カテゴリー「017幕閣」の記事

2012.05.07

本城・西丸の2人の少老(6)

まだ打ちこわしがはじまっていなかったというから、5月の上旬であったろうか。

躑躅(つつじ)間に詰めていた平蔵(へいぞう 42歳)が、少老(若年寄)・井伊兵部少輔直朗(なおあら 41歳 越後・与板藩主 2万石)に呼ばれた。

控えの間に伺候すると、
長谷川うじの案、大筋のところは承認されたが、第2の区分け……」
「本郷通りから東、神田川から北の区域ですが、そこになに不都合でも――?」
「詰所は鳥越の寿松院とやらであったな?」

「さようです」
「少老のお独りから、鳥越では浅草寺や本願寺へ遠すぎないかとの異論がでてな」
「はあ……・?」
なにごとにもひと口ださなければ気がすまない幕閣と、井伊少老が弁明したので、平蔵はすこしきつく押し切った。

与板侯もご承知と存じますが、名のある寺院はだいぶんに貯めこんでおります。米よこせの暴徒が寺院を襲うような罰あたりのことをするとはおもえませぬが、もし来たら、塔頭(たっちゅう)の僧を門前に座らせて勤行の経などあげさせれば、暴徒も引き下がりましょう」
「なるほど。さように伝えておこう」

どんな議案にもひと口の疑問をなげかけてみ、おのれは居眠りをしていないぞ、と空威張りする仁は、どこの世界にもいるものである。

この少老の場合も、あとで寺社奉行に肩をもったぞ、と恩を売る意図などはなかったようであるが、江戸藩邸がかりの墳墓――江戸ずまいの正室か夭折した嫡男のそれでもあったのかもしれない。


ひと口閣僚の差し出ぐちはそれとして、奇怪でもあったのは、あちこちで打ちこわしが始まっているのに、大老・井伊掃部頭直幸(なおひで 61歳 彦根藩主 35万石)が、なにゆえに先手10組への出動命令を3日も遅らせたかの推量である。

大坂での発端のことは、東町奉行・佐野豊前守政親(まさちか 56歳 1100石)からの急報でしっていたはず。
その道筋――淀、伏見、大津、駿府のそれぞれの陣屋や町奉行所からも不穏な動きがもたらされてきていたばかりか、岩槻、古府中(甲府)からもしらせてきた。

(江戸の事件が片づいた5月末には、和歌山、奈良、堺、和歌山、大和郡山、福井、尼崎、西宮、広島、尾道、下関、博多、長崎での騒擾もとどいていた。
それらの詳細については、外出がままならない躰になっしまっているので、藩史を読みに中央図書館へ出向くことがかなわない。
奇特な鬼平ファンの方から地元のものだけでもコメント欄へいただけるとありがたい。
調べるときにご懸念いただきたいのは、どこかからのつなぎの気配はなかったかについてである)

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2012.05.06

本城・西丸の2人の少老(5)

天明7年(1787)5月20日から4昼夜におよんだ幕政にたいする警鐘の乱打ともいえた江戸の打ちこわしを、蔵前の札差株仲間の店々と幕府の米蔵は、無傷でやりすごしたことになる。

これもじつは、事後の平蔵(へいぞう 42歳)の内省に芽生えた疑問のひとつであった。

平蔵によると、札差の店々が襲われて米蔵に被害がおよんでいないのはおかしい――事件の首謀者がそう踏んだための、蔵前の見逃しだったと見るのが順当とおもえてきたのである。

つまり、大坂の騒動と江戸のそれとは仕組まれたものではなかったか、と。
群集心理ということもあるから、江戸でおこったことの大半はその場のなりゆきごとであったろう。
しかし、こと、幕府の米蔵と蔵前の札差の見逃しには、裏がある――平蔵は、疑念を胸の奥ふかくしまいこみ、死ぬまで表にださなかったことのひとつがこれであった。


それはともかく、蔵前の札差株仲間の店々が被害にあわなかったのは、定行事の一人・〔東金(とうがね)清兵衛(せえぺえ 40歳すぎ)と先手・弓の組頭・長谷川平蔵のはからいによることはだれの目にもあきらかであったから、10人いる定行事の数人から、
長谷川さまに応分の謝礼を……」
この提案には、蔵宿約100軒が1軒も反対しなかったばりか、分担金は1店あたり3両(48万円)まで覚悟したらしい。

