次女・清(きよ)
安永5年(1776)の長谷川家の慶事といえば、桜花が終わるころに、次女・清(きよ)が誕生したことであろう。
産事は辰蔵(たつぞう 7歳)、長女・初(はつ)のときのように、久栄(ひさえ 24歳)が実家、和泉橋通りの大橋家へ帰って果たした。
久栄はいつもそうなのだが、21日目の宮参りの前日に、三ッ目の長谷川邸へ戻ってきた。
産道がまだ本復していないのに、平蔵(へいぞう 31歳)に求められると拒めないとおもっているからである。
辰蔵の産辱についていたときに見舞いにき、手をにぎり、
「苦労であった。礼をいうぞ。ところで、まだ、帰れぬか?」
これが、なんと、7日目のことであった。
もっとも、平蔵(当時は銕三郎 てつさぶろう)は一人っ子で育ったため、産婦を見たことがなかったせいもあった。
平蔵の精力の強さからいって、久栄の要心は当然ともいえた。
長谷川邸へ戻ってきた久栄は、夫の変化を瞬時に察した。
もちろん、里貴(りき 32歳)が紀州へ帰ってしまったことは知らなかった。
「外遊びは、おしまいになりましたか?」
「わかるか?」
「私は、あなたさまの妻で ございますよ」
「そうだな。お前はいいおんなだ」
笑って、久栄はそれきり追求しなかった。
家庭をかえりみなくなる平蔵とは、おもっていなかったせいもあった。
平蔵ほどの男を、おんなたちが放っておいてくれるとは.おもっていなかったから、終わるのを待っていればいいと、悋気(りんき)を抑えてはいたが、寂しくなかったといえば嘘になる。
盟友の浅野大学長貞(ながさだ 30歳 500石)のところの於四賀(しが 23歳)が初産(ういざん)で男子を産んんでいた。
「久次郎(きゅうじろう)とつけた」
「長男なのに、どうして次郎なのだ?」
「四賀の実家の諏訪家方がそのようなしきたりらしいのだ。次郎としておくと、悪疫のほうが太郎がいるとおもい、次郎をみのがすというのだ」
「悪疫からの目こぼしなら、八郎とか十郎のほうがもっと効きそうなものだが--」
「どうせ元服するときには改名するのだから、実家のいうとおりにしておいた」
「いや、つい、口がすべった。許せ。なにはともあれ、長子の誕生はめでたい。〔貴志〕は店を閉めたが、別のところでよければ、祝杯をあげようか」
「いいな」
「長野(佐左衛門孝祖 たかのり 31歳 600俵)にも声をかけてみよう」
当初は、お粂(くめ 35歳)が女中頭をしている薬研堀不動前の料亭〔草加屋〕とおもったが、〔蓑火(みのひ)〕の一件が女将・お新(しん 33歳)の口からぽろりとでもこぼれたら、詭計がばれないともかぎらない。
とくに浅野長貞は〔志貴〕の里貴がお気にいりであった。
お粂に、里貴の色気を求めるのは無理というものである。
それで、女将の色気を主眼において、深川・高橋(たかばし)北詰の西側横丁の小料理屋〔蓮の葉(はすのは)〕に決めた。
〔蓮の葉〕の女将・お蓮(はす 31歳)なら、里貴とはちがう雌獣のようでいて、下品さのない色気を発散する。
(小料理〔蓮の葉〕)下は小名木川 ↑北
池波さん愛用の近江屋板)
ただ、市ヶ谷牛小屋の浅野邸からも本郷元町の長野邸からもいささかへだたっていることが気になったが、帰りは駕篭か小舟で送ればいい。
前もって、連れの2人は気のおけない盟友であるから、とりたてての料理を出すことはない、と告げてあった。
頬のこけたほうの長野は、昨年、情人とそのおんなが産んだ赤子をうしない、厭世気分におちいっているから、気を引きたててやってほしいとも、お蓮への結び文をもたせてあった。
【参照】2010年4月8日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] (5)
2010年5月13日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)の悲嘆]
そういう沈滞なら、大学長貞にもあった。
【参照】2010年5月17日~[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] (1) (2) (3)
おんなの20代には性の炎が発火を待っており、男の30歳前後には、避けることができない家族のわずらわしさがのしかかってくるということであろうか。
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