カテゴリー「011将軍」の記事

2012.04.14

将軍・家治(いえはる)、薨ず(4)

ちょっとわき道へそれるようだが、どうしても解いておきたい小さな疑念があるので、寄り道をしたい。

西丸・用取次の田沼能登守意致(おきむね 48歳 2000石)のことである。

意致一橋 の家老であった意誠(おきのぶ 享年53歳)の長子であることはすでに触れた。
また、意誠意次(おきつぐ)の弟というのも周知のことがらである。
一橋治済(はるさだ)と意次がある時期、手ほむすんでいたこともなんども書いた。

一橋家豊千代(のち家斉 いえなり)が将軍・家治(いえはる)の養君として江戸城にはいるとき、意致が諸事をこなしたこともすでに記した。

参照】2011年2月20日[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (

そういう裏事情をふまえた上で、『続徳川実紀』の天明6年(1786)10月17日の記述を読むと、いささか胸さわぎがする。

十七日 御側田沼能登守意致請ふままに申次を免さる。

修辞は伯父・意次の宿老の辞職とおなじで願いがききとどけられた形をとっているが、反田沼派の鋭い刃が意致にまで及んだかと勘ぐってしまう。

これから20日ほどのちの『続実紀』---

閏十月四日 西城御側田沼能登守意致本城へ召連らる。

(あれ、御側を免じられたのではなかったのか?)

それで、『寛政重終諸家譜』に目をとおしてみた。
まず、10月17日の人事について。

(天明六年)九月十八日本月の末より病にかかるにより、執啓の事を辞するといへども、いまだほどなきが故加養すべしと仰下され、十月十七日ふたたび請むねありてこれをゆるさる。

この文面からは2様に解釈できる。
じっさいに家治の死と伯父・意次の老職辞退、さらには従兄弟たちの養子縁切りなどによる心労からの発病。
もう一つは、自分へもふりかかるであろう自粛の要請の前の自衛の処置。

寛政譜』にはつづきがある。

閏十月四日(家斉が)本城へうつらせたまふの供奉を命ぜられ、二十六日浚明院殿(故・家治)の御刀を賜ふ。
十二月二十五日病によりて近侍を辞すといへども、なお壮年なれば保養を加えて勤仕すべきむねを仰せ下さる。
(翌天明)七年(1787)四月二十三日将軍宣下を賀せられて時服四領たまふ。
五月二十八日ふたたび請て務めを辞し、菊間の広縁に候す。
寛政六年(1794)十二月二十七日大番の頭となり 八年六月二十五日死す。年五十六。

大番頭職を受けた寛政6年といえば、松平定信は前年、閣外へ去っていた。

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2012.04.13

将軍・家治(いえはる)、薨ず(3)

男の最高の愉楽は、人事への容喙(ようかい)だと、むかしからささやかれている。

他人の生死を与奪する権力の一端がおのれの手中にあることを実感できる瞬間だからかもしれない。
ちゅうすけは(幸いなことに)、そのように血生臭い場に立ち会ったことはないが、なんとなく肯首はできる。

将軍・家治(いえはる 享年50歳)が病気になったことで、それまで政治の外にいることが多かったご三家の尾張大納言宗睦(むねちか 54歳)、紀伊中納言治貞(はるさだ 59歳)、水戸宰相治保(はるもり 35歳)のうちのだれが、人事をもてあそぶ趣味をとりわけ強くもっていたであろう。

根がそういうことが嫌いではなく、ましてや養子にだしたわが子が新将軍の座につく一橋民部卿治済(はるさだ 35歳)にしてみれば、徳川一門のためという立派な口実でこの際とばかり動いたとおもわわれる。

近々にあげた深井雅海さんが西丸の主・家斉(いえなり 14歳)の用取次・小笠原若狭守信喜(のぶよし 68歳 5000石)にはたらきかけた経緯と、依頼の形で将軍側近の人事を間接操作しようとした書簡も[天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所 『研究紀要』 1981)で明らかにされている。

参照】2012年3月4日~[小笠原信濃守信喜(のぶよし)]() () () () () () () () () 

