池波さんが携行した切絵図


  徳川幕府の政権が安定し、独自の文化が生まれ、成熟するにつれ、つぎつぎに刊行された「地図」の美しさは、いくら見ても見飽(あ)きることがない。
  日本の、江戸の職人の巧妙繊細な手指のはたらきが、このような美しい木版刷りの地図を生んだのだ。
  中でも、地域別につくられ、携帯に便利な「切絵図」は、私のような、江戸期を舞台にした時代小説を書いている者にとっては、欠(か)かせないものだ。私は「切絵図」と共に毎日を送っているといってよい。

『江戸切絵図散歩』(新潮文庫)


 池波さんが毎日眺めていた江戸の「切絵図」が金吾堂近江屋板だったことは、たいていファンが承知している。その全揃いの「切絵図」を池波さんは昭和30年(1955)の秋に名古屋の古書店で求めたといろんなところで語っているからである。
 しかし、名古屋で初めて入手しえた「切絵図」が近江屋板だったというところがおもしろい。というのは江戸時代後半に出回っていた「切絵図」には近江屋板と金鱗堂尾張屋板がある。どちらも江戸を30枚ほどに切りわけて刷っているが、板行経緯からいっても、買ったのが名古屋だったということからいっても、尾張屋板であったほうが自然なのだ。
 板行のいきさつを手短にお話しする。
 麹町10丁目――いまイグナチオ教会かJR四ッ谷駅のあたりに、〔近江屋〕五平が荒物の店を出していた。番町といえば、怪談「番町皿屋敷」でもその町名が知られているように、そこそこの格の幕臣たちの邸宅が集中していた、いわゆるお屋敷町であった。
 五平の店はその番町の西口にあったからたまらない。挨拶の金品を携えた武士たちが朝から晩までひっきりなしに来ては「だれそれ殿のお住まいはどう行けばよろしいか」と聞くので商売にならない。業をにやした五平どんの頭に「そうだ、氏名入りの住宅地図をつくれば売れる」とヒラメめいたのも現場にいればこそ。ヒット商品のヒントはつねにマーケットに潜在している。
 五平の金吾堂近江屋板「氏名入り番町切絵図」の大当たりぶりを見ていた麹町 6丁目の出版社、金鱗堂尾張屋の主人もかんがえた。「素人がつくった地図があれほど売れるのなら、出版のプロであるわれわれが念を入れてつくればもっとヒットするはずだ」
 尾張屋板の「切絵図」は二番手らしく、たしかに色彩もあざやかで、府内での実用のほかに、29九枚セットのものが江戸みやげとしてけっこう売れたらしい。戦後、空襲や災害などのなかった地方都市でセットで姿を現してそのことを実証した。
 人文社(東京都千代田区三崎町 3― 1― 2)が模写・刊行しているのも、一般受けする尾張屋板のほうである。1枚物は各 1,000円+税、まとめて本にしたものは1冊 1,600円+税だから、まあ手軽といえる。江戸もの小説を読むにはこの 1,600円の『嘉永・慶応 江戸切絵図』でまずは用が足りる。
 しかし『鬼平犯科帳』を身を入れて読むには、池波さんが名古屋の古書店で求め「共に毎日を送っている」金吾堂近江屋板がほしくなる。
 たとえば、なにかというと名前が出る正統派盗人のお頭〔蓑火〕の喜之助が主人公の「老盗の夢」(文庫巻1)で、京から江戸へ下ってきて、

