カテゴリー「095田中城代」の記事

2007.10.27

田中城しのぶ草(25)

「そうか。来てくれると返事があったのは、一人だけであったか」
「手前の口上が至らなかったせいと存じます」
「そうではあるまい。君子、危うき近寄らず---」
「殿さま---」
「よい、よい」

芝二葉の田中藩の中屋敷の書院の間である。
報告しているのは、長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭 400石 役高1000石)、受けているのは前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし 50歳 駿州・田中藩4万石)。
宝暦9年(1759)年2月13日に逼塞(ひっそく)の沙汰が解けたので、中秋の名月を、かつて田中城にゆかりのあった者の子孫を招き、ともに月見の宴を、ということになり、平蔵宣雄が息・銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)を使ってそのリストをつくり、誘いをかけてみたものの、応じたのは酒井宇右衛門正稙(まさたね 38歳 大番 廩米250俵)ただひとりという結果に終わった。

その酒井正稙は、風流の宴にはふさわしくない魂胆を秘めているらしいので、この催しはお辞めになってしかるべきかと---とは、書状で進言しておいた。
本多伯耆守侯のところへ伺うといえば、銕三郎が同行をせがむに違いない。
銕三郎は、田中城代の面々の氏名探索のために、東海道を上下したのだから、とうぜん、同行を申しでていいと思いこんでいる。
酒井宇左衛門正稙の心根を、銕三郎には聞かせたくなかった。
そのことは、書状を読んだ本多正珍侯も察していて、先刻の会話以上の追求はしなかった。

銕三郎は、田中の城下をどう観た?」
「お城は立派でした。しかし、城下町とは申せないかと---」
「ほう---」
「あのお城は、戦闘用に造築されたものと拝察いたしました。周りに人家などがあっては、かえって防御の邪魔かと---」
「なかなかに鋭いの」
「東海道の宿場々々にあるお城は、天下から戦いがなくなったいまは、商いの場の要(かなめ)となっておりましたが、田中のお城はそうではございませぬ。農民の安全に睨みをきかせるためのお城と拝察いたしました」
長谷川どの。ご子息は末たのもしい。軍学を究めさせたいほどよ」
宣雄は、手を振って言った。
「殿。つけあがります。おだては、ほどほどにお願いいたします」
「いや。おだてではない。なかなかに筋が通っておる」
「道中に、いろいろと勉強することがあったのでございましょう」
銕三郎の顔に、一瞬、朱がさしたのを、本多侯は見逃さなかった。
銕三郎。元服の前祝じゃ。この短刀をつかわそう。道中はご苦労であった」
「いえ---はい、かたじけのうございます」

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24)

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2007.10.26

田中城しのぶ草(24)

「それで、酒井の先代どの、逝かれた父ごどのが、なにか?」
話の先をうながすように、長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭 400石 役高1000石)が聞きかけると、中根伝左衛門正雅(まさちか 71歳 書物奉行 廩米300俵)は、口にしかけた盃をそのまま膳へもどして言った。

「他言はご無用にお願いできますか?」
「無論です」
「かような他人さまの些事は墓場へ持っていくつもりでしたが---」
伝左衛門正雅は、こんなことを話した。

伝左衛門が大番の番士として柳営にあがったのは享和3年(1718 その時30歳)春であった。番頭(ばんがしら)はすでに13年も務めていた本多因幡守忠能(ただよし その時47歳 9000石)。鷹揚な人で、万事を与頭(くみがしら)3人にまかせきっていた。
その与頭の中でも先任の小尾(おび)庄左衛門武元(たけもと その時56歳 廩米450俵)は、上にも下にも受けのいい仁で、伝左衛門正雅の面倒もよくみてくれた。それというのも、小尾家は先祖が武田の庶流で、横須賀城の攻防では、伝左衛門の生家の本家筋の祖と、敵味方として槍をあわせた仲ということだった。そのように、ものごとをいいほうへ解する習癖のある陽気な徳の持ち主であった。

その庄左衛門武元が、3番組の番士・酒井兵左衛門正賀(まさよし その時39歳 廩米250俵)が言っていることは、いささか忌避にふれるから、聞いても聞き流すようにと耳打ちしてくれた。
酒井は、祖・茂兵衛正次(まさつぐ)が駿河城勤番の38歳の時、大納言(忠長 ただなが)卿をお諌(いさ)めしてお手討ちになったのに、お上は正次の忠心を、いっかな、お認めくださらないと、埒(らち)もない不服を言っているのだよ」