いささか先走るが、上に紹介した深井雅海さんによって徳川林政史研究所の『研究紀要』(1981)に寄航された、一橋治済(はるさだ)から次期将軍の取次となる小笠原若狭守にあてられた書簡で最初Iに公けにされたのは、天明6年(1786)閏10月21日付のもので、

「先日はひさびさに、ゆるりとした談合で貴意も伺うことができ大慶でした。ご用繁多でたいへんでしょうが、あの節ご依頼した:件、なるべく早い機会に老中衆の評議にかけていただくようにお手くばりをお願いいたします。これまでと同じ顔ぶればかりでは老中評議も変わりばえしないでしょう----(以下、治済の経世観が長々とつづく)」

依頼事項とは、松平定信(さだのぶ 29歳 白河藩主 11万石)を老中に加えることを評決すること。

家治の死で、多くの藩主たちは帰国を見合わせているのにならった形で、定信も江都にとどまり政情の変化を静観をよそおいながら、在府の譜代大・小名たちとの謀議をつづけていた。

ところで、一橋治済と小笠原信喜とのあいだがらは、第1の文面でみるかぎり、定信のことからつながったというより、治済の子・豊千代家斉)が西丸入りしたときからできていたのであろう。

また、治済定信のつながりは、三卿の一で世継の絶えた田安家治済の五男・斉匡(なりまさ)を養子に迎える件で、
田安の出である定信斉匡の父・治済としばしば面談しているあいだに、その政治観や学識をみとめられたというのがもっぱらの推測であった。


 

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2012.04.12

将軍・家治(いえはる)、薨ず(2)

将軍・家治(いえはる 50歳)が実際に息を引きとったのが、深井雅海さんの推定どおり、天明6年(1786)8月25日の早暁だったとして、幕府首脳陣はなぜ、そのこと糊塗し公表を13日近くも遅らせたのであろうか。

それと、25日に登城して家治への見舞いを拒まれた田沼意次(おきつぐ 68歳)も、ことの異常さから事態の急変に気づいたはずだとおもう。

そうでなければ、いかに強要されようと、27日に老中職の依願退職文をしたためるはずがない。
(もっとも、『徳川実紀』の27日付の依願文が残っていたとしての推測だが---)

意次は観念したであろう。
(お上が身まかられた。予の忠誠を信じてくださる仁は、この城中にはもはやいない。ここは一歩引き、事態の流れを静観するしかあるまい)

意次の読みは浅かった、というより、自分への門閥派の反発とそねみが予想をはるか超えていたことを見あやまったというべきか。

意次の辞任後にあれこれ流布された田沼弾劾の文は、門閥派の意を受けてわざわざつくられたものが多かろうから、信用度はきわめて薄いとみてはいるのだが。


13日間の段階では、反田沼派――というか、一橋民部卿治済(はるさだ 35歳)の入念で巧緻な政治的扇唆(せんさ)に応じたご三家の尾張大納言宗睦(むねちか 54歳)、紀伊中納言治貞(はるさだ 59歳)、水戸宰相治保(はるもり 35歳)による、田沼派追いだしの手順はまだまとまらず、密議がつづけられていた期間とおもう。

それに対し田沼派は、一橋治済のよく,練られた裏工作を甘くみていたふしもある。
いや、三家は幕政に容喙(ようかい)してはならないという家康以来の暗黙の了解事項と老中の権力の重さに安住していたといえようか。

松平周防守康福(やすよし 68歳 石見・浜田藩主 7万6000石)の思惑は建前としては筋がとおっていたかもしれない。
しかし、老中衆の合議の結果であっても、将軍の決断が幕府の最高の意思であることもまた正しい。

老中が立ち会っていなかった臨終間際の家治の遺志であるといいつのられると、返す言葉がない。

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2012.04.11

将軍・家治(いえはる)、薨ず

虫の報らせというのであろうか、病気届けをだして出仕をひかえていた田沼主殿頭意次(おきつぐ 68歳 5万7000)は、4日目の天明6年8月25日、急遽、身ごしらえをして登城し、将軍・家治(いえはる)への拝謁を願った。