  
浅草・鳥越にある松樹院という寺の門前の、小さな花屋を訪れた。

 花屋は、これも正統派の頭〔夜兎〕の角右衛門の盗人宿で、店を預かっているのは〔前砂(まいすな)〕の捨蔵――なんてことは、わざわざいわなくても鬼平ファンならとっくにご存じ。
 目をとめたいのは〔夜兎〕の角右衛門や〔前砂〕の捨蔵ではなく、「松寿院」のほう。台東区鳥越 2―13― 2に現存する浄土宗の寺である。ただし「松寿院」ではなく「寿松院」として。
 ははん、池波さん、現存の寺院では差しさわりがあるかもと用心して、「寿」と「松」ひっくりかえして「松寿院」としたな、などと早まってはいけない。そういう細工をするのは、住職や執事や小僧が殺傷される寺院に限られる。門前の花屋が盗人宿ぐらいのことでは仮名にはしないのが池波流である。読み手にリアリティを感じさせるために「切絵図と共に毎日を送っている」ほどなのだから。
 じつは「寿松院」を「松寿院」と板刻しているのは近江屋板「浅草鳥越堀田原辺絵図」である。座右に近江屋板を置いている池波さんは、それを写したにすぎない。
 もっとも池波さんの近江屋板全揃い購入は脚本家時代の昭和30年とすでに紹介した。『鬼平犯科帳』の「老盗の夢」の執筆は直木賞も受けて名声も確立していた昭和43年(1967)。尾張屋板のセットもすでに手に入れていたとおもえる。そちらを開けば「寿松院」と板刻されており、どちらが正しい院号かは、電話帳であたるなり出向いて行って調べてもいい。鳥越一丁目は、台東区永住町(現・元浅草 3、 4丁目)育ちの池波さんにとっては、遊び場の一画みたいなものだったろう。

中央公論美術出版の尾張屋板の模写図に、『鬼平犯科帳』の事項を貼付。「寿松院」の項。

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 そうしなかったのは、近江屋板の切絵図によほどなじんでいたからと類推する。外出のときに携行したのも近江屋板だったろう。極言すると、池波小説を完全に読みきるには金吾堂近江屋板が手もとに必要といえないこともこともない。ところがこの近江屋板、入手がなかなか困難なのである。筆者は近江屋板が欲しいばっかりに『江戸切絵図集成 全六巻』(中央公論社 1981〜)に大枚をはたいた。尾張屋板はすでに所有したいたのに、である。
 そのずっと前は、会社勤めの初期のころに出た『古板江戸図集成 全8巻』(中央公論美術出版 1959〜)に親しんでいた。モノクロ模写版のこれはじつに重宝した、というのはカラーコピー機の登場前、『鬼平犯科帳』に出てくる町や商店や寺社をのこらずPCに入力、打ち出してモノクロ切絵図にいちいち貼りつけたのである。
 いまならもちろん、彩色版の切絵図をスキャナーで取りこみ、採集事項を重ねることもできる。
 また、江戸の府内地図と現在の市街図を重ねた『江戸情報地図』(朝日新聞社)をさらに発展させた、CD版『江戸東京重ね地図』(エーピーピーカンパニー)もある。
 しかし手づくりの採集事項版のモノクロ切絵図を眺めることから「鬼平犯科帳ゆかりの史跡ウォーキング・コース」の発想が生まれた。自治体の生涯学習センターや各文化センターの〔鬼平〕クラスで、講義と交互に史跡ウォーキングを行うことで、在籍が長つづきしている。いや、ウォーキングのあとの会食の成果かもしれない。食通としても有名だった池波さんの推奨店での飲食だから。「ゆかりの史跡ウォーキング・コース」はすでに40を越えてなおつづいている。
 『鬼平犯科帳』の舞台をウォーキングすると、意外なところに江戸のおもかげがのこっていたりする。先日も文庫4巻「あばたの新助」で、佐々木新助同心が甘酒屋の茶汲み女につれこまれる正源寺(江東区永代 1― 8― 8)脇の料理屋を説明するつもりでいたところ、そこ――かつての諸町に「市右衛門」の表札を見つけ、玄関前にいた青年に問いただしたところ、パッとドアを開けてくれた。そこには「一番纏」が飾られていた。歴代、纏持ちの家系だったのである。




「鬼平を斬る!」記載誌


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