田中城しのぶ草(25)
「そうか。来てくれると返事があったのは、一人だけであったか」
「手前の口上が至らなかったせいと存じます」
「そうではあるまい。君子、危うき近寄らず---」
「殿さま---」
「よい、よい」
芝二葉の田中藩の中屋敷の書院の間である。
報告しているのは、長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭 400石 役高1000石)、受けているのは前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし 50歳 駿州・田中藩4万石)。
宝暦9年(1759)年2月13日に逼塞(ひっそく)の沙汰が解けたので、中秋の名月を、かつて田中城にゆかりのあった者の子孫を招き、ともに月見の宴を、ということになり、平蔵宣雄が息・銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)を使ってそのリストをつくり、誘いをかけてみたものの、応じたのは酒井宇右衛門正稙(まさたね 38歳 大番 廩米250俵)ただひとりという結果に終わった。
その酒井正稙は、風流の宴にはふさわしくない魂胆を秘めているらしいので、この催しはお辞めになってしかるべきかと---とは、書状で進言しておいた。
本多伯耆守侯のところへ伺うといえば、銕三郎が同行をせがむに違いない。
銕三郎は、田中城代の面々の氏名探索のために、東海道を上下したのだから、とうぜん、同行を申しでていいと思いこんでいる。
酒井宇左衛門正稙の心根を、銕三郎には聞かせたくなかった。
そのことは、書状を読んだ本多正珍侯も察していて、先刻の会話以上の追求はしなかった。
「銕三郎は、田中の城下をどう観た?」
「お城は立派でした。しかし、城下町とは申せないかと---」
「ほう---」
「あのお城は、戦闘用に造築されたものと拝察いたしました。周りに人家などがあっては、かえって防御の邪魔かと---」
「なかなかに鋭いの」
「東海道の宿場々々にあるお城は、天下から戦いがなくなったいまは、商いの場の要(かなめ)となっておりましたが、田中のお城はそうではございませぬ。農民の安全に睨みをきかせるためのお城と拝察いたしました」
「長谷川どの。ご子息は末たのもしい。軍学を究めさせたいほどよ」
宣雄は、手を振って言った。
「殿。つけあがります。おだては、ほどほどにお願いいたします」
「いや。おだてではない。なかなかに筋が通っておる」
「道中に、いろいろと勉強することがあったのでございましょう」
銕三郎の顔に、一瞬、朱がさしたのを、本多侯は見逃さなかった。
「銕三郎。元服の前祝じゃ。この短刀をつかわそう。道中はご苦労であった」
「いえ---はい、かたじけのうございます」
【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24)
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