ところが老中首座・松平周防守康福(やすよし 68歳 石見浜田藩主 5万4000石)に拒まれた。
周防どの。なぜかなわぬ?」
意次としては、温厚な康福に似合わない強硬さに不審を覚えながら、周囲の耳をはばかって声を高めることはひかえていた。

「枕頭に付きそっておられる大納言さまのいいつけでござる」
「大納言さま? 若君が---?」
「西丸の大納言さまではない。尾張侯(宗睦 むねちか 54歳)じゃ」

家治の病室はご三家と継嗣・家斉(いえなり 13歳)によって護られていた。

「頼む。この臣・意次、ひとこと、お上にお申しひらきをいたさねば、死んでも死にきれないないのだ」
主殿どの。詮(せん)ないことをいうでない」
「詮ない---?」
「いまは、病気辞任願いをお出しになるべきときであろう」
「------」

康福とすれば長年、盟友としてともに政務にはげんできた意次にかけた忠告であったが、動転していた意次にはつうじなかったようだ。

一日前の24日の『徳川実紀』から数行を写しておく。

さきに命ぜられし寺社、農商より金、銀を官に収めしめ、諸家にかし給ふべしといえる令を停廃せらる。(中略)
これにさしつぎて、さきに令せられし、大和国金剛山の金鉱尋ること、下総国印旛、手賀開墾のこともみなとどめられたりといふ。

もちろんこの『実紀』の記述は、のちのちに諸資料を勘案して記載されたものだが、それが家治が生死の境にあった月日に置かれたことの事情を推理してみるべきであろう。
3件とも、徳川体制の建てなおしを計った意次が推進していた事業であった。

翌25日の『実紀』から、あらゆる記述が欠落している。

深井雅海さんは既出[天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割――御側御用取次 小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所研究紀要 昭和五六年度)に、家治の永眠を、

八月二五日の暁に没した。

と明記。
ほかにも数人の史家が8月25日説を洩らしているからには、どこかに隠蔽された文書があるのかもしれない。

ただし、『実紀』は、

八月二七日 宿老田沼主殿頭意次、病により職ゆるされ雁間詰にせらる。

九月六日 御病いよいよおもくわたらせ給ふによて、三家、溜間、国持、普第(譜代)、外様をはじめ、布衣以上出仕して御けしき伺う。

九月八日 巳下刻つゐに御疾おもらせたまひ、常の御座所にして薨じたまふ。御齢五十。

旧暦といえども寒冷にはほどとおい8月末から9月初旬にかけて11日間も喪を伏せなければならなかったのは、田沼一派の追い落としの手続きに必要な日時だったと見るのはうがちすぎとはいえまい。

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2012.04.09

将軍・家治の体調(6)

「お殿はん。お城、お休みいうことやけど、按配、どないですのん?」
カスドースを半口かじりおえた奈々(なな 19歳)が訊いた。

気づいた佐野豊前守政親(まさちか 55歳 1100石)と平蔵(へいぞう 41歳)が驚いた面持ちで田沼意次(おきつぐ 68歳)を見た。

意次の端正な頬にうすく朱がさしたが、口調はいつものゆるやさで、
「大事ない。周防(すおう)どのが表向きは病気静養という形で静かにしていよ、としつこくすすめたので、とりあえず、したがっているだけだ」

周防とは老中首座の松平(j松井)周防守康福(やすよし 68歳 石見浜田藩主 6万4000石)がことで、次女が田沼意知(おきとも 享年36歳)の正室であった。

「しかし、お上のお加減もおよろしくはないとの---」
銕三郎。そのこと、どこから聴いた?」
「本丸の小姓組の者から---」
「お上のお躰のことは天下の秘事である。めったなことで口にのぼしてはならぬ」
「不調法でございました。お許しを---」
「うむ---」

その剣幕に、平蔵は、ご用取次・横田筑後守準松(のりとし 53歳 6000石)と、西丸・取次の小笠原若狭守信喜(のぶよし 68歳 5000石)の名を口にだすのをはばかったことが、結果、意次の老中罷免につながったかもしれないと、のちのちまで、しこりとなって胸中にのこった。