そのことは、伝左衛門が西丸の新番に就いたとき、同役となった酒井正賀の父・宇右衛門正恒(まさつね その時64歳)からも聞かされた。

「書物奉行となってから記録を調べてみると、酒井正次どのが38歳で卒したのは、忠長卿が駿河大納言として駿州50余万石を領される前の勤番時代とわかりました」
「なんのために、お手討ちなどと大仰なことを---」
「さ、そのことです。たぶん、里見北条以来の家柄なのに、扶持が少ないということを、遠まわしに言っていたのでしょう」
「すると---」
「そうです、本多伯耆守さまへも、訴えてみるつもりでしょうかな」
本多侯は、すでにご老中をお退きになった身---」
「もちろん、訴えたからといってどうなるものでもないことは百も承知の上で、愚痴をこぼしてみたいのでは---」
「本多侯としても、ご迷惑な話---」

宣雄は、長谷川久三郎(4000余石)の広大な屋敷へ向かうために逢坂をのぼりながら、71歳になりながら、まだ養子を取らないでいる、中根伝左衛門の、継嗣に先立たれた深い悲しみを思いやり、夜道よりも暗い気分になっていた。

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【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (25)


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2007.10.25

田中城しのぶ草(23)

四谷裏大番町の酒井家を辞去した長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭 400石 役高1000石)は、思いついて、従っていた六助を、市ヶ谷船河原町・逢坂上横町の中根伝左衛門正雅(まさちか 71歳 書物奉行 廩米300俵)の屋敷へ先行させた。返事をもたらすための道筋を打ち合わせた六助は、灯の入った提灯を宣雄に渡した。

これから訪ねていいかを伺わせるのである。
この日訪ねた酒井宇右衛門正稙(まさたね 38歳 大番 廩米250俵)の『寛永譜』の写しをくれたのも、伝左衛門正雅であった。
正雅は、享保3年(1718)から11年(1726)に西城の新番へ移るまで---ということは、30歳から8年間、本丸の大番をつとめていた。
酒井正稙が大番組へ出仕したのは、中根正雅が新番組へ思ったが、先夜のお礼ね兼ねて、と思ったのである。

四谷裏大番町から逢坂上横町へまわると、築地・鉄砲洲への自宅へはいささか遠まわりになるが、いざとなったら、先夜、銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)にそうさせたように、御納戸町の同族・正脩(まさなり 長谷川久三郎 4070石)のところに造作をかければいい。
いい季節で、暮れた夜道の微風が心地よかった。

六助とは市ヶ谷門外で出会えた。
中根さまは、お待ちしていると申されました」
「またまた足労だが、御納戸町の長谷川へ行って、今夜遅くに泊まりたいと告げ、それから築地へ帰って、奥へそう伝えてくれい」
「かしこまりました。随分とお足元にお心づかいを---」
そういって、六助は腰の包みから蝋燭をだして、提灯の灯を替えた。
中根伝左衛門が気をきかせて持たしたらしい。

中根伝左衛門は、門扉を開き、高張り提灯2基に灯をいれて待っていてくれた。
「まるで花嫁でもお迎えになるようで、ご近隣衆がなにごとかとお驚きでしょう」
「なに、そう思わせておけば、華やぐというもの」

中根家は、間口は6間とさほどでもないが、奥がその10倍も深かった。
「奥方どのは?」
廊下を案内されながら、宣雄が訊いた。
「10年も前から、鰥夫(やもめ)でござって---」
「存じぜぬこととはいえ、失礼をば---」
「なになに、うじにお気をおつけなされよ」

