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2012年2月の記事

2012.02.29

天明5年(1785)12月の平蔵(5)

見苦しい悪あがきをしておる---と元宿老・本多伯耆守正珍(まさよし 76歳)に揶揄された本多兵庫頭注央(ただなか)は、4歳で遺領・三河國挙母藩(1万石)を継いだ。

寛保7年(1722)12月18日従五位下兵庫頭に叙任(15歳)。                                寛保2年(1742)6月11日大番の頭(37歳)
寛延2年(1749)2月6日挙母をあらためて遠江國相良(さがら)に転ず(47歳)。
同年7月23日奏者番となり寺社の奉行をかねる。
同年8月23日長門守にあらためる。
宝暦8年(1758)3月28日西城の若年寄となり、
9月14日御旨ありて職を奪われ、出仕をとどめらる。

二十七日金森兵部頼錦(よりかね 51歳 郡上藩主 3万9000石 奏者番)が所領の農民等訟のことにより、御不審を蒙り、仮に内藤紀伊守信興(のぶおき  歳 棚倉藩主 5万石 )にあづけられ、十月二十五日忠央初めより訴訟の旨趣をきき、勘定奉行大橋近江某に談合せし事どもうちうちたづねらるるといえども、其ことなきよしを陳じ、或近江より御代官青木次郎九郎安清にたのみて其ことをはからはせしに至ることまで、忠央あづかりしりながら、農民等公訴にをよび、評議の席にをいて其ことを告ず、剰(あまつさえ)さきに再応たづねらるともつつみて言上せず、いまさら決断所にをいて糾問あるにおよび、はじめておもい出せしよしを申すの条、重職に似合ず曲事なりとて所領を没収し松平越後守長孝(ながたか 作州·津山藩主 5万石)にながくめしあづけらる。

明和五年正月十九日赦免をかうぶり戸にいたりて本多弾正大弼忠籌(ただかず 47歳 泉藩主 1万5000石)が許にうつる。(以上 『寛政譜』より)

この年――つまり天明5年(1785)だが、本多忠央は78歳になっていた。


strong>忠央が不誠実な言動をとったために本多一門は事件以後、要職から遠ざかっているという縁者もいないではなかった。
忠央にたいして忠籌がどうおもっていたかはわからないが、預かったのだから悪くはうけとめてはいなかったろう。
忠央とすれば、恨むべきは、そのような裁決をくだすように導いた田沼意次こそ指弾されるべきだとの思いであっろう。

(田沼憎しの急先鋒の松平定信侯が弾正大弼忠籌どのと親しくなっているのに乗じ、汚名をそそごうとの老いの一徹でもあったろう。
定信が主催する譜代大名衆のまりにはつとめて顔をだし、意次憎しをぶった。

参照】2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の研究] () (
2007年8月16日[田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入
2007年8月17日~[徳川将軍政治権力の研究] () () () () () (
2007年8月24日[老中たち] 
2007年8月17日~[徳川将軍政治権力の研究] () (10

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2012.02.28

天明5年(1785)12月の平蔵(4)

井伊侯つながりで、つい、松代行きを承知してしまったが、真田侯が大藩・彦根(35万石)の井伊直幸(なおひで)侯とのご縁を介して白河侯定信)と親しくなるということだと、4年前の与板行きの思い出も見なおしが迫られているのかもしれないな)

参照】2011年3月4日~[与板への旅] () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2012/02/post-5e5b.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2012/02/post-d3dd.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2012/02/post-3f05.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2012/02/post-3f05.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2012/02/post-be49.html)

(strong>平蔵(へいぞう 40歳)が「つながり」といっている井伊侯は、直属の上司で西丸の若年寄・井伊兵部大輔(たいゆう)直朗(なおあきら 39歳 越後・与板藩主 2万石)であった。
内室は老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 67歳 相良藩主 5万7000石)の四女。

四女の母は『寛政譜』に「某女」と記されているから、むろん正室ではなく、武家のむすめでもない。
召使いか町人のむすめであったろう。

もっとも、この「某女」に二男二女を授けているから、かなり長く愛妾の地位になっていたと推察できる。
その名もまだ調べていない。

井伊・与板藩主に嫁いだ意次の四女は、一男一女を産んだが、どちらも幼くして逝ったようだ。

一男一女を産ませたのち、直朗は四男三女をなしているが、いずれも側妻(そばめ)によっていた。
意次の四女がみまかったからかどうかは、まだ調べがついていない。

この稿も病棟の個室でしたためてい、身は禁足だし、資料も手元にないから墓所・徳雲寺(文京区小日向)に確かめることもできない。


旬日おき、平蔵は新橋・双葉町の本多正珍(まさよし 76歳 駿河・田中藩の元藩主 4万石)を訪(おとな)った。

正珍は37歳という若さで老中の座をえたほどの俊才であったが、ある事件にかかわり老中を罷免、隠居を余儀なくされてから30年近い歳月が流れいた。
きょう、こうして会ってみると、脂っけが消えた好々爺となっていた。
政治的な野心を放擲(ほうてき)しているように見えた。

忠珍が老中職を棒にふった事件とは、美濃・(郡上)八幡藩の百姓一揆の幕府方の処理に関することでの手抜かりであった。

参照】2007年5月15日~[本多伯耆守正珍の蹉跌] (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/05/post_5f09.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/05/post_1ba9.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/05/post_1ba9.html) (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/05/post_7d69.html)

歯抜け声でなにごとかもらし、苦っぽく笑った。
先刻、ぬけぬけと、
「湯たんぽ代わりでな」
と譬えた侍女・於悠(ゆう 21歳)が補った。

兵庫(ひょうご)奴(め)の見苦しい悪あがきようよ---と仰せでございます」
は美形とはいえないが、そこにいるだけで健やかさを男に感じさせた。 

兵庫は、美濃・(郡上)八幡藩の百姓一揆の扱いで、正珍とともに遠州・相良藩主(1万石)を改易された本多長門守忠央(ただなか 51歳=当時 宝暦8年 1758000石)の受爵前の(いみな)であった。

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2012.02.27

天明5年(1785)12月の平蔵(3)

「そういえば(へい)さん。松代へ出張ったそうだな」
さりげなく、浅井大学長貞(ながさだ 39歳 500石)が話題を転じた。

「そうだ。持参しているのを忘れていた。松代でできている杏(あんず)酒だ。土産のつもりだ。数がないので佐左(さざ)には内緒にしておいてくれ」
平蔵(へいぞう 40歳)が持参していた小徳利をわたしたが、大学は話題にこだわった。

佐左とは、もう一人の盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 40歳 600俵)のことで、西丸の書院番の第3の組にいる。
きょうの話題にはふさわしくないと断じた平蔵がわざと声をかけなかった。

「用件は---?」
「城下を襲った盗賊のことであった」
「用は足りたのか---?」

「足りたからこそ、こうして戻ってきておる」
「ご当代に拝謁したか?}
{なにをいう。幸弘(ゆきひろ )はご在府年であろうが。お会いする道理がない」

「いや。出張る前とか帰府後のことだ」
「呼ばれていない」
「そうか。よかったかもしれないな」
「-------?」

大学によると、幸弘の名君ぶりに目をつけた松平越前守定信(さだのぶ 28歳 白河藩主 10万石)が、政情一新の一統へ招いているという。
「いや。年長だし、越中)どのから学ぶことは少なかろうと、態度を保留されているらしいが---」
「それに、松代藩はご譜代ではない」
「しかし、葵紋の大黒柱の井伊家からご養子をおむかえになった」

井伊掃部頭(かもんのかみ)直幸(なおひで 57歳 彦根藩主 35万石)の四男・順介(じゅんすけ 16歳)が松代藩の幸弘の養子に迎えられたのは先月(11月の14日であった。

真田幸弘には2女しかいず---ということは身もかなり節していたといえようか。
その長女が順介あらため幸専(ゆきたか)の内室に定められた。

平蔵は、松代の町奉行・薄田(すすきだ)彦十郎(ひこじゅうろう 52歳)が、緊張を巧みにほぐしたあとで、なに気なくの風情で、
長谷川うじは、ご執政(老中)の田沼主殿頭意次 おきつぐ 67歳 相良藩主)侯におちかづきがおありとか---」
訊いてきたことを思い出した。

参照】2012年2月11日[松代への旅] (23

そのあと、薄田町奉行の、
「ご譜代のお大名衆の中には面従腹背のお方もおありでしょうなあ」

それらは、松平定信のもとに集結しつつあるといわれている、

本多弾正少弼忠籌(ただかず 47歳 泉藩主 2万石)
本多肥後守忠可(ただよし 44歳 山崎藩主 1万石)
戸田采女正氏教(うじのり 32歳 大垣藩主 10万石)
松平(大河内)伊豆守信明(のぶあきら 26歳 吉田藩主 7万石)
加納備中守久周(ひさのり 33歳 八田藩主 1石3000石)
牧野備前守忠精(ただきよ 26歳 長岡藩主 7万4000石)

この人たちのことを暗にいったのではあるまいか。

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2012.02.26

天明5年(1785)12月の平蔵(2)

白河藩主の松平(久松)越中守定信(さだのぶ 28歳)が念願の溜間(たまりのま)詰めをかちとったということを耳にしたとき、平蔵(へいぞう 40歳)はえもいわれない不安にとらわれた。

たとえは悪いが、うすら寒い暗闇のなかを手さぐりで歩いていて、深い穴におちる心配をしつづけていなければならないような不気味さと似ていた。

「よろしいのですか、相良侯?」
こう問いかけたみたかったが、定信の溜間詰めの決議には、老中としての田沼主殿頭意次(おきつぐ 67歳)が署名しているはずである。
主殿頭に問いかけるわけにはいかない。

なんでも相談できた佐野豊前守政親(まさちか 51歳 2000石)派は大坂の西町奉行としていったきりである。

こういうときに指針をくれる(にえ) 越前守正寿(まさとし 40歳)は町奉行として堺で善政を行っていた。

頼りになる建部(たけべ)大和守広殷(ひろかず 58歳 1000石)は禁裏付だ。

白河侯の隠密がわれの身辺をさぐってい、両手両足をもぐようにしているのではないか)
平蔵は苦笑した。
たとえ、身辺をさぐられていても、白河侯は一親藩の領主にすぎず、幕府の高官の人事に容喙できるはずがない。

できるとすると---
一橋民部卿治済(はるさだ 36歳)。

ここへきて、平蔵里貴(りき 逝年40歳)を失ったことの大きさをおもいしり、呆然となった。

里貴が一橋南詰の茶寮〔貴志〕をいまなおつづけておれば、それなりの風聞が流れてきたはずだ。
(逝者の齢をかぞえてどうする?)