というのは、『徳川実紀』の天明6年8月15日の記述をどう読みとるかで、推察は大きくかわる。

御感冒のよしにて外殿に出給はず。よて朝会の群臣皆大納言殿(家斉 14歳)に拝謁す。(中略)
こたびの御病気はこの月はじめより水腫をうれいたもふ。

最初のころは、河野仙寿院通頼(みちより 73歳 500石)が調薬をしていたが病状があらたまらないので、この日から替わった奥医・大八木伝庵盛昭(もりあきら 47歳 200俵)がお脈をとっていた。

参照】2010年9月13日[佐野与八郎の内室] (

近臣たちは、当初はさしたることはないとおもっていたようで、この15日に外殿で拝謁をお受けにならないとしらなされ、さてこそとことの重大さにおどろいた。
家治が将軍の座について26年のあいだに一度もなかったことだからであった。

(『実紀』)8月16日 さきに拝謁ゆるされたる市井の医・日向陶奄某、若林敬順某を田沼主殿頭意次推薦し、にわかに内殿に召して御療治の事にあづからしむ。

(『実紀』)8月19日 日向陶奄、若林敬順新に召出れて奥医となりともに林稟米200俵
これが裏目に出たことは諸書が言及している。

(『実紀』)8月22日 このほど大納言殿(家斉 いえなり 14歳)日ごとに本城にわたらせ給ひ、宮内卿(清水家)重好(しげよし 42歳)卿、民部卿(一橋)治済(はるさだ 36)卿も出仕あり。三家使いして御けしきうすずはる。

病枕で家斉なり治済なりから田沼誹謗がそれとなく家治の耳にふきこまれるようなことはなかったであろうか?

(『実紀』)7月同日) 又、田沼主殿頭意次病もて家にこもる。

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2012.04.08

将軍・家治の体調(5)

「---して、音を発する仕掛けとは?」
意次(おきつぐ 68歳)が興味津々といった眼つきで身をのりだした。

「暴徒は無粋な怒声です。こちらは澄んだ鈴の音(ね)をと、鎖帷子(くさりかたびら)の左腕に20ヶぼかりの鈴をつけます。その上に帷子を着(ちゃく)しますから、暴徒にはどこから妙音が発しているかは、しばらくはわかりませぬ」
「うむ、うむ。群集もきょとんと考えこむというわけだな。銕三郎(てつさぶろう)変じて羽柴筑前)となるの図だな」
「恐れ入ります。あれもこれも、 昨年、先手のお頭・横田源太郎松房 よしふさ 45歳=当時 2000石)さまと徒(かち)の1の組頭・石谷(いしがや 市右衛門清茂 きよしげ 48歳=当時 700石)どのに組頭の年齢をお訊きになりました。そのときから暴徒・一揆への備え方を、及ばずながら愚考しはじめました」

参照】2011年9月10日~[老中・田沼主殿頭意次の憂慮} () () () (

佐野豊前守政親(まさちか 55歳 1100石)は、みごとに成長した弟分の平蔵(へいぞう 41歳)の、そのときの指揮ぶりを想像し、眼をほそめていた。

「いま、〔大和屋〕仁兵衛(にへえ 56歳)に鈴の大きさとその音の響き加減を調べさせております。半月後には整いましょう」
「仕置(政治)にかかわる身でこういうことをいうのは不謹慎のそしりはまぬがれまいが、そのときの銕三郎の組の者たちの暴徒の処しぶりが眼にみえるようじゃ。ふ、ふふふふ」

「もう一つの秘策も樹てておりますが、秘中の秘ということで、言明はお許しのほどを---」
「楽しみにしておるぞ」

佳慈(かじ 36歳)と奈々(なな 19歳)が召遣いをしたがえて茶菓を運んできた。
「平戸の松浦(まつら)さまからとどきましたカスドースと申すお茶受けでございます」

