妙亀塚と妙亀山総泉寺
[13-2 殺しの波紋]で、長谷川組与力・富田辰五郎が、盗賊の首領〔犬神(いぬがみ)〕の竹松に、
「---約束の金百両を三日後の明け六(む)つに、浅草橋場の浅茅(あさじ)ヶ原の妙亀堂まで持って来い---」
と強請状をつきつけられる。
富田与力は、強請(ゆす)られるだけの現場を竹松に押さえられていることは同篇を読み返していただくとして、浅茅ヶ原の妙亀堂は、『江戸名所図会』[巻之六 開陽之部]に描かれている。
右手の社が妙亀堂。その左前が浅茅ヶ原(部分)
『名所図会』は、平安の末期、京で信夫藤太にさらわれた梅若丸が隅田川のほとりで打ち捨てられて没したと書く。
梅若丸と信夫藤太(部分)
探しに下ってたきた母は、妙亀尼(みょうきに)として菩提を弔っていたが、鏡ヶ池に投身して果てた。その霊を祀ったのが妙亀塚公園(現・台東区橋場1丁目28-3)。
(現在は修復中)
この妙亀尼の説話を取り込んだのが総泉寺の山号・妙亀山であろうか。
いや、同寺は平安期には開基していたというから、班女(妙亀尼の現世での名)のほうが剃髪して、総泉寺から法号をいただいたとも。
とにかく、〔犬神〕の竹松が、町々の木戸が開く「明け六つ」などという早朝を指定したのは、火盗改メの与力なら、木戸御免と知ってのことだったのだろう。
小豆沢の総泉寺の山門の[山亀妙]の偏額
総泉寺は、亀をシンボルとしていたるところに配置しているが、累代の住職の墓域の正面には、いずれ、デザイナーの手になるとおぼしい、モダンな感じの亀甲のシンボル・マークが掲示されている。
こういうモダンな感覚が、寺域の静寂さや荘厳さを薄めているのかもしれない。
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