カテゴリー「098平蔵宣雄・宣以の同僚」の記事

2007.12.17

宣雄、小十人頭の同僚(8)

小十人組の頭(かしら)から、次のポストに進むのに、吉宗家重のころから、先手組頭と目付が増えているように思えるので、その実証をしている。

これまで、長谷川平蔵宣雄(のぶお 400石)と同期ともいえる中で、宣雄の5番手、そして宣雄とかかわりが濃かった本多采女紀品(のりただ 2000石)の6番手を、 『柳営補任』からすでに引いた。

もう一組、宣雄が小十人の頭になったときに、閥づくりの講への誘いをかけておきながら、翌年---宝暦9年(1759)11月に、さっさと新番頭(2000石高)へ栄転していった神尾(かんお)五郎三郎春由(はるよし 40歳 1500石)のいた7番手を掲げよう。
【参考】 講への誘いは、2007年5月27日[宣雄、小十人組頭を招待]

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15人の頭のうち、享保10年以降3人---神尾春由の後任の能勢(のせ)助十郎頼寿(よりひさ 廩米300俵)も、宣雄在任中ということで加えると、15人中4人が先手組頭に進んでいる。

別件だが、安永5年(1776)閏9月、将軍・家治は、日光参詣をした。幕臣たちはそれに供奉(ぐぶ)したこと誇らしげに「家譜」にしたためて提出している。能勢家もそうしている。時に、頼寿は74歳であった。
喜寿に近い老武士が、江戸から日光まで、まあ、先手の組頭だから騎馬だろうが、それでも姿勢を正して供をしている姿を想像すると、なんともおかしい。
---というか、74歳になっても先手・弓の頭を引退しない執念には唸るほかない。

小十人の3組だけだが、吉宗家重の時代に、小十人組の頭たちが、次のポストとして、できればと、一つには先手組頭を望んだらしいことは、だいたい推察できた。

これは、吉宗の人材登用りの方針にしたがって、享保8年に、各職位の役料が引き上げられたり、きちんと定められたことによるようだ。

『柳営補任』は、先手組頭の役料について、次のように記している。

一 元御役料五百俵、天和二年四月廿一日御役料地方直御加増、その後千五百高三百俵御役料被下、享保八卯六月十八日ヨリ千五百石高定ル

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2007.12.16

宣雄、小十人頭の同僚(7)

鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の父・平蔵宣雄(のぶお)は、小十人組の頭(かしら 1000石高)から、番方(ばんかた 武官系)の栄達の最終ポストに近い先手・弓の8番手の組頭へ、明和2年に移った。47歳であった。
この、小十人組の頭から先手・組頭のコースは、吉宗家重の時代にはよくあったケースかどうかを、検索している。

宣雄の5番手の『柳営補任』はすでに見た。2007年12月15日[宣雄、小十人頭の同僚(6)]

たびたび顔を見せてきて、宝暦12年12月28日に発令になった本多采女紀品(のりただ 48歳 2000席)の組---6番手を調べてみる。

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この組の頭は、本多紀品(緑○)まで20人、うち4人が先手組頭へ栄進。
本多紀品の前は2人つづいている。両人ともりっぱな譜代の一門。

榊原大膳久明(ひさあきら 42歳 1000石)。その後、西丸の持弓の頭になり、致仕後は、養老米300俵を9年間賜った。

安藤弾正少弼惟要(これとし 39歳 300石 のち加増され800石)は、先手組頭を足かけ3年で終えて作事奉行(2000石高)、勘定奉行(3000石高)、大目付(3000石高)などの行政職へ転じ、養老米300俵を3年間賜る。
そうそう、この仁は、本多紀品といっしょで、先手組頭の時代に火盗改メも勤めている。

こうして見てみると、人によっては、先手組頭は、決して番方のふきだまりとはいいきれない。

あと、もう一組、検索してみれば、宣雄のころの趨勢がつかめるだろう。


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2007.12.15

宣雄、小十人頭の同僚(6)

