カテゴリー「007長谷川正以 」の記事

2011.12.09

天明5年5月5日の長谷川銕五郎

天明5年(1785)5月5日は、5が3tヶ重なったということで、五ッ(午前8時)から本城で将軍の養世子・家斉(いえなり 13歳)の初具足・偑刀の祝事がおこなわれ、西城に出仕している組頭たちには紅白の饅頭が下賜された。

長谷川家では、次男・銕五郎(てつさぶろう)が5歳の端午の節句なので、当主・平蔵(へうぞう 40歳)の下城をまって内祝いをすることになっていた。

平蔵は、八ッ半(午後3時)には早退して帰宅、早ばやと男児の節句を祝った。

銕五郎は5年前、平蔵が西丸若年寄・井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 34歳=当時 与板藩主 2万石)にいわれ、天明元年(1781)の晩秋に与板へ事件の収束に行っていた留守の11月の下旬に生まれたので、現代ふうの満年齢でいうと、3歳と6ヶ月であった。

参照】2011年3月24日~[長谷川銕五郎の誕生]  (1) () (
2011年3月5日~[与板への旅] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19

銕五郎を産んだ久栄(ひさえ)は29歳であったから、銕五郎はすれすれで、親類中から〔恥かきっ子〕と呼ばれずにすんだ。
おんなは30歳になったら〔お褥(しとね)すべり(辞退)〕をするべきだという、男にとっては都合のいいしきたりがささやかれていた時代(ころ)であった。

一方では〔20後家はもつが、30後家はもたない〕、つまり、性の悦びの深奥をおぼえてしまったおなごは、独り寝などできないということだが、冗談ではない。
これまでの体験に照らしても、三島の若後家になって1ヶ月とたっていなかったお芙佐(ふさ 25歳)、藤沢の妻の座をけってでてきたその夜の阿記(あき 22歳)、京都の貞妙尼(じゅみょうに 24歳)、茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 29歳)、島田宿の本陣のお三津(みつ 22歳)も、みな20代で銕三郎(てつさぶろう=28歳まで、のち平蔵)に躰をひらいた。

銕五郎の誕生のあいだの旅先では、後家になって1年目といっていた廻船大問屋〔越前屋〕の佐千(さち 34歳)の熟れきった女躰(にょたい)を抱く羽目になった。

佐千も、別れぎわに、情炎を鎮めてほしくなったら江戸へでるといっていたが、出府してこないところをみると、地元か長岡城下あたりでころあいの鎮火相手をつくったか。 

いや、銕五郎久栄には、出産に立ちあってやれなくて済まなかった。
そうおもったとき、銕五郎が膝前に両手をつき、
「おちちうえ、たんごちぇっく、ありがとうござせいまちゅ」
まわらない舌でも謝辞は謝辞であった。

「おお、丈夫に育ってくれてうれしいぞ」
「おあにうえのように、てちゅも、およめちゃんがほちゅうございまちゅ」
「そうか、そうか。みつけてやるぞ」
「おまちゅしておりまちゅ」
やりとりを、於(ゆき 24歳)が満面の笑顔で見ていた。

久栄によると、2人目なので於の悪阻(つわり)は軽そうだし、婚礼は、腹が目だたないうちに挙げるとすると、梅雨明けだな)

その案を久栄に耳うちしたとき、門番が町飛脚から書簡をとどけてきた。

封簡の裏書きは、藤太郎
なんと、先刻回想したばかりの与板藩の廻船問屋の佐千(さち 38歳)の長男・藤太郎(とうたろう 17歳)からであった。

開披すると、大川端の旅亭〔おおはま〕へ宿泊しているので、ご都合がよければお会いしたい。ご指定のところへ出向くことは不案内のご府内ではあるが訪ねられるとおもう、とあった。

〔おおはま〕といえば、2旬日ほどまえに、島田宿の本陣の若女将・お三津と湯に浸かった旅亭ではないか。
因縁とはいえ、まさか佐千もきているのではあるまいな。

さっそくに松造(よしぞう 34歳)に、帰路ついでに〔おおはま〕へより、すぐ行くと伝えさせた。

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2011.03.26

長谷川銕五郎の誕生(3)

母・(たえ 58歳)へ帰着のあいさつとともに紅花染めの肌着を贈り、
松造(よしぞう 30歳)に商っている店を教えられましたゆえ、いつにても買い足せます」
「ぜいたくは、なりませぬぞ」
亡夫・備中守宣雄(享年55歳)の口移しの家訓であった。

平蔵(へいぞう 36歳)は承った態(てい)で退去した。

着替え、松造を供に、和泉橋通りの大橋家久栄(ひさえ 29歳)を見舞った。
門前で、松造を返した。

松造・お(くめ 40歳)の住いは大橋家から東へ6丁(650m)ばかりであった。
陽の暮れが早くなっていたから、御厩河岸の渡し仕舞い舟もそれにあわせてい、おとお(つう 13歳)がやっている〔三文(さんもん)茶房〕は、仕舞い舟の客が絶えると店を閉めていた。

