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2007.06.27

田中城しのぶ草(9)

長谷川銕三郎(てつさぶろう)は、一刻(2時間)も前から、駿河国の益頭郡(ましづこおり)と志太郡(したこおり)の絵図を、飽くことなく眺めている。

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心が西駿州へ飛んでしまっている。
絵図は、田中藩江戸藩邸・用人の高瀬なにがしが、領内通行手形とともに、父・平蔵宣雄(のぶお)に渡してくれたものだ。前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし)侯の手配はゆきとどいていた。

手渡したとき、宣雄は言った。
「田中城は、ここだ。城から、斜め下手(しもて)1寸(約3cm)のところ、川に面して小川(こがわ)という郷(さと)があろう」
「ございました」
「そこが、わが長谷川家が、大和の初瀬(はせ)から移り住み、今川どのの一武将として実力を蓄えていった土地である」
「訪ねてみます」
「うむ。地元の人たちに、法永長者といって尋ねてみるがよい。武士でありながら交易なども手びろく営んでおられた。長谷川を名乗る家も残っているはず。小川城の跡もあるやに聞いておる」

銕三郎さま。お母上が呼びでございます」
が部屋の外から声をかけた。銕三郎が少年からだんだんに男っぽくなり、声がわりもしてきているので、用心をしている。なにしろ、下女(しもめ)に手をつけたがる家風なのだ。
銕三郎の母・お(たえ 戒名から想定の名)も、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の名主の娘のときに、新田開発の監督に来ていた平蔵宣推に抱かれて、銕三郎を身ごもった。
お妙の父を、戸村五左衛門という。

野袴(のばかま)を縫っていたお妙は、手をとめて、
「申しておくことを思いついたので、お呼びしました。
わたしの父御(ててご)どのが、いつの入れ札(記名選挙)でも選ばれつづけている寺崎村の長(おさ)・戸村五左衛門どのであることは、日ごろから話していることなので、ご承知ですね。
名主として、村人たちから、たいそうな信頼と尊敬と親しさを受けているのは、ある口癖のせいなのです。
『ほう。おもしろそうな話だの』
これが、父御どのが、村人の言葉に身を乗りだしてお入れになる合いの手で、父御どのの口ぐせとわかっていても、つい乗せられて、村人はすっかり打ちあけてしまいます。
銕(てつ)どののこのたびの使命は、田中城のまわりの村長(むらおさ)から、100年も150年も昔(いにしえ)のことを聞きだすことと、7代(宣雄)さまからうかがいました。
私の父御どのは、そなたにとっては外祖父---受け継いでごらんなされ」
「きっと受け継ぎ、うんとおもしろがります」

その夜も宣雄は、名簿を見つめていた。目を注いでいるのは、水野織部中忠任であった。水野家も支流の多さでは、大久保家本多家にひけをとらない。

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

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【つぶやき】
上の絵図で、藤枝の西を北から流れて海へ注いでいるのが瀬戸川。この川のほとりのどこかが、『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]に登場する〔瀬戸川〕の源七爺っつぁんの出生地。
同じ藤枝宿の上あたりの五十海(いかるみ)という郷名が、文庫巻1〔座頭と猿〕に出てくる盗賊の凶悪な首領〔五十海〕の権平の故郷。
五十海郷の北の中ノ郷は、文庫巻7[雨乞いの庄右衛門]で、心の臓の病いを癒そうと、妾のお照とともに隠れ棲んだ山里。庄右衛門は安部川の源流・梅ヶ島へ湯治に行き、江戸へもどったお照は、一味の若い男と乳繰(ちちく)りあって---。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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コメント

『藤枝市史 上』(藤枝市 1980.3.31)から転記。

水野監物忠善(ただよし)は、寛永12年(1635)8月4日、下野国山川城から10,000石加増され、45,000石の藩主として田中城にうつされた。家老は拝郷源左衛門、中野源太左衛門である。上青島二つ山と瀬戸山の間に千貫堤を築いて大井川の氾濫に際しても、下流地区にある田中領の村むらを守ろうとした。今僅かに存する茶畑はそのおもかげをとどめている。
在城7年で、寛永19年(1642)7月28日、5,000石加えられ、三河吉田城にうつされ、正徳2年、更に5,000石を加えられ、同国岡崎城に転封となった。子孫は肥前唐津に移されたが、文化14年(1817)再び東海の要地浜松城に移り、老中に抜擢されてイ勇名を馳せたのが忠邦である。弘化2年(1845)、出羽国山形城に転じ、50,000石を領して明治にいたった。

投稿: ちゅうすけ | 2007.06.27 07:20

お妙の父親・戸村五左衛門だが、滝川政次郎先生は『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日選書 のち中公文庫)で、戒行寺にある過去帳の戸村品右衛門がお妙のそれではないか---と書いておられました。
寺崎で長谷川家の知行地を管理していた名主・戸村さんの末裔にお聞きしたら、「うちは代々、五左衛門か権左衛門です」とのこと。
それで、お妙の父親を五左衛門としました。

投稿: ちゅうすけ | 2007.06.27 07:29

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