ポルトガルわたりの秘菓子であるという。
出府のあいさつとして老中などへ配るための郷里自慢のものだが、日保ちが永くはないので、器具とともに菓子職人を伴ってき、江戸でつくらせたものらしい。

名前のカスは、生地がカステラゆえ、ドーラはポトガル語で「甘い」という言葉だそうな。
つまり、ひと口サイズにきったカステラ生地を卵黄にとおし、熱した糖蜜にくぐらせ、さらに砂糖をまぶしたごく甘いものだが、濃茶にあった。

「平戸藩は250年前から鎖国が令されるまでのあいだに世界をとりこんだ」
意次がつぶやくようにいった。
「新異なものと出会うことで、人は飛ぶのだが---」

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2012.04.07

将軍・家治の体調(4)

奈々(なな 19歳)どの。いい子だから、ほんのしばらく、佳慈(かじ 36歳)の部屋であれの相手をしていてくれないかの」
「あい」

意次(おきつぐ 68歳)の躰からにじみでる貫禄に気をされたかのように、不思議に奈々がすなおにしたがうと、
銕三郎(てつさぶろう 41歳)。いや、許せ。つい、むかしの口ぐせがでての。しかし、まことに銕三郎にふさわしい名前よのお。与八郎---いや、備前)どののこのたびの出府はの---おことが考案したといわれておる鎖帷子(くさりかたびら)を500着、急ぎ発注したいのに、いっかな聞きとどけられないのに業をにやしての直談判のためなのじゃよ。は、ははは」

「500着と申しますと、2000両(3億7000万円)。お奉行がお供をお召し連れになって東海道を1回下り上り往還なさすればその半分はふっとぶ金額ではございませぬか---」
「旅の掛りは旅羽織のはらった埃とともに消え去ってしまうが、鎖帷子は250着がきちんとのこる。役人というのはそこのところがわかっておらぬのじゃ」
意次は力なく笑い、佐野豊前守政親(まさちか 55歳)は、めっきり白いものがふえた鬢をかいて、
「大坂具足奉行からあげた具申書を、大坂城代の祐筆が、うっかり本城の具足奉行へ宛てたのが間違いも元でな。本城の具足奉行は、われらが職務は幕府方の具足についてであって、各藩が勤める定番の士の鎖帷子の掛りまでは面倒見かねると却下したのじや」

大坂の定番には京橋口し玉造口があり、1万石から2万石までの小藩大名から役務が課せられることはも庭番支配の倉地政之助満(ますみ 47歳)から聴いた。

参照】2012年1月14日~[庭番・倉地政之助の存念] () () () (

「しかし兄上。定番を勤めておる小藩が、200着もの鎖帷子で武装するほどの警備の士を配備しているとはおもえませぬが---?」
「さすが銕三郎、よくぞ気がまわった。警備の士はほとんど自藩の藩士ではなく、臨時に雇っている牢人たちである。定雇いといっても20俵ていどで、両刀を帯びるのがやっとというところ。ひとつの口には150着ずつという勘案であった。あとは東西の町奉行所が各100着」

「それで、ご老中に直訴なされた結果は---?」
「半減されたが認可された。〔大和屋〕から指南の職人に大坂へ来てもらい、これから大急ぎでつくりはじめる。ついては、銕三郎からの助言もほしい」

「いま、試しにつくっておりますのは、暴徒対策としての音です---」
「音---?」
「暴徒たちは喚声をあげながら打ちこわしにかりましょう。その喚声にまけない音を発する鎖帷子を考案しております」

「うむ。銕三郎、みごと!」
嘆声を発したのは意次であった。

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2012.04.06

将軍・家治の体調(3)

思慮深い盟友の浅野大学長貞(ながさだ 40歳 500石)が名をあげた、横田筑後守準松 のりとし 53歳 6000石)は、本丸の側衆のなかに2人いるご用取次の1人で、安永3年(1774)年から仕えてきている先任者であった。

2番手は本郷伊勢守泰行(やすゆき 42歳 2000石)で、田沼意次(おきつぐ 61歳=当時 安永8)に認められての小姓組番頭格からの抜擢であった。
もちろん、家治の好みも汲まれていた。