下(しも)の者にいいつけたらしく、酒が用意されていた。
「ご高配をたまわった酒井宇右衛門どののことですが---」
酒井どのがどうかしましたか?」
「本多侯のお招きを、あまりにあっさりとお受けくださったので、はて---と」
「うーむ。やはり、な」
「なにか、お心あたりでも?」
「いや---」
「お差支えなければ---」
「その、お尋ねの宇右衛門正稙どのことは、じかには存じませぬ。なれど、父ごの兵左衛門正賀(まさよし)どのとは大番時代に、あちらは3番組、こちらは4番組でした。
「それはご奇縁」
「奇縁はも一つありましてな。先代・宇右衛門正恒(まさつね)どのとは、そのあと、西丸の新番でごいっしょになりまして---」
「先代といわれましたか?」
「これは失礼。父ごの正賀どのは、先に逝かれましてな」
「すると、正稙どのは、正恒どののお孫?」
「さよう、さよう。お渡しした酒井どのの『寛永譜』の写しを眺めているうちに、あれこれ思い出しました」
宣雄に酌をし、自分の盃も満たしたあと、遠くを見つめるような目に微笑をうかべた。
「西丸では、高井飛騨守さまの組にあちらも---」

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (24) (25)


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2007.10.24

田中城しのぶ草(22)

「いや、お招きいただくのであれば、よろこんで参上いたします」
酒井宇右衛門正稙(まさたね 38歳 大番 廩米250俵)は、答えた。
あまりに、いさぎよい返答に、主旨を伝えた長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭 400石)のほうが意外に思ったが、顔にはださない。

場所は、四谷裏大番町の組屋敷---いまの新宿区内藤町。切絵図を間違いなく読みとっていれば、多摩のほうへ引っ越される以前の、故・斉藤茂太さんの病院があったあたりである(もっとも、そこに酒井又三郎という仁の家があったからで、250俵だと、大番組の縄手---組屋敷住まいだったのかもしれない)。
Photo
(四谷大番町組屋敷と酒井家=赤○)

「それで、お集まりの方々は---?」
「お誘いいたしたお一方は、 こちらのご先祖である茂兵衛正次(まさつぐ)さまとごいっしょに駿河勤番をなさっていた大久保甚左衛門忠直(ただなお)さまの---」
「わが祖の正次の先任ご城代であった---」
「さようです。そのご当代・荒之助忠与(ただとも 48歳 目付 1200石)さま---」
「なんと返事を---」
「公務多端につきと---」
「ご出世なさる仁は、心得てござる」
「------」
「長谷川どの。そちらは、今川の出でありましたな」
「はい。祖は、今川では、義元(よしもと)公亡きあと、田中城をお預かりしておりました」
「ああ、そのご縁で、伯耆守正珍(まちよし)侯のお手伝いをされておられますのか」
「それもありますが、侯がご老中のときに、お引き立てをいただきましたゆえ」
「おもしろいお方じゃ。年少のこちらが申してはなんですが、ご気概、感服いたしました」

宇右衛門正稙がいいたかったことは、宣雄にはよくわかっている。
わざわざ今川の名をだしたのは、自分のところの酒井は、徳川の大身の酒井家とは無縁で、上総国の里見家の重臣で、鴻の台(千葉県)の北条家との合戦に参加し、かえって敵方の北条氏康にその武勇を認められて引きぬかれた家柄なのに、たかが大番の番士で廩米250俵と自嘲したかったのであろう。

その愚痴がでる前に、宣雄は辞去した。

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【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (23) (24) (25)

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2007.10.13

田中城しのぶ草(21)

昨夕だった。
長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)を、書物奉行所の中根伝左衛門正雅(まさちか 300俵)が、鉄砲洲の屋敷までわざわざ訪ねてきた。
伝左衛門は、当年71歳の高齢であり、その屋敷は牛込逢坂(おうさか)上横町だから、ずいぶんと遠回りである。

玄関まで出迎えた宣雄は、恐縮しきっていた。
「これは、これは---。お使いをいただけば、参上いたしましたものを---」
「なに、城内でたしかめたら、長谷川どのは非番で、ご登城なさっていないということでしたのでな」
「明日は登城いたしましたのに---」
「いや、明日は、手前の方が非番で---」

玄関先ですみそうもない話らしいと伝左衛門の表情から察した宣雄は、とにかく書院へ通した。
「ご依頼のあった松下大膳亮忠重が判明いたしましてな」
「それは、それは---」
「それが、代わりの者に届けさせるわけには参らぬ方と知れましたゆえ、自身で参りました次第」