「殿のお帰りをお迎えせず、申しわけございませぬでした。道中、恙(つつが)のう---?」
「うむ」
「お用命のほうも、ご無事に---?」
「万端---な。それより、辰蔵(たつぞう 12歳)が、弟ができたと喜んでいた」
「私も、男のお子で、安堵いたしました。4人目なので軽くてすみました」

紅花染めりの肌着を見せ、
「お婆どのに、ぜいたくは、ならぬ---と叱られた」
苦しげに微笑した久栄の手をにぎり返し、脇の赤ん坊の頬を指でつつき、辞去したが、和泉橋詰の船宿で、仙台堀の亀久橋へ向かわせた。

藤ノ棚の家の戸を、それが合図になっている、2叩きずつ3度打つと、驚き顔の里貴(りき 37歳)が戸をあけた。
すでに寝着で、半纏をひっかけているだけであった。

「抱きたりないのでな」
「うれしい---でも、奥方さまは?」
「実家へ帰っておる」
「私のことが---?」
「そうではない」
「はい」

それ以上のことは訊かないのが里貴の賢いところであった。
訊いたところで、立場がどうかなるものではない。
平蔵も、産まれた銕五郎(てつごろう)のことは話さなかった。
話せば、里貴が苦しむだけである。

里貴は、亡夫との6年間に身籠らなかったし、平蔵との5年のあいだにもその気配はなかった。


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2011.03.25

長谷川銕五郎の誕生(2)

今戸橋南ぎわには、新吉原がえりの遊び客目あての船宿がずらりと並んでいたが、こころえている小浪(こなみ  43歳)は、口の堅い老練な舟頭を指定した。

里貴(りき 37歳)は、旅支度を解き、ふつうの町着姿に戻したが、平蔵はそのままであった。
御厩河岸の舟着きで自分だけ降り、乗ったままの里貴の舟が、行き交う舟の群れのあいだに消えるまで見送った。

(くめ 40歳)とお(つう 13歳)の母子でやっている〔三文(さんもん)茶亭〕へ入ると松造(よしぞう 30歳)が旅姿で待っていた。
「よく、こっちだとわかったな」
「蕨宿(わらびしゅく)あたりから舟でお帰りなら、ここだとおもいました」
「さすが、われが分身---」

が茶を給仕し、
「おこころづくし、ありがとうございました」
袷(あわせ)の袖口をまくり、薄桃色の襦袢(じゅばん)の袖をちらりと見せ、
「お父(と)っつぁんが見立てたそうですね。寒さにむかい、紅花染め肌着だと、暖かくて助かります」
も寄ってき、礼を述べた。
どうやら、渡した2分(8万円)で購ったらしい。

〔三文(さんもん)茶亭〕を蔵前通りへ出たところで、
「どこで求めた?」

雷門前の〔天童屋〕だが、産地で襦袢にまで仕立てたものものをじかに仕入れているため、京から下(くだ)ってくるものの半値であったと、松造が打ちあけた。

「引きかえし、母上(56歳)、奥(29歳)、於(はつ 9歳)、於清(きよ 7歳)、間もなく生まれるややの分を求めよう」

5品でも1両(16万円)で2分なにがしかの釣りがきた。
「手前は、2枚ずつ買ってやりました」
「これは土産である。武士が武具でないものを買っていてはおかしい。あとで屋敷へとどけさせてくれ」
「いえ。手前が持ちます」

歩きながら、紅花染めでのことで、久しぶりに、本所・緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕の盗難事件で、天童育ちの座敷女中お(とめ 32歳=当時)が、賊の一人がくず花で染めた手巾をつかっていたことを覚えていたことから、〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへえ)の身許がわれたことをおもいだしていた。

参照】2008年4月18日~[十如是(じゅうにょぜ)] () (

そのころ20歳であった銕三郎(てつさぶろう)は、おと再会し、躰がむすばれた---というより、おあらため、30おんなのおから、どこをどう愛撫すれぱいいかを実技で伝授された。
それは、高杉道場で:剣の秘技を会得するよりも、楽しかった。

参照】2008年8月9日~[〔菊川〕の仲居・お松]  (8) (
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲]  () (2) (3) (4) (5) (6) (7)

とのあいだは、2年近くつづいたろうか、ふいっと姿を消した。
探す手がかりもないままに、それきりになった。
いってみれば、性の恩人であり、青春のまぼろしであった。

まぼろししといえば、お(りょう 享年33歳)も、そうであったのかもしれない。
立役のおが、銕三郎を初めての男として受け容(い)れた。
(あれは、性の迷路だったかも---)