(へい)さんがどなたかさんのために案じているのであれば、痛手がもっとも大きいのは、一番近い身内の裏切りであろう---」
鰹の中落(なかおち)をほじっていた平蔵(へいぞう 41歳)が箸をおき、長貞をじっと瞶(みつ)め、
(だい)さん。聴かせてくれ。このところろ、西丸の若君・大納言(家斉 いえなり 14歳)が毎日のように本丸にわたっておられ、それにご用取次・小笠原若狭守信喜 のぶよし 68歳 5000石)老がつきっきりとの風評がある。本丸はどうなっておるのだ?」

平蔵を見返して嘆息した長貞が、
「勘の鋭いさんなら、その風評だけで、もう、察しをつけているはずだ。勘にしたがったらよいではないか」
「そうか。それほどにお上はお気がお弱くなっておられるのか---?」
「人間、天寿がきたと悟れば、これまでの寛容の仮面も落とそうよ」
「50の天寿か---」


秋宵-----。
平蔵は招きに応じ、月魄(つきしろ)に乗馬袴の奈々(なな 19歳)を乗せて木挽町(こびきちょう)の田沼家の中屋敷を訪(おとな)うた。

礼式をふんだ訪問ということで納得したらしく、月魄も奈々の乗馬袴に異議は示さなかった。

中屋敷での意次は、先客と話していた。
「おことがところまでは手はまわさないとおもうぞ---}

意次(おきつぐ 68歳)の透きとおるような声がそこまで洩れたところで、佳慈(かじ 36歳)が、
長谷川さまと奈々さまが越されましてございます」
「うむ。通せ」
意次は、略式の部屋衣であった。

先客は、大坂西町奉行の佐野備後守政親(まさちか 55歳 1100石)であったで、里貴(りき 逝年40歳)の跡継ぎで紀州・貴志村の生まれと奈々を紹介した。

政親は堺奉行の職にあったころ、わざわざ貴志村を訪ねて里貴をはげましてくれた。

参照】2010年11月7日[里貴からの音信(ふみ)] () () () (

「ほう。銕三郎(てつさぶろう)の兄者のような佐野です」
政親が神妙に頭をさげると、
「うち、おじちゃんをしってます。里貴おばちゃんちへ馬で来ィはったことのあるお偉いさんどすやろ。あんとき、みんなしてのぞきに行ったん」
「それはそれは---銕三郎、いいむすめができてよかったな」
「うち、むすめとちがいます。里貴おばちゃんの跡継ぎです。よろしゅうに」

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2012.04.05

将軍・家治の体調(2)

「お上のお具合がおよろしくない――? それはどういうことだ?」
「しッ! そんな声をだすなッ。隠し目付の耳にでもはいったら大ごとになる」
浅野大学長貞(ながさだ 40歳 500石)が制した。

「すまぬ」
(へいぞう 41歳)が素直に謝った。
ちょうど、女中が酒をささげてきたので、2人とも会話をひかえた。

「帳場からの差し入れのとりもつ煮でございます。主人の国許のしもじもの酒の肴で、お店の品書きには載せておりませんが、長谷川さまのご先代のお好みでございましたので、ご当主さまがおわたりくださるというので、とくべつに手配いたしました」

長貞が一切れを口にし、
「甘露。軍鶏の肝の甘煮に似ているが、こちらのほうが歯ごたえがあって雛びている。(へい)さん、どうだ?」
「亭主どのの国許はたしか、古府中(甲府城下)であったように覚えておるが---」
平蔵が女中にたしかめた。

「はい。私もそのご縁でこちらへ---」
「甲州おんなは情が深いと申すから、亭主どのは満悦であろう」
平蔵の軽口をまともにとった女中がおもわずもらしてしまい、顔を赤くして引きさがった。

さん。さきほどの話のつづきだがな、4月の11日の王子村でのご放鷹のおり、お顔の色に黒味がさしておっていつものご精気が感じられなかったのだよ」
「小姓組の古参番士として、中奥小姓にお膳のすすみぐあいなどたしかめてみたか?」
「いや。そこまで踏みこんでは、分にすぎる」