小十人組の頭(かしら 1000石格)に就任することは、中流以下・お目見(おめみえ)以上の幕臣にとって、幹部候補生として、スタートを切ったことになる。

つぎに目指すのは、番方(ばんかた 武官系)なら先手の組頭(1500石格)、役方(やくかた 行政官)なら目付(めつけ 1000石格)。目付は1000石格だが、家禄が500石以上の家の者には、町奉行(3000石格)がころがりこんでこないともかぎらない。江戸の町奉行でなくても、京都町奉行なら1500石格である。

小十人組の頭が、いつごろから出世の経過コースになったか、長谷川平蔵宣雄(のぶお)が任命された5番手の最初の仁から、宣雄までの『柳営補任』をあたってみた。

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宣雄を含めて15人。
うち、宣雄ともで5人が先手組頭へ栄転している。
上段・左端、先手組頭へ最初に任じられた細井金五郎勝則『寛政譜』勝行 かつゆき 49歳 1800石)の延宝といえば、四代将軍・家綱の時代である。幕府の職制がほぼかたまったころというえよう。
しかし、その後の3人は目付。
先手組頭へ復したのは、享保のころからだから、八代・吉宗の時代。これとそのころの番方の幕臣たちのこころがまえと、なにか関係があるのであろうか。たとえば、先手組頭なら、ほとんど老衰するまで1500石をもらいつづけられるとか。
中段の黄○・曽我七兵衛助賢(すけかた 46歳 800石)がその仁だが、5年後に新番頭(2000石高)へ移っている。
中段・左端の岩本内膳正正房(まさふさ 46歳 廩米300俵)は、吉宗の江戸城入りで紀伊から召された仁である。吉宗は、譜代の重臣たちに配慮して、紀伊から呼んで幕臣とした200余名には、大きな禄を与えなかったというが、職位についていた役料で報いたとみておきたい。もちろん、結論を出すには、200余名を検索してみなければならないが。
なお、岩本正房は61歳で歿するまで15年間、その職にあった。

芝山小兵衛正武(まさたけ)については、2007年12月7日[多可の嫁入り](5)を参照。

前の3人の先手組頭への昇進を知っている宣雄も、とうぜん、それを目標にして手を打ったと考えてもおかしくはあるまい。
伊兵衛名を受け継いで名乗っていた長谷川家の代々の面々は、一人も就くことができなかった番方の役職に、宣雄は初めてついたのであるから、子孫のために、さらに高のぞみをしたろう。

こういう、歴史にも残らない中流以下の幕臣の記録をあたって類推を重ねる作業は、きわめて困難で、想像の手がかりもまた少ない。

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2007.12.14

宣雄、小十人頭の同僚(5)

以下は、つぶやきである。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)の小十人組の頭(かしら)時代を検証していて、彼のころには、組が10組あったことは、分かった。(『文化武鑑l』では7組に減っている)。

頭は1000石高だが、いってみれば通過ポストで、7,8年で次のより役料の高い職席へ栄進するのが筋道、ということも推察できた。

1組に20人いる組衆の家禄は、100俵10人扶持で、桧の間席ということも、分かった。
2勤1直1休(昼の勤務を2日したら1晩宿直、翌日は休み)だろう。

組衆の中の一人---家禄が150俵とやや高い者が、与(組)頭(くみがしら)となって内務をとりしきっていることも、分かった。2007年12月7日[多可の嫁入り](5)『文化武鑑l』では1組に2人)。

わからないのは、小十人組のすべてを統括しているのが誰かということ。手元の参考書などでは若年寄の支配となっているが、譜代の大名である彼らが、徒(かち)組などまで、直接に統括しているとは思えない。

さらに、10人の頭の中に、代表がいるにちがいない、と推測してみた。先任順だろうか、家禄によるのだろうか、それとも年齢?

