掘り人のレポート[岸井左馬之助と春慶寺]こちらをクリック



1月10日〜7日
2003年1月10日(金) 22:38

〔落針〕の彦蔵、〔万馬〕の八兵衛の出身地

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

この2人は街道の宿場に関係する名前ですので、一緒に取り上げます。
「落針村」は江戸期−明治 8年の村名で、現在は三重県亀山市 に属する。明治 8年に野尻村と合併して布気村となり、現在は布気町となって「落針」の名前は消えています。
東海道の亀山、能古茶屋、野尻、落針(『五街道細見』p157 参照)と続く宿場でした。
「落針」は『大日本地名辞書』には記載なし。
一方、「万馬」は『大日本地名辞書』では「万場」と記載されていのを、池波さんが「万馬」と使ったのは、おそらく『五街道細見』p153 にある佐屋街道の宿場である万馬を見られ たからだと思います。現在は名古屋市中川区富田町万場となっています。近くには「伏屋」という気になる地名もあります。


管理者:西尾からのレス

吉田東伍博士の『大日本地名辞書』に「落針」の記載がないのは、そういう経緯だったのですね。いや、よくわかりました。ありがとうございます。
岸井良衛さんの『五街道細見』(青蛙房)は、ずっと以前から書棚に置いており、いつかゆっくり検分しないと、とおもっていて、怠っており、教えられました。
〔落針〕の彦蔵は、文庫巻9[雨引の文五郎](p23 新装p24)、〔万馬〕の八兵衛は、文庫巻10[むかしなじみ]に登場する盗人です。



2003年1月10日(金) 21:59

〔猿野〕の仙次、〔真泥〕の伊之助は同じ村の出身?

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

CD-ROM版『ぽすたるガイド』で遊んでいまして、面白いことに気づきました。
いうのは「猿野」、「真泥」を町域名に記入して検索したとろ、どちらも検索件数は 1件で三重県阿山郡大山田村にヒットしました。すなわち、
猿野:〒518-1414 三重県阿山郡大山田村猿野(マシノ)
真泥:〒518-1421 三重県阿山郡大山田村真泥(ミドロ)
平犯科帳に出てくる読み方とは異なります。
どちらも吉田東伍『大日本地名辞書』に記載がなかったと思いますので決め手に事欠きますが? 小生がよく利用する『角川地名大辞典』には、どちらも記載されています。


管理者:西尾からのレス

堀さん、お手柄! ノーベル文学賞級の発見、とまではいいませんが、かなり高級な成果です。
〔猿野〕の仙次は、文庫巻10[お熊と茂平](p291 新装p307)で、宇都宮を根城にしているに〔今市〕の十右衛門の配下ということで登場しますね。
一方、〔真泥〕の伊之松は、文庫巻1[浅草・御厩河岸](p144 新装p152 )で火盗改メの拷問に屈し、甲州・石和(いさわ)に本拠を置いているお頭・〔かけす〕の喜左衛門のことを白状してしまいます。
じつは、テレパシーというのでしょうか、同日、ぼくもCD-ROM版『ぽすたるガイド』で、この〔真泥〕の伊之松が三重県阿山郡大山田村の出とわかり、地図帳で阿山郡は北を滋賀県の甲賀郡に接した、伊賀にあることを確かめました。つまり、池波さんは、忍者ものを書くために甲賀・伊賀を取材旅行していて、「猿野村」「真泥村」を知ったのではないか、とかんがえたのですが、そうするとこんどは、伊賀の山中出身の2人が、どういう経路で、宇都宮の盗賊団、甲州の盗賊一味に加わったのか、知りたくなりましてね。
もうひとつ、忍者集団と盗賊集団は、いろんな面で重なる、ってことにおもいいたりました。



2003年1月10日(金) 21:22

帯川の源助の出身地は長野県下伊那郡阿南町?

