盟友・岸井左馬之助(その2)
「銕(てつ)っあん。きょうは、稽古をさぼったな」
銕三郎(てつさぶろう 20歳)が、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)を紹介し終わると、すぐに岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)がなじった。
「うん。旅立ちの母上を永代橋西詰まで見送ったあと、権七どのと、いま話した火盗改メの密偵のことで、番町まで行っていたのでな」
「お母上が旅立ちとは---上総(かずさ 千葉県)へのお里帰りなら、永代橋は方角ちがいだな。して、いず゛こへの旅だ?」
「方角ちがいだということが、左馬さんにしては、よく気がついたな」
「それぐらいのこととは、おれにだって推察がつくさ。で、いずこへ? いや、何日間の旅だ?」
「ははは。権七どの。お聞きのとおりです、左馬が気にしているのは、母上が留守だと、訪ねてきても、ご馳走にありつけないからなのですよ。左馬ときたら、家庭料理に飢えているのです」
「あたりまえだ。この寺で出してくれるのは精進料理ばかりだ。育ちざかりの若い者には、ちと、ものたりぬ。どうだ、精をつけるために、これから、ニッ目之橋詰の〔五鉄〕へ行って、しゃも鍋でも囲まないか?」
「いいな。あそこなら、付けがきく。権七どの。しゃも鍋をやったことがありますか?」
「いえ。鳥鍋なら---」
「たいして変わらないが、まあ、しゃものほうが肉がしまっていて、脂がのっておりますかな。ま、ものは試しです。職就(しょくつ)きの祝いといきましょう」
〔五鉄〕の暖簾をくぐると、出汁(だし)の煮える匂いが鼻をつく。
銕三郎は、亭主・伝兵衛(40歳)へ目で合図をして、入れ込みにあがった。
(〔五鉄〕1階の見取り図 絵師:建築家・知久秀章)
まるで待っていたように、息子・三次郎(15歳)が、燗酒の入ったちろりとつき出しを左馬之助と権七のあいだに、銕三郎の前にはお茶を置いた。
「三(さぶ)どの。覚えてくれたね。こちらは、〔風速〕の権七どのだ」
「箱根の雲助の権七といいます。こんごとも、よろしゅうに」
三次郎が尊敬のまなざしで権七をみつめる。
「雲助だなんて卑下なさっているが、あのあたりではお頭(かしら)で通っていたお方です」
「長谷川さま。売りこみが過ぎまさぁ」
つき出しのしゃもの肝の醤油炒めを口にした権七が、歎声をあげた。
「こいつぁ、たまらなくうめえや。酒がすすみそうだ」
三次郎がうれしそうに、も一つ、酌をして引き下がる。
そのきわに、銕三郎がささやいた。
「三どの。あとで手がすいたら、話があります」
左馬之助が権七へ解説したところによると、両国橋東詰には鶏市場があるため、元町から回向院の門前町へかけて、鳥鍋屋やしゃも鍋屋が多いのだと。中でも〔五鉄〕は、亭主の伝兵衛が出汁にする味噌の配合に工夫を凝らしているので、このあたりではもっとも美味と。
「ところで、権七どの。さきほどお聞きした、関所抜けの3人組のことですが、どういう経緯(ゆくたて)で、話しが持ちこまれたのですか?」
銕三郎が、声をひそめて訊く。
「へえ。仙次の奴が---」
「仙次というのは、薬舗〔ういろう〕の猫道を調べてくださった若い衆ですね?」
【ちゅうすけ注】仙次のことは、2008年1月30日[与誌を迎えに] (38)
「あいつでやす。賭場で彦ってのに声をかけられたんだそうで---。それで、話しをつないできて---」
「仙次どのが箱根山路の荷運び人だということは、賭場ではみんな知っていたんですね」
「へえ」
興味津々とぃった感じで耳をそば立てていた左馬が、口をはさむ。
「賭場は、小田原城下かな?」
「おや。左馬さんは、小田原の城下町がわかるの?」
「10日ばかり滞在したことがあってな」
ゆっくりした口調で枝道にそれがちの左馬之助の話を手っとり早くまとめると、彼が高杉道場に入門した2年目---すなわち一昨年の宝暦13年(1963)夏、小田原から修行に来ていた稽古仲間の鳥飼喜十郎の父親が危篤ということで、道場を引きつぐために帰郷するにあたり、高杉先生の見舞金をことずかって、いっしょに旅をし、葬儀までつきあったのだという。
【ちゅうすけ注】剣友・鳥飼喜十郎のことは、28年後の物語---『鬼平犯科帳』文庫巻7[雨乞い右衛門]に書かれている。
鳥飼道場は唐人町の近くの宝安寺の脇にあった。
「唐人町という町名が珍しかったので覚えておる」
権七が受けて、
「賭場は、宝安寺から1丁ほど東にあたる観音堂の庫裡だったそうです」
「その観音堂は、知らんな」
「左馬さんは知らなくてもいい。それで、権七どのがその3人組を、裏道から関所抜けさせたことが、なぜ、小田原藩に洩れたのですか? まさか、仙次どのが?」
「いえ。投げ文があったそうで---」
「投げ文?」
そのとき、店の小女が火桶としゃも鍋をしつらえにきたので、話しは中断された。
(「五鉄」のしゃも鍋の材料)
たがいに酌をしあう。
お茶を先に干した銕三郎も、ぐい呑みに受けた。2年前、芦ノ湯の湯治宿〔めうが屋〕の離れでは、唇をしめらす程度だったのにくらべると、これでも手があがったほうである。
「関所抜けの前の数日のあいだに、城下で盗人に入られたという店はありませんでしたか?」
「聞いてはおりやせん---」
「おかしいな」
「なにがです?」
「まさか---?」
「まさか---?」
「2年前の、薬舗〔ういろう〕で盗んだ金を運びだしたとも---」
「いえ。あの連中の荷は、あっしが担ぎましたが、何百両もの金が入っている重さではありやせんでした」
「駿府ご城代からの首尾を待つしかありませんが、どうも、身重の女というのが気になります」
左馬之助が察した。
「そうか。ややと見せかけて、小判で腹をふくらませたか!」
「左馬。声が大きすぎる!」
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