宣雄が頭に選任された時点---宝暦8年(17589) 9月に在職していた10人を検証。
まず、先任順。年齢は頭席へ着任時。

堀甚五兵衛信明(のぶあきら) 宝暦2年(1752) 43歳
仙石監物政啓(まさひろ)    宝暦3年(1753) 50歳
本多采女紀品(のりただ)     宝暦3年(1753) 39歳
佐野大学為成(ためなり)     宝暦4年(1754) 51歳
神尾五郎三郎春由(はるよし) 宝暦4年(1754) 35歳
山本弥五左衛門正以(まさつぐ)宝暦5年(1755) 54歳
荒井十大夫高国(たかくに)   宝暦6年(1756) 45歳
曲渕勝次郎景漸(かげつぐ)   宝暦7年(1757) 38歳
長崎半左衛門元亨(もととお)  宝暦8年(1758) 45歳
長谷川平蔵宣雄          宝暦8年(1758) 41歳
同年の場合は、発令が1日でも早いほうが上位に就くのがきまり。

宣雄の着任時の年齢で並べると、

山本弥五左衛門     57歳
仙石監物政啓       55歳
佐野大学為成        55歳
堀甚五兵衛信明     49歳
山本弥五左衛門正以  57歳
荒井十大夫高国     47歳
長崎半左衛門元亨    45歳
本多采女紀品       44歳
長谷川平蔵宣雄     41歳
神尾五郎三郎春由    39歳
曲渕勝次郎景漸     39歳
神尾春由と曲渕景漸が特別の存在であることが、うかがえる。

家禄で見ると、

仙石監物政啓    2700石
本多采女紀品    2000石
長崎半左衛門元亨 1800石
曲渕勝次郎景漸   1650石
神尾五郎三郎春由 1500石
堀甚五兵衛信明   1000石
佐野大学為成      540石
長谷川平蔵宣雄    400石
山本弥五左衛門    300俵
荒井十大夫高国    250俵

年齢的には山本弥五左衛門正以が長老、仙石監物政啓が次老---といっても、先手組の長老、次老、三老とは20歳以上の開きがある。

けっきょく、仙石監物政啓あたりが表向きの代表となり、荒井十大夫高国が雑務を引き受けていたかも。
荒井高国は、宣雄が慣れたころに、若返りをいいたてて交替を申し出たろう。
このほかに交替で月番---といっても1ヶ月で交替するのではなく、半年ぐらいは勤めたか。

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2007.12.13

宣雄、小十人頭の同僚(4)

宝暦12年(1762)11月7日付の辞令で、宣雄(のぶお)の同僚、小十人組の頭(かしら)の本多采女(うねめ)紀品(のりただ 48歳 2000石)が、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭に就いたことは、この項の最初に書いておいた。

先手組頭は、1500石高だから、家禄が低い番方(武官系)の幕臣にとっては、のぼりつめた職位といえる。
(本多紀品の家は2000石だから、役料に足(た)りない家禄を補填する足高(たしだか)はなく、まあ、無役でいるより外見がいい---という程度と、本人は言っているが)。

のぼりつめた---そう、先手組頭は、番方の爺(じじい)の捨てどころ、とは言われていた。それほど、老齢化していたともいえる。

長谷川平蔵宣雄が、小十人頭(1000石高)に抜擢されたのは、宝暦8年(1758)9月15日、40歳の年であった。
それから足かけ8年後の、明和2年(1765)、47歳のときに先手・弓の8番手の組頭に栄転している。
家柄がきわめてよく、一門も多い本多紀品が先手組頭に転じたのは48歳、宣は47歳。

息子の鬼平こと平蔵宣以(のぶため)は41歳で先手組頭に選抜されている。
平蔵宣以の才幹が群を抜いてすぐれていたといもいえるし、閣僚たちが、先手組頭の若返りを図っての抜擢だったともいえる。

(じじつ、平蔵宣以が組頭に就任した天明6年の、平蔵をのぞく33人の組頭の平均年齢は61歳を超えていた。戦闘集団としての組頭に、1丁も走ると息があがるほどの老齢の仁がいることは理にあわない。しかし、70代はおろか、80歳をすぎた組頭もいたのである)。

