将軍・家治(いえはる)、薨ず(4)
ちょっとわき道へそれるようだが、どうしても解いておきたい小さな疑念があるので、寄り道をしたい。
西丸・用取次の田沼能登守意致(おきむね 48歳 2000石)のことである。
意致が一橋 の家老であった意誠(おきのぶ 享年53歳)の長子であることはすでに触れた。
また、意誠が意次(おきつぐ)の弟というのも周知のことがらである。
一橋治済(はるさだ)と意次がある時期、手ほむすんでいたこともなんども書いた。
一橋家の豊千代(のち家斉 いえなり)が将軍・家治(いえはる)の養君として江戸城にはいるとき、意致が諸事をこなしたこともすでに記した。
【参照】2011年2月20日[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (6)
そういう裏事情をふまえた上で、『続徳川実紀』の天明6年(1786)10月17日の記述を読むと、いささか胸さわぎがする。
十七日 御側田沼能登守意致請ふままに申次を免さる。
修辞は伯父・意次の宿老の辞職とおなじで願いがききとどけられた形をとっているが、反田沼派の鋭い刃が意致にまで及んだかと勘ぐってしまう。
これから20日ほどのちの『続実紀』---
閏十月四日 西城御側田沼能登守意致本城へ召連らる。
(あれ、御側を免じられたのではなかったのか?)
それで、『寛政重終諸家譜』に目をとおしてみた。
まず、10月17日の人事について。
(天明六年)九月十八日本月の末より病にかかるにより、執啓の事を辞するといへども、いまだほどなきが故加養すべしと仰下され、十月十七日ふたたび請むねありてこれをゆるさる。
この文面からは2様に解釈できる。
じっさいに家治の死と伯父・意次の老職辞退、さらには従兄弟たちの養子縁切りなどによる心労からの発病。
もう一つは、自分へもふりかかるであろう自粛の要請の前の自衛の処置。
『寛政譜』にはつづきがある。
閏十月四日(家斉が)本城へうつらせたまふの供奉を命ぜられ、二十六日浚明院殿(故・家治)の御刀を賜ふ。
十二月二十五日病によりて近侍を辞すといへども、なお壮年なれば保養を加えて勤仕すべきむねを仰せ下さる。
(翌天明)七年(1787)四月二十三日将軍宣下を賀せられて時服四領たまふ。
五月二十八日ふたたび請て務めを辞し、菊間の広縁に候す。
寛政六年(1794)十二月二十七日大番の頭となり 八年六月二十五日死す。年五十六。
大番頭職を受けた寛政6年といえば、松平定信は前年、閣外へ去っていた。
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