天明5年5月5日の長谷川銕五郎
天明5年(1785)5月5日は、5が3tヶ重なったということで、五ッ(午前8時)から本城で将軍の養世子・家斉(いえなり 13歳)の初具足・偑刀の祝事がおこなわれ、西城に出仕している組頭たちには紅白の饅頭が下賜された。
長谷川家では、次男・銕五郎(てつさぶろう)が5歳の端午の節句なので、当主・平蔵(へうぞう 40歳)の下城をまって内祝いをすることになっていた。
平蔵は、八ッ半(午後3時)には早退して帰宅、早ばやと男児の節句を祝った。
銕五郎は5年前、平蔵が西丸若年寄・井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 34歳=当時 与板藩主 2万石)にいわれ、天明元年(1781)の晩秋に与板へ事件の収束に行っていた留守の11月の下旬に生まれたので、現代ふうの満年齢でいうと、3歳と6ヶ月であった。
【参照】2011年3月24日~[長谷川銕五郎の誕生] (1) (2) (3)
2011年3月5日~[与板への旅] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) 8 (9) ((10)) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19)
銕五郎を産んだ久栄(ひさえ)は29歳であったから、銕五郎はすれすれで、親類中から〔恥かきっ子〕と呼ばれずにすんだ。
おんなは30歳になったら〔お褥(しとね)すべり(辞退)〕をするべきだという、男にとっては都合のいいしきたりがささやかれていた時代(ころ)であった。
一方では〔20後家はもつが、30後家はもたない〕、つまり、性の悦びの深奥をおぼえてしまったおなごは、独り寝などできないということだが、冗談ではない。
これまでの体験に照らしても、三島の若後家になって1ヶ月とたっていなかったお芙佐(ふさ 25歳)、藤沢の妻の座をけってでてきたその夜の阿記(あき 22歳)、京都の貞妙尼(じゅみょうに 24歳)、茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 29歳)、島田宿の本陣のお三津(みつ 22歳)も、みな20代で銕三郎(てつさぶろう=28歳まで、のち平蔵)に躰をひらいた。
銕五郎の誕生のあいだの旅先では、後家になって1年目といっていた廻船大問屋〔越前屋〕の佐千(さち 34歳)の熟れきった女躰(にょたい)を抱く羽目になった。
佐千も、別れぎわに、情炎を鎮めてほしくなったら江戸へでるといっていたが、出府してこないところをみると、地元か長岡城下あたりでころあいの鎮火相手をつくったか。
いや、銕五郎と久栄には、出産に立ちあってやれなくて済まなかった。
そうおもったとき、銕五郎が膝前に両手をつき、
「おちちうえ、たんごちぇっく、ありがとうござせいまちゅ」
まわらない舌でも謝辞は謝辞であった。
「おお、丈夫に育ってくれてうれしいぞ」
「おあにうえのように、てちゅも、およめちゃんがほちゅうございまちゅ」
「そうか、そうか。みつけてやるぞ」
「おまちゅしておりまちゅ」
やりとりを、於芳(ゆき 24歳)が満面の笑顔で見ていた。
久栄によると、2人目なので於敬の悪阻(つわり)は軽そうだし、婚礼は、腹が目だたないうちに挙げるとすると、梅雨明けだな)
その案を久栄に耳うちしたとき、門番が町飛脚から書簡をとどけてきた。
封簡の裏書きは、藤太郎。
なんと、先刻回想したばかりの与板藩の廻船問屋の佐千(さち 38歳)の長男・藤太郎(とうたろう 17歳)からであった。
開披すると、大川端の旅亭〔おおはま〕へ宿泊しているので、ご都合がよければお会いしたい。ご指定のところへ出向くことは不案内のご府内ではあるが訪ねられるとおもう、とあった。
〔おおはま〕といえば、2旬日ほどまえに、島田宿の本陣の若女将・お三津と湯に浸かった旅亭ではないか。
因縁とはいえ、まさか佐千もきているのではあるまいな。
さっそくに松造(よしぞう 34歳)に、帰路ついでに〔おおはま〕へより、すぐ行くと伝えさせた。
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