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大蔵前の諸寺と蔵宿 『江戸名所図会 塗り絵師:ちゅうすけ)


東金屋〕と森田町組の定行事〔板倉屋〕次兵衛がそろって東本所・三ノ橋通りの長谷川邸へ出向き、
「現金では長谷川さまのお名前に傷をつけることにもなりかねないから、なにかお望みのものをお洩らしいただきたく……」
神妙にうかがった。

「ほう、蔵前の蔵宿仲間一同がお礼をわれにくれるのか。本来なれば、警備にあたった西丸の徒士120名全員にといいたいところだが、それも公儀の掟てに触れることになる。どうであろう、革たんぽつきの槍棒100本では。もちろん、保管は蔵前の火消し小屋ということにし、次の打ちこわし騒動のときの警備武具とする――」
「それでは、長谷川さまの手元にはのこりませぬが……」

「われの手元へのこせば悪い噂がのこるだけよ。虎は死して革をのこし、武士は死して名をのこすという。そのたんぽ棒を、平蔵棒とでも名づけたら……?」

ただ、平蔵はもうひと言、つけくわえた。
「徒士組に休仕を手配してくれた本城の若年寄・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)侯と、西丸の同職・松平玄蕃忠福(ただよし 46歳 上野・小幡藩主 2万石)侯への謝礼はぺつだぞ。どこか、一風変わった料亭で一夕、接待をしな」

革たんぽつき槍棒は、1店あたり1分(4万円)の拠出であったらしい。
100本で25両(400万円)の商売を無造作に武具商〔大和屋〕へ振ってしまった平蔵の潔(いさぎよ)さに、初めて接した定行事〔板倉屋〕次兵衛は、
「お武家にも、大商人顔負けの豪胆な仁がいなさるんだねえ」
のちのちまで誉めそやしていたという。

〔大和屋〕が長谷川分の40本の請求書――10両(160万円)から2両(32万円)を差し引いたことは、〔板倉屋〕も〔東金屋〕も、おもいもしなかった。

100本の平蔵棒は明治まで、元旅籠町2丁目の成田不動の境内の火消し小屋に収納されており、慶応の打ちこわしのときに警護にきた徒士たちの手ににぎられた、と古老のいいつたえがのこっているが、明治の廃仏毀釈で行く方がしれなくなった。


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2012.05.05

本城・西丸の2人の少老(4)

これは、打ちこわし秘話として書き留めておくことの一つであろう。

若年寄として本丸へ移っている井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)にもかかわる美談なので、忘れないうちに記録しておく。

3年前の大坂の打ちこわしが堂島新地の米穀商〔松安〕と玉水町の〔鹿島屋〕であったことを記憶していた平蔵(へいぞう 42歳)が、こんどの江戸打ちこわしでまっ先に心配したのが、幕臣としては浅草の蔵屋敷、個人としては蔵前の札差・〔東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40歳すぎ)のことであった。

東金屋〕には、前職・西丸の徒(かち)の組頭時代に組下の借財のことでずいぶん世話をかけた。

参照】2011年9月21日~[札差・〔東金屋〕清兵衛] () () () (

打ちこわしの暴徒たちがまず狙うのは、このところ値段を3倍近くにまであげている米穀商人であろう。
史料によると、平時なら100文(4000円)で1升(1.8リットル)購える精米が、3合5勺しか買えなくなっていたという。
「粥をすすることすらできねえ」
彼らのせっぱつまった表現であった。

蔵前の札差たちは、たしかに幕臣の米穀をあつかってはいるが、町の人たちを相手に売買しているわけではない。
しかし、そばに幕府の米蔵があり、富裕な暮らしぶりをしているから、当然狙われよう。
狙われて迷惑するのは、札差にたよっている下級幕臣たちなのだ。
打ちこわしを理由に貸ししぶられてはたまったものではない。