伝左衛門は、懐から袱紗の袋をだし、眼鏡を抜いて紐を耳にかけてとめた。
もうこの頃には、鉄枠にギヤマンを磨いた半玉を入れた眼鏡が作られていた。
「これなしでは、手前のような老骨には、書物奉行所は勤まりませぬ。いや、まさに書物奉行助役(すけやく)とでも名づけてやりたいほどの重宝もので」
伝左衛門は苦笑まじりにそういい、つづいて、宣雄が前に預けた田中城代の名書きの写しを出して広げる。

慶長14年(1609)12月- 頼宣領
元和5年(1520)7月-  幕領 
           城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月-  忠長領 
           城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月   幕領 
           城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの

「先日、書き間違いではないかと申しあげたこの松下大膳亮忠重どのですが、あの時、城主になられた松平(藤井)伊賀守忠晴(ただはる 2万5000石)侯の線もあるやに推量しました」
「そのように承りました---」
「その松下松平の筆間違いという思いつきがきっかけとなり、権現さま(家康)さま時代の松平家をあたってみましたら、なんと---」
「いらっしゃいましたか」
「いらっしゃいました、桜井松平大膳亮忠重(ただしげ)侯」
「桜井松平---」
「さようです。長親(ながちか)君の庶子で内膳正を名乗られて、三河の桜井の地を賜っておられた松平信定(のぶさだ)侯を祖とされた桜井松平家、その7代目の忠重侯でした」
「ほう---」

ちゅうすけのつぶやき】宮城野昌光さん『古城の風景 1]』(新潮文庫 2008.04.1)に桜井城址と信定が載っている。

「ただ、忠重侯は城代はいっときのことで、のち、上総・佐貫藩1万5000石の藩主となられ、寛永10年に田中城主・2万5000石で帰ってこられました」
「城代もお勤めになられたが、むしろ、ご藩主のほうが長かったと---」
「2年のちには掛川城主にご転になっていますが---いや、お目にかかってお話し申したかったのは、このことではありませぬ。ご当主が遠江守忠名(たたあきら)侯---」
「宝暦元年(1751)に33歳だかで摂津4万石・尼崎藩主をお継ぎになった---」
「さようです。徳川ご一族でもあり、尼崎侯であられるお方の家譜は、許可を得ずして人目に触れさせることは好ましくないご定法になっていることはご存じのはず---」

その定法のことは、宣雄も承知していた。
松平(桜井)大膳亮忠重のことを、目的はどうあれ、中根伝左衛門に依頼したということが洩れると、目付の下役などに痛くもない腹をさぐられかねない。
それで、伝左衛門は口どめをするために、自ら訪ねてはきてくれたわけだ。

宣雄は、酒肴の用意をいいつけて、中根伝左衛門の好意に報いることにした。

ちゅうすけ注:】
『寛政譜』から桜井松平の家譜と、大膳亮忠重遠江守忠名の譜を参考までに掲げる。
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参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (22) (23) (24) (25)


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2007.10.11

田中城しのぶ草(19)

長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)は、先刻より、息子の銕三郎が藤枝宿の青山八幡宮からもらってきた、徳川幕府初期の田中城代の名書きを見つめている。

慶長14年(1609)12月- 頼宣領
元和5年(1520)7月-  幕領 
           城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月-  忠長領 
           城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月   幕領 
           城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの

いまは芝双葉町の下屋敷に逼塞している、つい先年まで田中藩の当主だった本多伯耆守正珍(まさよし)侯の発案で、田中城代の末裔たちが寄って、一夕、月見の宴を設けることになった。
その呼びかけ先と、参加の意志の有無の確認を、宣雄が確かめることになっていたのである。

伯耆守正珍侯は、郡上八幡藩の農民一揆の処置を手ぬかって、老中を罷免させられ、藩主を引退・逼塞の身の上であった。

名書きにある一家---大久保忠直(ただなお)・忠当(ただまさ)の末、荒之助忠与(ただとも 48歳 目付 1200石)からは、不参加の返事がきていた。
理由として、逼塞を命じられているお方の屋敷を、目付の職にあるものがお訪ねするわけにはいかない、という筋論が記されていた。
参照:2007年7月3日[田中城しのぶ草](14)
2007年7月4日[田中城しのぶ草](15)
2007年7月5日[田中城しのぶ草](16)

