幕閣
「長谷川どの。行く末、田沼侯への門閥の老職衆からの反発が---といわれたが---」
藩の江戸中屋敷の主ともいえる本多紀伊守正珍(まさよし)の誘いに、
「はい。私、お仕置き(政治)の根本は、裁き(裁判)の公平と、貢租(税)の適当と愚考しております。しかし、ご公儀の収税は、大権現さま(家康)の時代からほとんど変わっていないやに思われます。もちろん、いつのご老職も税の源をあれこれお探しとはおもいますが、どなたも、新しい税源にはお手をおつけになさろうとはなさいませぬ」
長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、ここまで言っては言いすぎになると思ったが、田沼意次(おきつぐ)に声をかけられたことが興奮の引き金になってしまったのであろうか、 安全地帯から、つい、一歩踏みだしてしまった。
「新しい税の源とは、商人かな?」
本多侯は、飛騨・郡上八幡の農民一揆の経緯にからめて老職を罷免、蟄居を命じられているが、つい半年前まで、13年間も老中職を勤めていたから、幕閣としての仕置きにも経験が深い。
「商行為も、もちろんでございます。そのほか、このごろの農家は、米よりも高値(こうじき)でさばけるものにあれこれと心をくだいております。たとえば、繭。たとえば、木綿。たとえば、水物(果物)、たとえば、青物(野菜)」
「ふむ、ふむ」
「農民たちは、大権現さまの時代同様に地方(じかた 農村)に住んではおりますが、意識は同じ農民ではございませぬ。ご公儀に対しても、言うべきは言って、自分たちの権利と利益を守ろうとしております。それが、このところの農民一揆でございましょう」
「まことに、のう」
「商業者や、農民たちから新しい税を、納得づくで収めさせる筋立て、田沼さまならおできになりましょう」
「なるほど」
「ことは、そのあとでございます。筋立ては田沼さま、そのあがりは門閥のお歴々---失言でございました。平にご容赦を---」
「長谷川どのは、いま口になさったお仕置きのやりようを、どなたかにお話しなされたか?」
宣雄と同職の小十人組頭だが、家柄は上の2000石の本多采女紀品(のりただ)が口をはさむ。
「滅相(めっそう)もございませぬ。ただいまが初めてでございます。どうか、お忘れくださいますよう---」
「それであれば、他言はしませぬから、ご安堵めされよ。いや、田沼どのが遊びに参れといわれたのは、長谷川どの説をお耳になされたゆえかと推しはかったまで」
「長谷川どのが、田沼侯を末おそろしい方と見立てたのは、田沼侯の身を案じてのことであったのじゃな---」
本多侯は、じっと考えこんだ。
(言い述べる順序を、我れにもなく、誤ったようだ)
宣雄は、冷や汗が背中や脇の下から流れるのを感じている。
(時代が移っているということを、知行地の上総(かずさ)・寺崎の農民たちのいまのありようから話し始めるべきであった)
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