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

文庫巻11[穴]に初めて登場、京扇をあつかう〔玉風堂平野屋〕源助は、『鬼平犯科帳』に顔を見せる盗人の中でも、とりわけユニークな一人ですね。
70がらみのこの〔平野屋〕源助、じつは引退前は〔帯川〕の源助といって、「上方から中国すじにかけて」(p108 新装p113 )むかしはならした盗人の頭領あがりの老爺であることは、鬼平ファンならとっくにご存じ。
ところで、彼の通り名の「帯川」は、吉田東伍博士『大日本地名辞書』には収録されていません。で、『角川地名大辞典』をあたってみて、長野県にあることがわかりました。
『角川地名大辞典 長野県』版のp292 に記載されている「帯川村」の記述を原文のまま下に示します。

おびかわむら 帯川村〈阿南町〉
〔近世〕江戸期〜明治 8年の村名。伊那郡のうち。売木(うりき)川が知和野川(和合川)に合流するあたりに位置する。
はじめ飯田藩領、慶長 6年からは幕府領。支配代官所はたびたび変遷し、元文 4年から知久氏預りで固定した。
「天正高帳」では向方と合わせて70石余となっており、「正保知行付」で帯川村として村高10石。「元禄郷帳」も同高、「天保郷帳」「旧高旧領」はともに10石余。
売木川と和合川の合流点の狭小な平地と緩傾斜地を利用して農業を行った。宝暦 7年の戸数 8、人口34うち男21、女13。遠州往還の押さえとして関所が置かれていた。その場所は、集落のほぼ中央の井戸沢を渡り、新野村へ行く急坂の小平地という。
慶長 6年知久則直が 3,000石を以て阿島に封じられ、同時に帯川関の守衛を命じられて明治期まで支配した。関所は 7年ごとに修繕をすることになっており、すべて当村の負担であった。(略)
明治元年伊那県、同 4年筑摩県に所属。同 8年旦開(あさげ)村の一部となる。


阿南町は昭和32年 7月 1日に大下条村、旦開村、和合村が合併し、町制施行して成立。したがってかつての「帯川村」は現在の行政地名は阿南町和合(〒399-1611)です。
池波さんがこの「帯川」という地名をどのようにして知ったかということになりますが、遠州街道の関所があった所でもありますので、街道に関する文献から知り得たのではと考えています。


管理者:西尾からのレス

読売映画広告賞の審査員を10年間ほど、池波さん、落合恵子さんなどとやっていたことがあります。最終審査当日、新聞社の大手町のビルの10階の審査会場に集まるわけですが、池波さんもぼくも気ぜわしい性質なので、30分前には談話室に入って雑談をしていました。
あるとき、池波さんがこんなことをもらしました。
「売れない作家時代、よく旅をしたものです。そのときに見聞きしたことが、集めた資料のノート……といっても旅籠の箸袋といった他愛ないものですが……が、あとで小説を書く上でごく役にたちました。直木賞をとったあとも、しばらくは暇でしたね」
で、先日、台東区の池波記念館の説明員をしていらっしゃる鶴松房治氏に、「池波さんの旅の記録簿はないのですか?」と聞きましたら、「ありません」との返事。ということは、池波ファンとしてはエッセイや何かで、旅行記録を再現するしかない、ということです。もっとも、「帯川村」が下伊那郡、ということで、武田信玄のことに触れた『夜の戦士』のための取材時に存在を知ったと仮定すると、かなり早い時期――1960年(昭和35)前後、池波さん37,8歳のころとみていいのでは?



2003年1月9日(木) 13:10

〔相川〕の虎次郎まわり

発信:朝日カルチャーセンター〔鬼平〕クラス
   河内三郎さん

文庫巻24の未完の特別長篇[誘拐]第1章「相川の虎次郎」の虎次郎は、密偵・おまさによると、
「あの男は、甲斐の相川で生まれたということになっておりますが、江戸育ちだそうでございますよ」ということ。吉田東伍『大日本地名辞書』で、甲斐の「相川」は「古府中」の項に収録され「いま相川村と改む、甲府の北なる高地にして、岡巒三面に環り、相川、濁川の二溪この間に発す」とあります。
「古府中」は、一般に武田氏が館をつくった時の城下町の呼称で、時代によって相方は変遷しています。1519年(永正16)、信虎が石和(いさわ)の地から躑躅(つつじ)ヶ崎に館を移したおり、石和の館に対して躑躅ヶ崎の館を含めたその城下町を「新府中」と称しました。
1581(天正 9)年、勝頼が新府韮崎城を構え、その地に城下町をつくると、躑躅ヶ崎の地全体を「古府中」と称するようになりました。その期間は天正 9年11月から翌10年 3月までで、武田氏家臣らが呼称したのが始まりといわれ、一般にはあまり用いられなかったようです。勝頼は新府移転にさいしてすべての建物を撤去したので、笹濠と松木濠、それを囲む土壘、石垣を残すのみで、雑草と竹藪に覆われた索莫たる一角になったといいます。そこで農民たちは「古城」と呼んだといいます。この後、いろいろな経緯を経、明治11年、古府中、岩窪、上・下積翠寺、小松、塚原、和田の7ヶ村が合併して相川村となり、明治22年に甲府市へ併合されました。(略)


