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2007.10.12

田中城しのぶ草(20)

息・銕三郎が藤枝宿の青山八幡宮からもらってきた、徳川幕府初期の田中城代の名書きを前にして、長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)は、先刻より、当惑していた。

慶長14年(1609)12月- 頼宣領
元和5年(1520)7月-  幕領 
           城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月-  忠長領 
           城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月   幕領 
           城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの

じつは、銕三郎から受け取った翌日、江戸城内の紅葉山にある書物奉行所を訪ねて、中根伝左衛門に名書きの写しを渡して用途を告げ、この仁たちの『寛永譜』の写しとその末裔を教えてほしいと頼んだ。
もちろん、先に貰ってっていた大久保忠直(ただなお)・忠当(ただまさ)とその末である荒之助忠与(ただとも 48歳 目付 1200石)は除けることは言いそえた。

2日ほどして、小十人組頭の控えの間へ中根伝左衛門からの使いが、すぐに書物奉行所へくるようにとのことづけをもつてきた。

「この、松下大膳忠重どのですが---」
書き間違いではなかろうかと、伝左衛門が言った。
松下家には、「忠」のつく名の者はいないし、『寛永譜』をあたっても、田中城の城代をした仁が当たらないというのである。

寛永8年(1631)6月の名書きの下にある北条出羽守氏重(うじしげ)さまは、正保元年(1644)に2万5000石の大名として田中城に赴任している。
参照:2007年6月21日[田中城しのぶ草](3)
2007年6月30日[田中城しのぶ草](12)
その前の城主は、松平(藤井)伊賀守忠晴(ただはる 2万5000石)さまに、「松」と「忠」がかさなるが---。

「いや。探しているのは大名家ではなく、幕臣なのです。しかし、中根どのがお調べくださった見当たらぬものは、存在しなかったと考えるべきでしょう」
宣雄は、そういって、松下大膳亮忠重は、藤枝の青山八幡宮の筆のあやまりでなければ、寛永のころに断家したのではないかと推察した。

しかし、このことは、銕三郎には言わなかった。役目をまつとうしていない、と思いこませてはいけないと思ったからである。

【ちゅうすけ注:】
『柳営補任』の駿府城代の項を見ると、寛永の初期に、松平(能見)丹後守重忠(しげただ)の名が見える。たぶん、この仁の誤記かとも思ったが、寛永3年(1626)7月11日卒しており、年代は符合しない。
『寛政譜』には「元和7年(1621)遺領をたまひ、父に継いで駿府の城代たり」とある。
田中城を駿府城の支城とみなして兼任していたとしては、史実の歪曲にあたろうか。

書き添えると、宣雄の時代には『柳営補任』『寛政譜』もまだできていなかった。

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (21) (22) (23) (24) (25)

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