池波小説の集大成――盗人の〔呼び名〕


 
『鬼平犯科帳』に登場する 500近い盗人で、簑火の喜之助(文庫巻1「老盗の夢」)や海老坂の与兵衛(同「浅草・御厩河岸」)の、〔簑火〕や〔海老坂〕のように〔呼び名〕を冠されている者は 323人と前号で報告した。
 しかもその8割方は、明治33年(1900)からあしかけ8年を費やして完結した、吉田東伍博士個人の偉業『大日本地名辞書』によっているとも。
 では、残りの2割は? の問いかけが出ようというもの。
  323人の盗賊たちの〔呼び名〕のリストを眺めていて、いくつかに分類できることに気づいた。

a.忍者の呼び名づけから転じたイメージふうの作りも のの名。
 〔網切〕〔掻掘〕〔狐火〕〔鯉肝〕〔血頭〕〔尻毛〕 〔隙間風〕〔瀬音〕〔簑火〕〔夜兎〕など。
b.古語や別称から。
 〔網虫〕→クモ、〔荒金〕→銅、
 〔牛子〕→アリ地獄、〔馬蕗〕→牛蒡、
 〔木の実鳥〕→サル、〔笹熊〕→アナグマ、
 〔土蜘蛛〕→地グモ、〔泥亀〕→スッポン、
 〔長虫〕→煙管、〔猫鳥〕→フクロウ、
 〔野槌〕→マムシなど。
c.博徒ふうに地名を冠したの。
 〔雨畑〕〔伊賀〕〔五十海(いかるみ)〕〔池尻〕
 〔海老坂〕〔大滝〕〔帯川〕〔小房〕〔生 駒〕
 〔伊砂)〕〔今市〕〔瀬戸川〕〔猫間〕など。
d.編集者・知人などの姓から。
 
割に入るのはa、b、dで、池波さんをネーミングの天才たらしめているのは、aであることはいまさらいうまでもない。
 そのaを、忍者の呼び名づけの延長線上のものと断じたのは、『鬼平犯科帳』の数年前に書かれた幾篇かの忍者ものによる。

・『夜の戦士』(1962〜 8)角川文庫
・『忍者丹波大介』(1964)新潮文庫
・『蝶の戦記』(1967〜 8)文春文庫

 甲賀の里には、山中大和守俊房(としふさ)や杉谷与右衛門信正といった忍者の頭領たちが居館をかまえている。彼らは土豪とはいえ一応は武門の者らしく姓をもっている。配下の者は丹波大介や丸子笹之助のように武士をまねて姓をもっている者と、名前だけの下忍に別れる。名前だけの下忍には、〔猿飛〕佐助や〔霧隠〕才蔵の例をもちだすまでもなく、身上や特技を示す〔呼び名〕をつける。
 さらに、池波さんの一連の忍者小説と『鬼平犯科帳』はきわめて近い関係にあるといっていい。簑火の喜之助や海老坂の与兵衛に率いられた本格派の盗賊集団は、人びとが寝入っているときに煙のごとくに潜入し、金蔵の錠を苦もなくあけて大金をかすめとり、風のように去って行く。鍛えあげられた無駄のない動きは忍者のものでもあるし、結束力の堅さや掟てのきびしさも両者に共通している。いや、物語の上で、ですよ。
 つまり、どちらも空想の世界なのである。忍者小説で腕をみがきあげた池波さんのこと、白浪ものへ移行するのにさしたる苦労はなかったろう。
 bの古語や別称に通じているのは、作家ならとうぜんの教養である。
 池波さんは20代半ばから、記者で「一本刀土俵入り」や「瞼の母」などの劇作家で股旅もの――つまりは博徒ものの創始者である長谷川伸師の門下に入り、師の邸宅で開かれていた勉強会〔新鷹会〕や〔21日会〕へ出席した。池波さんの初期の時代ものの短篇に博徒ものが散見されるのは師とこの会の影響といっていい。長谷川邸の書庫の蔵書を自由に借り出す特権を許されてもいた。
 股旅ものといえば、清水の次郎長であり、国定村の忠次であり、桶屋の鬼吉……出生地か家職か屋号を呼び名にするのが通例で、つまりは分類cである。木枯らし紋次郎は唯一に近い例外と見たい。
 ただし、『鬼平犯科帳』における分類cは、さらに二つにわかれる。