管理者:西尾からのレス

河内三郎さんのコメントは上の5倍もあったのですが、あまりにも長すぎるので、申しわけなかったのですが、省略させていただきました。いつか、機会があれば、全文をご紹介させていただきます。

 わいわい談議(相川)の虎次郎 ←ここをクリック



2003年1月9日(木) 

〔羽佐間〕の文蔵の出身地は藤枝

発信:管理者 西尾のコメント

きょう、朝日カルチャーセンター(新宿)の〔鬼平〕クラスで発表したんだけど、文庫巻4[五年目の客]で、浅草・今戸橋をわたっている40がらみの商人ふうの男を、〔小房〕の粂八が、鬼平に、
「十年ほど前に私が、遠州(えんしゅう)の大盗賊(おおもの)・羽佐間の文蔵の下ではたらいておりましたとき、おなじ仲間だった江口の音吉という……」
と名ざします。
この〔羽佐間〕が、吉田東伍博士『大日本地名辞書』には収録されていません。あるのは、
 ・挟間(ハサマ 豊後)
 ・狭間(ハサマ 豊後)
 ・飯山満(ハサマ 下総)
 ・迫間(ハザマ 肥後)
 ・迫間(ハザマ 上野)
 ・迫間(ハザマ)川(陸前)
 ・挟間田(ハザマダ 下野)
で、頭をひねっていたところ、20年ほど前に購入したままにしていた『藤枝市史 下』を偶然開いたところ、なんと、江戸時代の「羽佐間村」は明治20年代の初期に、「葉梨村」へ統合された、と。
「藤枝」と池波さんといえば『仕掛人・藤枝梅安』だし、『鬼平犯科帳』でも、
 ・文庫巻1[血頭の丹兵衛]藤枝宿p99 新装p104
 ・文庫巻3[駿州・宇津谷峠]藤枝の本陣p237 新装p248
   〃   小間物屋の女房・おしげp232 新装p243
 ・文庫巻7[雨乞い庄右衛門]藤枝に近い盗人宿p15 新装p16
 ・文庫巻9[泥亀]〔牛尾〕の太兵衛の世間向けの顔、
       呉服服太物屋〔川崎屋〕p89 新装p93
と、よく使われています。
なにより、史実の平蔵の先祖・長谷川正長が領地していたのがいまは藤枝市に併合されている今川領の田中城だし……。武田勢に攻められ、一族21名 300騎が家康のもとへ逃げたのです。
文庫巻6[狐火]の葛飾・新宿(にいじゅく)の茶店の老爺・〔瀬戸川〕の源七の「瀬戸川」も、藤枝市内を流れている川。
また、文庫巻1[座頭と猿]に出てくる凶悪な盗賊〔五十海(いかるみ)〕の権平の通り名となっている「五十海」も藤沢市にある町名です。
池波さんと藤沢市は、切ってもきれない関係ですな。

『藤枝市史』(1971年11月刊)

『鬼平犯科帳』の連載開始は1968年 1月号だし、[五年目の客]は1969年11月号で『市史』刊行前だから、「羽佐間村」を知ったのは藤沢市へ取材旅行したときか、『静岡県史』かも。
『市史』は、写真のものの前には編纂されていないと、藤枝市郷土博物館から電話で教わった。

 
わいわい談議(羽佐間)の文蔵 ←ここをクリック



2003年1月8日(水) 

明治19年の近江の小房

発信:管理者 西尾のコメント

明治19年(1886)に陸軍参謀本部が出した20万分の1地図には、琵琶湖の東に「上小房」「下小房」の文字が見えます。当時は上と下にわかれていたのですね。
池波さんが忍者ものでこのあたりへ取材に行ったとして、時期を『鬼平犯科帳』執筆の前とすると、1962年(昭和37)から「内外タイムス」ほかへ連載した『夜の戦士』、1964年(昭和39)に「週刊新潮」連載『忍者丹波大介』あたりですかね。