「殿。辰蔵(たつぞう 12歳)さま、於さまがお出迎えなさっておられます」
松造の声に、追憶からわれに返った。

「奥の姿が見あたらぬが---?」

理由(わけ)は、辰蔵の説明で、すぐにわかった。
「父上。辰蔵に、11歳齢下の弟ができました」
「いつのことだ---?」
「5日前でございまいす」
佐千(さち 34歳)や里貴と寝ている日でなかったことが、久栄(ひさえ 29歳)への、せめてもの言い訳か)

久栄は、産み月になると、実家の大橋家へ帰った。
しかし、こんどは、平蔵が与板へ旅立ってすぐ、実家へ移った。
産んでから、1ヶ月は実家で養生するしきたりであった。

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2011.03.24

長谷川銕五郎の誕生(1)

「舟は返しました。明日は、銕(てつ)さまと並んで、江戸まで、歩いて戻ります」
裸のままで、互いのものをまさぐりながら、里貴(りき 37歳)が承諾を求めた。

「足ごしらえはしてきたのか?」
「ご心配なく。これでも紀州の貴志村から東海道を歩きとおしたのです」
「そうであった。だが、里貴は34歳であった」

参照】2010年11月11日~[茶寮〔季四〕の店開き] () () () () () (

「それだけ婆ぁになったとおっしゃりたいのですか?」
「なにが婆ぁなものか。里貴はますます感度が磨がれ、愉悦が深くくなっておる」
「おなごの頂上は45歳といいます。ややの惧(おそ)れがなくなったら、愉悦の出事(でごと 交合)になるとか」

里貴が足を入れ、少ない茂みを平蔵の太腿にすりつけた。
乳首に指をみちびく。
改めて、乳児にふくませたことのない、小さな乳首を感じた。
(お(りょう 享年33歳)も、貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)の乳首も小さかったな)
さすがに、芙佐(ふさ 25歳=当時)や阿記(あき 21歳=当時)の記憶はかすんでいた。
それだけ長く、平蔵里貴の躰になじみ、官能のすみずみまで探っているということかもしれない。

「頂上までに里貴は、8年あるな」
「おなごは骨になるまで、このことを求めるそうです」
「骨になるまでか---」
「わが身のことながら、恐ろしいことです。さいわい、さまのほうがお若いから、骨になるまで喜ばせていただけましょう」

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(北斎『嘉能会之故真通』)

やはり、朝起きは遅かったが、里貴がこころづけをはずんでいたから、妙な顔はしなかった。


戸田の渡しで渡船するとき、人目の中で里貴平蔵におおっぴらに手を借り、気持ちも躰も満ちた。
平蔵の耳に、
「感じてきました」
「えっ---? あ、そうか」
「気持ちだけで、潤ってくるのです」

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(戸田川渡口 羽黒権現宮 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

板橋の手前で里貴が立ち止まった。
「このさきに、えんきり榎があります。縁起でもありません。回り道しましょう」
「駕篭の舁き手や馬子たちがいいふらしている迷信だが、気になるなら、回り道しよう」
そういう戯言(たわごと)が、里貴には嬉しかった。

蕨宿のような離れ部屋がありそうもなかったから、板橋の旅籠は素通りした。

江戸へのとば口、白山権現社下の、けいせいが久保に、小じんまりした宿屋が見つかった。
八ッ(午後3時)前であったが投宿することにした。

江戸の旅籠には風呂がない。
湯道具を宿で借り、軽装で銭湯へ出かけた。
混浴であるが、入浴'客はまばらであった。

浴槽に並んで浸かり、手をつないだ。
「行水の季節は過ぎましたから---」
里貴が口を寄せてささやいた。

背中を流しあった。
女客は、薄暗い浴室でも青みがかって透き通るほどに白い里貴の肌をうらやましがった。
2人いた老人は、いまさらながらの好色気分がおきはしたが、それもすぐに泡のようにしぼんた。
里貴平蔵との混浴が誇らしさいっぱいで、夜の前戯となっていた。


翌朝も、起きだしは遅かった。
目ざめ、側(かわや)から戻って横になると、どちらからともなく、肌を求めた。

白山権現社へ詣でるために、石段をのぼる里貴の腰が重そうで、平蔵がおもわず押した。
「齢ですねえ」
眉をしかめた里貴に、
「いくらなんでも、朝方のは余分であったかな」
「そのことではなく、男坂の石段のことです」

白山権現社では、旗桜樹の前で、
「花の季節にごいっしょできればいいのですが---」
つぶやいたが、平蔵は返さなかった。
(かわいそうだが、人目にはたてない)