平蔵は同朋(どうぼう 茶坊主)に封書をもたせて本丸の小姓組6の組の番士・浅野大学長貞(ながさだ 39歳 500石)のもとへやり、厳封した返事をもらってこさせた。

浅野家は、赤穂の内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり 切腹35歳)から分家した弟が起家しており、長貞は4代目であった。
平蔵長貞は初見が同じで、以来、盟友として交際していた。

飯田町の中坂下の料亭〔美濃屋〕でおちあった。

亭主の源右衛門が2人に酌をしてそうそうに退(さ)がると、
「大(だい)。本城では白河侯の溜間詰めをどうみておる?」
「どうみておるもなにも、あれは先代・定邦(さだくに 60歳)侯のときからの念願の殿席だよ」
「しかし、定邦侯のときにはお許しがでなかった---」
「同じ久松松平といっても、伊予松山藩は15万石で久松家の本筋の家柄---

ーーーその伊予松山へ、田安家から定信侯の実兄・定国さまが養子にはいられ、溜間詰めとなられた。これを定信侯としては黙視できなかったのであろう」

「いや、兄弟競いあいは馴れあい芝居かもしれない」
「しかし、定国さまは白河侯のことを精子惜しみ---と笑っておられるそうな」

「精子惜しみ---?」
「定信侯はおんなお抱きになってもお子ができるころあいしか射精なさらないないらしい。引きかえ、定国さまは、双方がまぐわうためのものだとおっしゃっておる」
「そのことでは、われは定国侯側につく---」
「は、ははは。政事と性事をいっしょにしてはいかん」

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2012.02.25

天明5年(1785)12月の平蔵

今年(平成24年1月1日)の当ブログ[『鬼平犯科帳Who's Who]は[「朝会の謎]から始めた。
ご記憶であろう。
はっきりさせる一助として、下記にリンク先をあげておく---と記したが、あれから病院がよいにかまけ、事態は1歩もすすんでいない、慙愧。

参照】2012年1月1日~[「朝会」の謎] () () () () () () (

この半年間に松平定信(さだのぶ 28歳)は派閥がためと幕閣、とりわけ実力者の田沼主殿頭意次への工作に専念していたらしい。

工作の目標は、白河藩主としては帝鑑間(ていかんのま)であった柳営での殿席を、溜間(たまりのjま)詰めへあげてもらうものであった。

溜間詰めの大名へは、将軍が政務についての助言を求める。
つまり、政権へもっとも近い謁見の間といえようか。
もっとも、この部屋詰めを許されていたのは、

松平讃岐守頼起(よりおき 40歳 高松 12万石)
松平肥後守容頌(よりのぶ 44歳 会津 23万石)
井伊掃部頭直幸(なおひで 57歳 彦根 35万石)
酒井雅楽頭忠以(ただざね 31歳 姫路 15万石)
松平隠岐守定国(さだくに 29歳 松山 15万石)

とくに、酒井雅楽頭忠以は、田沼意次(おきつぐ 67歳 老中)の思惑により、この天明5年の4月11日に溜間詰めとなったばかりであったから、溜間に執念をもやしていた定信は、この工作のために特命していた定府用人・水野清左衛門を督励し、姫路藩につけとどけの詳細をうかがわせたろう。

奸佞(かんねい)の政治家ときめつけ、2度ほども刺殺しようとおもったこともある田沼の面会日に、定信は贈りものを携えて通ったという。

この主義もかなぐりすてた、なりふりかまわない行動は、権力にあこがれる政治屋のものであろう。

一方では、実家・田安の嫡母である田安宗武(むねたけ 享年57歳=明和8年)の未亡人の宝蓮院までうごかして工作を実らせた。

天明5年12月朔日の『実紀』----
 
 松平越中守定信、これより後、出仕の時は溜間(たまりのま)に候し、
 月次は白木書院、五節には黒木書院にいでて拝賀すべしと命ぜらる。
 これ宝蓮院尼申請はるるによれり。
 さればその家の例とはなすまじと仰下されぬ。

とりあえず、一代かぎりの溜間詰めを射止めた。

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2012.02.24

〔夜鴉(よがらす)〕の仙之助

鬼平犯科帳』文庫巻23[炎の色]で、おまさを夢の中で苦しめる夜鴉(よがらす)の正体---〔夜鴉〕の仙之助は、流れづとめであった20歳前後のおまさが、〔荒神(こうじん)〕の助太郎の下で名古屋で連絡(つなぎ)役をしていた時に、しびれ薬をいれた酒で身体の自由をうばったうえで犯した男。
おまさファンにとっては許せない男の一人。
〔荒神〕の助太郎が歿した祥月命日の(陰暦)7月10日に、2代目〔荒神〕のお夏(なつ)をもりたてる集まりでおまさは仙之助に再会するが、現実の夜鴉の鳴き声は、その前兆であった。
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年齢・容姿:いわゆる白子というのであろうか、色素の薄い、それこそ気味が悪いほど白い顔。唇まで白く、梅雨どきの床下からただよってくる湿った瘴気(しょうき)のような体臭の持ち主。中年。
生国:名古屋か。その城下で役者をしていた。厚い白粉と紅化粧で白子の顔を隠してたのであろう。

結末:2代目〔荒神〕のお夏の一統が〔峰山(みねやま)の初蔵(はつぞう)一味と組み、箱崎町の醤油問屋〔野田屋〕卯兵衛を襲ったときに捕らえられた。

つぶやき:f長谷川組のはげしい拷問にも口をわらなかったとあるから、盗賊としては根性のあるほうであろう。
池波さんは、名古屋の三園座kの公演の演出によくでかけたらしいが、印象があまりよくなかったか、[妖盗葵b小僧]の芳之助にしても色好みが強すぎるというか、色情の発露が尋常ではない。もちろう、性格がくずれた男にはよくある例だが、犯される女性のほうはたまったものではない。こころの傷は一生ものであろう。
ゆえに、読み手はこの種のキャラを平蔵とともに許さないが、その実、いつか仙之助のようなレイプをするのではなかろうかと自分の性欲の深淵さにおどろきもする。

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2012.02.23

〔荒神(こうじん)〕の助太郎の死

(これほどまでに公私の別をはっきりなさるご仁だったとは---)
屋敷あてに届いていた京都の禁裏付・建部(たけべ)大和守広殷 (ひろかず 58歳 1000石)からの飛脚便を開披しながらの平蔵(へいぞう 40歳)の感想であった。

上(かみ)の禁裏付として赴任する建部大和守に、京都に本拠をおいていた盗賊の首領・〔荒神こうじん)〕の助太郎の消息がお耳にはいったらご一報いただければ幸いと依頼しておいた。

参照】2011年11月17日~[建部甚右衛門、禁裏付に] () () (
2011年12月21日~[建部大和守広殷を(見送る)] 

おもいかえすと、〔荒神〕の助太郎という盗賊が平蔵の人生になにかとかかわってくるようになったのは、銕三郎(てつさぶろう)を名のっていた14歳のときからのことであった。

参照】2007年7月14日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] () () 

この旅で銕三郎は、自分の青春でもっとも印象深い体験をした。
40歳で4児の父となっているいまおもい返しても、甘ずっぱい快感が胸と股間をはしる。
男といものの甘っちょろい感傷としかいいようがないが、すべての男が経験できる甘美ではない。
もしかすると、万に一つの幸運を引きあてたのかもしれないと、いまはおもう。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ

その後、助太郎の姿を見かけたのは、小田原城下のういろうの店の前での1回こっきりだが、かの盗賊の所業は、平蔵の人生にからんできていた。

助太郎の仕事(つとめ)の探索で掛川城下へおもむき、お(りょう 30歳=当時)と再会、相良までの短い旅をともにしたが、こころはともかく、躰の結びあいは、その旅が最後となった。

参照】2009年1月24日[銕三郎、掛川で] (

建部大和守の書簡によると、京都西町奉行所の与力・浦部源六郎(げんろくろう 60がらみ)を一夕、相国寺門前町の上の役宅に招き、平蔵の話に興じ、話のついでに〔荒神〕の助太郎のことを持ちだしてみたところ、役所の記録をしらべてくれ、助太郎の病死によって〔荒神〕一統が解散、その残党をまとめていた近江・大津在生まれの〔穴太(あのう)の幾次(いくじ 55歳)の留め書きの写しがとどけられたという。

写しには、助太郎の連れあい・お賀茂(かも 50代半ば)と独りむすめのおは、助太郎の死とともにいずこともなく去ったとあった。

ついでのことに付記しておくと、16歳で父・忠助ちゅうすけ)を失ったおまさは、いったん〔乙畑おつばた)〕の源八(げんぱち)の配下にいたが、18歳のころに〔荒神〕の助太郎のところへ移り、名護屋で仕事中に仲間の〔夜鴉(よがらす)〕の仙之助(せんじろう)にレイプされたことは、平蔵は知らない。

参照】2005年3月3日[おまさの年譜

助太郎の死をしらされた平蔵が、生涯のライバル---というか仮想の敵将を失ったような、軽い虚脱感をおぼえたのも事実であった。
(この事実を、知行地の寺崎村で竹節人参づくりをしている太作(たさく 70すぎ)爺ィやにだけは知らせてやらないとな)

そうだ、建部大和守の追って書きも加えておくことで、平蔵の追悼の気持ちを代弁しておこう。

穴太幾次が処刑の前に与力の一人にしみじみとした口調で洩らしたそうな。
「〔荒神〕のお頭は、
一、盗まれて難儀(なんぎ)するものには、手をださぬこと。
一、盗めをするとき、人を殺傷せぬこと。
一、女を手ごめにせぬこと。
金科玉条としてお守りになったよって、畳の上で姐(あね)はんやお夏(なつ)はんに看取られて大往生なさんしたに、わては手下のしめつけを手ぬかったがために打ち首になるいうのんも、頭としてのこころがけの差でおますわなあ」

参照】『鬼平犯科帳』文庫巻23[炎の色]p74 新装版p

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2012.02.22

ちゅうすけのひとり言(86)

田沼意次(68歳)の重商派政権を、策謀をもって倒した旧守農本派グループは、白川藩主・松平定信(30歳)を老中首座にすえ、組閣した。
そのとき、幼な学友・水野為長が徒目付、小人目付などに所属している下級隠密を、柳営内はもとより江戸および近郊のあちこちに放って噂ばなしをあつめた報告書が『よしの冊子(ぞうし)』である。

松平家に永く秘匿されていたらしいが、同家が白川藩から伊勢・桑名藩へ転封(文政6年 1823)になったとき、田内親輔(月堂)が発見・抄録し、各項が、「---なんとかのよし」でむすばれていたことから「よしの冊子」と名づけられたという。

報告書の内容は、最終の読み手である定信におもねる気配が濃厚で、田沼派と目されている人物には故意に点が辛く書かれている。

その扱いうけた一人が長谷川平蔵であることはいうまでもない。

参照】1909念8月16日~[現代語訳『よしの冊子』まとめ] () () () () () (6

報告書が呈上されはじめた天明7年(1787)6月19日から3年目の寛政元年あたりまではその匂いが濃く、定信平蔵観はそのあいだに深く刷りこまれた観がある。

ファースト・インプレッションといってもよかろうか、定信の長谷川平蔵嫌いは、この『よしの冊子』報告書に拠っていると推察しているのだが。

もちろん、『よしの冊子』の価値を全否定するつもりは毛頭ない。
長谷川平蔵と同時代の人間が聴いて書いた文書として貴重ある。
こころして読めば、貴重に手がかりがえられる。

定信としては、当初は下情に通じたいとの帝王を真似た心情もあり、やや熱心に目を通したようだが、そのうち、あまりにも隠密たちの目線が低いことに気づき、ほとんど目を通さなくなったらしい。