「上小房」「下小房」

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。


「夜の戦士」

「忍者丹波大介」



2003年1月7日(火) 23:45

倶楽部の史跡めぐりウォーキング

発信:砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   茶木登茂一さん

江戸開府 400年の今年は、〔鬼平〕熱愛倶楽部ますます発展の年となりますね。お蔭さまで、私も〔鬼平〕熱愛倶楽部の一員に加えさせていただいてちょうど2年となりました。
というのも、たまたま、『毎日が発見』誌で西坂代表の記事を読み、さっそく代表あてファクスで入会をお願いした次第。
初参加は忘れもしない平成13年1月27日の大雪の史跡めぐりウォーキングでした。
当日は地下鉄南北線の「本駒込駅」から次の「駒込駅」まで雪に足を取られながら鬼平ゆかりの史跡をめぐり歩きましたが、会員の皆さんの情熱にはたいへん感激いたしました。
すっぽりと雪に埋もれた駒込・吉祥寺や六義園はまさに江戸そのものの風情でした。
  雪霏々と片町あたり江戸と化す
  雪蹴立て鬼平来るや吉祥寺
などの駄句を物にしましたが、塗り絵とともに「俳句と川柳で綴る鬼平史跡巡り」として当ホームページの「個人画廊コーナー」に掲出することにもなりました。
若いころから池波作品の愛読者でしたが、会員となって西尾先生の講義を拝聴し、また仲間の皆さんの薀蓄を聞くことによりましてなお一層好きになりました。
今年も1月11日の史跡めぐから始まりますが、よろしくお願いいたします。それにつけても歩いた後の皆さんとの一杯がなんといっても一番の楽しみです。
今年はどちらに連れて行ってもらえるのでしょうか。
  鬼平隊みな赤面鬼美酒五升 (H14.2.9)
  池波さんもどきに手繰るそばの味(H14.4.27)
  見回りの後の一杯かくならん(H14.6.8)


管理者:西尾からのレス

小説の雰囲気をより深く感じとってもらうための史跡めぐりウォーキングとして企画しているはずなんですが。
歩いたあとの打ち上げの食事会が楽しみとは、どうも困りましたね。
ま、鬼平も、旬のものを旬の時におごるように心がけていたようだから、食事会も〔鬼平ゆずり〕ということにしておきましょう。



1月4日〜1日
2003年1月4日(土) 16:50

わいわい おまさコーナーも……

発信:小股の切れあがった江戸前のおまささん

わたし、小股も切れあがっている(はず)の、おまさです。
以前、朝日カルチャーセンター(新宿)主催、月1で、日曜日にやっていた《鬼平史跡めぐり》にかかさず2年間、たのしく参加していました。
そこで鬼平好きのメンバーたちと知り合い「密偵たちの宴」と称し、いまでも何かあると宴を催しています。
そこでの私の通り名は〔おまさ〕。もちろん〔粂八〕も〔彦十〕も、密偵ではないけれど〔久栄〕もいます。
職業も年齢も性別も越えた、でも、鬼平が共通点の、鬼平めぐりが無かったら絶対に知り合えなかった大切な仲間たちです。
ところで、この掲示板が新設され、五郎蔵、伊三次、粂八の「わいわいコーナー」まで設けられているのに、肝心の「おまさのコーナー」がまだないのは、自称おまさのわたしにとって悲しいかぎりです。ぜひ、「おまさコーナー」もつくってください。
で、質問なのですが、〔大滝〕の五郎蔵、〔小房〕の粂八、のように、密偵おまさにも〔……〕のおまさ、のような通り名はありますか?


管理者:西尾からのレス

たしかに、〔猿塚〕のお千代、〔掻掘〕のおけい、〔鯉肝〕のお里、〔珊瑚玉〕のお百、〔網虫〕のお吉……と、女賊でも通り名をもったのがいます。
でも、〔……〕のおまさ、ねえ。聞いたことはありませんが、生まれた土地からいえば、〔四ッ目〕のおまさ、かも。ただ、これはいただけません、というのは、鬼平のころ、両国橋西詰に〔四ッ目屋〕という性具・強精剤を商う店があったのです。
それに、女賊の通り名は、生誕地ではなく、その女性の性格からきているようですし。
おまさは、おまさと素のままのほうが似つかわしいのではないでしょうか?
「わいわい おまさ」コーナーは早速につくりましょう。
ついでだから、おまさの年譜も掲げておきます。