中山道を:避け、根津権現社の裏から今戸へ抜け、料亭〔銀波楼}で昼餉を頼んだ。
女将の小浪(こなみ 43歳)が、
「お揃いの旅支度で、どちらからのお帰りでございますか?」
「どうして、帰りだとわかる?」
里貴さまの、満ちたりたお顔でわかりますよ」
里貴が手の甲を頬にあてた。
「冗談でございますよ。およろしければ、奥の間にお布団を延べさせましょうか?」
千浪里貴は、以心伝心の仲であった。

「それより、藤ノ棚まで、舟を頼みたい」


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2009.12.07

納戸町の老叔母・於紀乃(4)

(てつ)どのは、いまどきの若者じゃゆえ、、現金(げんぎん)とは存じていたが、京へ旅立つときに餞別をねだりにきてから、今日までそれきりとは、あまりにも現金すぎないかの」

銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、
〔納戸町の老叔母〕
と、そのふところをあてにしてきた、4070石の長谷川家の老後家・於紀乃(きの 74歳)は、1年前よりさらに縮み、歯も下の左右に1本ずつを鬼婆の牙のようにのこしたきりなので声が抜け、意味がたどりにくい。

「叔母上。お達者なのが、なにより重畳。しかし、お言葉ではありますが、大権現(家康)さまも、ご当家の初代・讃岐さまに、いまどきの若者は現金じゃ---とのたまったそうですぞ」
久三郎どの。まことかの? 紀乃は、亡き殿_(正誠 まさざね 享年69歳=10年前)からは、さようなことは聞いておりませぬぞ」
の口まかせですよ」
「さもあろう。正妻の紀乃におもらしにならないことを、(てつ)ごとき道化におっしゃるはずはないわの。は、ははは」
男のように笑う齢になっているらしい。

久三郎正脩(まさひろ 63歳 小普請支配)は、隠居の養母の相手はしておれぬとばかりに、
「夕餉は半刻(はんとき 1時間)あとだから---」
早々に立ち去った。

それを見すました於紀乃は、、
「のう、どの。あの、甲斐の軒猿(のきざる 忍びの者)のむすめごは、その後、どうなったかの」
「あ、中畑(なかばたけ)村のお(りょう)でございますか?」

参照】2008年9月7日[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜](1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 


「さよう、さよう。おと申したかの---いやな、この齢になると、食い物も歯ごたえがなくなっての、本も目がきかなくなってすぐに疲れるし、男衆はちやほやしてくれないし---つまるところは、面白い話をきくだけが楽しみになってしもうてな」
「そういえば、こ本家すじの八木丹波守補道(みつもち 60歳 4000石)さまは、まだ、甲府勤番支配のままで?」
「まる3年も山流しというのに、お上はお忘れになっているのかもな---さ、それより、軒猿のことよ」

銕三郎は、おの死をどう告げたものか、おもい迷った末に、真実を話さないことに決めた。
親類に話が洩れることより、真実をあらためて自分にいいきかせることがつらかった。

とっさに、〔千歳(せんざい)〕のお豊(とよ 25歳)とすり替えことにした。
齢を33歳にした。
御所へ毎朝、つくりたての粽を奉供している〔道喜〕の財産を、おの一味が狙ってさぐりをいれているらしいことを、銕三郎が察知したふうに話した。

紀乃には、禁裏が理解できなかった。
それでつい、政権をご公儀に依頼なさっているお方だと解説し、おが、

 をみなへし 佐紀(さき)沢のへ辺(へ)の 真葛ヶ原 
        いつかも繰りて 我が衣(ころも)がに着む

などという和歌を〔道喜〕の10代目当主に贈って気を惹いたりしているというと、
「どういう意味の和歌かの?」
「あなたの樹皮を剥いて、糸につくり、織って、自分の身にまといたい、という恋の和歌です」
どのは、京で和歌も修行なさったか。えらいな。しかし、甲斐の軒猿にしては学があるの」
「御所出入の粽司をたぶらかすためには、学も身につけます」
「それで---?」

京都町奉行所の配下の者が、お---ではなかった、お竜の茶店に打ちこんだものの、抜け穴からまんまと逃げられたというと、お紀乃は不謹慎に、歯のない口を大きくあけ、
「は、ははは」
笑い転げた。

そして、訊いた。
「その、〔道喜}とやらの粽はおいしいのかな?」
(食い気もなくなったといったくせに---)

その笑い方から、本所ニッ目通り、弥勒寺門前の茶店〔笹や〕の女主人・お(くま)を連想してしまった、
(そういえば、おどのもそろそろ、50歳のはず---)

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2008.10.07

納戸町の老叔母・於紀乃(3)

銕三郎(てつさぶろう)どのは、おんなおとこ(女男)の睦あいをご存じかの?」
歯がまったくなく、風のぬけるのような声をさらに低め、にやりと笑った顔を、それでも赤らめながら、老叔母ろ・於紀乃(きの 69歳)が訊いた。
うんと年長でも、銕三郎(23歳 のちの鬼平)を、「どの」と尊称をつけて呼びかけるのは、嫡子だからである。嫡子は、いずれ将軍家の楯となる男子なのである。