長谷川平蔵に関しての隠密たちの評価ががらりと変わり、火盗改メの長官として意をつくしており、江戸町人たちからも大岡越前守忠相の再来ともてはやされるようになっていることが書かれているころにはもう、定信の目にとどかなくなっていた。

長谷川平蔵にとって、そのことが幸いであったか不幸であったかは、一概にはきめられない。

じつは、きょうの「ひとり言」は、そのことを述べるつもりで書きはじめたのではない。

幼な学友の隠密好きは、公の老中着座を機に始まったものとは思えない。
天明3年(1783)10月16日に白河藩主として封を継ぐ以前、養父・定邦(さだくに)が中風で倒れたあたりから、水野為長に命じて江戸藩邸、白河領内に隠密を放ち、情報を収集していたのではないかとの疑念が生じてきた。

この疑念が、定信についての諸書に語られたことがないのは、『よしの冊子』が松平家において永いあいだ門外不出の扱いをうけ、秘匿されていたことから考え、同家には白河藩内版「よしの冊子」がいまだに秘されつづけているのではないか、との疑念が解けないでいる。

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2012.02.21

火盗改メ本役・堀 帯刀秀隆の組替え(3)

「これは根も葉もない噂で、組といたしてははなはだ迷惑をしておりますが、手前ども与力10名が5両(80万円ずつ)、同心30名は1両(16万円)ずつ、計80両(1280万円)を お頭(かしら)の用人へつかませて弓の7番手へ組替えしてもらったなどと---」
次席与力・高遠弥之助(やのすけ 43歳)がしゃもの肉をつまんだ箸をとめ、怒りの言葉を吐いた。

ちゅうすけ注】噂は、この2年後の天明7年、老中首座になった松平定信側の隠密が耳にした記録を呈上している。(『よしの冊子』)
つまりこの噂は2年ものあいだ、中級以下の幕臣たちのあいだでささやかれつづけていたともいえないことはない。 

いや、もしかすると、これは堀 帯刀秀隆(ひでたか)をおとしめるための記録ではなく、田沼意次(おきつぐ 老中 相良藩主)の時代には買職があったらしいとの噂の一つとして記録されたのかもしれない。
真相は藪の中である。

先手組頭の発令と同時に組替えという例は、河野勝右衛門通哲(みちやす 62歳 600石)以前にも以後にもこの1例だけであり、きわめい異例のことがおこなわれたといえる。

そのことに触れていない『よしの冊子』の信用度はかなり低いといえよう。

ただ、堀 秀隆の側にも、脇の甘さがあったことは事実であろう。
とりわけ平蔵(へいぞう 40歳)は、堀家の用人の一人には不快なおもいをさせられているが。

_360_6
(先手・弓の7番手の組頭 前田、横田、河野、堀の発令歴 『柳営補任』)


_360_7
(先手・鉄砲の16番手 本多、堀、河野の発令歴)

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2012.02.20

火盗改メ本役・堀 帯刀秀隆の組替え(2)

堀 帯刀どののお人がらを聴こうにも、(にえ) 越前)どのは堺、建部(たけべ)大和)どのは京都だ)
平蔵(へいぞう 40歳)は、なぜか火盗改メ・本役になった堀 帯刀秀隆(ひでたか 50歳 1500石)の用人の無愛想な振るまいにこだわった。

帯刀の火盗改メ・助役(すけやく)時代の働きぶりを話してくれそうな贄 越前守正寿(まさとし 45歳 300石)は奈良奉行として赴任したままだし、建部大和守広殷((ひろかず 58歳 1000石)はこの夏の初めに禁裏付となって京都へのぼってしまっていた。

建部どのを高輪の大木戸でお見送りしたのは、つい昨日のことにのようにおもえるが、かれこれ半年がすぎている。歳月は光陰のごとしとは、よういうたものよ)

参照】2011117~[建部甚右衛門、禁裏付に] () () (

瞬時、感慨にふけったが、立ち戻るのも早かった。
(そうだ、転任したばかりの先手・弓の7番手の与力・高遠(たかとう)弥之助(やのすけ 43歳)という手があった)

高遠弥之助は、平蔵(へいぞう)が銕三郎(てつさぶろう)時代に親しくしていた同組の、次席与力・高遠弥大夫(やだゆう)の職席を継いでいる。

松造(よしぞう 35歳)にいいふくめ、裏猿楽町のの屋敷へ走らせ、こっそり本所二ノ橋北詰のしゃも鍋〔五鉄〕の2階で待っていると耳打ちさせた。

弓の7番手の組屋敷は資料により、麻布竜土町としているものと麻布我前坊谷(がぜんぼうだに)と記しているものがあるが、とりあえず竜土町説をとっておく。
どちらにしても帰りの送り舟は、赤羽橋下となる。

弥之助は約束の時刻---七ッ半(午後5時)きっかりに〔五鉄〕にあらわれた。
「近くでともおもったが、ご存じのとおり、すぐそこの両国橋東詰には鶏肉市場があり、ここらあたりはしゃも料理の本場ゆえ、放俗(ぼうぞく)の味が楽しめるので、わざにお越しをいただいた」
高遠は恐縮し、
「生まれて初めて口にいたします」

堀帯刀秀隆河野勝左衛門通哲(みちやす 62歳 600石)が相互組替えになったわけを訊いた。
河野家は四国の名門・越智氏つながりで、血筋も悪くはない。

河野さまが同日(天明5年 1785 11月15日)に、留守番からとりあえず弓の7番手の組頭に発令なされたのは、上ッ方のほうで越智ご一族のお顔を立て、しかしご病気がちなので火盗改メは無理といいふくめられ、鉄砲(つつ)の16番手への組替えをのまされたと聴いております。手前どもとしますと、たびたび火盗改メのお頭をいただいてきておりますので、この同日組替えは、のぞむところでした」

鍋を仕込みながら、2人に酌をしていた三次郎(さんじろう 36歳)が、
「煮あがりました。どうぞ、ごゆっくり---」と降りていった。

「すると、河野うじは、一度も7番手の組へはお顔を見せにならなかったということかな?」
「はい」


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(河野勝左衛門通哲の個人譜)


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2012.02.19

火盗改メ本役・堀 帯刀秀隆の組替え

(肌はあさぐろくずんぐり、声のみが高かった、無遠慮な、あのご仁がなあ)
平蔵(へいぞう 40歳)は、4年前に九段坂東の中坂下の席亭〔美濃屋〕で、火盗改メ・本役に就任した(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 41歳=当時 300石)が助役(すけやく)の堀 帯刀秀隆(ひでたか 46歳=当時 1500石)、増役(ましやく)の建部(たけべ)甚右衛門広殷((ひろかず 54歳=当時 1000石)を紹介されたときの、堀の印象をおもいうかべていた。

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(左の坂=九段坂に向かい右手=中坂 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)


初老の狸(たぬき)といえる風貌であったが、とりあえず、下の【参照】(1)だけでもクリックして記憶をよみがえらせていただくと話しがすすめやすいというもの。

参照】2011年4月4日~[火盗改メ・堀 帯刀秀隆] () () () () () (

【参照】(1)にも、ちらと書いたが、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭であった堀 帯刀は、天明5年(1785)11月15日に火盗改メ・本役を仰せつけられ、即日、弓の7番手へ組替えを命じられた。

もっとも、『徳川実紀』は、組替えには触れていない。

 十一月十五日先手組頭堀 帯刀秀隆盗賊考察の事承る。

よけいごとを記しておくと、このことを報じている『(1972.02.01)実紀 第十篇』の278~9ページの月表記は「十一月」とすべきところが「十 月」と「一」が脱落しているので、今後の研究者のために。

実紀』は組替えには触れていない。
公けのことではないと編者たちが判断したのであろうか。

堀 帯刀秀隆の火盗改メ・本役発令をしった長谷川平蔵宣以は、2年後に自分が 本役とともに火盗改メ・助役(すけやく)を務めることになろうとはおもいもしなかったろう。
というのも、火盗改メは先手組頭から選抜されるしきたりで、平蔵は西丸・徒(かち)の頭(かしら)に抜擢されてまだ1年経っていなかったからである。

いかに自信家といえども、徒の頭は2年以上---たとえぱ、平蔵が属していた西丸・徒の4の組頭の前任の5人の平均在職年数は11年強---であったから、平蔵としても6,7は覚悟していたとも推定できる。

とにかく、贄 壱岐守の引きあわせで面識ができていた堀 帯刀が、先手頭に指名されたというので、平蔵は酒の角樽を用意して祝辞をのべに裏猿楽町の屋敷を訪(おとな)い、驚いた。

玄関の式台に用人と名乗った貧相な男があらわれ、角樽を受けとり、
「主人がよろしくと申しております」
それだけであった。

「なんです、あいつの態度は---?」
門を出ると、松造(よしぞう 35歳)が唾をはきながらつぶやいた。

。言葉をつつしめ。まあ、ああいうのを虎の威を借りるやからというのだ」
「しかし、殿。 さまは殿の先達でもなければ引き立て人でもありません」

「そう、怒るな。腹を立てた分だけ腹が減って損をみるのはこっちだ。もっとも、さまは家禄が1500石、先手組頭の格も1500石だから、足(たし)高なしの持ち高勤めで足(あし)が出ているのがご不満なのであろうよ」

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(堀 帯刀秀隆の個人譜)

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2012.02.18

西丸・徒の第2組頭が着任した(6)

幕府米蔵の北はずれ、御厩河岸の渡し前の〔三文(さんもん)茶亭〕はとうぜん、仕舞っていた。
渡しの仕舞い舟があがるとともに、店も閉めるしきたりになっていた。

その人影のない舟付きに雪洞(ぼんぼり)をともした屋根舟が一艘、先刻から舫っていた。

平蔵(へいぞう 40歳)の足音を聴きつけた船頭が、雪洞をかざして導いた。
辰五郎(たつごろう 56歳)であった。
「爺っつぁん、遅くまですまぬな。おっつけやってくる仁を牛込ご門下まで送ってやってくれ」
長谷川さまはどちらまで---?」
「われは柳橋あたりで落としてくれるか」
「なんでしたら、冬木町の〔黒舟〕根店までまわりやしょうか?」
「いや、今宵は客を立てておこう」
「さいでやすか」

ほどなく、瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳)が供の者に足元を照らさせながらあらわれた。

並んで座り、暗い中を行き交う舟に目をやりながら、
瀬名うじ。これから先は、〔東金(とうかね)〕とよく談じあい、よい道をお探しあれ。清兵衛どんは信じてよい数少ないない正直でふところの広い町人ですから、こころを割って何ごともまっすぐにお打ちあけになるがよろしい」
「忝(かたじけな)い---」
「ただ、商人としての清兵衛どんの顔をつぶすようなことだけはしないでいただきたい」
「こころえており申す」
「くれぐれも頼みましたぞ。や、柳橋だ、では、おきをつけて---」
長谷川どの。この舟賃は---?」
「われのおごりです。ただし、降りぎわに煙草銭でもにぎらせていただくと、われの顔がたつ」
「承知---」


その後、柳営で会っても、目と目でしめすあうだけで、蔵前のことは双方、口にしなかった。


そうこうしているうちに11月15日になり、異なことがおきたので、平蔵の注意はそちらにそそがれた。

先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭の堀 帯刀秀隆(ひでたか 50歳 1500石)が火盗改メ本役の下命をうけるとともに、弓の7番手へ組替えが行われたのである。