 おまさの年譜←こちらをクリック



2003年1月3日(金) 23:47

〔舟形〕の宗平について

発信:学習院〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

東北出身(と仮定している)〔舟形〕の宗平は、甲斐(山梨県)出身のお頭〔初鹿野〕の音松と、どこで、どんなふうに出会ったか……を推測してみます。
資料として〔舟形〕の宗平と〔初鹿野〕の音松に関する特記事項を添付しておきました。
この資料をベースに考えてみますと、〔初鹿野〕音松は自分の手下ばかりでなく、ほかのところの者もよくめんどうを見てやっているということで、そこから盗賊界の情報を集めていたと考えられます。
で、かの大盗[簑火]の喜之助配下で鍛えられた宗平をトレードあるいはスカウトして自分の配下とし、軍師としても重用し、60代になってからは盗人宿の番人として処したと考えています。
(現代風に言えば、一流企業戦士を情報網を張りめぐらしておいてトレードまたはスカウトで獲得したということになります。
甲斐の出身である音松は「企画力のあるアイデアマン」(山梨人の県民性)だったのでしょう)時期は大滝の五郎蔵が独立した後で、宗平が40代後半から50代前半の頃か?(宗平の年齢に関する作者の記述が一貫していないのであやしいが……?)

◆添付データ

*文庫巻4 [敵]p257 〜新装p269〜(寛政元年)
○盗賊・初鹿野の音松の〔盗人宿〕の番人は舟形の宗平という老人であった。
○「……なにしろ初鹿野のお頭は自分の手下ばかりでなく、ほかのところの者もよくめんどうを見ていなさるのでね」
と、己斐の文助が五郎蔵にいったのである。
○舟形の宗平は、むかし、五郎蔵と同じ簑火一味で、若いころの五郎蔵はなにかにつけて、宗平の厄介になったものなのである。いまの宗平は、たしか七十をこえているはずだ。

*文庫巻7[泥鰌の和助始末]p193 新装p202 (寛政4年)
○六十をこえた宗平は、盗賊の世界に通暁している。

*文庫巻9[雨引の文五郎]p21 新装p22(寛政5年)
○舟形の宗平は、かって初鹿野の音松の〔軍師〕などといわれた…。
○だが、七十をこえた宗平だけに、このごろは躰のぐあいが…。

*文庫巻10 [追跡]p98 新装p103 (寛政6年)
○……いまは盗賊改方の密偵になっている舟形の宗平老人が、もとは初鹿野の音松の配下……。

*文庫巻11[穴]p104 新装p109 (寛政6年)
○「……私が前に、初鹿野の音松の下で盗めばたらきをしておりましたとき、合せて四度ほど、音松の使いで八日市へ出向き……」


管理者:西尾からのレス

なるほど。〔舟形〕の宗平が目黒の〔盗人宿〕の百姓家で長谷川組に保護されたときは60歳代。宗平が宿を預かっていることを知った〔大滝〕の五郎蔵の台詞……
「そうか、船形の爺つぁんが、いまは初鹿野のお頭の盗人宿の番をしていなさるのか……」
から推測すると、宗平と五郎蔵は10年、いや20年以上も会っていないようにも感じられます。
とすると、宗平が〔簑火〕の喜之助の下を離れたのは、五郎蔵が独立したちょっとあとかも。そして、間もなく〔初鹿野〕の音松にスカウトされた……。
ただ、〔舟形〕の宗平は人あたりがよすぎるから、お頭には向かないでしょう。やはり、面倒見のいい副官、ってところですね。

〔舟形〕の宗平については、

 わいわい談議 宗平こちらをクリック



2003年1月3日(金) 11:23

『池波正太郎が歩いた京都』のこと

発信:京都府久世郡久御山町在住
   小谷信之さん

昨年でしたか、西尾さんのホームページを拝見してから池波作品ばかりまとめ買いして読んでみました。
われわれ素人ではストーリー展開についていくのが精一杯で、その世界に入り込んで深読みする境地に達するにはいたりません。
先日本屋で京都の淡交社がから出た『池波正太郎が歩いた京都』を見つけたので、早速読んでみて、池波正太郎と京都との係わり合いの深さが理解できたというか、理解できたような気がしました。
著者:蔵田敏明 写真:宮武秀治
初刷刊行:2002年7月27日
本体 1,500円+税。127ページ。
もちろん、池波正太郎と関係の多い京都のようですから、いろいろなテーマがあることとおもうので、西尾さんの要望があれば、調査の真似事をするのは一向にやぶさかではありません。
でも、前記の本ほどにはお役にたてそうにもありませんので、その点あしからずご諒承を。