「塾の悪童が春画を隠しもってくるのを覗いたことはありますが---」
「あれは、好きものの男どもの空想をほしいままにさせるためのものでの。ほんとうは、おんな同士の睦みあいは、男とおんなのそれよりも、もっと、もっと、情(なさ)けを通いあわせるものらしいの」

(世間の常識にさからっての性愛だから、不安とともに、信じあいが恍惚さをいっそう高めるのであろうな)
「叔母上は、どうしてご存じなのですか? まさか---?」
「このわちが、そのような好みをもったおんなに見えるかの?」
歯がないために、口のまわりは皺ばかり---の口をとがらせた。

「いいえ」
親指を西へ向けた於紀乃は、
「右隣りの三枝(さいぐさ )の登貴さまな---」
備中守守緜
(もりやす 51歳 6500石)のご内室が---」
「ちがう、ちがう。 ご当代はご養子。そう、ご先代の斧三郎さまもそうであったが、19歳で卒され、奥方・登貴(とき 68歳)さまは、18歳からお独り身での」

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於紀乃の話を、ちゅうすけの解説もくわえながら手短にまとめると---。

三枝家は、掲示した「先祖書」にもあるとおり、仁明天皇の代というから、銕三郎の時代から920年ほども昔に、丹波の国から発した旧家で、ゆえあって甲斐国山梨郡(やましなこおり)能路の里に配流され、その子孫が武田信玄の傘下にあり、親類衆の扱いをうけていた。
長谷川家も因縁の深い田中城を守っていたときのことは、2007年6月1日~[田中城の攻防] (1) (2) (19)

家康が甲州・信濃を攻めたときも協力し、6000石級の大身旗本にとりたてられている。
5代目・丹波守守英(もりひで 享年47歳)には男子がなく、京の西洞院家・平松中納言時方(ときかた)の姫を養女に迎え、これに松平薩摩守の家臣の男子・守尹(もりただ)を養子として娶(めあ)わせた。
しかし、於紀乃の言ったように、守尹は養父・守英に先だって病歿した。
若い身ぞらで寡婦となった<strong>登貴は、貧乏公家の実家へ帰ることを拒否、広大な屋敷の一偶に別宅をたて、召し仕えにかしずかれて隠棲していた。

八木家から隣りの長谷川家へ嫁いてきた於紀乃とは年齢は一つ違いであったが、武家のむすめを蔑視し、つきあいを拒否、小間使いのむすめと情を深くかわしあっていたと。

_100「銕三郎どのよ。わが殿・久三郎どのが甲府で情けをかけた忍び者の家の小むすめのこともあったが、おんな男の〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)とかに興味をもったのも、隣りの登貴姫どののこともあったからよ。ふへッ、へへへ」(お竜のイメージ)
「左様でございましたか。それなれば、大月へまいって、おの母親のことを調べてもよろしいかと---」
「いや。そちらは、丹後守の組下で十分。わちがおんな男とまじわるわけではないのでの。ふへッ、へへへへ」

銕三郎は、ほっとするとともに、軍資金を絶たれて残念にもおもった。

「それで、登貴さまはご存命で?」
「今月はじめに、みまかられての---」

(競いあう主(ぬし)がいなくなり、それで、興も減じたというわけか---この年齢になって、ようやく、な。しかし、おれが追跡しているのは、おんな男のものをかんがえるすじ道は、おれたちと異なるのかどうか、ということなのだ。叔母ごの話でひとつは、世間常識への抗議ということはわかったが---)


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

コメントをお書き込みいただけると、とりわけ、嬉しい。

コメントがないと、o(*^▽^*)oおもしろがっていただいているのやら、
(*≧m≦*)つまらないとおもわれているのやら、
まるで見当がつかず、闇夜に羅針盤なしで航海しているようなわびしさ。

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2008.10.06

納戸町の老叔母・於紀乃(2)

「叔母上。讃岐守叔父上が、甲府勤番支配を仰せつかった節、伯母上もあちらへお住みになったのですございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、何気ない口ぶりで、於紀乃(おきの 69歳)に訊いてみた。
讃岐守叔父上とは、ここ、納戸町に広大な屋敷地を賜っている長谷川家の先代の当主だった・久三郎正誠(まさざね 4050石)で、5年前、明和元年(1764)に69歳で亡じている。
於紀乃は、その寡婦である。

「とんでもないわの。なぜに、わちが山流しにならねばならぬかの」
勤番支配は、3000石以上の大身幕臣で、小普請支配10人の中から2人があたる。
7年前(45歳)から小普請支配をしていた讃岐守正誠が、勤番支配を拝命したのは、延享4年(17)10月15日であった。
2歳だった、しかも家が赤坂の銕三郎と、納戸町に久三郎だったから、叔父が甲府へ赴任したときのことは、まったく記憶にない。
西丸・持弓の頭となって帰府した4年後のことにも霞のようなものがかっている。