平蔵(へいぞう 42歳)は、柄巻きを内職にしている徒士の父親・飯野吾平(ごへい 59歳)のきりっとした顔をおもいうかべた。
隠居した老徒士のまま朽ちさすのは惜しい手練のぬしであった。

参照】2011108[柄(つか)巻き師・飯野吾平

吾平の名人級の手しごとの一つは、しりあった経緯(ゆくたて)とともに井伊少老へ贈ってあった。

東金屋〕のさばけたあつかいによって救われた飯野六平太(ろくへいた 35歳)をはじめ助けられた徒仕たちが、打ちこわしの期間中に休みをとって〔東金屋〕の警備にあたる許しを乞うたところ、にやりと笑みをこぼした少老が、
「打ちこわしのある市中へわざわざお上が出御なさることもあるまい。いっそ、西丸から本丸へ打ちこんだ徒組すべてに休仕をあたえ、蔵宿の警備にあたらせたらどうか」

「ありがたい仰せ。早速に〔東金屋清兵衛から蔵前の定行事どもへ申しつたえさせ、徒士衆の弁当や諸掛りは組合で負担するようにはからわせましょう」

「すると、先手衆の弁当や諸掛りは公儀持ちということか?」
「執政の手ぬかりの結果でございますれば---」
「油断ならぬ男よのう」

裏話だが、蔵宿の警備にでた徒士組への弁当が豪華なものであった噂を聴きつけた他の徒士が、弁当に釣られて幾人ももぐりこんできたという。

武士は食わねど高楊枝
 
遠い過去のものになっていた。

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2012.05.04

本城・西丸の2人の少老(3)

手くばりが終わったとみ、一足飛びに天明7年5月に移る。

先手組が詰めることになっている寺社――伝通院、寿松院、深川八幡宮への通達は、若年寄・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 与板藩主)が、寺社奉行・(大河内松平右京亮輝和(てるやす 38歳 上野・高崎藩主)に耳うちし、それぞれへ極秘裏に話が通じていた。

参照】2011年10月9日[日野宿への旅] () 
2011年10月21日~[奈々の凄み] () (

町奉行へひと言伝えればなんでもない南伝馬町会所のほうが、直前ですったもんだもめた。
原因はつなぎ(連絡)役の西丸若年寄・松平玄蕃頭忠福(ただよし 46歳がうっかりしていて4月に入ってから南の町奉行・山村信濃守良旺(たかあきら 60歳 500石)に申し入れただけで、北の町奉行・曲渕甲斐守景漸(かげつく 64歳 1650石)へ通じておくのを失念していたからである。

その手ぬかりは、江戸での打ちこわしが突然始まった5月20日夕刻に、先手・鉄砲の7と17の組が現場へ到着゜してわかった。
暴徒だというので、自発的に出動した安部組、小野組へ鎮圧命令がでたのも2日遅れた。


じつは平蔵(へいぞう 42歳)は、5月11日に大坂の堂島の米市場で打ちこわしがおこったことを、江戸の幕府の要人の誰よりも速く承知していた。

大坂・西町奉行の佐野備後守政親(まさちか 56歳 1100石)が事件についての第一報を公用の速飛脚でとどけてきたとき、ひそかに平蔵への書簡も同封していたのであった。

それで平蔵は、大坂の打ちこわしの噂が江戸へ達するのは少なくとも15日後――26日か27日とふみ、9組の同輩にはそのことをささやいておいた。

それが、佐野政親からの公用文書を落手した日の午後八ッ(2時)すぎ、赤坂門外の米穀商〔伊勢屋〕ほか23軒、つづいて麹町の6軒ほどが襲われたのにおどろくとともに、井伊兵部少輔直朗に、先手組頭たちを予定どおりのきめられた警備につかせるよう命令をくだしてほしいと告げた。

ところが、赤坂の米穀店の事件が大坂のと堂島の打ちこわしと関連があると察した幕閣はいず、もうすこし様子をみてといっているうちに大事になった。

あわてた幕閣は、北町奉行・曲渕甲斐守と火盗改メ・堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石)に鎮圧命令をだしただけで、先手組を忘れてしまった。

