本城・西丸の2人の少老(6)
まだ打ちこわしがはじまっていなかったというから、5月の上旬であったろうか。
躑躅(つつじ)間に詰めていた平蔵(へいぞう 42歳)が、少老(若年寄)・井伊兵部少輔直朗(なおあら 41歳 越後・与板藩主 2万石)に呼ばれた。
控えの間に伺候すると、
「長谷川うじの案、大筋のところは承認されたが、第2の区分け……」
「本郷通りから東、神田川から北の区域ですが、そこになに不都合でも――?」
「詰所は鳥越の寿松院とやらであったな?」
「さようです」
「少老のお独りから、鳥越では浅草寺や本願寺へ遠すぎないかとの異論がでてな」
「はあ……・?」
なにごとにもひと口ださなければ気がすまない幕閣と、井伊少老が弁明したので、平蔵はすこしきつく押し切った。
「与板侯もご承知と存じますが、名のある寺院はだいぶんに貯めこんでおります。米よこせの暴徒が寺院を襲うような罰あたりのことをするとはおもえませぬが、もし来たら、塔頭(たっちゅう)の僧を門前に座らせて勤行の経などあげさせれば、暴徒も引き下がりましょう」
「なるほど。さように伝えておこう」
どんな議案にもひと口の疑問をなげかけてみ、おのれは居眠りをしていないぞ、と空威張りする仁は、どこの世界にもいるものである。
この少老の場合も、あとで寺社奉行に肩をもったぞ、と恩を売る意図などはなかったようであるが、江戸藩邸がかりの墳墓――江戸ずまいの正室か夭折した嫡男のそれでもあったのかもしれない。
ひと口閣僚の差し出ぐちはそれとして、奇怪でもあったのは、あちこちで打ちこわしが始まっているのに、大老・井伊掃部頭直幸(なおひで 61歳 彦根藩主 35万石)が、なにゆえに先手10組への出動命令を3日も遅らせたかの推量である。
大坂での発端のことは、東町奉行・佐野豊前守政親(まさちか 56歳 1100石)からの急報でしっていたはず。
その道筋――淀、伏見、大津、駿府のそれぞれの陣屋や町奉行所からも不穏な動きがもたらされてきていたばかりか、岩槻、古府中(甲府)からもしらせてきた。
(江戸の事件が片づいた5月末には、和歌山、奈良、堺、和歌山、大和郡山、福井、尼崎、西宮、広島、尾道、下関、博多、長崎での騒擾もとどいていた。
それらの詳細については、外出がままならない躰になっしまっているので、藩史を読みに中央図書館へ出向くことがかなわない。
奇特な鬼平ファンの方から地元のものだけでもコメント欄へいただけるとありがたい。
調べるときにご懸念いただきたいのは、どこかからのつなぎの気配はなかったかについてである)
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