鉄砲(つつ)の16番手は、与力は10騎ながら同心が50人配されている。
与力10人・同心50人というのは、西丸もふくめて34組ある先手組のなかでも3組しかない。
16番手のほかは、鉄砲の1番手と3番手のみ。
同心40人は鉄砲の13番手がただ1組。

世情が騒がしいというこの時期に、火盗改メ・本役を同心が30人の弓の7番手へ組替えした幕府上層部の真意はどこにあるのか。

平蔵としては計りかねた。
鉄砲(つつ)の16番手は、かつて銕三郎(てつさぶろう)時代の平蔵に目をかけてくれた本多采女紀品(のりただ 49歳=当時 54歳=当時 2000石)と2度も本役と助役(すけやく)をつとめた組であった。

弓の7番手も、平蔵の本家の大伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 45歳=当時 47歳=当時 1450石)が助役と本役を命じられていた。


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2012.02.17

西丸・徒の第2組頭が着任した(5)

東金(とうがね)清兵衛(せえぺえ 40まえ)を瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳 500石)へ引きあわせ、
{割りにあわない話ばかりもちこんで相すまぬが、貧乏神をしょいこんだとおもってあきらめてくれい」
深々と頭をさげる平蔵(へいぞう 40歳)に、貞刻が驚いた。
天下の旗本が商人---それも幕臣から利をかせいでいる蔵元に対しての所作であったからである。

「なにをおっしゃいますか、長谷川のお殿さま。手前どもこそ、いつも殿さまにお助けをいただいております。お礼をもうしあげるのは手前どものほうです」
清兵衛の言葉に貞刻も、男と男の惚れあいを納得した。

参照】2011年9月24日[札差・〔東金屋}清兵衛] (

用向きを聴いた清兵衛が、
「せっかくのお話でございますが、〔東金屋〕としては、お引きうけかねます。いえ、逃げているわけではございません。お徒士(かち)衆は、それぞれ何代もつづいた蔵宿をお使いでございましょう。そのあいだからは、こう申しては失礼ですが、お武家さまとご主君とのあいだがらに似ております。持ちつ持たれつでございます。簡単に切れるものではございません。で、いかがでございましょう、とりあえず、ご出仕がむつかしいお方々お名書きと借財なさっている蔵宿をお洩らしいただき、その店を検討させていただくということでは---?」

ただし、金を融通している札差しの店名と金額、利子率の聞きだしは極秘とし、徒士(かち)衆も告げたことをいっさい口外しないということでことをすすめてほしい。
というのは、店側がそれなりの対策をこころみない短時日のあいだにことをえさめてしまいたいためである、と清兵衛が声をひそめて説いた。

まず、〔東金屋〕が〔ほうらい屋〕を出ていった。
天王町には蔵宿が30店ほども軒をつらねていたから、肩をならべて出るのは目立ちすぎた。

平蔵が御厩河岸の渡しの舟着きへの道順を瀬名伝右衛門に教えてから、一足先にでた。
勘定は清兵衛をすませていた。
「〔東金屋め」
平蔵伝右衛門に聞こえないように小さく舌打ちしたあん按ずるほどの按ずることはなく、暗くなっていた通りに面した蔵宿はどこも大戸をおろしていた。

野良犬がごみ箱をあさっていたが、平蔵の姿を認めると逃げさった。
晩秋の夜風が、酒のあとだけににこころよかった


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2012.02.16

西丸・徒の第2組頭が着任した(4)

「困りました。組の徒士30人のうち、22士しか出仕してきません」
瀬名うじのせいではありませぬ。風邪のせいでしょうよ」
西丸・徒(かち)の2の組頭の瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳 500石)の嘆きを平蔵(へいぞう 40歳)が先任らしくなぐさめた。

蔵前天王町の茶飯の〔ほうらい屋〕利兵衛方の奥座敷であった。

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(蔵前天王町茶飯〔ほうらい屋〕利兵衛 )

「われが4の組頭を引きうけたときも、総出仕を呼びかけたのに、6名が風邪をいいたてて顔をみせなかった」

参照】2011年9月20日~[西丸・徒(かち)3の組] () (2) () () (

{わが組の与(くみ)頭の鳥坂弥五郎(48歳)から聴きました。長谷川さまは徒士たちのうち、蔵宿に高利の金を借りている士の利息を棄捐(きえん)させてしまわれたとか---?」
「そのような荒っぽいことができるわけはありません」
「しかし、この町の〔東金(とうがね)〕というのを動かして高利のほとんどを棒引きさせたと---」
「お待ちなされ。その前にお訊きしておくことがある。失礼ながら、瀬名うじの家禄は500石---さようでしたな」
「さようです---うち半分は埼玉郡(さいたまこおり)の上弥勒村ですが---?」

「ご祖父・義珍(よしはる)さまは宝暦11年(1761),年まで本丸の徒の組頭をお勤めになり、そのあと目付をなさっておられます。その足高(たしだか)をおまかせになっていた蔵宿は---?」
訊かれた貞刻は、祖父がみまかったときは5歳であったから気づかなかったと応え、
「そのことと、徒士の不出仕がどう結びつきますか?」

平蔵は、おのれが徒の組頭になったとき、蔵前の蔵宿の評判を調べさせ、幕府からじかに現金でもらっていた亡父のやり方をあらため、〔東金屋〕を通すことにした。
そのほうが世の中の米と金のめぐりがいささかでも増えるとかんがえたからである。
と同時に、〔東金屋清兵衛(せえべえ 40まえ)にすずめの涙ほどの利をとらせ、組の徒士の札差しを移すことで高利の清算をたのんだ。

「商人は利によって家を支え、利によって義を果たします。武士はとかく利を蔑(いやし)めますが、商人にとって利は躰の中をめぐっている血のようなものです。血がとどこおっては生きていけませぬ」
「わかりました。まず、これからの足高を〔東金屋〕にまかすことにしましょう」

松造(よしぞう 35歳)が呼びi立ち、ほどなくして〔東金屋清兵衛の穏顔があらわれた。

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2012.02.15

西丸・徒の第2組頭が着任した(3)

茶寮〔季四〕の朝鮮料理は、ことのほか徒(かち)の組頭を喜ばせた。
最老格の5の組頭・桑山内匠政要(まさとし 61歳 1000石)にとっても、次老の3の組頭・沼間(ぬま)頼母隆峯(たかみね 53歳 800石)にとっても、朝鮮は縁遠い国というより、思慮のほかの国であった。

なにより感謝したのは、招待者の瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳 500石)で、
「これまで、だれもやったことのない新任披露の宴であったと最老どのも次老どのもことのほかご満悦でございましでしてな。さっそく、ご内室方とともに再訪したいとの申し出を女将が食材がそろわないからと断ったものだから、余計に手前の株があがりました」
宴の翌日の謝意まじりの言辞であった。

「ついては、虫のよいお願いですが、材料が希少ないことは重々わかっておりますが、長谷川さまのお顔で、手前どもの室と2人分だけでもなんとかならないものでしょうか?」
「女将に訊いてはみるが、たぶん、無理と存ずる---」

平蔵(へいぞう 40歳)とすると、うかつに便宜をはかると、今川系の幕臣のあいだにうわさがひろまり、奈々(なな 18歳)に食材調達の苦労をかけ、はては抜荷にまで手をそめることにもなりかねない。

(男というのは、おのれの顔がきくところを見せたがるつまらない見栄のために、しなくてもいい気苦労をしょいこむ生き物なのだ。忙しそうに駈けずりまわっているうちの半分近くは、おのれが発した力みの言葉に因る)

(とはいうものの、われの探索好きにも、見栄に拠(よ)るところがないでもない。藩公や火盗改メのおだてにのっているところもある。われにはいまは捕縛・裁きが資格があるわけではないのだから、これからは適当に受け流しておこう。しかし、生来、捕縛・裁きごとが好きなのも認めざるをえない)


半月ばかりたち、瀬名伝右衛門貞刻が相談ごとかあるから、一献傾けながら---と誘ってきた。
「朝鮮料理の件なら、女将の硬い意向はお伝えしたはずだが---」
「その件は室からすごく恨まれたが、なんとかあきらめさせました。別件です」
「どのような---?」
「組の徒士たちのお蔵米のことです」
「ならば、蔵前天王町に〔ほうらい屋〕という小体(こてい)な茶飯をあきなう店がある」

松造(よしぞう 35歳)を先に帰らせ、蔵元の〔東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40まえ)に待機していること、〔ほうらい屋〕の奥の席をとらせておくようにさせた。

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2012.02.14

西丸・徒の第2組頭が着任した(2)

天明5年9月10日の『徳川実紀』に、

 書院番瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳 500石)西城徒頭となる。

とある。( )はちゅうすけが補った。

属していた本丸の書院番頭はちょっと変わり者の大久保:玄蕃頭忠元(ただもと 41歳 6000石)であった。

名門ということでは、瀬名家の祖は今川氏の分かれで、府中(現・静岡市)の北東に館をかまえ、村名を姓とした。

徳川家康は名家の子女を好んだが、最初の年長の本妻・築山殿は瀬名儀広の長女であった。

伝右衛門貞刻の家は、徳川の家臣となっている瀬名5家の中では、本家にもっとも近い。

瀬名家かかわりで鬼平ファンに近い逸話は、これであろう。

参照】2006年4月11日[若年寄・京極備前守高久

貞刻が詰めの間での出仕の挨拶で、
「若輩のふつつか者ではありますが、よろしくお導きをお願い申しあげます」
これへの返しの辞が3人3様であった。

まず、3の組頭の沼間(ぬま)頼母隆峯(たかみね 53歳 800石)。
「謡(うたい)をおやりにならないかな。頭(かしら)たる者は、徒士にはできないものを習得しておくのが統率の要諦でござるよ」

4の組頭の長谷川平蔵宣以(のぶため 40歳 400石)。
「われもまだ1年もたっておらぬゆえ、至らぬことがいろいろとありましてな。ともにはげみましょうぞ」

5の組頭の桑山内匠政要(まさとし 61歳 1000石)。
「若君のお育ちをみとどけられるのは若い瀬名どのがもっとも近い。そのこと、肝に銘じてお勤めあれ」

新任のお披露目の宴についての場所を最年長の桑山政要に質(ただ)すと、
瀬名どのにもなじみの店がござろうが、宿老・相良侯の息がかかった女将がやっておる〔季四〕という茶寮が深川にあり、長谷川どのが顔がきくし、往還とも屋根船で送迎してくれる。沼間うじもそちらもわしもそろって屋敷が番町ゆえ、1艘の乗り合いでことがすむ。いかがかな?」

招かれる沼間にも異はなかった。


早速、平蔵奈々にもちかけた。
桑山どのも沼間どのも2度目になるゆえ、目先を変えて朝鮮料理はどうであろうの?」
井伊兵部少輔直朗 なおあきら 39歳 与板藩主 西丸・若年寄)はんらのときの膳でよろしか?」
「十分だ」

参照】2-111021[奈々の凄み] (


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(瀬名伝左衛門貞刻の個人譜)