平蔵宣雄の時代に戻って---。

宣雄が小十人頭に抜擢された宝暦8年の時点で同組頭だった者のうち、先手組頭に転じたのは、宣雄を含めて6人と、すでに報告してある。

その発令時の年齢が高かった順に並べてみる。
佐野大学為成   頭拝命時年齢 60歳(2年目に卒)
仙石監物政啓             59歳(7年後、持筒頭)
荒井十大夫高国           55歳(9年後卒)◎
堀甚五兵衛信明           51歳(13年後、致仕)
本多采女紀品             48歳(6年後、新番頭) ◎
長谷川平蔵宣雄           47歳(7年後、京都町奉行)◎
(◎=火盗改メ拝命)

宣雄以前の長谷川家は両番とはいえ、それ以上の役職に就くことがかなった者はいなかった。
両番とは、小姓組の番士、書院番士入りができる資格を持つ家柄のことである。

宣雄以後の、平蔵宣以辰蔵こと平蔵宣義(のぶのり)ともに、役職に就けたのは、宣雄が初めて拓(ひら)いた道といえる。

本多紀品と仙石政啓『寛政譜・個人譜』はすでに開陳している。参考までに、佐野為成と荒井高国の分を掲げておく。

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2007.12.12

宣雄、小十人頭の同僚(3)

宣雄(のぶお)の同僚、小十人組の頭(かしら)の本多采女(うねめ)紀品(のりただ 48歳 2000石)が、
「先手の役料は1500石。拙の家禄は2000石---なんのたしにもなりませぬわ」
といったことについて、若干の解説を付しておく。

まず、小十人組。
扈従が転じたものといわれる。主君をとりかこむ徒(かち)の士である。
組数は時代によって増減があったが、宣雄のころは10組。
番衆は1組20人。100石高10人扶持。

頭は1000石高で、布衣(ほい)。番方(武官系)幹部候補生のスタート・ラインの一つである。
次のステップは、1500石高の先手組頭。
中には、役方(行政職系)の目付(1000石高)を望む者もいる。町奉行(3000石高)への必須コースと思われているからである。

1000石高とは、ポストについている役料だが、家禄がそれ以下の場合は、家禄を差し引いた残り分を足(た)して役高になるようにする。その足し分を足高(たしだが)という。
宣雄の例でいうと、家禄が400石だから、小十人頭に就くと、600石の足高がもらえる。足高がつくこと、あるいは加増があることを、武家では出世という。

先手組頭は、役高は1500石だから、小十人頭はもとより、同じ1000石高の徒(かち)の組頭や目付などが狙っているから、競争相手は多い。

いっぽう、家禄が1500石以上---本多紀品のように2000石もあると、足高はつかない。
先のことになるが、鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の火盗改メの先任者・堀帯刀秀隆(ひでたか)も家禄が1500石だったから足高はもらっていない。

宣雄が小十人頭に抜擢されたときの同僚9人のうち、先手組頭になったのは宣雄を含めて6人だから、当時としては、かなり率がいい。

その6人の一人---仙石監物政啓(まさひろ)の『寛政譜』を掲げる。
仙石政啓が小十人組・8番手の頭になったのは宝暦3年(1753)で、50歳のとき。
先手・鉄砲(つつ)の19番手の組頭に栄転したのは宝暦12年(1762)の4月だから、10年近く、小十人組の頭をして待ったことになる。59歳になっていた。
34組ある先手組頭が、番方の爺捨て山といわれるゆえんでもある。つまり、ほとんど、行き止まりなのである。
しかし、仙石政啓は幸運にも、その上の持筒(もちつつ)の頭へ栄転している。これは頭が4人しかいないから、競争率はかなり高い。
もっとも、役料はあがらず、先手組頭と同じ1500石。組衆は50人だから、音物(いんもつ)は多くなるかもしれないが、配下が多い分、出費もともなおう。いってみれば、名誉職みたいなものであろう。
それよりも、87歳まで長生きした政啓が、致仕(ちし)後、300俵の年金をらもらっていることに注目。ある程度の役職をこなすと、この年金300俵がつく。
換算すると、年3000万円。
高級官僚が、退官後に退職金かせぎの渡りをするのは、この年300俵の養老米がつかないからかも。