自主的に伝通院の堂宇へ詰めた平蔵は、大坂の飛び火があまりにも早く江戸へ達した経緯(ゆくたて)を、沈思しながら出動命令をじりじりしながら2日間も待った。
(幕府のお偉方ときたら、梅雨の雨のようにはっきりしないんだから)


その間、江戸のあちこちでは、暴徒がおもいのままに乱暴をはたらいていた。

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2012.05.03

本城・西丸の2人の少老(2)

「4つの合併組は、それぞれ、昼夜わかたずに次の場所へ詰めます」

弓の2番手と6番手は第1の地盤 への備えとして伝通院。

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(伝通院・部分 『江戸名所図会』)


鉄砲(つつ)の2番手と6番手は蔵前と浅草あたりの備えとして元鳥越の寿松院。

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台東区鳥越2丁目にある不老山寿松院


鉄砲の7番手と17番手は南伝馬町の町会所。

鉄砲の19番手と西丸の4番手は深川八幡宮。


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(富岡八幡宮舟着き 『江戸名所図会』  塗り絵師:ちゅうすけ)


弓の7番手と鉄砲の9番手は少老の手兵として清水ご門外のご用屋敷に待機。

「それぞれの詰所から の出動は、それぞれの組の責任者が決めます。なお、以上は組屋敷からの三度々々の食事の運びこみも考慮したうえでわけふっておりますゆえ、勝手ないいたてはご免こうむりたく」
「承知」
平蔵はたくみに言質(げんしち)をとってしまった。

「各組への下知はなるべく早くおくだしください。逃がし道や扇動人の捕らえおきどころを決めねばなりませぬ」
「逃がし道――?」
松平玄蕃頭忠福(ただよし 46歳 上野・小幡藩主 2万石)が訊きかえした。

「戦いと申しましても、殺しあいが狙いではありませぬ。いってみればおっかけっこみたいなものです。そのためには逃げ道を教えてやることも必要になります」
「おっかけっこ、のう――」

「はい。一度は逃げておき、またぞろ顔をだしましょう。その輩(やから)をおどすには、人相をひかえたと教えてやればいいのです」
長谷川うじは、軍者ができそうじゃな」
「打ちこわし方の軍者にやとわれましょうか?」
井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)が笑いながら、
「それはならぬぞ。軍者の職であれば、わが与板藩でやとうおう」

「扶持はおいくらいただけます?」
「うむ。100石」
「いまでも400石と足(たし)高1100石を頂戴したおります」
「本家の彦根藩へ話しても、その半分しかだすまい」
「では、この話はなかったことに――」
「承知」(笑声)

とにかく、平蔵とすれば、話の糸口はついた。

「ところで長谷川うじ。今宵、予定ははいっておるかの?」
「いいえ……」

「玄蕃頭(げんばのかみ)侯との初会ということで、どこぞ、下賎で安くておいしいものところへ、案内してくれぬか」
「お殿さまに珍しいものといいますと、しゃも鍋などはいかがでしょう?」
「朝鮮料理は、今宵といって今宵はむりなのじゃったな」
「あれの食材がそろいましたら、いの一番に与板侯へお知らせします」
「ざんねん。では、そのしゃも鍋とやらを、八ッ半(午後3時)にでかけられるように」

すぐに松造(よしぞう 36歳)を〔黒舟〕と〔五鉄〕へ走らせた。

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2012.05.02

本城・西丸の2人の少老

「まず、神田川をもって南北にわかちます」
平蔵(へいぞう 42歳)が説明をはじめると、家斉(いえなり 15歳)にしたがって本城の少老(若年寄)へ移った井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)が、
「なぜ、神田川かな? 火盗改メは日本橋川を境にして南北へわけているのではないのか?」

「たしかにそのとおりです。日本橋川から北が本役、南が助役(すけやく)の持ち場ときまっております。が、これは、火事が多い冬場のことであり、平常は本役ひと組が江戸全域を担当します。しかし、こたびの江戸打ちこわし――あ、予想される騒擾(そうじょう)を、いまのところは仮に[打ちこわし]と呼ばせていただきます。
江戸の打ちこわしは、ひと組の狼藉者たちではすみますまい。ご府内数ヶ所が同時に襲われるという想定です」