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2012.02.13

西丸・徒の第2組頭が着任した

「信州へ出張っておりましたあいだ、われが組を見ていただき、ありがとうござりました」
西丸・徒の3の組の頭・沼間(ぬま)家の新道一番町の客間で、頼母隆峯(たかみね 53歳 800石)に丁寧に頭をさげた平蔵(へいぞう 40歳)が、
「これなる粗品は、松代あたりで名代の杏(あんず)酒。その酒精が浸透した粕でつくった餅です。お収めいただきますよう---」
「重畳」
高峯はそれが癖の口唇の右端をゆがめるようにして謝辞をのべた。

実をいうと、平蔵は組の与(くみ)頭・青野半兵衛(はんべえ 45歳)ら、沼間がなにもしてくれなかったことは告げられたが、信州への出張りの前に西丸・若年寄の井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳  2万石)から、留守中の徒の4の組のたばねは沼間に申しわたしてあると聴かされていたので、格好をつけるために屋敷へ礼を述べに参じたのであった。

もちろん、この時代の幕臣のしきたりにしたがったまでであったが。
徳川幕府も安定をみてからすでに100年以上もたっており、形骸化したしきたりがほこりがたまったみたいに重なりあっていた。

敗戦から66年経ったいまの日本の虚礼と似ているかも。

杏酒は3合入りほどの徳利に詰めたものを10本ほどまとめて荷につくり、宿から宿へ馬に駅伝させて持ち帰ったから、その伝馬賃がしめて1分(4万円)をはるかにこえ、1本あたりに割りふると徳利詰めの酒の価いよりも物要りについたが、珍味だけに、井伊若年寄などには喜ばれた。

長谷川うじは、5年があいだ欠けたjままになっておった2の組の組頭に、瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 33歳 500石)うじが補されるらしいとの内報をご承知かな?」
「いえ。半月ほどもお城を離れておりましたゆえ---」

ふつうなら本丸15組、西丸5組であるはずの徒の組が、家基(いえもと 享年18歳)が急死した安永8年(1779)から一橋家豊千代が将軍の継嗣として西丸入りした天明元年(1781)まで、1と2の組は本丸打込みという形で預けられていたことは、これまでに記した。

参照】201192[平蔵、西丸徒頭に昇進] (

臨時に本丸付きとなっていた1と2の組のうち、後者は、組頭・筒井内臓忠昌(ただまさ 51歳=天明5年)が西丸新番の頭へ転じ、組は頭を欠いたまま本城へ残っていた。

沼間が告げたとおりに瀬名貞刻が西丸・徒の2の組頭として発令されれば、1の組は欠けているいるとしても、2、3、4、5の組が久しぶりに揃うことになり、これまで3組だけで受け持っていた西城周辺の見回りがより充つる。

長谷川うじは瀬名うじは同じ今川家つながりであろう。さいわい、屋敷はここ新道一番町でござる。供の者に訪(おとな)いを乞わせてみられてはいかがかな?」
(用が済んだら早々に引きとれということだな)

「はい。この並びにわれの本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 76歳 1450石)の屋敷もございますれば、そこで休息がてら訪いを伺ってみます」
腹のうちでは、まだ発令もされていない仁の屋敷へ手ぶらで訪問できるか、と啖呵をきっていた。


Photo
(赤○=長谷川太郎兵衛 緑○=瀬名伝右衛門 沼間家はのちに閉門になったためか、弘化5年のこの近江屋板には載っていない)


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2012.02.12

松代への旅(24)

長谷川うじは、賊と連絡(つなぎ)をつける手だてをお持ちかな?」
「滅相もない---」
「あまりにも賊の出方をお見こしjなので---」
「賊の気持ちになり、その手すじを推察しているだけです」
「それにしても、見事な---」
松代藩の町奉行をこなしているだけあり、薄田彦十郎(ひこじゅうろう 52歳)の眼光はあいかわらず穏やかだが、推量はするどい。

地京原村の発頭人の清兵衛(せえべえ 50がらみ)を水牢から並みの牢へ移し、嫡子・清助(せいすけ 20代なかば)を釈放すれれば、賊はこちらの思惑どおりに間違いなく犯行を手びかえるであろうかと問う奉行に、平蔵(へいぞう 40歳)は、けろりと、
「運否天賦(うんぷてんぷ)でございますが、七分三分、いや、八分二分で、八分に賭けてもよろしい」
「ほう。たいしたご自信ですな」

「自信ではありませぬ。ご当藩には賢君とのうわさが高い真田右京大夫幸弘(ゆきひろ 46歳)侯がおられます。その幕僚であるお奉行の誓紙がとどけば、いかな賊も約束をまもりましょう」
「わしの誓紙---?」

「ご宿老方にはかり、清兵衛親子の放免は、時日がかかろうとも実現させるとの一筆です」
「届ける手だてはあるのかな?」
「たぶん、あの賊であろうとの推測はしておりますが、住まいも名前も存じません。ただ8年前に高崎侯松平右京太夫輝高  てるたか  53歳=当時  高崎藩主  5万7000石))のためにある者を談合人に仕立てたことがあります。その者はいまでも松平侯のご領内に住まっているかともおもえるので、もいちど使い番を頼んでみることはできましょう」

長谷川うじは、いつまで松代にご逗留かな?」
「きょう、〔奈良井屋〕を引きはらい、善光寺さまの近くの旅籠に2泊し、あさって発(た)つつもりでおります」
「こころえました。善光寺の宿を〔奈良井屋〕へことづけておかれい」

ちゅうすけ注】清助が釈放されたのは翌天明6年(1786)5月で、地京原村の一切を処分して松代の下田町の借家へ移住、父への差し入れをつづけた。
清兵衛の釈放は寛政4年(1792)11月であったが、18日目に病死した。
薄田町奉行は誓紙とともに一冊の写本をとどけてよこした。
題簽(だいけん)には『日暮硯』とあった。

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2012.02.11

松代への旅(23)

「この案件は、拙の手にあまることがはっきりしたので、おあずかりした金子は、手もとにある分をとりあえずお返しし、のこりは江戸藩邸へおとどけいたす」
平蔵(へいぞう 40歳)の辞を、温顔をかえずに聴いているのは松代藩の町奉行・薄田(すすきだ)彦十郎(ひこじゅうろう 52歳)であった。

差しだされた金包をそっと押し返し、
長谷川うじ。これは受けとれませぬ。用向きをご依頼したのは江戸の用人・海野十蔵(じゅうぞう 50がらみ)です。海野へお返しくださるのが筋というもの」
まるで謡いの稽古本でもそらんじているようなゆっくりした口調で断り、
「手にあまるというお言葉でありましたが、真意はどういうことでありますかな?」
いかにも国許だけで育ったといわんばかりの念のいれようは、京都で接して身にしみていた。

「丹波島の〔生坂(いくさか)屋〕、西寺尾の〔坂屋〕、紺屋町の〔藤沢屋〕で賊が、一揆の発頭人・地京原村のおとな・清兵衛(せえべえ)父子の出牢を条件にしたことはお奉行もご承知とおもいます。父子の釈放は拙には権限がないどころか、ご依頼の趣旨とはかかわりのないことです」
「まったく---」

「拙がこれ以上この件にかかずらわり、探りをつづけると、賊のほうではさらに見せしめの押しこみをやりましょう。それがご領内であれば内輪のことですませられましょうが、隣藩の上田藩(5万3000石)、高遠藩(3万3000石)、松本藩(6万石)内などへ押し込みこみ、こちらへ伝えよということになりますと、そちらへの謝罪ばかりか、名君のほまれが高い真田右京大夫幸弘(ゆきひろ 46歳 藩主)侯のお顔をつぶすことにもなりかねませぬ」

温顔の目じりに深い皺をつくったふくみ笑いで、
「賊にも面子(めんつ)がありますわなあ---」
「賊がこころをくだいておるのは、清兵衛の命のようにおもわれますが---」

「藩にも気がかりがありますわなあ---」
「ご公儀へのお届けは、入牢ですか、水牢ですか?」
「早速にあらためてみましょうわい---」
追いうちをかけるように、
「いますぐに---」
町奉行が与力に、確認を命じた。

緊張がほぐれた。

長谷川うじは、ご執政(老中)の田沼主殿頭意次 おきつぐ 67歳 相良藩主)侯におちかづきがおありとか---」
「父の代にご縁ができまして、その後、ときどき---」
「ご譜代のお大名衆の中には面従腹背のお方もおありでしょうなあ」
「拙は西丸づとめゆえ、本城のことは存じませぬ」
「ごもっとも、ごもっとも---」

与力が戻ってき、耳打ちされた奉行がうなずき、
「ご公儀へのとどけは入牢とのみだそうです」
「それでは、さっそくにも水牢からだし、並みの牢へ。そして、そのことを下級の者たちへなんらかの手段で周知させることです」
「ふむ」
「賊たちへは、それで伝わりましょう。さらに息子の清助(せいすけ 20代半ば)再吟味をなさり、一揆へかかわりし他村のおとなたち並みということで釈放なされば、ご城下への賊の押しこみもやみましょう」

清兵衛のあつかいは---?」

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2012.02.10

松代への旅(22)

その宵---。

夕餉(ゆうげ)の席に平蔵(へいぞう 35歳)は店主・加兵衛(かへえ 30歳)を呼んだ。
自分の家での供応なのに加兵衛は恐縮し、すこし下がって小さくかしこまっている。

それなのに内儀のお(らく 27歳)は、平蔵の脇になおり、盃を差しだして酌をねだっていた。
こころえている平蔵はおの色香を無視し、加兵衛に話しかけた。

「〔奈良井屋〕どの。酒造方は別として、地京原村の清兵衛(せえべえ 50がらみ)父子に対する町方の気持ちはどんなものかな」

ちらっとおを見てから応えた。
「大店(おおだな)のお歴々は藩庁とのお取引きもあり、思惑もいろいろとございましょうから、藩治にはお従いになります」
「あら、うちだって大店の一軒よ」
が口をはさむと、加兵衛は黙ってしまった。

「おどのは、幕府もすでに廃しておる水牢(みずろう)が残されていることを、どうおおもいかな?」
平蔵の双眸(ひとみ)の奥をさぐるように瞶(みつめ) 、
「それだけの罪をおかしたものが悪いのではありませんか?」
「なるほど、その考え方もあるな」
「ほかに、どういう見方があるのですか?」

「強訴(ごうそ)のための一揆は、打ちこわしとか盗みとは違う。だれにも害をおよぼしてはいない。ただ仕置き(しおき 政治)衆への示威でしかない」
「それが大変な罪なのではございませんか。うちなんかでも、奉公人たちが結束して給金上げや年季の短縮をいってきたら店をやめさせます」

「やめさせることと、水牢に入れて苦しめることとは天と地ほどにへだたっておるようにおもうが---」
「店をやめさせられれば、たちまち路頭に迷います」
「乞食をしても人は生きておれよう」
「そんな生き方をするくらいなら、死んだほうがまし---」

