池波さんを誤らせた切絵図


 平蔵の足は本所へ向った。
 本所には、彼の〔青春〕がある。
 亡き父・長谷川宣雄(のぶお)にしたがい、父が京都町奉行を一年足らず
つとめたのみで病死してしまい、平蔵はすぐに江戸へもどったが、このとき、
旧長谷川邸は他の旗本が移り住んでしまっていたので、目白台(めじろだい)へ新邸をいとなみ、以来ほとんど本所へは足をふみ入れていない。(略)
 横川・入江町の鐘楼(しょうろう)前が、むかしの長谷川邸で、あたりの情景は、数年前の水害で水びたしになったと聞いたが少しも変っていない。

文庫巻1[本所・桜屋敷]p51 新装p54

 
「小説は歴史と異なっていていい」との読み手の通念をわきまえたうえで、引用文には史実と違うところが二つ、とあえていう。

その1.京都から帰府してきた平蔵が居宅としたのは目白台の新邸ではなく、赴任前に住んでいたの本所の屋敷で、父親が西町奉行として京都へ赴任中も長谷川家が保持していた家である。

その2.平蔵が育った本所の屋敷は「横川・入江町の鐘楼(しょうろう)前」ではなく、本所は本所でも南のはずれぎりぎりの南本所――都営地下鉄・新宿線の〔菊川〕駅の真上で、平蔵が身罷(みまか)ったのもここ、といまではたいていの鬼平ファンが承知している。

 右件の経緯については、前号の本稿で紹介した。
 掲げたのは、嘉永4年(1851)に板行された金吾堂近江屋版「雑司ヶ谷音羽辺図」の部分で、横長の円で囲った左側3分の2あたりの中へ、先手弓の第2、4、6組の組屋敷が入っている。いまの町名の目白台2、3丁目の南側――目白通り寄りとおもっていただこう。

描いた楕円内に三組の先手弓組の組屋敷が置かれている。

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 さて、池波さんが『大武鑑』の長谷川平蔵の記述で組屋敷の略号の△印、
 △目白台
とあるのを、私邸と早合点してそのまま押し切ったらしいことは前号で推理した。
 が、あのときには、切絵図を掲げていなかったので、弓の3組のうち長谷川組の与力同心組屋敷はどのあたりかは書かなかった。
 いや、それよりも、近江屋版のこの「雑司ヶ谷音羽辺図」は妙なのだ。近江屋版も尾張屋版も、ほかの地区の組屋敷の位置は「御先手組」と一括表記しているのもかかわらず、目白台では与力同心の氏名を屋敷割りごとに書きこんでいる。これでは、池波さんがここをお目見以上の幕臣の邸宅地域と錯覚してとうぜん。
 あ、先手組の与力は 200石を給されていても格はお目見以下なのだ。
 ほかのデータにより、先手3組の組屋敷がここにあると断じたものの、弓第2組(長谷川組)の佐嶋忠介や木村忠吾はそのうちのどのあたりに住んでいたかの探索が長年の懸案であった(佐嶋与力や忠吾同心が小説中の架空の組下であることはもちろんである)。組下与力の一人の姓名でもわかれば特定できそうだとはかんがえていた。
 ついでにいうと、尾張屋版の同地区の切絵図もここを屋敷割りに描いて各個人の氏名を刻みこんでいる。版元同士で談合したか、どちらかがどちらかを剽窃したか。
 講じている江東区砂町文化センターの自主グループ[鬼平]熱愛倶楽部の新貝氏が探してきた『千葉県史料近世編・伊能忠敬書状』で事態が一挙に解決した。伊能は日本中をまわって測量・地図をつくり、いまやウォーキング運動のシンボルとなっているご仁。
 『伊能忠敬書状』は、寛政5年(1793)8月11日付で、佐原市(千葉県)の忠敬が家業の米屋の江戸店をまかされていた娘婿・盛右衛門へあてたもの。
「昨九日、長谷川平蔵さま組の杉浦庄八さま、中山弥左衛門さま、高橋源右衛門さまが村方へお出張りになり……」質入れ盗品の吟味があった。盗賊に頼まれて質入れした男の行方がしれないので、母親と五人組に江戸へ出頭して事情聴取をうけろと申しわたされた。いずれも律義者ゆえ、内々に長谷川さまへお願いしてなるべく早く一件落着にしてもらえ、というのがそれ。
 上総(かずさ)から江戸表へ出頭するのでは片道二、三日がかりだし、公事宿(くじやど)でのかかりもたいへん。縁をたよって内々の依頼はむかしから行われていたのだ。
 平蔵との関係だが、長谷川家の 400の知行地のうち 180石余が片貝(千葉県九十九里町)にあり、盛右衛門の伯父がそこの村役人だった。
 このエピソードを紹介した数年前の朝日新聞は、杉浦、中山、高橋の3人とも同心としていたが、史料はそうは記していない。身分は不明。
 近江屋版の切絵図をあたってみた。中山姓の家は、かつては青山百人組添え地だった筑波大付属盲学校の南端からちょっと下がったところにあった。もっとも中山は中山でも弥左衛門でなく文次郎。書簡も切絵図も諱(いみな)でないので確証はないが、長谷川組の与力の屋敷はとりあえず目白台図書館(関口3−31)の前の区画としてよさそうだ。
 伊能家の懇望をうけた平蔵が吟味を早めたかどうかは記録にないが、長びく公事(くじ)で庶民の生活(たつき)にさしさわりがでることを嫌っていた平蔵のこと、懇望されなくても早めに決着をつけたはず。
 「御先手組」の大縄地と一括する代わりに与力同心の家を書き割って池波さんを誤らせた「雑司ヶ谷音羽辺図」であるが、同じ書き割って記いる切絵図がもう一枚ある。「四谷千駄ヶ谷辺図」の左門町外苑東通りぞいの一画がそう。もともと左門町という町名からして、先手鉄砲(つつ)組の頭であった諏訪左門に由来している。もっとも左門町のほうは鬼平には関係が薄いが。
 いや、そうでもないか。池波さんは目白台を鬼平の居宅としてしまったために、組屋敷をほかに求めなければならなくなった。「四谷千駄ヶ谷辺図」には「御先手組」と記したブロックが十数区域あるから、「よし。長谷川組はここの一つにしよう」と四谷坂町が選ばれ、佐嶋忠介与力や酒井同心らがここに住む羽目とった。
 四谷近辺の甲州路を守るみたいに先手組の組屋敷が多数配置されている一つの理由は、まさかのときに甲府へ落ちゆく将軍の護衛にいち早くつけるためともいわれているが、真偽のほどはしらない。もの知りの池波さんも『鬼平犯科帳』ではさすがにそのことには触れていない。



「鬼平を斬る!」記載誌


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