讃岐守叔父上が勤番支配に赴任なされたとき、於紀乃伯母上はおいくつであったのですか?」
「わちが47での。殿は52。もう、男とおんなの間柄ではなかったのよ。くっ、くくく。ところが、殿は---」
「向こうで、男がよみがえられましたか?」
「くっ、くくく---紀乃の小うるさい目がとどかなくなったことをいいことにの」
いまとなっては於紀乃も、屈託なげな口ぶりで話している。

「そのおなごとは、その後---?」
「なんでも、おんなの子を産んだげな---そうじゃ、軒猿(のきざる)の家系のむすめとかいっておったような---」
「まさか---?」
銕三郎どのから、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)のことを聞いたとき、わちも、まさか---とおもうての」

「年齢があいませぬ」
「そのとおり」
「すると、叔母上が拙を甲府へお行かせになったのは、そのことを調べさすためと---?」
「くっ、くくく。いのごろ気がついたかの」
「伯母上。調査賃が安すぎました」
「くっ、くくく---」

久三郎正誠の勤番支配の因について、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)から、小普請組の頭として同役だった永井監物尚方(なおかた 38歳=当時)の先走った裁断の件がかかわっていそうだと、報せてきたので、銕三郎は、それも於紀乃に質(ただし)てみた。

「叔母上。讃岐守叔父上が、勤番支配を命じられたのは、永井丹波守さまの一件が因だったのでございますか?」

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(小普請支配・長谷川久三郎正誠おとがめ)

「なにをおっしゃるッ。元文5年(1740)の初冬の、永井さまにかかわるご譴責・40日間拝謁のおとどめは、わが殿だけがうけたのではありませぬぞ。ご同役の、大岡忠四郎忠恒 ただつね 57歳=当時 2267石余)さまも、阿部伊織正甫 まさはる 39歳=当時 2000石)さまも、ほかの4人の支配の方々も、みなさまが同じご譴責をおうけなになられのです」
「小普請お支配のみなさまが全員でしたのですか?」
「そのとおり。じゃによって、わが殿が甲府に山流しになったのは、永井さまの件とはまったくかかわりがありませぬ。だいいち、永井さまにおとがめがあってから、7年もあとのの発令でした」 
「ははあ---」

ちゅうすけ注】元文5年の永井監物尚方の事件というのは、『徳川実記』のその年の10月29日の記述にたしかに、こうある。

小普請支配永井監物尚方出仕をとどめらりれ。同職大岡忠四郎忠恒、能勢市十郎頼庸(よりちか 50歳=当時 2000石)、竹中周防守定矩(さだのり 52歳 2235石)、土屋午(平)三郎正慶(まさのり 58歳=当時 1719石)、阿部伊織正甫、長谷川久三郎正誠、北条新蔵氏庸(うじつね 48歳 3400石)、御前をとどめらる。
これは、、監物尚方が所属・嶋田八十之助常政(つねまさ 18歳=当時 2000石)が采地の農民ひが事せしにより、八十之助常政がもとにて鞠問(きくもん)し、手鎖つけをきしほど、農民の親戚等・監物尚方が宅にうたえ出けるを、八十之助常政にも問いたださず裁断せし事、忽略(そりゃく)の至りなり。
かつ、その処置も得ざりしかば、この後こころ入て相はかるへし、とて、かく仰付られしなり。

ここに列記されている大岡忠四郎忠恒ほか6名の小普請支配のそれぞれの『寛政譜』にも、同文の記述が記されているから、於紀乃の主張は正しいとおもう。

江戸幕府の役人の連座の珍しい例である。

参考
_360_6
_360_4

もっとも、嶋田八十之助常政は咎めを受ける立場にないから、彼の『寛政譜』はこのことについて、一字もふれていない。

参考

_360
(島田八十之助常政の個人譜)


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

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2008.10.05

納戸町の老叔母・於紀乃

「甲府の丹後(たんご)からの飛脚便がとどいての。銕三郎どのも知りたかろうと存じたのでな---」
納戸町の長谷川家(4070石)の老後家・於紀乃(きの 69歳)が、ほとんど歯のないふがふが声で言い、書状を示した。

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(長谷川一門家系図 銕三郎=宣以 於紀乃=正誠夫人)

丹後とは、於紀乃の実家・八木家(4000石)の当主で、於紀乃には甥にあたる、丹後守補道(みつみち 55歳)のことで、この10年來、甲府勤番支配(役料1000石)を勤めている。
於紀乃に言わせると、支配とは言い条、実体は「山流し」同然と。

