長谷川平蔵邸はどこだ?


 長谷川平蔵住居跡
 所在 墨田区菊川 3丁目16番
 
 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享3年(1746)赤坂に生まれました。
 平蔵19歳の明和元年(1764)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこ  の本所三の橋通り菊川の、 1,238坪の邸に移りました。
 長谷川家は三方ヶ原(みかたがはら)の合戦以来の旗本で、家禄 400石でしたが、将軍近習(きんじゅう)の御書院番組(ごしょいんばんぐみ)の家として続いてきました。天明6年(1786)には、かつて父もその職にあった役高(やくだか) 1,500石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、加役(かやく)である火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)につきました。火付盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例 2,3年のところを、没するまでの 8年間もその職にありました。 また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。
 寛政 7年(1795)、病を得てこの地に没しました。この地は孫の 4代目平蔵の時、江戸町奉行遠山金四郎の下屋敷ともなりました。

平成 9年 3月
墨田区教育委員会


 都営新宿線・菊川駅の出口3をあがった右手、三ッ目通りに面した自転車置き場前に掲示されている銘板である。
 「菊川」という文字を目にした『鬼平犯科帳』のファンの多くは、首をかしげ、
「鬼平の住まいは本所の入江町では……?」と、問いたげな表情を見せる。
「そうですよ。鬼平の居宅は、ここから1キロメートルほど北にある入江町です。けれども、史実の長谷川平蔵が、住まい、火盗改メの役宅として執務し、かつ病歿したのはここです」
 こういうと、史跡ウォーキングまでしている熱心な鬼平ファンは、小説と史実の違いにはじめて気づく。
 しかし、鬼平という魅力的なヒーローを創造した池波正太郎さんが、その住まいを、なぜ入江町に定めたか、というところまでおもいをめぐらせない。そんな些細はどうでもいいのかも知れないが、鬼平研究者としては気になるので、あれこれ調べてまわることになる。
 池波さんが、徳川幕府の職制の一つである火盗改メの長官(おかしら)として、目ざましい業績をあげた長谷川平蔵という人物の存在に注目したのは30歳をちょっと越したころだという。師・長谷川伸氏の書庫にあった三田村鳶魚『捕物の話』(早稲田大学出版会刊 1934。のち中公文庫)を読んだときであろうと推察する。が、同書の平蔵についての記述の全部は人足寄場創設と運営についやされている感じで、火盗改メの事蹟にはほとんど筆がおよんでいない。 池波さんは懸命になって長谷川平蔵の史料を求めたろうが、手に入ったのはほんのわずかで、その一つが「住まいは、本所の三ッ目」という情報の断片であったろう。
 そこで池波さんは、前回の本稿に名古屋の古書店で購入したと書いた、近江屋金吾堂板の切絵図「南本所竪川辺図」を確かめた。


@、Aの番号をクリックすると、拡大画像がご覧になれます。


 現在の菊川駅の上にあたる「菊川 3丁目16番」は、@を付した「遠山左ェ門尉(さえもんのじょう)下」である。じつはこの金吾堂板は、平蔵宣以の歿後56年目の嘉永 4年(1851)に板刻されたものである。
 出費の多い火盗改メの職を足かけ 8年もつとめた平蔵は、蓄えられていた家宝を手放して不足分をまかなったといわれている。そのつけを払ったのが孫の宣昭(のぶあき)である。能吏だった曾祖父・宣雄(のぶお)が勤倹のすえに手に入れた菊川の 1,238坪の屋敷のまず半分を売りに出した。買ったのは北町奉行だった遠山左衛門尉景元――そう、背中いっぱいのサクラの刺青(いれずみ)で知られた〔遠山の金さん〕である。遠山家の本邸は愛宕下にあり、ここは切絵図の「下」が示すとおり、下屋敷にあてられていた。あとの半分も南町奉行に再任した金さんが買いたした。
 池波さんはそのような経緯を知らないから、「菊川 3丁目16番」を見すごして、本所三ッ目通りを金吾堂板の南から北へたどり、入江町の鐘楼の向かい、A「長谷川」に目をとめてここを平蔵邸と決め、「入江町の銕」伝説が誕生した。Aの長谷川は伊勢国司・北畠家につかえていた 400石の家で、同姓ではあっても大和出身の平蔵の家系とはまったく関係がない。
 池波さんがやったもう一つの早合点は、平蔵宣以の父・宣雄が京都西町奉行へ栄転したときに入江町の拝領屋敷を返上したとかんがえたことである。宣雄の病歿で江戸へ帰ってきた長谷川家が目白台に屋敷をあらたに賜ったとしたのは、昭和になってから編まれた武鑑のアンソロジー、『大武鑑』の寛政 3年の御先手御弓頭の項にあった、

長谷川平蔵宣以 天六七
与十同三十△目白だい


の組屋敷△印を、拝領屋敷とおもいこんでしまったことである。

天六七――弓頭拝命は天明六年七月
与十同三十――組の与力十人、同心三十人


は正しく読んだ。
 菊川駅の墨田区教育委員会の銘板は「寛政 7年(1795)、病を得てこの地に没しました」としているが、池波さんが△を誤認して拝領屋敷としてしまった根拠は、次回に長谷川組の与力・同心たちの組屋敷について考察するときに推理するが、じつは教育委員会もかつてはあやまちをおかしていたことは、いまではだれも知ない。
 「平成 9年 3月」日付の銘板が掲出される前には、こんな文章の銘板が出ていた。

 長谷川平蔵住居跡
 所在  墨田区菊川 3丁目16番
 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享 2年(1745)築地に生まれ、明和元年(1764)、父平蔵宣雄(のぶお)の屋敷替えによって、この本所三之橋通り菊川の、 1,238坪の邸に移った。(後略)

平成元年 3月
墨田区


 古い銘板では、平蔵の生年が一年早くなっている。これは滝川政次郎博士の名著『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日選書 1982。のち中公文庫)の誤記に由来している。平蔵の歿年は、寛政 7年(1795)50歳のとき。当時は生まれた時を 1歳としていたことをふまえて逆算すると、延 2年(1745)ではなく、延享 3年(1746)でないとおかしい。そのことを拙著『「鬼平犯科帳」を助太刀いたす』(kkベストセラー 1996)で指摘したら、改訂版の銘板では直した。
 誕生の地が「築地」から「赤坂」へ訂正されたのは、研究家・釣洋一さんの研究成果による。
 古い銘板の全文をPCに記録していたので、区側の謙虚な態度をここに称賛できたが、データの入力ミスのこわさとして紹介した。




「鬼平を斬る!」記載誌


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