「わかった。つづけよ」
「神田川で南北にわかちましたが、以北を本郷通りで西と東にわけ、西の小石川、音羽あたりを第1の地盤、東の湯島・蔵前・浅草辺を第2の地盤と仮定します。神田川の南はそれだけで第3の地盤。隅田川の東の本所・深川が第4の地盤となります」

「もうひとつ、わからぬのは、なぜ、4つの地盤わけでなければならぬのかな?」
疑問を呈したのは、西丸の若年寄・松平玄蕃頭忠福(ただよし 46歳 上野・小幡藩主 2万石)であった。
2年前に奏者番から若年寄に選ばれたばかりで、主(あるじ)がいなくなった西城をまもっていた。

年齢は井伊直朗よりも上だが、幕閣としての経験が浅いので、あるかどうかもわからない江戸打ちこわしの対策話を平蔵直朗へ持ちこんだとき、もし、こともなくすんだら平蔵が恥をかくことになるのをおもんぱかった直朗が、仕置(政治)の手習いのつもりでと、忠福に参加を呼びかけた。

34人いる先手の組頭の3分の2以上が60歳をすぎており、機敏に動かなければならない打ちこわし鎮圧隊の指揮官としては失格に近いことを初めて聴かされた松平忠福は、眉をひそめてつぶやいた。
「そんなになるまで、幕閣のどなたも、どうして手をお打ちにならなかったのか」

(そうおっしゃる小幡侯、ご自身も責任者のお一人ですぞ。少老閣議の討議にとりあげられますか?)
平蔵は腹の中で反論したが、口にはださなかった。

(先手組頭の若返りに手をおつけになろうとした田沼侯を罷免同様に追いつめたのは、あなたとはいわないが、徳川重臣のあなた方ではなかったのか?)

「動ける組頭が率いている先手組が8組、無理して10組しか動員できませぬ。それで2組ずつをひとつに組ませて4組。あとの2組は控え(遊軍)です」

(こういう陣立てすら知らないのが若年寄なんだから――もう)

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2012.03.13

小笠原若狭守信喜(のぶよし)(9)

退院・自宅緩和ケアになったら真っ先にやりたいのは、都中央図書館へ出かけ、深井雅海さん[天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所 『研究紀要』 1981)を読むことと決めていた。

当ブログでも明かした。
(もっとも記したときには右肺にも病巣がある身で、東京メトロ・広尾駅の地上への階段、図書館への長い坂道を無事にこなせるかなと危惧はしていたが……)

この計画は喉につまったなにかのつかえのように、病棟のぼくを責めたてていた。

明かしてよかった。
静岡の〔鬼平クラス〕でともに学んだ安池欣一さんがコピーを送ってくださったのである。
病室で読んだ。

引用・解説されていたのは、天明6年(1786)7月下旬から水腫で静養中であった10代将軍・家治(いえはる 51歳)が、


田沼意次が推輓した奥医師若林敬順の調合した薬を服用してから、病状は急激に悪化し、八月二五日の暁に没した。これを契機に意次への非難が高まり、意は家治の死の翌二六日に辞職願いを提出し、二七日に老中を罷免されて失脚した。


……という諸書に書かれている経緯があり、田沼派追い落としの政治劇がはじまるのだが、家治の病気の現代的推測、蘭方医・若林が処方した薬の内容といった陰謀の疑いのもてる事項には触れられていない。

ご三家と一橋治済、表の政治的権力機構---大老・老中、中奥のお側ご用取次、大奥の年寄たちといった政治状況の中にいた人名と解説があり、将軍実父・一橋治済からお側ご用取次・小笠原信喜にあてた天明6年(1786)閏10月21日から同7年(1787)6月15日にいたるあいだの10通の書簡が公開され、要点に解説がつけられている。
(書簡はいずれも徳川林政史研究所が保管している徳川宗家の史料)

一読しての性急な印象は、一橋治済と小笠原信喜が密約を結んだあとのやりとりで、信喜が田沼意次を裏切った真意や、定信新政権ができてからの信喜の処遇については明かされていなかった。

もちろん、深井さんの考察は、当ブログがいまとどまっている時期の1,2年先をいっていたから、ちゅうすけの疑問の直接の解答にはならなかったが、うるところは少なくなかった。

