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2008.09.19

大橋家の息女・久栄(ひさえ)

大橋さまのご息女・久栄さまがお見えになりりましたよ」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、甲府から帰って、母・(たえ 43歳)の部屋へあいさつに出向くと、告げられた。

「深大寺(じんだいじ)で、銕三郎にずいぶん助けられたと感謝しておいででした」
は、久栄(ひさえ 16歳)が返してよこしたという1分金を2ヶわたしてくれた。

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(元文1分金 『日本貨幣カタログ』より)

「おや。2分(8万円)もでしたか。1分は、拙からの荷馬賃にと言いましたのに---」
銕三郎。それは、そなたが間違っております。武家のむすめが、見も知らぬ殿ごからのいわれもないお金を受け取るものではありませぬ」
「しかし、深大寺から---下谷(したや)の和泉橋通りの大橋どのの屋敷までは、たいそうな道のりです」
「そのことと、見知らぬ殿ごからのお金をもらうこととは、別ごとです。お返しになった久栄さまのお気持ちを察してあげなければ---」

「あいわかりました。軽率でした」
銕三郎への、書状も置いていかれました」
「ご大層なことで---」
「これ、口がすぎましょう」

銕三郎は、久栄からの麗筆の手紙を、ふところになおし、はやばやと母の前を去った。
なに、一刻も早く、久栄の文(ふみ)を読みたかったのである。
おんなからの文というだけで、胸がたかぶった。

もちろん、いつかも、〔橘屋〕の座敷女中・お(なか 33歳)から、達筆とはいえない文を貰ったことはある。
しかし、16,7歳という、齢ごろの生(き)むすめからの文というのは、初めてであった。

自室にもどるや、早々に開封した。

深大寺での礼、おかげで姉・英乃(ひでの 22歳)が深大寺そばを堪能し、病状が好転してきていること、銕三郎の甲府への往復の旅の無事を祈念していること---などが、流麗な筆法で記されていた。
書簡の紙には、かすかに香の香りもあった。

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(深大寺蕎麦 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

銕三郎は、3度読み、文箱にしまってから、また、取り出して読み返した。
読むたびに、胸に暖かいものがはしった。
きりりとした双眸とは逆に、少女からむすめへ移りつつあるほんのりと赤みのある久栄の頬の色がおもいだされた。

急に、おを抱きたくなった。
8日、逢っていない---といっても、おの宿直(とのい)の夜を1回、やりすこしただけだが。
夜をともにできる5の日は明日であった。

あさっては、〔からす山〕の寅松(とらまつ 17歳)が、江戸へやってき、大橋家に掏(す)った金を返すことになっている。
甲府からの帰り、おふくろに顔を見せるという寅松とは、高井土(かみたかいど 上高井戸)の手前で別れた。

大橋家の件をすませたら、〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)がやっている〔盗人酒屋〕で落ちあうことになっている。
だから、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)の軍者の一人---〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)のことを、忠助に話しに行くのは控えた。

納戸町の長谷川家のご隠居・於紀乃(きの 69歳)へ報告に行くには、遅すぎる。
帰りに日暮れてしまう。

なんとも、手もちぶ゜さたで、することもなく時刻(とき)をすごしていると、久栄の、あのときの凛(りん)とした姿ばかりをおもいだす。

いちばん近い儒学の学而(がくじ)塾の竹中志斉(しさい 60歳)師を訪ねることにした。
母にそのことを断ると、養女・与詩(よし 11歳)と召使いのお(きぬ 13歳)に縫いものを教えていたが、笑って、
「珍しいこと」
与詩も冷やかした。
「兄上。どうした風の吹きまわしでございますか?」
生意気ざかりの齢ごろになってきている。
駿府に迎えに行ってやったときには、お寝しょうの心配ばかりさせたくせに。

は、目をあわせなかった。
母のお銕三郎のことにうすうす気がついているようだが、けなげにも、気(け)ぶりにもださない。

北森下町の学而塾は、午後の部の塾生たちはみな退(ひ)いて、がらんとしていた。

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(南本所 三ッ目通り・長谷川邸と五間堀ぞい・学而塾 近江屋板)

竹中先生」
声をかけて教室にあてられいる部屋へ入ると、眼鏡をかけて書を読んでいた志斉師が、
「どうしたはずみじゃ。長谷川---」


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