長貞のいなしに、もっともとうなずいておき、
「西丸の側用お取次・小笠原若狭守信喜 のぶよし 68歳 5000石)老についてなにか聴いていないか?」
「なにかって、なにをだ? 今宵の呼びだしの本筋はどうやら若狭老らしいな」

参照】2012年3月4日~[小笠原若狭守信喜(のぶよし)] () () () () () () () () () 

たいしたことではないが、といった感じでさらりというのが長貞が癖であった。
だから周囲の者は、浅野はいつ本気になるのだろうとささやいている。
浅野内匠頭長矩(ながのり 享年35歳)がすぐに沸騰する気質の持ち主で、結局、5万石を棒にふり、47人の旧家臣を切腹にまで追いこんだ例をいましめとし、本気をみせないことを家訓のひとつとし
ていた。

さん。本丸の側用お取次の横田筑後守準松 のりとし 53歳 6000石)どのは注意の外なのだな?」
「逆に訊きたい、筑後どのになにか ---?」
おもいもよらなかったのであろう、平蔵の表情が一瞬、硬くなった。


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(用取次・横田筑後守準松の個人譜)


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2012.04.04

将軍・家治の体調

登城した平蔵(へいぞう 41歳)は、顔なじみの同朋(どうぼう 茶坊主)を本丸の小姓組6の組の番士・浅野大学長貞(ながさだ 40歳 500石)のところへやった。

「非番でご出仕ではありませんでした」
「われのところの松造(よしぞう 36歳)を門のところまで呼んでくれ」
先手組頭へ昇格したので、同朋につかませる小粒も倍にした。

松造を市谷・牛小屋跡の浅野長貞の屋敷へやり、今夕七ッ半(5時)に市ヶ谷八幡社の境内の料理茶屋〔万屋(よろずや)〕で会う段取りをつけさせた。
「〔万屋〕の席取りもわすれるなよ」
〔万屋〕は、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の生前に2,3度つれられてあがったことがあった。

「表からの石段はかなり急だから、(だい)の屋敷からだと裏から入れば石段をのぼらずにすむぞ」
つけくわえた注意のごとく、社殿も〔万屋〕も市ヶ谷台地の上にあった。

参照】【参照】聖典・文庫巻6[狐火

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(市ヶ谷八幡宮 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


もしこの日、平蔵が約束の時刻どおりにあらわれていたら、19年ぶりに再会することになった女性と旧交をあたためたというより、〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 60すぎ)の大泥棒の片鱗をつかんだであろうに。

参照】聖典・文庫巻4[おみね徳次郎

ちょうすけ注】長貞に井戸で冷やしておいた麦茶を給仕した男ずきのする仲居は、座敷名をお(のう 26歳)と変えていた、〔法楽寺〕のおんなのおすみであった。

下城まぎわにちょっとしたごたごたがあった平蔵がいそいでかけつけたときには、昼番のおすみは伝馬町裏通りの長屋へ帰ってしまっ
てい、長貞は、神田川をはさんだ東側の台地の武家屋敷――番町につらなっている甍(いらか)をめずらしげに眺めていた。

「なんだ、こんな近まの料亭なのに初めてか?」
「近まだからかえって足遠くなるのが高名料理屋よ」
「それもある」

酒が運ばれ、亭主の喜作が、先手組頭へ昇進の祝辞とともに、ぬけなく、
「ご尊父さまのとき同様に、今後ともご贔屓のほどを---」
お定まりの追従を述べてさがると、
「わざの呼び出しはなんだ? (へい)さんのお祝いは佐左(さざ)と相談しているところだ」

佐左とは、盟友のひとり・長野佐左衛門孝祖(たかのり 41歳 600俵)の仲間うちでのあだ名というか、呼び名であった。
西丸・書院番3の組でくすぶっていた。

浅野大学長貞は「」、平蔵は「」。

「本丸のほうに異常はないか---?」
「うん。お上(かみ)のお具合がよろしくないぐらいかな」


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