教示で大きかったのは、
1.三家の政権への介入がこの時期、強くなっていたこと。
1.将軍・家斉の実父である一橋治済の政治的黒幕としての野心。
1.お側ご用取次衆の隠然たる政治力。

鬼平犯科帳』は、深井雅海さんが摘出してくださった[天明末年における将軍実父・一橋治済の政治的役割]から数年後が舞台である。

しかし、人間生活に明滅する信頼と裏切り劇――仲間と密偵という明と暗の人間関係をかいま見せてくれた点では、平蔵(へいぞう 40歳)が通過しなければならない主題でもあった。


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2012.03.12

小笠原若狭守信喜(のぶよし)(8)

,しかし、なんとも納得がいかない。

小笠原若狭守信喜(のぶよし 67歳=天明5年 5000石)が内通に与(くみ)したきっかけが、である。

家斉(いえなり 13歳)が西丸の主(あるじ)となっていた天明5年(1785)には、年初の加増2000石をあわせて家禄は5000石となり、諸事を執啓していた。

交友もひろがっていたろうが、信喜の筋をとおす性格からいって、実家と養家のかかわりの濃い紀州藩からきた幕臣とのつなかりが多かったろう---と書き、あっ、とひらめいた。

加納備中守久周(ひさのり 33歳 伊勢・八田(やつた)藩・養子 1万石)とのあいだがらである。

加納家の祖は累代、三河国加茂郡(かもこおり)加納村に住していたと『寛政譜』にある。

参照】2007年8月16日[田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入
2007年8月18日[徳川将軍政治権力の研究] (
2008年2月15日[ちゅうすけのひとり言] (

高澤憲治さんも信喜の係累に気がついたらしく、既掲出[松平定信の幕政進出工作](『国史学』第176号(平成14年4月 2012)に以下の一節を記しおられる。


加納久周は松平定信の求めに応じて同邸への訪問を心掛けており、至誠が天地を動かすので目的実現を目指して学問に励んでいるという。(中略)

加納久周の実父・大岡忠光はかつて田沼意次の上司であり、養祖父・久通は田沼の父と同じく紀州藩出身であり若年寄まで進み、養父・久堅(ひさかた)は現職の若年寄であった。

しかし、久周は大岡・加納両家が家禄と役職の両面で田沼家に凌駕され、しかも久堅より遅れて就任した水野忠友が老中に進んだことに対して不満を抱いて定信に近づいたのであろう。(中略)

久周は実父と養祖父がともに将軍職側近を勤めたばかりか、娘は御側御取次稲葉正明の嫡子である正武の室、実妹は御側御用取次小笠原信喜の養女であった。


終わりの一句には驚かされた。

小笠原信喜と松平定信との確実な接点を探して苦労していたのに、なんといういう見落としをしていたものか。

参照】2012年3月6日[小笠原若狭守信喜(のぶよし)] (

上掲個人譜の終段の末から3人目の[女子]にこうあるではないか。

女子 実は大岡兵庫頭忠喜が女。信賢が配にさだむといへども信賢死するにより、信喜にやしなはれて小笠原安房守政恒が妻となる。

珠は嚢中にあった。


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(加納備中守久周の個人譜)


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(大岡久周と妹の個人譜)

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2012.03.10

小笠原若狭守信喜(のぶよし)(7)

宝暦元年(1751)に並んで家重(いえしげ)のお側にすすんだ小笠原若狭守信喜(のぶよし 33歳 2000石)と田沼主殿頭意次(おつぐ 33歳 2000石)の2人であったが、家重が将軍職を家治(いえはる)にゆずって二の丸に引退した10年間に、大きな差がついてしまった。

信喜は病気がちになり、現役をしりぞいた。
意次のほうは5000石と3000石の2度の加増で1万石の小大名にのしあがっていた。
それだけ、人望がましたというべきかもれない。

[仁]の字を彫った珊瑚珠をつねに嚢中に携行した意次は、相手の言葉をたがわずにとらえ、依頼ごとがいささかでもかなうように諸事をはからった。

信喜は[智]にこだわりすぎるところがあり、正しいことは正しいとしながらあちこちに角がたちすぎた。
家重はおのれが[智]に遠いため、信喜の肩を借りたがったが、:けっきょくは使いこなせず、嫡子・家基(いえもと 享年18歳)につけた。