夫・讃岐守正誠(まさざね 享年69歳)を5年前に亡くし、毎日をこともなくすごしていて退屈していた於紀乃は、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)がたまたま話した、巨盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)の下で女だてらに軍者(ぐんしゃ)として盗(つと)めている、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)に興味をもった。
多い目の旅費を銕三郎に与えて甲府へ行かせたが、満足する探索結果が得られないなかったので、甥の丹後守に書簡で言いつけて、再調査を依頼したのである。

その丹後守からの書状によると、中畑村の村長(むらおさ)・庄左衛門(しょうざえもん 55歳)は、銕三郎に話した以上のことは言わなかったという。以上というより、ありようは、以下であったらしいことを、銕三郎は文面から察した。

参照】[〔中畑(なかばた)のお竜] (7) (8)

新しい報らせは、おの母・お飛佐(ひさ 47歳)の居どころがわかったことぐらいであった。
4年前から大月宿の安旅籠〔桂屋〕又兵衛の飯炊きをしながら、住まいは別に借り、村の16になるむすめと同棲している。
むすめの親が、みっとともないからと、なんども掛けあいに行っているが、むすめのほうが帰るのを拒否しているかたちであるらしい。

「な、銕三郎どの。お飛佐は、このむすめとできておるのじゃろうて。女男(おんなおとこ)は血すじのような---」
「しかし、叔母上。お飛佐はおを産んでおります。おんな同士の睦みでは、ややはできますまい」
「それがの、とつぜん、おんなのほうがよくなるものらしい。紀乃は、もう、男もおんなもわずらわしいばかりとおもうがの」

(いつわりを申されるな。拙が訪れると、生き生きとなさるくせに)
しかし、銕三郎はそのことは口にしなかった。

「どうじゃかの、銕三郎どの。も一度、甲州路を歩いてみるかの?」
「せっかくですが、初目見(おめみえ)の予備面接が近いゆえ、そのような勝手は許されませぬ」
「残念じゃのう。この紀乃には、かんがえがあるのじゃが---」
「お考えとは---?」
「安旅籠の賃金で、一戸を構えられるはずはない。おからの仕送りがあるとにらんだ。そこいらをあたれば、おの居どころもしれように」
「ご明察です。丹後守さまへそのように文をお送りになったら、いかがでしょう?」
銕三郎は、下ぶくれの顔の丹後守のしかめ面をおもいうかべながらすすめた。

「いま、したためるゆえ、町の定飛脚屋へとどけてくだされ」
さすがに、公の継飛脚へ頼めとはいわなかった。

飛脚料として元文1分金をだした。

_100
(元文1分金 『日本貨幣カタログ』より)

_120_2江戸から甲府までの普通便(4日限)の書状の定飛脚の運賃は、銀6分(約50文)であったから、銕三郎は、返り道に飯田町の飛脚屋へ立ち寄るだけで、1200文ばかりの駄賃をえたことになる。
これは、3朱と200文。まさに濡れ手に粟。

ちゅうすけ注】横井時冬『日本商業史』(大正15年刊 原書房復刻 1982.4.10)によると、『江戸定飛脚仲間定則運賃』(大坂物価表よる)は、書状1包につき、
6日限  銀2匁
7日限  銀1匁5分
8日限  銀1匁
10日限  銀6分

これから換算し、江戸-甲府の定飛脚賃を試算した。


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさまざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

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コメントがないと、o(*^▽^*)oおもしろがっていただいているのやら、
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2007.08.08

銕三郎、脱皮(4)

「ほう。信香院へも、熊野神社へも詣でてきたとな」
長谷川讃岐守正誠(まさざね)は、感に堪えたような声をあげた。
牛込(うしごめ)納戸町の4070石の屋敷である。
報告しているのは、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)。駿州・田中藩城下へ行ったついでに、瀬戸川下の小川(こがわ)まで足をのばしたことを告げた。

長谷川家は、藤原秀郷(ひでさと)の末裔が大和国の初瀬(はせ)へ移り住み、長谷川を称したことになっているが、歴史に名をだすのは、駿河国の小川の豪族・法栄長者としてである。
最近、小川城の遺跡が発掘され、今川家の支配下にあったことが証明された。
『小川町史』によると、小川城が大永6年(1521)、水野吉川多々羅山内らの謀反によって落城、熊野へ落ちた長谷川元長(もとなが)が、今川義元(よしもと)のもとへ立ちもどった時に、熊野権現から3社を勧請・祭祀したことになっている。

また、信香院は、法永長者の孫とも曾孫ともいわれている紀伊守(きのかみ)正長が、弟・藤五郎とともに遠州・浜松郊外の三方ヶ原で戦死したその遺体を葬ったと。
2_360
(信香院の山門)。