その旨を本多侯に告げると、侯は苦笑まじりに、
「さても、譜代の身で、背骨(はいこつ)の弱い仁よのう。主殿(とのも 田沼意次)の鼻息をうかがうとは」

郡上八幡藩の農民一揆の関係者の処分は、それまでになくきびしいものであったが、それも側御用の田沼意次が幕府評定所へ異例の出座をして推しすすめた裁決であった。

非番のこの日、宣雄は、あらかじめ都合を伺っておいた三枝(さいぐさ)家を訪問し、当主の備中守守緜(もりやす 寄合 41歳 6500石 )に面接した。
三枝家の屋敷は、長谷川家の親類筋にあたり、御納戸町に屋敷がある長谷川久三郎正脩(まさむろ 4070石)の隣家だった。

Photo
(加賀屋敷町の三枝邸=緑○)

つい先だっても訪問していた。

用向きを述べると、じっと宣雄から目をそらさず、
「いまはお役についてはいませぬが、中奥の小姓の時分には、ずいぶんと主殿頭(とのものかみ)さまにはお目をかけていただきました。手落ちをしたときにもかばってくださったこともあります。それだけに、あのお方が裁決なさってご蟄居中の本多侯のお招き、せっかくではありますが、ご遠慮させていただきましょう」

参照:2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸](2)
2007年6月19日[田中城しのぶ草]
2007年6月26日[田中城しのぶ草](8)

宣雄は、世の中の常識というものであろうと、思った。
その常識に反したようなことをしている自分は、よほどのへそ曲がりなんだろうか、と帰り道に自問してみたが、
「違う」
つい、声を出してしまった。
なにが違うのか。
(本多正珍侯は、それほどの悪事をなさったわけではない。ちょっとした手ぬかりだったともいえる。あの処罰のほうが常識はずれだ。田沼さまとしたことが、本多侯には、やりすぎをなさった、そして、門閥派の恨みをお買いになった)。

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.07.23

青山八幡神社

長谷川銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)と供の太作は、藤枝宿の下伝馬町の本陣・青嶋治左衛門方で旅装を解いた。
駿府の西の丸子で、昼、名物のとろろ飯をとったとき、太助が気をきかせて、早飛脚を田中の城代家老・遠藤百右衛門へ走らせたので、宿に落ち着くと、百右衛門のほうから訪ねてきた。
40代半ばの遠藤家老は、前藩主・本多紀伊守正珍(まさよし)からの書簡により、14歳の銕三郎正珍の使番のように、丁重にあつかった。

「幕府領と駿河大納言忠長)さまのころの田中城代の銘々をお求めでございましたな」
「はい。旧家の長(おさ)どのや、ご藩主の華香寺などでお教えいただければ忝(かたじけ)のうございます」

ゆっくりと、確認するように話す遠藤家老の話を要約すると、先代(正珍)からの指示もあったから、前もって、田中藩主の菩提寺・蓮生寺の住職や村の名主などにあたってみたが、150年ほども昔のことゆえ、書付などもすぐには探せない。その者たちが口をそろえていうには、青山八幡宮の宮司・青山家ならば、大権現さま(家康)をはじめ、歴代の藩主・城代の献供をえているので、早く調べがつくのではなかろうか。

長谷川どのが、ご先代のご名代として、明日にも訪問なされることは、宮司の青山主馬(しゅめ)どのへ伝えてあります」
「それは、なにより。これからでも参上いたしたいとぞんじます」
「使いを出しましょう。して、田中城へは?」
「明朝、一番に見上させていただき、その足で小川(こがわ)村へ廻りたいと---」
「一日お使いになる馬を、明朝、こちらへとどけておきましょう」

銕三郎は、用件を明日中にすまし、三島への帰りを1日早めることに集中している。
遠藤家老は、銕三郎のおもわくは知らないから、
「それはずいぶんとおいそがしいことでございますな。もちっと、西駿河の風情をお楽しみになればよろしいのに」
などと、世間並みのお世辞をいっている。
芙沙に再会したい一心の銕三郎は、聞く耳をもたない。

「では、早速に---」
青山八幡宮は、八幡山の麓にある。本陣から4町と離れてはいない。
本陣からの使いは、すでに先発している。
遠藤家老の若い従者・鳥山五郎右衛門が付き添ってくれることになった。
岡部宿から藤枝宿への東海道の入り口にあたるあたりの右手に、青山八幡宮の一の鳥居が立っていたのを、往路に目におさめている。