家基が不慮の死で心に隙ができたかして、[智]同士の松平定信(さだのぶ)の誘いにのったとみる。

もちろん、意次の政治手法への批判もあったろう。

以上は、ちゅうすけのひとり言ともいえる推測である。

なにごとも退院して、(深井雅海さん[天明末年における将軍実一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所 『研究紀要』 1981)を読むまでの時間かせぎみたいな妄想といっておこう。

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2012.03.09

小笠原若狭守信喜(のぶよし)(6)

信喜(のぶよし)が小笠原家へ養子に入ったのは、養父にあたる当主・三右衛門信盛(のぶもり 800石)が近侍していた吉宗にしたがって江戸城入りして19年目に、小納戸から留守居番に転じた享保19年の10月であった。

このとき、養父・三右衛門はすでに病死(享年53歳)していたから、いわゆる末期養子の形といえる。
三次郎信喜は16歳であった。

末期養子の形となったのは、信喜の前に養子が入っていたからである。
紀伊藩士・野田半右衛門正守(まさもり)の息・伴蔵なにがしであったが養父・信盛よりもさきに病没したので、内々、次なる養子としては信盛の次弟・政周(まさちか)が養子としておさまっていた紀州家藩士・大井家からその子・三次郎信喜が候補筆頭にのぼっていた。

血筋でいえば「行って、来い」だし、とりわけ三次郎は聡明で、理非を見きわめる冷静さをそなえており、眉目も端麗であった。

元文2年(1737)12月25日、西丸の小納戸として出仕。この日に布衣をゆるされた(19歳)。
(たちまち、言語不明瞭な家重(26歳)の意思を解し、気にいられたのであろう)

1年後には小姓組番士(20歳)。
ここで信喜は同い齢だが、同職は3年先任で従五位下主殿頭に叙任していた田沼意次(おきつぐ)に出あった。

とうぜん、畏敬とともに、競争心というより敵愾心をおぼえたろう。
はっきりしない家重の言語をくみとるのも、意次のほうがたくみであった。
面もちの秀麗さでも相手がまさっていた。

意次はそつがなかった。
三次郎どのよ。同齢ということは、われら二ッ児(ふたつご)のようなものとこころえ、ともに奉公にはげもうぞ」
意次が示したのは、2ヶの珊瑚珠であった。
それぞれに[智]と[仁]の字が彫られていた。
「おことはいずれを採る?」
信喜は[智]をえらんだ。

「よかろう。おことは[智]をもってお上に仕えよ。われは[仁]のこころで奉公する」
ことあるごとにお互いの珠を示してはげましあった。

元文4年(1739)、信喜(21歳)も若狭守に叙勲し、格は意次とならんだ。

しかし、この年、信喜意次に「負けた」とおもいしらされた。
湯島天神の矢場の矢取りおんなを張りいあい、意次にとられたのであった。
とられたというより、九美(くみ 17歳)が意次に身をまかせた。
三次さんより竜助さんのほうが剛(つよ)そうって、おんなにはわかるの」
九美のこの評価で喪失した信喜の男としての自信は、永らく回復しなかった。

隠居した吉宗に替わり、家重(いえしげ 34歳)が本丸の主となった延享2年(1745)、2人(27歳)そろって本丸の小姓組へ移ったが、ここでは1年半後に信喜のほうが半年ばかり早く番頭の格と新恩1200石をえ、自信がよみがえらせた。

もっともそのからくりは数年後に、信喜のことに気をくばった意次が、その昇格ばなしをゆずったのだとわかり信喜をしょげさせた。

若いころはおんなの競りあいと肩書きの重軽が気になるのは、古今の例であろう。

寛延元年(1748)閏10月朔日、意次(30歳)は小姓組の番頭となり、1400石加増とともに奥のことも兼ねるようにいわれているので、鼻の差だけ出たといえようか。

宝暦元年(1751)7月18日、2人(33歳)はとも並んでに家重のお側に任じられた。


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(小笠原若狭守信喜の個人譜)

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