「おどのはめぐまれておるから、いまはそのようにいえる--」
平蔵が酒をすすめた。
向こうでは、松造(よしぞう 35歳)が加兵衛に酌をしていた。

飲みおえたおが、大鉢にもられた雪のざらめを指でじかにつまんで盃に移して平蔵へ捧げ、酌をし、すぐに返杯を求めた。

平蔵が口をつけた縁から呑んだが気づかぬふりをしていると、わざと紅をつけて返し、含み笑いをしながら徳利から注ぎ、平蔵の手を下から支えながら、ざらめ雪をたした。

松造
呼び、寄ってくると盃を持たせ、
「ちょっと、おどののお相手をしていてくれ。われは加兵衛どのと話しがある」
席を立った。

加兵衛になにごとかささやき、2人で部屋をはずした。

のこされた座敷では、こころえた松造がしきりにおに注いでやり、自分もあほった。

「お武家がなんだっていうんよ。お金の力にたちまちひれ伏すくせに---」
「ご内儀のいうとおりだが、中には骨っぽいお武家もいるから、そう、見捨てたもんでもないよ」
肩をだかんばかりにしてなだめている。


灯を落とした帳場では、
「〔奈良井屋〕どの。藩の町奉行の薄田(すすきだ)(彦十郎 ひこじゅうろう 52歳)どののお人柄は?」
「温厚なお方とお聴きしております」
「勝手(経済)のことはお分かりか?」
「町方にお選ばれになっておりますから---」

「よし。明日、お会いしてみよう」
「どうなさいますので---?」
「路銀を返し、この用務を辞退するだけよ」
「------」
「案ずるでない。〔奈良井屋〕にはいささかの迷惑もおよばないようにする。加兵衛どのの立場はようわかっておるつもりだ。それよりも、ご内儀をもっと可愛がっておやり---」
「むつかしいことをおっしゃいます」

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2012.02.09

松代への旅(21)

犀川の南岸・丹波島の酒造り所〔生坂(いくさか)屋〕岩蔵(いわぞう 50歳)に賊がいいつたけたという、
「地京原村のおとな・清兵衛(せえべい 50がらみ)父子を出牢させるように藩庁に訴えよ」
このことを考えていた。

その前に押し入った中御所の〔千曲(ちくま)屋〕では一言も声を発していない。
訛りから身元がわれることを恐れた、よく鍛えられた盗賊団ぶりであった。
(引きこみ)も入れ、たくみに脱(の)がしていた。

それが、7日目には一変し 堂々と〔生坂屋〕岩蔵を脅している。
異なった盗賊一味であろうか?

いや、先に聴きとりをおこなった町奉行所は3件とも同じ盗賊団と断じ、わざわざ平蔵(へいぞう 40歳)の助(す)けを求めた。

奉行所の探索に手ぬかりがあったのか。
そうではあるまい。
松代藩は真田家のものである。

武田方の時代から真田家には諜報に長じた知恵者が少なくなかったはずである。
信玄が用いた軒猿(のきざる 隠密)の徒も、その大半が真田で育てられた地の者であったと、お(りょう 享年33歳)が寝物語に打ちあけてくれたことがあった。

しかし、中御所の〔千曲屋〕は前々から仕込んでいたあざやかな仕事(つとめ)であったろうに、宝船の雛形をのこすことをおもいとどまったのは、狙いがつとめではなく、清兵衛父子の出牢に変わったためであろう。
船影ふなかげ)〕の忠兵衛(ちゅうべえ 40代半ば)ときめたわけではないが---)

すべては明日、西寺尾の〔坂屋〕三郎兵衛(さぶろうべえ)方の聴きとりでいくらかは分明するであろう。

割りきったところへ、町奉行所の同心・駒井恭之進 (きょうのしん 34歳)がいささか引きしまった表情であらわれた。
「どうであったかの?」
「そのことよりも、今朝未明、紺屋町の酒蔵〔藤沢屋〕与四郎(よしろう)方に賊が押しいり、家の者と奉公人全員をしばりあげ、清兵衛父子を釈放しないと、次には殺傷も容赦しないといって去ったそうです」

「ついに殺傷を宣言したか---?」
「ついに---とは?」
「これまでの蔵元、藩の出方が手ぬるいと断じたのでしょうよ」
「では、藩が清兵衛親子の釈放を決めるまで、蔵元を襲うつもりでしょうか?」
「たぶん---」
「藩が酒造所の警護を堅:めても---?」

「隙はかならずあるものです。警護を堅くし網をはっていても隙をつかれると、それだけで城下のうわさになり、真田右京太夫幸弘 ゆきひろ 46歳 松代藩主)侯の面目がつぶれましょう」
「領内の蔵元は7軒ばかりです。きびしく警護できます」

「われが賊であれば、上田藩(5万3000石)、高遠藩(3万3000石)、松本藩(6万石)内などのまわりの酒蔵を襲い、松代藩の手際が悪いことを喧伝しますな」
「あっ---」

「ご当藩が上田、高遠藩、松本藩に警備をご依頼になれば、小諸藩(1万5000石)、須坂藩(1万5000石)、田野口藩(1万6000石)、諏訪藩(3万2000石)の城下を狙うだけのことです。右京太夫幸弘侯の恥をひろめればいいだけのことですから」

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2012.02.08

松代への旅(20)

「なんといわれたかの?」
振り返った平蔵(へいぞう 40歳)の眼光はきびしかった。

〔生坂(いくさか)屋〕岩蔵(いわぞう 50歳)はすがるように松代藩の町奉行所の同心・駒井恭之進(きょうのしん 34歳)を見た。
駒井うじ。聴かなかったことにしていただけますな?」
平蔵の,念押しに、駒井同心が首をかすかに縦にふった。
「かたじけない。江戸詰めの用人・海野十蔵(じゅうぞう 50がらみ)どのにも告げないことにします」

平蔵松造(よしぞう 35歳)、駒井同心が待った。
岩蔵はあたりをきょろきょろと見渡し、駒井同心の小者が聴いていないことをたしかめ、
「賊の首領とおぼしいのが申しましたのは、強訴(ごうそ)の衆の請い状どおり、貸し金の利息を半分に下げること---」
「うむ。だがそれは、一揆衆からの藩への請願状にも盛られておる。それだけではあるまい」

岩蔵はしばらく目をつむってから観念したように、
「藩庁に、地京原村の清兵衛(せえべえ 50がらみ)さん父子を水牢からだすように願い出よ、と---」
「なぜに願い出なかったのか?」
「〔千曲屋〕さんと申しあわせるようにいわれたので、そのように相談しましたが、〔千曲屋〕さんがそんなことを願い出たら、奪われた側のこちらにもお咎めがあろうといわれたのです」

(賊が〔千曲屋}にはその要求をいいつけていなかったのは、引きこみに入れた飯炊き爺ィから足がつくのを恐れ、後難を避けたのかもしれない)

首領の瞼や草鞋と装束のことは、忘れてしまったように平蔵がここでは訊かなかったのを駒井同心は不審に感じたが黙っていた。


岩蔵へ、また、来ると断り、〔生坂屋〕を出た平蔵は、
「今日はこれきりにしておき、襲われたもう一軒の店、西寺尾の〔坂屋〕三郎兵衛方の聴きこみは明日にしようといったきり、考えごとしているふうで黙々と歩き、松代城下へ戻った。

大手門で駒井同心に、
「荒神町にあるという牢屋をのぞかせてもらえないであろうか?」
「上司に計らないと、一存では決めかねます」
「宿泊の世話をかけている〔奈良井屋〕で、昼餉(ひるげ)をとり、お待ちしておる」

太物商い{奈良井屋〕は、帰りは夕刻とおもっていたらしく、あわててありもので昼餉をととのえ、内儀のお(らく 27歳)がみずから運んできた。
田楽ように切った長芋と湯豆腐をならべわさび味噌をそえた芋豆腐が珍しかった。

「野沢菜は氷室(ひむろ)で夏をこさせます」
「ここらあたりでも氷室をしつらえておりますか?」
「雪は多うございますから。氷室をごらんになりましたの?」
「越後の与板で、氷室でできたざらめ雪で冷やした酒をよぱれました」
平蔵の頭を、4年前に抱いた〔備前屋〕の女主人・お佐千(さち 34歳=当時)の量感たっぷりの女躰(にょたい)がよぎったのを、年増おんなの直感でとらえたおが、
「楽しみごとも氷室からとりだされましたか?」

平蔵がちらっと松造(よしぞう 35歳)をうかがったのを視線に入れ、
「今宵のお神酒(みき)は、ざらめ雪のお冷やをご相伴いたします」
2人の子持ちおんなの落ち着いた色気の目つきで微笑んだ。

参照】2011年3月10日~[与板への旅] (6)  ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16

は家つきむすめで、父が急死したとき、屋号にしている奈良井村から奉公にあがっていた従兄の茂吉を婿にし、歴代の店名(みせな)の加兵衛を継がせた。
しかし、身代は母と自分がにぎっていた。

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2012.02.07

松代への旅(19)

犀川を渡った丹波島の酒造家〔生坂(いくさか)屋〕岩蔵(いわぞう 50歳)方に訊きこみにはいった。
ここは、主人が応接するほどに小さな構えの酒蔵で、あたりは林と畑で、民家はかなり離れていた。

襲われたのは先ほど訪れた中御所の〔千曲屋}の事件から7日目で、縁側の雨戸を外して進入されていた。
(引きこみも入れていない押しこみというのは、急ぎばたき同然でもあるな)
しかし、殺傷はしていなかった。

「雨戸を外ずされた物音も耳にはいたしませんでした。ゆすり起こされたら5,6人の黒装束の男たちに囲まれ、雇い人たちはすでに一部屋に集められておりました」

うなずいただけの平蔵(へいぞう 40歳)が、おもいつきでもしたような口調で、
「〔生坂(いくさか)屋〕どのは、なん代目かの?」

虚をつかれたらしい岩蔵が、
「2代目でございます」
応えたが、平蔵はじっと岩蔵を瞶(みつめ) て口をむすんでいる。

「先代が筑摩郡(ちくまこおり)の下生坂村からご当地へやってきまして、酢づくり所を買い取り---」
それでも平蔵は黙していたので、見かねた松造(よしぞう 35歳)が、
「先々代の下生坂村での仕事や、その前の代の出生を話しなされ」

「手ぬかっておりました。先々代は下生坂村で質屋をやっておりました。それ以前は近江の商人でこのあたりを往還しておったと聴いております」
「やっておったのは質だけではあるまい?」
「おそれいりました。金の用立てを少々---」

「困っておったものをいっそう困らせた---その金をここでも貸して、さらにまた困らせた---」
「お言葉ではございますが、質も金貸しも人助けと存念しております」
「さようよな。それも金利によるが---」

むっときた胸のうちを抑えた岩蔵は同心・駒井恭之進(きょうのしん 34歳)に向かい、
「お役人さま。押しこみのお聴きとりではなく、家業のお改めでございますか?」

困った駒井同心が平蔵を見た。
「ならば訊こう、〔生坂屋〕岩蔵。賊の首領がそのほうにいいつけたことを、奉行所に隠しておろうッ」
平蔵の射るようなきびしい声色をはねかえし、
「そのようなことは---断じて--」
「水牢に入れられ、10日でも15日でも、いわれていないといい張ることだな。腰から下がぶよぶよにふくれて溶けはじめるわ」

いい切った平蔵はさっと立つと戸口の方へ歩みはじめた。
「お待ちくださいませ、お役人さま---」
岩蔵がたまらず呼びとめた。


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2012.02.06

松代への旅(18)