管理者:西尾からのレス

小谷さん。『池波正太郎が歩いた京都』が出版されていたことは知りませんでした。教えてくださってありがとうございます。
本は、目次によると、池波作品映画の舞台が多く紹介されているみたい。京都府にお住まいの小谷さんには、もってこいですね。そのうち、京都の調査へのご協力をお願いすることになるとおもいます。その節はよろしく。
ぼくの監修による『鬼平を歩く』は、これの江戸版……というところ。東京の鬼平コースはもう40コースほど開発(?)しました。いずれ、このHPの『鬼平と歩く』コーナーへ紹介していく予定です。



2003年1月2日(木) 22:37

〔招福楼〕の件

発信:元『週刊朝日』副編集長
   重金敦之さん

私が池波さんと〔招福楼〕へ一緒したのは、72年(昭和47)の夏、『食卓の情景』の取材で、一泊しました。
池波さんは、そのときが、初めてだったはずです。
行って帰ってきただけで、周辺はどこにも寄りませんでした。
その後、『太陽』の取材で、カメラマン同行で、再度訪れたのです。
おそらく76年(昭和51)の初夏ではないかと思われます。
文庫(注:『散歩のとき何か食べたくなって』)に載っている写真は『太陽』の取材チームの撮影だと思います。
そのあたりの事情は筒井ガンコ堂さんに聞けばより詳しくわかるはずです。

「近江・八日市」はp166


管理者:西尾からのレス

重金敦之さんは、『週刊朝日』編集部時代、池波さんの『食卓の情景』の連載を企画・担当なさった方です。
「招福楼」のことを教えてもらいました。
新潮文庫『食卓の情景』「近江・八日市」(p166)は、重金さんといっしょのときの報告なんですね。

これまでの〔小房〕の粂八談義のやりとりは、

 わいわい談議 粂八こちらをクリック



2003年1月2日(木) 13:49

伊砂の善八

発信:砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   猪名川一雄さん

文庫巻3[盗法秘伝]の〔伊砂(いすが)の善八〕ですが、地名を検索すると、静岡県天竜市伊砂(イスカ)、鹿児島県大島郡喜界町伊砂(イサゴ)があります。
「市中見廻り」仲間のたきざわ与力殿が宮城県の「砂金」についてレポートしてくださっていますが、素直に静岡県天竜市伊砂と考えてはいけないのでしょうか。
それとも『大日本地名辞書』には静岡県の伊砂は載っていないのでしょうか。


管理者:西尾からのレス

静岡県天竜市「伊砂(イスカ)」は『大日本地名辞書』には、収録されていません。もちろん、「伊砂(イスガ)」も……。
「伊砂(いすか)村」がいつ、天竜市に合併されたか、また、同村は江戸時代からあった村かどうか、天竜市役所へ問い合わせてみましょう。
もちろん、〔伊砂(いすが)の善八〕の「伊砂」を、池波さんは、猪名川のご指摘のとおりに、天竜市の「伊砂」から取ったとおもいますよ。
ところで「伊砂」は「イサゴ」とも読めますね。『大日本地名辞書』に載っている「イサゴ」は、
・武蔵(神奈川県川崎市)砂子(イサゴ)
・陸前(宮城県)砂金(イサゴ)
・陸中(岩手県)砂子沢(イサゴザワ)
・岩代(福島県)砂子(イサゴ)堀
・摂津(大阪府?)砂子(イサゴ)山
「イスカ」は、
・伊豆(静岡県)伊豆(イヅガ)崎
だけです。

「伊砂」の善八については、

 わいわい談議 善八こちらをクリック



2003年1月1日(水) 11:04

〔小房〕の粂八さんの恋人志願

発信:江戸・柳原岩井町の裏店住まい
   おこんさん

粂八さんって、寛政7年だと41歳の男ざかりではありませんか。
それなのに、31歳のときに、芝・高輪の料理屋の女将・お紋さんと駆け落ちしたっきり、女っ気がないってのは、どういうこと?
そういうことなら、あたしが、彼の女になろうかな。38歳の女ざかりよ。


管理者:西尾からのレス

新春早々のおこんさんの、浮きたつようなお申し出は、きちんと粂八どんへ伝えるとしまして、文庫巻18[馴馬の三蔵]にも、

近ごろの〔鶴や〕の評判はなかなかのもので、常客も少なくない。(p43 新装版p45)

とあり、預かった舟宿の経営と密偵仕事に懸命で、女のことは二の次、三の次なのかも……。
で、おこんさんのせっかくのお申し出をお受けしたとして、38歳女ざかりのおこんさんのほうが欲求不満でおもだえになっても、こっちは知りませんからね。




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