御輿は〔五鉄〕の前をすぎて……

 『鬼平犯科帳』の文庫24冊に収録されているのは、長編を1話にまとめて勘定すると135話。
 22年におよぶ池波さんの仕事である。書きも書いたりだが、着想の源もあるていどは推察がつく。
 その一つがすでにご紹介した『江戸買物独案内』。もう一つが『江戸名所図会(ずえ)』だ。『…図会』のことは池波さん自身がエッセイで告白している。
 「私のように時代小説を書いているも のには、名所図会中の一枚の絵から、 一篇の小説の発想を得ることもある。  見るといえば、この『江戸名所図会』 ほど頻繁(ひんぱん)に見る書物は他 にない。
  見るたびに新しい発見をするし、毎 日の仕事のためにも、一日に一度は、 ひらいて見る」
 たとえば「寒月六間堀」。愛読者によるベスト10選びではかならず上位にランクされる仇討ちものの好篇である。南本所・弥勒寺(墨田区立川1―4―13)門前、お熊ばあさんの茶店〔笹や〕の床机(しょうぎ)に座っていて、二ッ目の通り(現在の清澄通り)の南を見やり、弥勒寺橋のたもとにいた老武士に目をとめたことから、鬼平が事件にかかわることになる。
 そもそもお熊の茶店〔笹や〕が設定されたのも、『…図会』の絵「本所・弥勒寺」の門前、道をへだた竹組みの庇の店に池波さんが気づいたことによる。絵には南隣を植木屋と注記してある(小説では〔植半〕)。
 絵の右端に、六間堀に架かった弥勒寺橋も姿を見せている。〔笹や〕から橋までの距離はほぼ300メートル。現地に立って弥勒寺橋を見やると、視力2.0を誇る筆者にして人の顔はさだかではない。鬼平はずいぶんと遠目がきいたようだ。
 この物語で鬼平が助太刀をすることになるのは、じつは息子の無念をはらすためのものだから正規の仇討ちとして公認されていたものではない。敵(かたき)はいまは、護衛の浪人を四人もつけるほどに羽ぶりのよい金貸しになっている。 老武士からいきさつを聞きとった鬼平はその敵を、まず茶店〔笹や〕のはす向かい――林町1丁目の角の小浜(おはま)某という旗本屋敷の塀の陰から観察する。 小浜某は、池波さんが愛用していた切絵図――嘉永4年(1851)板行の近江屋金吾堂版には小浜建次郎の名で載ってい、また安政2年(1854)の尾張屋版は小浜弾正の名を刻んでいる。
 つまり実在の旗本ではあるが、じつは小浜家が林町へ越してきたのは天保13年(1842)だった。「…六間堀」は寛政5年(1793)の事件だから50年ほどものへだたりがあり、2,300余坪のこの屋敷には小説の時代は別の旗本が先住していた。
 小浜家はもともとは紀州・小浜(三重県鳥羽市小浜町)を領しており、徳川家へ6千石でかかえられたが、天保の末ごろに不始末があって4千石に減知され、八丁堀の本宅と四ッ目の別荘を処分し、林町の邸宅を購入している。
 まあ、鬼平が身を隠したのが小浜邸の塀であろうと、大浜家のであろうと小説の醍醐味にはいささかも変わりはない。 が、じつは問題がもう一つあるのだ。『…図会』に、「亀戸(かめいど)天満宮祭礼神輿(みこし)渡御行列の図」と題し2丁(4ページ)つづきの絵がある。たいていの解説書が、御輿が渡っているのは横十間川にかかる天神橋としているようだが、これが早合点。立てられている2本の奉納のぼりには「本所林町氏子中」「本所二ッ目氏子中」と書かれている。つまり、川は竪川、かかっているのは二ッ目の橋なのだ。
 とすると、左上、行列が練っている長屋窓のついた武家屋敷は小浜邸であり、鬼平が身を隠したという塀はない。
 さらにいうと、鬼平が連絡場所としてしょっちゅう利用していた軍鶏なべ屋〔五鉄〕は二ッ目橋の北東詰だから、最初の画面の中央右下の低い柵がまわっていて、町内の世話役たちが立ち寄っている自身番ふうの小屋となるが、なにがなんでもこれでは貧弱すぎるから、屋根の端っこが見えている家ということにしておこうか。
 いや、池波さんもこの「神輿渡御」の絵が二ッ目の橋とはお気づきにならなかったのだろう。
 ちなみに「寒月六間堀」に関係のある『…図会』の絵は「薬研(やげん)堀」「両国橋」「一ッ目弁財天」など計八景で、10数景にもおよぶ篇もあるからこれは多いほうではない。
 『鬼平犯科帳』も『…図会』と照らしあわせながら読むと意外な発見があるし深読みもできて楽しさが倍加する。そこで講じている文化センターの〔鬼平〕クラスでは受講者に該当する場面の『…図会』の絵を彩色してもらい、観察をより精密にするように奨励。彩色は塗り絵と呼び、当事者には〔塗り絵師〕の称号をあたえて、かつ。塗り絵はホームページに掲出している。

亀戸(かめいど)天満宮祭礼神輿(みこし)渡御行列の図[江戸名所図会]

「鬼平を斬る!」記載誌


@  A  B  C  D  E
F  G  H  I  J  K

(c)copyright:2000 T.Nishio All Rights Reserved.