その夜中、うなされた平蔵(へいぞう 40歳)は起きた。
水牢に立ち尽くしている地京原村のおとな・清兵衛(せえべえ 50がらみ)が、痩せおとろえた躰をもむように、
清助はこれから村につくす若さをもっております。どうぞ、あ;れをお助けください」
平蔵を拝んだのである。

清兵衛は一揆の発頭人であるから水牢はともかくとして、極刑になってもいたしかたはない。
しかし、幕府は吉宗のころから、罪を親族にまでおよぼすことをやめていた。

〔奈良井屋}の店主・加兵衛(かへえ 30歳)によると、一揆に加担した地京原、伊折、念仏寺、奈良井、長井、加佐井、小根山、上野、冬木、山上条、水内、吉原、岩草の13ヶ村から21名の主だった者が召し捕らえられたが、清兵衛親子のほかは解きはなたれ、それぞれ帰村したという。

そもそも、一揆は藩治に対しての批判はかかげていなかった。
2年前の浅間山の山焼けによる降灰で、米や蕎麦はいうにおよばず、綿花、煙草、桑の葉や杏(あんず)まで手ひどい被害をこうむり、さにら去年の長雨による不作が追いうちをかけた。
どの村も川ぞいで山あいの狭い土地を切り拓(ひら)いての耕作であったから、長雨はこたえた。
松代や善光寺で酒造りの富裕な家から、今年や来年の酒米を抵当にいれ高利の金銭を借りてしのいだ者が多かった。

その高利を並みの低利にしてほしいとの訴えを藩に求めた騒じょうといえたかもしれない。
もちろん、これは表向きの名目であったが---。
清兵衛としても、藩の隙をついたつもりであったろう)

しかし、一揆は一揆である。
藩とすれば、首謀者を処分した形をとらないと、幕府にいいわけが立たないばかりか、藩治の不行きとどきということで改易されかねない。

ちゅうすけ備考】13ヶ村で動員された1万500人という数には疑念がある。
1ヶ村に500人がやっとという山村であったろうから、子どもまで集めても半分の6000人でも多すぎよう。
しかし、藩の記録には1万500人が赤坂で対峙し、藩の役人と交渉したとある。


朝になり、町奉行所から駒井恭之進(きょうのしん 34歳)が案内役兼見張り人として、まず裾花川ぞいで北国街道に面している酒蔵〔千曲屋〕金右衛門方を訪ねた。
最初に襲われた酒造家であった。

賊の侵入の手口を訊いた。
表のくぐり戸からだと応え
「大戸を下ろしたとき、桟はきちんと落としていましたから、中の者が手引きしたとしかかんがえられないのでごけざいます」
番頭は、事件のあとに消えた飯炊き爺ぃの三平(さんぺい) 59歳)が怪しいとそえた。


引き込み役と察したがそのことには触れず、
「西山の農家へ貸している金利はいかほどかの?」
番頭は駒井同心をうかがったが、横をむいたまま応じられなかったので、悪びれるふうもなく、
「複利で年4割です」
「暴利だな。江戸での蔵宿でももっとも高いところで3割だ。しかし、ご公儀が許しているのはそのは半分の1割5分まででな」
(なんで、われはいわでもがなのことをいっておるのか?)
平蔵は、懇意にしている諏訪町の札差し・〔東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40前)の穏和な顔をおもいうかべた。
水牢に押しこまれている一揆の発頭人と、たまたま同名であることに感傷をおぼえた。

参照】2011年9月21日~[札差・〔東金屋〕清兵衛] () () () (
2011年9月29日~[西丸・徒(かち)3の組] () ( () () (

ひきかえ、番頭の顔からは強欲という字の塊から饐(す)えたきつい臭みを発していた。
 
「引きあげるときもくぐり戸からか?」
「さようです」
番頭は反発するような口調になっていた。

「怪我人も犯されたおなごもいなかっのだな」
「さようです」

「賊たちの言葉になまりはなかったか?」
j町奉行所の同心からは訊かれなかったことを訊かれた番頭は初めて、平蔵が並みの役人でないことを悟ったようであった。
「どいつも一口も口をききませんで、じつに手馴れた感じでございました」

「あと三つだけ訊く。盗み装束を着ていたとおもうが、裏地の色と模様は---?」
「気づきませんでございました」
「気づいたおなご衆がいるかもしれない。あとで駒井同心どのへとどけおくように。次は首領らしき男も覆面をしていたろうが瞼は一重であっか、それとも二重であったか? それと袖からでていた手首から先で目印になるようなものを覚えている者がいたら、これもとどげけるように。最後は賊たちは草鞋(わらじ)ばきのままで座敷にあがっていたろうが、草鞋に目についた特徴があったかいなか」

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2012.02.05

松代への旅(17)

「三軒の蔵元とも、宝船り雛形はのこされていなかったと申されるのですな」
「さよう---」
松代藩の町奉行所の与力・彦坂主水(もんど 43歳)が否定した。

平蔵(へいぞう 40歳)が問いを変えた。
「昨天明4年の極月、西山あたりの村々の者たちの訴願の村役(おとな)で入牢になったのは、いずれの村の者ですかな?」
長谷川うじ。江戸表の海野十三はそのことについて一言も触れてはおりませぬが---」

「そうでしょう。われも海野用人どのからは聴いておりませぬ。道中の追分宿、上田宿で訴願のことを耳にしました」
平蔵が問いただしているのは、後世、信濃国水内郡(みのちこおり)西山の一揆として記録されている騒擾(そうじょう)であった。

もちろん、1万5000人もの農民が動いたこの一揆は小さくはなかったが、国中のいたるところで起きた動乱にくらべれば、犠牲者が2人ですんだ珍しいものといえた。
幕府は一揆の首謀者たちを厳罰に処するように布告していた。

「お仕置になったのが2人だけであったと小耳にはさみましたが---」
しぶったような彦坂与力が、他言はしないとの確約を求めたうえ、小声で、
「入牢させている発頭人は、地京原村(現・長野市中条地区)のおとな・清兵衛(せえべえ 50がみ)とその息子・清助(せえさく)です」

「いま、地京原村といわれたか?」
「はい。ここから亥戌(い・いぬ 北西)のかたへ2里半(10km)ばかりのぼっていった谷あいの小郷です」

賊に襲われた3軒の訊きこみは明日にしたいと告げ、平蔵は宿にしている伊勢町の太物あつかいの〔奈良井屋〕加兵衛方の奥座敷へ戻った。
江戸藩邸の用人に、7日ばかりの滞在は本陣や大旅籠ではなくふつうの商店の部屋を借りたいと要望しておいた。
伊勢町は城にも近く、もっとも繁華な通りの一つであった。

3日前の夜、高崎城下はずれの倉賀野で、仁三郎(にさぶろう 30代なかば)から、〔船影ふなかげ)〕の忠兵衛(ちゅうべえ 40代なかば)の生まれが地京原村と聴いたことと、西山騒動の発頭人が同じ小郷であるのが気になってきたのである。

しかし、襲った3軒の酒造元のもとに忠兵衛の仕業であることを暗示する宝船の雛形を残していないという。
忠兵衛ではないのか?
いや、なんらかの意趣があって雛形をおかなかったか?

平蔵は、店の主人・加兵衛(かへえ 30歳)に部屋へきてもらった。
「ご当主。ここだけの話として訊くのだが、昨年末の西山あたりの村々の強訴(ごうそ)のおりの父子が入牢しているとのことだが、このことについてなにか存じであろうか?」
長谷川さまは、町奉行所のご衆で---?」
「そうではない。西丸の徒(かち)の頭である」
「徒のお頭さまが、なにゆえに---あっ、17年ほど昔にお江戸のなんとか坂の火付け犯をお縄になされた長谷川さまの---?」
「さよう。父上である」
「失礼いたしました}

亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の令名がこんな遠くの土地にまで伝わり、のこっていることがうれしく、誇らしくもあった。
(慈悲ぶかかった父上なら、ここの事件をどう捌かれたであろう)

加兵衛の態度が改まった。
「西山の米づくり衆の強訴を発頭なさった地京原村・おとなの清兵衛さまは、ここから2丁(200m)と離れていない荒神(こうじん)町の水牢に監禁されておいでです」
加兵衛の言葉づかいも丁寧になり、憂いが顔にでていた。

「水牢---? そのようなものがまだあるのか?」
「おいたわしいかぎりでございます。清兵衛さまの地京原村は、手前どもの屋号になっております奈良井村のすぐ近くの小郷でございまして---」
「奈良井村---?」
「はい。念仏寺村、伊折村とひとかたまりの里でございます」

水牢については、十数年前に京都西町奉行所の与力・浦部源六郎(げんろくろう 中年=当時)から聴かされたことがあった。
腰までの水があり、寝ることもできない拷問牢で、長く入れられていると腰から下がぶよぶよに溶ける恐ろしい場所だといわれた。
あまりにもひどいので、いまは幕府が禁止しているはずであった。

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2012.02.04

松代への旅(16)

仁三郎どん。、8年前に九蔵町であった江戸の長谷川平蔵だ」
平蔵(へいぞう 40歳)が表戸を軽く敲いて呼びかけた。

高崎城下から手前、つまりに南に1里19丁(6km)戻った倉賀野村へ、松造(よしぞう 35歳)が足元にかざす提灯にみちびかれ、いそぎ足でやってきた。

夜空には10日目かかった上弦の月がぼんやりと浮かんでいる。

閻魔堂の脇の路地の隅に、農家だったらしい仁三郎(にさぶろう 30代半ば)の家があった。

戸があき、細見で長身の仁三郎が灯火を背に、いぶかしげな色を双眸(りょうめ)にたたえてあらわれた。
「お久しぶりでこざいます」
「ちょっと、入れてくれないか?」
「散らかしておりますが、どうぞ」

晩夏なので、裏庭に面した戸・障子があけっぴろげられ、蚊帳の中に布団かしかれていた。

道すがらの酒屋で求めてきた大徳利を手わたし、
「飲みながら話そう」

うなずき、木椀と湯呑みをみつくろい3ヶ並べた。
注ぎ、目前にかかげあい、呑む。

「8年前には足労をかけた」

参照】2010年8月29日[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] href="../../2010/08/post-12ac.html">5) 

「なにをおっしゃいます。二度とおれの前に面(つら)を見せるなと、破門をいいわたされていた〔船影ふなかげ)のお頭に、長谷川さまのお取りはからいのお蔭で、面接がかないました。お礼を申しあげるのはあっしのほうです」
「そういってくれて、肩の荷がおりた」
「もったいないお言葉てございます」

ほとんど笑顔をみせないといわれていた仁三郎の、張っている頬骨のあたりがかすかにほころんだ。

平蔵は、ざっくばらんに、このたびの松代への旅のことを打ちあけ、〔船影}の忠兵衛(ちゅうべえ 40代なかば)は、盗み(つとめ)のときは必ず宝船の雛形をおくことに相違はないかと訊いた。
「あっしが世話になっておりましたころはそうでしたが---」
「ふーむ。ところで、地元の蔵元ばかりを3軒も襲った理由(わけ)だが、どう推察するな?」

「あっしが破門されてからこっちのことは存じませんが、その7年前までのお頭はそのようなつとめぶりはなさりやませんでございました。そんなおつとめぶりをすれば、足がつきやすいと---」
(それでいて、宝船の雛形をこれ見よがしに残してくるというのも解(げ)せないが---)
そのことは口にせず、
「これから城下まで帰るのは面倒だ。今夜、泊めてくれないか」
布団が足りないがといいながら、仁三郎は蚊帳の中にそれらしい寝床をつくった。

