押し込み前逮捕がつづくと……

 『鬼平犯科帳』を書きすすめるにあたり、池波さんが文政7年(1824)に板行された『江戸買物独案内』を手放さなかったことは、登場する被害店を同書で検証してみるとよくわかる。
 鬼平こと長谷川平蔵の生い立ちが語られる第二話「本所・桜屋敷」で、平蔵と剣友・岸井左馬之助のかつてのマドンナおふさが押し込み先ときめていた日本橋本町(ほんちょう)の呉服問屋〔近江屋〕も、『独案内』から借りられている。
 もっとも、血をみることもいとわぬ急ぎばたらきで一家皆殺しとなると、子孫から苦情が来ないともかぎらない、で、町名をずらすとか屋号の〔近江屋〕はそのままで下の名前の清右衛門を金兵衛に変えるなどの気づかいがされている。
「一家皆殺しだと、子孫はいないはずでは?」
 うーん、嫁に行っていて助かったむすめとか親類縁者の2,3三軒はあるかもしれないではないですか。
(ついでだから記しておくと、池波流の書き方は娘でなく「むすめ」。良い女なんかいるはずがない、って心づもりではないとおもうけど)。
 『…独案内』は、江戸の表通りのにぎわいや食べ物屋から流れてくる香ばしい匂いにまで連想がおよび、めくっているだけでもたのしい問屋・飲食店のデータブックだが板行までに10年を要した。 業界の意思をまとめるためとの大義名分をふりかざした大店の店主たちは、毎月のように嬉々として料理屋へ寄ったらしい。その飲食費たるや『…独案内』への広告料の何十倍にも達したはず。
 「うちは広告などしなくても有名」とわずかの広告料をケチった老舗も相当数あった。たしかに有名だったろうがいまとなってはその店名すら『…独案内』で確かめられない。
 なに、いいたかったのは、データベースづくりは手間とカネと根気が必要ということ。
 池波さんの性癖というか、『鬼平犯科帳』の持つリアリティというか、『…独案内』からふんだんに引用されている江戸の問屋の業種と屋号により、読み手のぼくたちは鬼平や密偵たちと連れだって江戸の町々を歩いている気分にひたることができる。
 前回の約束の、地方店の系列化に売薬をつかった呉服店のことを書いておく。 十数年前、戦時中の統制で江戸時代からつづいていた呉服店を廃業した栃木の0氏から、「古い記録などを整理したら同じ売薬の袋がたくさん出てきたが、これは?」との問い合わせがあった。調べると、0店の先祖の仕入れ先であった大伝馬町の木綿問屋が一手に扱っていた売薬で、反物に添えて送りつけていたものとわかった。つまり、江戸で評判をとっているその薬を継続して欲しかったらその問屋から反物を仕入れるしかないというわけだ。
 図版は、啖切り薬〔ウルユス〕を扱っていた大伝馬町三丁目の呉服屋〔大黒屋〕儀助方の広告である。ウルユスは「空」という漢字を開いた「のどを空(から)にす」とのネーミングで、蘭法にあやかっただけのことかもしれない。
 史実を一つ。長谷川平蔵が任じられた火盗改メの長官という職は、30数組あった先手組の組頭が兼任するきまり。平蔵はその中の弓の第2組の組頭だった。この組は、平蔵着任の前の50年間に火盗改メを断続的に通算で144か月もつとめ、表1のごとく最多の経験を誇っていた。

表1 火盗改メ経験月数の上位10組
火盗改メの組頭(人)
通算月数(月)
弓2組
10
144
筒11組
104
弓5組
92
弓8組
64
筒10組
60
弓7組
54
弓1組
53
筒12組
30
筒2組
28
筒4組
28


 世相は騒乱気味だったから、最強の組へ火盗改メふくみで最強の長をあてたわけである。これで実績があがらなかったらどうかしている。
 そう、池波さんは、鬼平に期待どおりの成績(?)をあげさせた。
 文庫で24冊ある『鬼平犯科帳』は、前期と後期にわけられる。区切りは史実の平蔵が逝った寛政7年(1795)5月。文庫の巻数でいうと13巻から以降は死後の平蔵が事件を解決したといえる(冗談!)。
 火盗改メの実績には、既遂の盗賊団を逮捕するのと、押し込み前に一網打尽にしてしまうのとのの2通りがある。良策はもちろん後者。で、『…犯科帳』の既遂・未遂件数の前期と後期とでは、

表2 既遂・未遂リスト
既遂(軒)
未遂(軒)
計(軒)
前期(〜12巻)
42
10
52
後期(13巻〜)
16
35
51


 コソ泥も一家惨殺もおしなべて一件としていることを念頭においたとしても、ことは深刻だ。
 鬼平や組の与力同心、密偵たちの活躍はたしかにすばらしいし、畜生ばたらきを礼賛するわけでもないが、こう、未遂での逮捕が多いとハラハラドキドキの度合いが薄まる、というと、いや、読み手は鬼平の勘ばたらきのすばらしさに酔っているのだ……と反発されそうだ。
 が、未遂がつづきすぎると、物語が単調になりかねない。そこのところをどう解決しているか、池波さんのストーリーづくりのお手並み拝見と出てみるのも、鬼平ファンとして初級から一歩すすんだ読み方といえよう。



「鬼平を斬る!」記載誌


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