神社仏閣で江戸に彩りを……

川崎大師詣での帰り客をねらった大森村の農民の手づくり麦藁細工。右の棚にネズミ。


麦藁細工のネズミの拡大図。

「私のように時代小説を書いているものには、名所図 会中の一枚の絵から、一篇の小説の発想を得ることも ある」
池波さんのこの告白は、本欄にすでに引いている。
図会の絵から一篇の発想を得た――その実例を。
文庫巻11に[穴]という一篇が収録されている。雑誌『オール讀物』に『鬼平犯科帳』の連載がはじまって第73話目、熱心な読み手がついてきているのはいいが、書き手のほうはそろそろ案につまりかねない――いわゆる胸つき八丁にさしかかるころである。
池波さんが『江戸名所図会』とにらめっこする時間が長くなったろう。
たまたま開いていたのは、
「これをひさぐ家もっとも多し。(麦藁を)五彩に染 めてくさぐさの器物を製す。他邦の人求めて家土産  (いえつと)にせり」
の文が添えられた大森村の名産の麦藁細工の絵。大森は東海道に面しており、川崎の太子堂への帰路、参詣のあかしとしてこの麦藁細工がよく売れたらしい。
宝船、トラやイノシシにまざって右端下段の棚に陳列されている4匹のネズミに池波さんの目が釘づけ。
ネズミ……鼠小僧次郎吉……が、鬼平の時代の人物ではない……まてよ、『蝶の戦記』では女忍びの〔ねずみのおばば〕を登場させたが、ネズミは盗みの名人とみると、盗人の名人が自分の身代わりに麦藁製のこのネズミをのこしてくる……。
連想がここまで煮えつまると、いまは引退して扇問屋〔平野屋〕の主人におさまっているはいるが、ときとして盗みの血がさわぐ元泥棒のお頭――〔帯川〕の源助という主人公が創作される。
70歳をこえている源助は、番頭となっている〔馬伏〕の茂兵衛とともに寝所の押し入れから隣家の床下まで穴を掘っての盗みごっこに興じ、はては麦藁製のネズミと齧り痕をつけた川越のさつま芋をのこしてくることを思いつく。

(さて、今度は、どんな趣向にしようか……?)
であった。(略)
金蔵の中へ、名人盗賊である〔帯川の源助〕の腕前 を残しておかなくてはならない。
(あれにしようか、これにしようか……?)
おもい迷うのも、たのしい夜な夜なであった。
結局、これといった趣向もわかぬままに、源助は、 この春に茂平の女房とむすめをつれ、川崎大師へ参詣 に出かけた帰り途、大森村の名産・麦藁細工を買った ことをおも出した。
大中小三匹の鼠の麦藁細工である。
(旧版p122 新装版127 )

小説には「これといった趣向もわかぬままに……」とあるが、夜明け近くにこのアイデアをおもいついたときの池波さんは、膝をうち、内心で喚声をあげたにちがいない。
川崎の大師堂詣では、大山参りや三峰神社への遠出とちがい、江戸の女性の足でもちょっと無理をすればこなせたろうから、大森村の麦藁細工は買いもの好きの彼女たちが目当てだった。
そういえば『江戸名所図会』には、浅草寺(台東区浅草2丁目)奥山の房楊枝店、鬼子母神(豊島区雑司ヶ谷3丁目)境内の角兵衛獅子店、亀戸天満宮(豊島区雑司ケ谷3丁目)門前とか秋葉大権現(墨田区向島4丁目)周辺の鯉料理店などの前には、よそ行き衣装の女性たちがしっかり描かれている。
もともと江戸の繁華街は門前町が広がったものともいわれているほどで、庶民の神社仏閣めぐりは信心ごころ半分、レクリエーション半分であった。『名所図会』が 667景の半分以上を神社仏閣にあてているのも営業的なとうぜんの配慮である。
池波さんも、『鬼平犯科帳』で長谷川平蔵をはじめとして筆頭与力・佐嶋忠介、密偵のおまさや〔大滝〕の五郎蔵などをしばしば寺社へ参詣させる。
斬り合い場面の白眉、〔凄いやつ〕との決闘舞台を池上・本門寺大田区池上1丁目)の石段に設定したのもその象徴のひとつともいえる。
江戸の総面積の2割は寺社地だったのだから、同心や密偵、あるいは盗賊などの登場人物が動きを忠実に説明しようとおもうと、どうしても寺社の位置をなぞらざるをえないのである。
もちろん、史実の長谷川平蔵は信仰心の篤い人だったらしく、処刑された罪人の供養もきちんとやっていたという記録がのこっている。
参詣人をあてこんで境内や門前で営業していた茶屋や料亭も少なくなかった。市ヶ谷八幡宮では、本社殿のある高台から一段下がったところに、小説で〔万屋〕という屋号をつけられた料理店が描かれている。ここの女中がヒロインになっている話が[おみね徳次郎]だし、鬼平が密偵のおまさを招き、

「お前、先代の狐火のものとではたらいていたとき、 いまの二代目の勇五郎を抱いたな?」
すかさずにたたみこまれ、二の句がつげない。
女が男を抱いた、という〔いいまわし〕も、この場 合は適切なものといわねばなるまい。
([狐火]旧版p123 新装版p132 )

いまならセクハラさわぎになりかねないような問いつめをしたのも〔万屋〕だった。
筆頭与力・佐嶋忠介の行きつけ、〔のっぺい汁〕が名代の〔弁多津〕が・神明前に店をかまえている料亭であることはいうまでもない。
「……当社境内は築山泉水等をかまえ、草木の花、四 季を逐うて絶えず、まことに遊観の地のなり。ことに 門前には料理屋軒をならべて詣人を憩わしめ、酣哥  (かんか)の声間断なし」
([女掏摸お富]旧版p108 新装版p114 )

根津権現などの『図会』の解説文をそっくり引用して雰囲気にリアリティを盛り込むのも、池波さんの小説作法のひとつである。
で、『犯科帳』に登場している23区内と近郊の寺社を調べてみた。神社は小さな稲荷も含めて67社、寺は 208寺。寺の登場数が神社の3倍以上なのは、葬儀や周忌、開帳や法会などの宗教行事をいろいろ創案した寺側のマーケティング・センスの結果とみる。
もっとも明治政府の神社優遇により、いち早く欧米宗教界を視察、教会での結婚式をヒントに神前結婚を定着させて、神社側も明治初期にはマーケティングに目ざめはした。
架空の神社は0なのに、架空の寺が23寺なのは、寺院は庶民の金子を預かったりもして裕福とみた盗賊たちが押し入り、皆殺しにしたりするケースが多いから。江戸期、神社は寺院に別当されていて豊かでなかったか、小説では一社も襲われない。
明治からこっち、移転した神社0。寺のほうはこの10年間に移転先を探しあてえたのが21寺。区画整理、震災、戦災(空襲)などで消滅したのと行くえ不明のが全体の四分の一にあたる52寺。区役所もつかんでいないこれらの不明寺院の追跡にはあと10年間は必要。うかうか病気なんかしていられない。
いや、寺社を訪ねて、江戸の中心部から移転させられた歴史や、境内が狭くなってしまっているわけ、木造からコンクリート造りに変わってしまった姿をたしかめていると、江戸の変遷をまのあたりにみるようで、『鬼平犯科帳』が単なる面白小説にとどまらず、江戸学の一テキストに昇華するから妙だ。



「鬼平を斬る!」記載誌


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