腰を落ちつけたところで、酌をしてやりながら、
忠兵衛の生まれた土地について聴いたことがあるか?」
思わず下をむいた仁三郎に、
「あるらしいな---」
「はっきりとは存じませんが、水内郡(みのちこおり)の地京原村あたりとか---」

「歳は?」
「わっしが破門を申しわたされ7年前は40歳前でしたから、いまは中ごろすぎかと---」
「46,7歳とみておけばすいいのだな?」
「はい。太りはじめておられやしたから、齢よりは二つ三つ上にみえるかもしれやせんが---」
「会うつもりはない」

ちゅうすけ注】その後、火盗改メの平蔵の下で密偵となっとた仁三郎は、文庫巻16の[影法師]p42 新装版p44、 同[白根の万左衛門]p130 新装版p136、巻17[鬼火]p59 293 新装版p68 306  にも密偵の一人として名がてているが、巻18[蛇苺家]では平蔵から幾度も声をかけられp91 新装版p95 ほか、[一寸の虫]では主役といってよいほどの存在感で肉付けされている。
寛政5~6年(1794~5)ごろの事件と鑑定している[一寸の虫]に忠兵衛この天明5年(1785)の夏の終わりの平蔵の松代への旅は、だからその7~8年前。

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2012.02.03

松代への旅(15)

「お申しこしの仁三郎(にさぶろう 30代半ば)って男(やつ)のことですが、南町(奉行所)の矢島(やじま 同心)さんがずっとこころがけてられまして---」
高崎城下・九蔵町の塩売り店〔九蔵屋〕の奥の離れであった。

喉につかえでもあるかのように太くて高い声の主は、一帯の元締で相撲取りほどに肥えた九蔵(くぞう 41歳)のものである。

平蔵(へいぞう 40歳)は8年前に、〔船影ふなかげ)〕の忠兵衛(ちゅうべえ 30代なかば)と交渉ごとをすすめるために、九蔵の手を借りた。

参照】2010年8月29日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] (3) () () 
2011年11月10日~[月輪尼の初瀬(はせ)への旅] (

船影」の首領との取りきめのまとめには仁三郎を使った。

こんどの頼まれごとである松代藩の酒蔵元の盗み(しごと)は、忠兵衛一味のものかもしれないと推量していた。
もっとも、江戸藩邸の用人・海野十蔵(じゅうぞう 50がらみ)は、宝船の雛形のことには触れutったから、別の一味との疑いも捨ててはいない。

できれば、仁三郎にもう一度会い、8年前にはしろうとはおもわなかった忠兵衛の人柄(ひととなり)を聴いておくのも手がかりの一つとおもいついたのである。

矢島さんがおっしゃったには---と九蔵が言葉をつないだ。
8年前のあのとき、〔船影}の忠兵衛のもとへ話しあいにいく仁三郎に10人をこえる尾行(つ)け人をつけたが、追分宿の先でふっと消えられてしまった。

尾行人たちは善光寺道を行くものときめこみ、8人が先わまりをして小諸宿まで手くばりしたところ、仁三郎は中山道を小田井村のほうへ歩み、追っ手が泡をくって先行した者たちを呼び返しかにかかって手薄になった虚をついて消えた。

さいわい、仁三郎が帰着し、〔船影〕との話しあいが上首尾だったので、矢島同心ほかは職をうしなわないですんだ。

「ところが、2年前の浅間の山焼けのおり、高崎城下に灰が5寸(15cm)も降り、みんなそれを除くために大騒動したが、倉賀野の渡しのかたわらの一軒家で、灰をかきあつめている仁三郎を尾行人だった者がみかけ、矢島同心へ注進した。

藩にとっては、見方によっては功労者でもあるので、それとなく見張るようにしていたが、〔船影」一味とのつながりはきれているらしく、ときどき半月ほど留守をすることがあるくらいで、何をして暮らしているのか、静かなものだという。

仁三郎についてのあらましが終わったところで、お(こう 18歳)が、{音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもくん 58歳)のところで[化粧(けわい)読みうり]の見習いをしている息子の十三蔵(とみぞう 18歳)のすすみ具合を
訊いた。

「送りこんで8ヶ月になるというのに、なにに興味をもったのか、もうちょっと覚えたいことがあるとぬかして、帰ってこないのだよ」
九蔵はまんざらでもない口ぶりであった。

「私も浦和へ戻ったら、〔音羽〕の元締さくんのところへお世話になるのです」
「それでは、十三蔵に、いま、なにを見習っておるのか、文をよこすようにいってくだせえ。あんまり長居をして〔音羽〕のに厄介にかけては申しわけねえでね」


絹取引きの中心どころの一つでもある高崎城下のこと、旅籠は多いが本陣、脇本陣という名のl旅亭はなかったが、本陣格の格式の旅籠はあった。
九増町から西へ2丁(200m)kの元町の〔大黒屋〕がそれであった。
平蔵たちはその〔大黒屋〕に草鞋(わらじ)を脱いでいた。

平蔵との最後の夜だからと期待をはずませていたおに、
「ちょっと用ができた。今夜は帰れないかもしれない。独りで寝るように---」
「つまんない---」
「閨事(ねやごと)は、毎夜するものではない。夫婦(めおと)でも早く飽きがくる」
「飽きてなんかいない---」

むくれたおを残し、平蔵松造(よしぞう 35歳)主従は、夜の町へ消えた。

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2012.02.02

松代への旅(14)

「手習いどころから三味線のおっ師匠(しょ)さんのところでもいっしょだった同(おな)い齢で仲よしが6人いたの」
深谷宿(ふかや しゅく)を六ッ半(午前7時)発(た)った。
4里19丁(18km)の高崎城下に陽が高いうちに着きたいという平蔵(へいぞう 40歳)のいい分を汲んでの早発(はやだち)であった。

松造(よしぞう 35歳)はあいかわらず5,6歩さがってついてきていた。

(こう 18歳)の口調は2夜つづけて同衾(どうきん ?)しただけですっかり馴れなれしい。
平蔵が交わりをしたとおもいこんでいるからであった。

時刻が早いというのに、今日も残暑がきびしそうであった。
幅6間(10m)の中山道は白く乾ききっていた。

「6人のうち、2人が嫁にいってしまい、おしゃべりの集まりにはなかなか寄ってこれないの。まだの4人のうち、2人はもう男をしってるっていったけど、こんど集まったら、私もしったっていえる」
「お。おことたちは町むすめゆえ、男とのこともあからさまに話しあうのであろうが、武家のむすめは、そういうことは打ち明けたりはしないものだ」
「なんで---?」
「はしたない、といいきかされておる」
「男とおんなが結ばれるのが、どうしてはしたないことになんの?」

松並木の長い影はあいかわらず濃かった。

「そのことは、秘めごとという言葉もあるとおり、当の男とおんな---2人だけの秘密なのだ。だから他人にあからさまに漏らすことは、作法に反するはしたないこととされておる」
「ふーん」
「お。おことの相手のわれは1000石格の直参の武士であるぞ。そのわれと寝たことは武家の作法にしたがってもらわないと、われの体面にかかわる」

鳶が青い空にゆるい輪を描いている。

「そうか---そんなら、男に抱かれたとだけ告げて、お頭の名をださいのは、どう---??」
「それも、口にしないほうが好ましい」
「でも、私だけが遅れているみたいで、くやしいもの---」

行きちがった旅人たちは、中年の武家と連れの揚げ帽子ながら若い町むすめとの組み合わせに好奇におもいなずら見ないふりをそおって通りすぎていく。

「男と寝たことなどを競いのタネにしてはいけない」
「でも、男に声をかけられないのは、いいおなごでないからだと、町むすめたちは決めてるよ」
「おは、まもなく江戸で修行する身ではないか。それだけでも自慢できるすごいことだ」
「そうだね---}
まだ納得がいかないといった風情の相づちであった。
(男とおんなの躰が交わる生ぐさいことの現実をまだしらないのだから、それだけ、おぼこく、いとおしい)

こういう、一拍ずれた会話は、奈々(なな 18歳)とも楽しんできていた。
年代の差からくるのか、育ちのちがいによるものなのか。

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2012.02.01

松代への旅(13)

「愚息は12歳で、まだ役にはたちやせん。従弟に新平(しんぺい)という23歳になるのがおりやす。これを〔音羽(おとわ)〕のの許に出しやしょう」
深谷(ふかや)宿一帯の香具師(やし)の元締・〔延命(えんめい)の伝八(でんぱち 38歳)が賛成した。

(こう 18歳)が、[化粧(けわい)読みうり]の中山道板をつくる話をもちかけ、自分が江戸へ修行に行くといったときの伝八の返答であった。

伝八の内儀は稲荷町で、芸者の置き屋をやっていた。
稲荷町と本住町に多い料亭や旅籠からお呼びがかかった。

平蔵(へいぞう 40歳)たちは伝八の家から2丁(220m)ほど西よりの仲町の脇本陣の一つ、〔中瀬屋〕に宿をとっていたので、すすめられた盃を安心して重ねた。
伝八がすすめ上手でもあった。
「おさんのところでは、ずいぶんともてなされたから---」

盃を伏せたときには、おの足もとがふらついてので、
「おさんだけでも泊まっていきなせえ」
伝八が親切にいったが、断った。

出衣装の芸妓たちに支えられていたが、本住町の料亭の前で平蔵松造(よしぞう 35歳)に托された。
松造がおの躰に触れるのを遠慮したため、平蔵が腕を肩へまわし、脇腹をかかえて〔中瀬屋〕へたどりついた。

の部屋にはすでに布団が延べられていたが、松造は入るのを避けた。
女中と2人がかりで寝衣に着替えさせたが、女中が去ると平蔵の腕をつかみ、
「お頭(かしら)といっしょに寝る」
起きようとするのをやさしく抑え、
「酔いが醒めてから、こっそりな。いまは人目がある」
こっくりうなずいたので、背中を支えて水を注いだ湯呑みに手そえたまま口にあてると、半分ほどを胸元にこぼした。

いそいで胸と乳房にあてた手拭いの上からおの手が押しつけ、甘え声て、
「お臍(へそ)---」
「臍がどうした?」
「冷たい---」

横たえて寝衣をひらき、一筋たれていた水を拭く。
とたんに両足をひろげたので、股まであらわになった。
黒く密生した芝生と足ををちらりと見たが、形のととのっているのはふくらはぎのほうだとわかった。

寝衣の前をあわせてやっているうちに軽いいびきをかきはじめたので、下腹のあたりを軽くたたき、部屋をでた。


2刻(4時間)ほどたった四ッ半(午後11時)ごろ、暗闇の中に人の気配にを感じて身がまえると、横に枕を置いておがすりよってきた。
わざと寝入っているふりをよそおった。

昨夜のように左足を平蔵の上にのせ、素の局所を太腿(もも)に密着させ、腰をだいて引き寄せたまま動かなかった。
平蔵も反応しなかった。

指でまさぐられたらこらえきれなかったろうが、そこまでは思いつかなかったらしい。

そのまま、寝息に変わった。


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