イ.作家が自分で取材した土地
ロ.「大日本地名辞書」から拾ったもの

 着眼のとっかかりは、文庫巻3「盗法秘伝」のひとり働きの老盗〔伊砂(いすが)〕の善八の「伊砂」を調べたときに生まれた。
 寛政5年(1793)初春、長谷川平蔵こと鬼平は休暇をえて亡父の墓参のために京へ上る(あえて史実を記すと、休暇は出されていないし、亡父の墓も京都・千本出水の華光寺にはない。逝去時に葬儀だけは同寺でとりおこなったが、遺骨は香華寺である江戸・四谷の戒行寺へ葬った)。
 鬼平は、東海道を一人で上っているときにひょんなことから〔伊砂〕の善八に見込まれ、盗みを手伝う羽目になった。ついでに薦めておくと、中村吉右衛門=鬼平のテレビで〔伊砂〕の善八を演じている故フランキー堺さんの演技が至芸ともいうべき逸品なので、レンタル・ビデオ店にあったらぜひご覧になるといい。
 「伊砂」はいまは静岡県天竜市の中心部に編入されている戸数20たらずの地区で、「いすか」と訓ずるのは天竜川の対岸の「船明(ふなぎら)」にいた伊須賀という仁が川を渡ったきて開いた村だかららしい(ついでにまたいうと、〔船明(ふなぎら)〕と不思議な読み方の〔呼び名〕をもつ盗人も文庫巻11「男色一本饂飩」に顔を出す)。
 本題に戻って――。
 「船明」は『大日本地名辞書』に収録されているが、「伊砂」は載っていない。池波さんは、いつ、どうして「伊砂」の地名を知ったのだろうとかんがえこんだ。
 なぞは密偵〔小房(こぶさ)〕の粂八の「小房」を調べているときに解けた。
 「小房」は『大日本地名辞書』の近江(滋賀県)蒲生郡の項に出ている。現在の蒲生郡蒲生町小房がそれにあたる。そのことをホームページにあげたら、『食卓の情景』(新潮文庫)の「近江・八日市」の項に、同市の高級料亭〔招福楼〕で堪能した話が書かれているとのレスがついた。
 『食卓の情景』は『週刊朝日』の副編集長だった重金敦之さんの発案ではじまった企画である。そこで重金さんに確かめたら、そのときは〔招福楼〕だけでほかへはまわらなかったから、周辺を取材したとすれば『太陽』に連載された『散歩のとき何か食べたくなって』(新潮文庫)の近江行きのときではないかとの返事。
 改めて『夜の戦士』などの忍者ものを読み返してみたら、「小房」は甲賀からの往復路だった。池波さんは「こぶさ」とルビをふっているが、土地の古老たちは「おふさ」と濁らないようである。そのむかし、このあたりに住まっていた行商人を「おふさの彦太郎」と呼んだのだと。「小房」は「分家の」の意味だとか。
 以上の探索から、〔呼び名〕調べには池波さんの旅行記録をあたりなおすこと、忍者ものやエッセイに出ている地名をPCへ記録し、すでにデータベース化している『鬼平犯科帳』や『剣客商売』の地名と照合するべきことが判明した。
 ちなみに池波さんは『甲陽軍鑑』つまり武田信玄の事跡を調べていて「伊砂」や「船明」へも足をふみ入れたと納得するとともに、『鬼平犯科帳』は池波小説の集大成なんだと改めて認識した。
 分類aにまつわる一言を。
 文庫巻6[狐火]に狐火の勇五郎という盗賊が親子2代にわたって登場する。初代〔狐火〕には、青年時代の鬼平がその妾と寝てしまうという面倒をかけ、おまさは二代目を継ぐ前の又太郎は抱いて男にしてやったというのだから、長谷川一門は狐火一家とよほど深い因縁があった。
 が、それはおいて、〔狐火〕という呼び名を、池波さんはどこからえたか。『江戸名所図会』の王子稲荷社ゆかりの「装束畑衣装榎」の絵と見る。キャプションを引用。「毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐夥しくここへ集まり来ること恒例にして、いまにしかり。その灯(とも)せる火影(ほかげ)によりて土民明くる年の豊凶を卜(うらな)ふとぞ。このこと宵にあり、また暁にありて、時刻定まることなし」

 
装束畑衣装榎


狐たちは王子稲荷社から爵位を授けてもらうために、榎樹の下で衣装を直して参内するのである。その狐火は社の建つ台地の下を大晦日の翌暁まで往来している。ありようは、掛けとりの提灯の灯なのだが。



「鬼平を斬る!」記載誌


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