『よしの册子(ぞうし)』が伝える虚像と実像


(天明七年一一月四日より)
・堀帯刀も、いまの火方盗賊改メよりも上の役に仰せつけられそうなものだ、との噂をしているよし。
長谷川平蔵のようなものをどうして加役――火盗改メの助役(すけやく)――に仰せつけられたのかと、疑っているよし。姦物のよし。
(取材先:堀帯刀の近辺?)


『よしの册子』は、門閥派の暗躍で田沼政権が倒れたあと、保守門閥派プリンスの松平定信が老中の座についたその日から、学友で側近の水野為長(ためなが)が四方へ隠密を放って情報をあつめた、その記録である。
 文が「なんとかのよし」でしめられているので「よしの册子」と一般に呼ばれている。
 最初のうち、隠密たちは集中的にアンチ田沼派のところへ行き、定信がよろこびそうな噂話を主にあつめたフシがある。
 記録は門外不出とされていたのに、ひょんなことから洩れたが、幕府や各藩の上層部についての記述は桑名藩(藩は白河から元からの桑名へ復帰)の家老の手で、意識的に抹消された気配もある。
 長谷川平蔵は当初はさんざんだが、次第に評価が適正になっていくのがおもしろい。定信へ迎合する隠密の色メガネを訂(ただ)しながら読むべきだ。
 頭初に引用したのは平蔵に言及した最初の報告書であるが、「姦物」の評言は適切でない。『よしの册子』全編をつうじて「姦物」はワイロをとる仁にのみ貼られる評言だからである。

・長谷川平蔵は姦物なりとの噂があるよし。しかし時節柄をよくのみこんで、諸事に出費がかからないように計っているので、町方はことのほか悦んでいるらしい。
去年も雪の降る夜、品川辺で賊一人を召し捕ったところ、自身番所へ預けると町内の出費も増えようから、その晩のうちに自分の屋敷へ連れてくるように申しつけたそうな。そこで連れて行ったところ、夜更けだったけれども、さっそくに門を開け、白洲みたいなところへ通されると、向こうの障子の内にアンドンが見え、ただちに障子の内から同心がまかり出てきて囚人を受けとり、送ってきた者へ休息していくようにいい、三畳ほどの屋根つきの休息所で茶や煙草をふるまわれて帰ったよし。そんなわけて町方は悦んでいるらしい。
(注・火盗改メは組頭の屋敷を役宅にしていた)


(天明八年四月一〇日より)
・長谷川平蔵は助役を解かれたよし。先だって、捕りものの実際を本多弾正少弼(だんじょうしょうひつ)忠籌(ただかず)――側用人のち若年寄、老中――へ申しあげたので、首尾よく本役に任命されるかと期待していたらしいが助役は予定どおりに解任だったと。
(注:解任というより助役は火災の多い冬場の警戒のためだから、暖かくなると任を解かれる。この加役(助役)中の作品が「唖の十蔵」「本所・桜屋敷」)


 池波さんが、助役との二本立てを無視、本役(定役)一本で通したのは、火盗改メという目新しい職務を、読み手にすっきりと理解させたかったためであろう。

・火盗改メの長谷川平蔵は出精して勤めているよし。高慢することが好きで、なににつけておれがおれがというらしい。こんども先の助役でのおれの勤めぶりがよかったから本役を仰せつけられたのだと自慢しているよし。
 第3話[血頭の丹兵衛]がこの時期の物語である。


(天明八年八月三〇日より)
・長谷川平蔵は追従上手だが、学問のほうはダメのよし。
(天明八年一一月六日より)
・長谷川は山師、利口者、謀計者のよし。先助役中も、すわ浅草あたりで出火といえば、筋違御門近辺にも自分の定紋入りの高張りを二張、さらに馬上提灯を四,五張も持たせた人を差し出す。
浅草御門あたりも同様にしておき、自分は火事場へ出張っているが、三か所や四か所に長谷川の提灯が数多く掲げられているから、ここにも平蔵がきている、あすこにも平蔵が出張っていたというように、町人どもはうまくだまされているらしい。
もっとも高張提灯が掲げられているところには与力か同心が出張っているのだから、とうぜんお頭もいるように見える。
だから町火消しなどもきちんと指図に従っている。出費をともなうことはまったく意に介さず、ほかの先手の組頭が提灯を三〇張こしらえるところを長谷川は五〇も六〇もこしらえているらしい。
 はなはだ冴えすぎたことをする人ゆえ、まかり間違うと危ないと陰でいう者もいないでもない。


 平蔵の気くばりのどこがかおかしいというのだろう? 町火消しなどが指示どおりに行動したのだからいうことはないではないか。こういうのをアイデアという。
 ノー・アイデアの仁が思いつくのは、アイデア豊かな人をケチをつけて悦にいることである。

・先年、神田御門内の田沼屋敷の近くで火事があったとき、長谷川平蔵は御城へ断って登城せず、自宅からじかに田沼屋敷へ行き、風の方角がよくないから、御奥向きはお立ちのきになられたほうがよろしいと存じます、私がご案内いたしましょう、と下屋敷まで案内したよし。
自宅を出がけに本町の鈴木越後方で餅菓子をあつらえさせ、下屋敷へ到着する頃あいに届くように申しつけておき、早速右の菓子を差しだしたよし。大火になった時には田沼の下屋敷へ持参するようにと自宅の者へ命じておいた夜食もつづいてふるまったそうな。
じつに気くばりの行きとどいたことだと、田沼も感心したとのこと。
他からはまだな何も届いていないところへ鈴木越後の餅、平蔵宅からの夜食が届いたように、すべてかくのごとく奇妙に手や気がまわる仁らしい。
(注・鈴木越後は当時江戸一番との評判の菓子舗)


 ふつうなら10年はやる徒頭なのに、1年半ちょっとの平蔵が先手組頭へ抜擢されたのには、この火事での対応がかわれたからともいえそうである。その分、松平定信派からは田沼派とみられ、忌避された。出費の多い火盗改メを7年もやらされた遠因でもある。

(寛政元年二月一二日より)
・長谷川は先ごろまでの評判はさしてよくなかったが、町方で奇妙に受けがよくなり、西下(注・松平定信)も平蔵ならばと申されるようになったとか。
町々でも平蔵さまさまと嬉しがっているよし。もっとも平蔵は気取り気功者で、人の気を呑みこみ、借金が多くなっていることはすこしも気にせず、与力同心へは酒食をふるまって喜ばせ、または夜中に囚人を町人が連れて行ったときには、早速に受け取らせ、すぐに蕎麦などの出前をふるまっているとか。
飯を出しても冷飯に茶漬けでは人も嬉しがらないが、さっと蕎麦屋へ人を遣わして蕎麦でも出せば、町人はご馳走になった気になり、恐れ入り、ありがたがっているよし。


 中央政府の高級官僚であるにもかかわず、平蔵は上へも下へも気くばりを行きとどかせた人であった。それだけに気くばりの不得手な同僚たちからは悪くいわれた。
『よしの册子』の活字化が初めてなったのは1980年で、『鬼平犯科帳』文庫巻21に収録の篇が執筆されていたころだから、当初は池波さんはその存在を知らなかったとみていい。

 上梓されたものは読んだにちがいないが、「なんだ、おれが創造した鬼平と基本的にはたいして違わないではないか。いや、おれの鬼平のほうがもっと魅力的でさえある」 そう思われたにちがいない。だから『よしの册子』の存在には一言も触れていない。

追補…『よしの册子』での長谷川平蔵評価はますます高くなるが紙数がつきた。このあとは小生のホームページでどうぞ。


「鬼平を斬る!」記載誌


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