「したが、大叔父さま。その墓は、150年のあいだに見るかげもなく朽ちておりました。銕三郎、悲憤の念にくれましたこと、申すまでもございません」
銕三郎としては、餞別を1両ももらっている手前、慷慨して見せざるをえない。

長谷川家の者として、悲しいのお。どうであろ、三郎助。わが家で墓石を新しく建立しては---」
正誠が、養子の正脩(まさむろ)に問いかけた。正誠はすでに致仕していて64歳。じつは正誠も分家(500石)からの養子で、正脩は実弟である。正脩は49歳。まだ、お上に召されていない。
「当家が手配するのはいと易(やす)きことなれど、ご本家の小膳正直(まさなお)どのの面子(めんつ)もありましょうほどに---」

けっきょく、正誠正脩も動かず、信香院に紀伊守<strong>正長の墓を新しく建立したのは、正脩の嫡子・栄三郎正満(まさみつ)の時であった。さらに後日談をいうと、銕三郎(平蔵宣以)の次男・正以(まさため)が正満の養子に入って4070石の長谷川家を継いだ。

「それにしても、銕三郎は、こたびの旅で、見違えるほどの若者ぶりになったものよのう」
軽い咳をおさえながらいう正誠の背を、正脩夫人がさする。
「大叔父さま。持参いたしました〔ういろう〕は、咳にも即効がございまようです。早速に温湯(ぬるまゆ)でお召しください」
すすめながら銕三郎は、三島でのあの夜、噴射して果ててかぶさった背中を、お芙沙がやさしく爪を立てながら愛撫してくれた感触を思いだしていた。
と、とつぜん、股間にきざしてきたので、あわてて辞意を告げる。

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙] (2)

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2007.04.13

寛政重修諸家譜(9)

2007年4月7日の[寛政譜(3)]に、寛政譜の一覧性を高めるために、見開き2ページがA4判になっている原本をコピーして、A3の用紙に貼りこんでいる例として、長谷川一門のそれを掲げておいた。
重複するが、一部に手を加えて再掲載しよう。

_360_1
(4段赤○=平蔵宣以、5段赤○=次男・正以---長谷川正満の養子)

2007年4月6日[寛政譜(2)]で、徳川軍団に加わった長谷川紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)が、元亀3年(1572)極月の三方ヶ原の合戦で戦死したとき、3人の遺児が浜松へ連れてこられていたことを記した。

長男・正成 天正4年(15776)に家康に仕える。のち1,451石
次男・宣次 天正10年(1582)家康の小姓となり、のち400石。
3男・ 正吉 天正7年(1579)に秀忠の小姓に召され、4050石余。

次男に先んじて召された3男の高禄は、その眉目秀麗さが秀忠の好みにあったとしかいいようがない。
次男・宣次とは、母親が異なっていたのかも。

正吉家は、ずっと高禄を保ち、一門でもっとも裕福だった。
御納戸町に1000坪を越える屋敷に住み、数万坪の別荘地を千駄ヶ谷に拝領してもいた。

Photo_333
青○=牛込御納戸町の長谷川邸(久三郎は10代目)

360_51
(A3判貼りこみ家譜では、正吉家は第2ページ目にまわっている)。

8代目にあたる正満(まさみつ 青○)は、安永6年(1777)に家督したが、一生無役だったから、役柄にともなう出費もなかったろう。
天明・寛政初期とおもえる時期に、思い立って家祖の地・駿河国志太(しだ)郡小川村を訪れ、三方ヶ原の合戦で戦死した正長の墓(信香寺)と、今川義忠と竜王丸に仕えた法栄長者の墓(林叟禅寺)を一新し、それぞれの寺へ供養料を供えた。

360_52
(長谷川正満が建立した祖・正長の墓 信香寺)

Photo_334
(長谷川正満が建立した祖・法栄長者夫妻の墓 林叟院)
これを←クリック、目次から[林叟院の探索](SBS学苑〔鬼平〕クラス 中林さん)へ。

鬼平こと平蔵宣以は、この4000余石の長谷川分家へ、次男・正以(まさため)を養子に入れた。それだけ、一門の中での宣以の発言権が強くなっていたといえる。

360_53

正以は、平蔵宣以が没した3年後の寛政10年12月22日にお目見をすませた。18歳であった。
家譜には、母親は小説でいう、久栄とある。
天明元年(1781)年の生まれだから、父35歳、母29歳の子。
辰蔵とは10歳違い。

【つぶやき】長谷川一門の遠祖にあたる法栄長者は、司馬遼太郎さん『箱根の坂』で、相当に大きな役目を演じている。このことは、次の機会に紹介。
法栄長者が、鬼平=長谷川平蔵の遠祖である史実を、司馬さんは友人の池波さんへ告げたフシがない。
ということは、司馬さんも、法栄長者が鬼平の遠祖であることに気づかなかったのかもしれない。

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