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(赤○=青山八幡宮 東海道すじ)

鳥居から山への石段にむかって、太作が丁寧に頭をさげたのも覚えている。石段は50段ほどに見えた。

その石段をのぼりきった広い台地に、拝殿と社務所があった。青山宮司の下の権禰宜(ごんのねぎ)が、書付を用意して待っていてくれた。

慶長14年(1609)12月- 頼宣
元和5年(1520)7月-  幕領 
           城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月-  忠長領 
           城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月   幕領 
           城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの

用は一瞬にしてすんだ。書付は2通つくってあり、1通は鳥山五郎右衛門が受け取った。正珍侯へ急送されるのであろう。

(そういうことなら、清水をもう一泊ふやしてもよさそうな)
銕三郎は、お芙沙との3夜をおもっただけで、躰がとたんに熱くなったが、気配には出さず、権禰宜に礼をいって、石段をくだった。
笑みが自然にもれる。
鳥山五郎右衛門が、
(---?)
といった目つきで銕三郎を見た。
銕三郎は、さりげなくとぼけた。
「神社というところは、古い文書(もんじょ)の宝庫でございますね」

【つぶやき】
岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房)では、藤枝の本陣・青嶋家は治右衛門となっているが、『藤枝市史 上』治左衛門をのほうを採った。

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2007.07.12

田中城しのぶ草(18)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、書物奉行の中根伝左衛門が好意でとどけてくれた、三枝家(さいぐさ)が呈した「先祖書」の写しを眺めている。

銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)を、駿州・田中城下へ旅立たせてから3日目の夜である。
第1夜は、江戸から8里(32km)、保土ヶ谷宿の本陣・刈谷清兵衛方へ宿泊したはず。旅籠代は、先発した小者の六助が預けているから、そっちの心配はない。
私用の旅にわざわざ本陣を選んだのは、こういう際に格式というものを学ばせるためである。
旅に旅籠代をけちっては、こちらの品格を低くふまれる。

第2夜は、江戸から20里の小田原宿で、宮の前の本陣・保田利左衛門方で草鞋を脱いだはず。

このところ、江戸は雨の気配がない。東海道もそうであろう。今日は、箱根を無事に越えて、三島で、本陣・樋口伝左衛門方でくつろいでいるであろう。
もし、雨の気配があったら、無理をしないで、小田原でもう一泊するようにいってある。

宣雄は、銕三郎のことを頭からはらって、三枝家「先祖書」に集中した。
織田方の将・蘆田右衛門左信蕃(のぶしげ)の下で、田中城を守備していた三枝右衛門寅吉(とらよし)とその息・平右衛門昌吉(まさよし)は、けっきょく、家康の勧めでら説得にきた大久保七郎右衛門忠世(ただよ)に開城した。

問題はその後である。
織田信長は、武田の武将たちを生かしておくなとの令を下した。
虎吉は、昌吉とともに、大久保忠世が手配した、駿州・藤枝の東雲寺に身をひそめたが、それでも危ないというので、伊勢国へ隠れた。

天正10年(1582)6月、信長の本能寺での自刃という急変があり、本多弥八郎正信(まさのぶ)と大久保新十郎忠隣(ただちか)から奉書が届けられ、相良で家康に会って、ようやくその麾下となることをえた。

宣雄は、駿州・益津郡小川(こがわ)の住していた一族で、武田方に従った者が、織田方の将にだまされて殺されていなければいいがと案じたものの、その結果は、本家から聞かされてはいない。

とにかく、信長という武将のはげしい性格と、家康の人を殺したがらない不思議な考え方を学んだ。

昌吉の息・勘解由守昌(もりまさ)は、松平大納言忠長(ただなが)卿に配された。
忠長が駿河国を領していたとき、田中城の城代をつとめたと「先祖書」にある。
卿の自裁後は陸奥国棚倉で蟄居していたが、召されて1万石をたまわり、与力10騎、同心50人を預かった。

Photo_400

その末裔は、長谷川一門ではもっとも大身の久三郎正脩(まさひろ 4070余石)の納戸町の隣家・備中守守緜(もりやす)である。42歳。果たして、しのぶ集いに参加するであろうか。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.07.06

