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2011.02.09

田沼意次の世子選び(2)

将軍の世嗣を選ぶ初談合で、めずらしく田沼意次(おきつぐ 63歳 相良藩主)が、冒頭に発言した。

「大納言(家基 いえもと 享年18歳)公がご生存であれば、20歳におなりである。公は、次期将軍としてのご訓育を存分におうけになられておった。どうであろう、将軍訓育ということであれば、こう申しては誤解をまねきかねないが、薹(とう)がたっていないお齢ごろということで、15歳以下ということに、選考をしぼってはいかがでござろうか?」
若年寄・酒井石見守忠休(ただよし 78歳 出羽・松山藩主)が賛意を示し、留守居・依田豊前守政次(まさつぐ 80歳)も肯首した。

いや、だれがかんがえたって、意次の提案は筋がとおっている。

このとき、田安家から久松松平家(白河藩)に養子にはいった定信(24歳)は選考の圏外へ落ちていた。

それを、意次の陰謀で将軍の座にすわりそこねたと生涯うらんでいた定信には、将軍職というものについて『貞観政要』でも読み返すことをすすめたい。

意次の線引きで、尾張家からは、当主・宗睦(むねちか 50歳)はとうぜんとして、勝長(かつなが 47歳)、勝当(かつまさ 46歳)、勝綱(かつつな 44歳)、勝起(かつおき 44歳)、正国(まさくに 43歳)、頼多(よりかず 40歳)、政脩(まさのぶ 30歳)、治休(はるちか 29歳)、治興(はるおき 26歳)が消されていった。


紀伊家では、治貞(はるさだ 54歳)、重倫(しげみち 36歳)、学文(さとふみ 31歳)、頼興(よりおき 30歳)、頼謙(よりかた 27歳)、忠功(ただかつ 26歳)、為脩(ためのぶ 23歳)、頼徳(よりのり23歳)、頼融(23歳)、頼朴(20歳)などが年齢制限で消え、わずかに治宝(はるとみ 11歳)がのこった。


水戸家は、当主・治保(はるもり 31歳)、保受(21歳)、保福(20歳)、信敬(18歳)は対象からはずれ、治紀(9歳)、保右(6歳)が選考された。


田安家は、定国(さだくに 久松松平家養子 25歳)、定信(さだのぶ 久松松平家養子 24歳)、斉匡(3歳)


一橋家は、治済(はるさだ 31歳)、豊千代(のちの家斉 いえなり 9歳)、力之助(のちの治国 はるくに 6歳)

清水家は、当主・重好(しげよし 35歳)。


談合の経緯を目にしたことはないが、大祖・家康(いえやす)にすこしでも血が近い者という名分はあったとしても、紀州勢の意次はひそかに、八代将軍・吉宗(よしむね)にもっとも近い血を選ぼうとしたのではあるまいか。

結果は、意次の内意にそった、一橋家の嫡子・豊千代にきまった。
徳川諸家系譜』は、治済の項に、

長男家斉、安永ニ年十月三日生。母岩本氏。将軍家家治賜名豊千代、天明元年閏五月十八日家治養為儲嗣。

徳川実紀』は、その6日前の5月12日の項に、

西城裏門番の頭・辻源五郎盛陰。小十人頭・川村主計忠助。大番組頭・名取半左衛門信富共に西城広敷(頭)用人となり、寄合・田中一郎右衛門末吉小十頭となる」
西城の新番命ぜられるる者十九人。大番より十人、小十人より四人、小普請より五人。

と記しているから、すでに内定していたともおもえる。

5月18日の項には、

けふ令されしは、西城後閤の修理落成せしによて、小普請奉行岩本内膳正正利により、留守居依田豊前守正に引き渡すべし。又今まで西城留守居たりしが、此後はみな各局に復せしむべしとなり。

小普請奉行の岩本正利の内室は老女・梅田の養女で、そのあいだにできたむすめが豊千代を産んだことは、かつて当ブログであかした。

さらに、閏5月18日には、

(一橋)民部卿治済卿、嫡子豊千代君をともなひて出仕あり。
御座所に召して拝謁せらる。
ときにこたび、豊千代を養わせ給ひ、御代つぎに定めらるるよし仰くだされ、豊千代君に長光の御刀、来国光の御脇添さつづけ給ひ、御手づから熨斗鮑まいらせる。(略)
けふより、豊千代君のこと、若君と称し進らすべしとなり。

同年7月15日の項では、

田沼主殿頭意次一万石加増秩あり。
備前国清光の御刀を賜り、若君よりも時服五襲を賜る。
これ、若君養わせ給ひし事を、専らうけばりつかふまつりし労を褒せられての事とぞ。

褒賞のことは、酒井石見守の『寛政譜』にもとられている。
最古参の譜代である酒井家には、左衛門尉を受け継ぐ家と、雅楽助(うたのすけ)を継承する2家系があり、石見守は前者の家系であった。

武田方の宿将の流れであった依田和泉守政次が初めて当ブログに登場したのは、北町奉行として、5手掛りの評定所での談合のときのことであった。

依田和泉守の『寛政譜』には、なぜか、褒賞の記述がない。

【参照】2007年8月12日 [徳川将軍政治権力の研究] (

もっとも、『実記』の7月25日の条に、

留守居・依田豊前守政次金三枚、時服三。目付・村上三十郎正清(まさきよ 58歳 1200石)、末吉善左衛門利隆(としたか 55歳 300俵)、時服ニずつ、別に金ニ枚ずつ。元方納戸頭夏目長三郎成高(なりたか 53歳 300俵)時服ニ給ひ、其所属のもの等、みなこたび御養君の事にあづかりしもて、金銀・じふくたまふ事差あり。

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3n_360
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(酒井石見守忠休の個人譜)


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コメント

あいかわらずの綿密な史料調べからの定信批判、納得できます。

投稿: 文くばりの丈太 | 2011.02.09 10:25

>文くばりの丈太ん
いえ、松平定信にちょっと点が辛いだけです。
政敵とはいえ、相良城を徹底的に破壊しつくした例のない異常さ、田沼派と見なした長谷川平蔵に出費が少なくない火盗改メを7年もつづけさせた火盗改メ史上類のない過酷さ---など、この人の常識を疑っているのです。

投稿: ちゅうすけ | 2011.02.09 18:48

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