田中城しのぶ草(17)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、昨日から暇ができると、懐中にした紙を取りだしては眺めていた。
書物奉行の中根伝左衛門に乞うて、写してもらった本多佐渡守正信(まさのぶ)・上野介正純(まさずみ)の父子の『寛永諸家系図伝』の家譜である。

徳川幕府に、大御所政治(駿府・家康)と将軍政治(江戸・秀忠)と呼ばれる時期があった。
家康側の有力側近が正信・正純、国師・崇伝であった。
秀忠側の江戸年寄(のちの老中)の大久保相模守忠隣(ただちか)、酒井雅楽頭忠世(ただよ)、土井大炊頭利勝(としかつ)らは、家康の名で頭ごなしに命じてくる正信・正純のやり方に不満をつのらせていただろうことは、容易に想像ができる。

加えて譜代たちには、本多父子に対して出戻りとの意識がある。
もっとも大久保忠隣や酒井忠世も、徳川体制を強固にするためには、時代が武功派から吏僚派に移りつつあることは十分にわきまえていた。
その上での権力闘争であった。

慶長19年(1614)12月、キリシタン禁圧のために京へ上っていた大久保忠隣へ、京都所司代・板倉伊賀守勝重(かつしげ)が豊臣側への内通を理由に改易を告げ、近江国栗本郡(くりもとのこおり)中村郷への蟄居(ちっきょ)を命じた。
この通告の奉書をたずさえた板倉勝重が宿舎へきたとき、将棋をさしていた忠隣は、そのままゆうゆうとさし終えてから沐浴、衣服を改めて下命をうけたと伝わっている。忠隣への同情者たちの心情がつくった伝説かもしれない。
内通の直訴状は、本多正純が80歳の馬場八左衛門に書かせたとのうわさも消えなかった。
ときに忠隣、62歳。
2年後に家康の逝去を聞いて剃頭した。

その正純への掣肘は、家康正信の死後6年を出ずしてくだされた。すなわち、世に宇都宮城の吊り天井事件として膾炙しているが、このことよりも、宣雄の心を捉えたのは正信が戻り新参となったときに配された配下が、伊賀者たちであったという事実。

彼らの探索・調略・謀策の能力を、有効に駆使したのが正信・正純ではなかったかと。
さらに、宇都宮藩改易のときに放免された伊賀者の多くが、その後、ふたたび雇用されたという。『寛永系図伝』には、だれが雇用したとは記されてない。

宣雄は、背筋に冷たいものを感じて、行灯の穂芯を見つめた。

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.07.05

田中城しのぶ草(16)

大久保99家、本多100家と一口にいう。
そうはいっても、歴史に顔をだす大久保家は、宇左衛門忠茂(ただしげ)の次男・五郎右衛門忠俊(ただとし)系と、3男・平右衛門忠員(ただかず)系と、大雑把にみておけばよかろうか。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が手紙を書いたのは、忠俊(ただとし)から別家した荒之助忠与(ただとも)へあててだった。

_100_3忠員系では、武将としても幕閣としても名をなした七郎右衛門忠世(ただよ)と4弟で『三河物語』を書いた彦左衛門忠教(ただたか)、そして忠世の嫡子・相模守忠隣(ただちか)がいる。
本多佐渡守正信(まさのぶ)の策謀によって失脚したのが忠隣である。
(大久保家の家紋=揚藤の内の大文字)

もちろん、正信本多家は、上野介正純(まさずみ)の代に絶えているし、田中城の前城主・因幡守正珍(まさよし)の本多家とは直接にはつながらない。

宣雄は、そこのところを意識しながら、田中城ゆかりの末裔の方々を、因幡守正珍侯が個人的に招いて一夕を語りあいたいと考えておられるが、ご参席いただけるかと問い合わせ、趣旨をさらにお確かめになりたいということであれば参上するにやぶさかではない、とつけ加えた。
この宝暦9年(1759)、大久保荒之助は48歳。

忠与からは、しばらく返書がこなかった。大久保一門のあちらこちらに相談しているのだろうと、宣雄は推察した。
じっと待った。
むしろ、忠与がより多くの大久保家に意見を求めてくれれば、それだけ、長谷川の名前がひろまるというもの。
結果、参席しないといってきても、どうということはない。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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