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2007.12.11

宣雄、小十人頭の同僚(2)

「この先、御鉄砲場の近くに、わが家の縁者・長谷川久三正脩(まさなる 52歳 4070石)の下屋敷がございます」
「おお。御納戸町にお屋敷をお持ちの---下屋敷とはうらやましい」
「なに、1万坪もの土地に、いたずらに雑木を茂らせ、狐狸(こり)に貸しておるだけとか」

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(赤○=長谷川久三郎の千駄ヶ谷の下屋敷)

2人は笑った。小十人頭の本多采女(うねめ)紀品(のりただ 48歳 2000石)と長谷川平蔵宣雄(のぶお 44歳)であった。
向かっているのは権田原。、同じく小十人頭の羽太求馬(きゅうま)正堯(まさたか 49歳 700石)の屋敷である。
ときは、宝暦12年(1762)10月の小春日和(こはるより)の午後。

つい、5日ほど前に、羽太の息・半蔵正忠(まさただ 21歳)の才幹を幕府がみとめたということで、家督前に書院番の第2組に召された。
その祝儀の品を届けるために、出向いている。
わざわざ---といってはなんだが、2人とも、それを口実に、憂さばらしをしようというわけである。
とりわけ、宣雄は、嫁に出した多可が、男児を産んだのはいいが、産辱熱であっけなく逝ってしまったことで、気分が沈んでいた。
本多紀品にさそわれのを機に、気分を改めようと思い立った。

幕府が、親がまだ引退していないのに、その嗣子たちを取り立てたのは、羽太家だけでなく、百人近かった。
一橋家の家老職を勤めている田沼能登守意誠(おきのぶ 42歳 800石)の息・主水意致(おきむね 22歳)は小姓組番士に、石谷淡路守清昌(きよまさ 42歳 勘定奉行兼長崎奉行 800石)の息・左衛門清定(きよさだ 17歳)は西丸小姓組に召された。

羽太どののお住まいは、六道の辻の近くと聞いております」
長谷川どのにお任せです」

2人は、大山街道(現・青山通り)から六道の辻へ向けて、駒を右折させた。
祝儀の品・鰹節は、従っている若侍たちが携えている。
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(右=伊勢屋伊兵衛 にんぺんの屋号で知られる鰹節問店
『江戸買物独案内』  文政7年 1824刊)

ちなみに、鰹節の贈答用商品切手を考案して大ヒットさせたのは、にんべんの伊勢屋の六代目伊兵衛で、もっと後世---文化文政のころである。

宣雄は駒足をすこし早めて従者との距離をとり、小声で、本多紀品に訊いた。
本多どのも小十人のお頭(かしら)が、10年近くになります。そろそろ、先手の組頭へ---」
「なにをいわれる。先手の役料は1500石。拙の家禄は2000石---なんのたしにもなりませぬわ」

それから2ヶ月とたたないで、本多紀品は、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭を命じられた。
先任の島弥左衛門一巽(かずかぜ 52歳 1500石)が、火盗改メを兼務していて、組下の同心が失態を演じて辞職に追い込まれたらしい。

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2007.12.10

宣雄、小十人頭の同僚

幕臣の役職履歴をまとめた『柳営補任』に載っている、小十人頭(かしら)のリストから、鬼平の父・長谷川平蔵宣雄(のぶお)がその任についていた期間の同僚を表にしてみた。
あくまでも、手控えである。
これらの一人ひとりをつきつめて、宣雄、ひいては長谷川家との関連を考察していくときのメモ(索引)と思っていただきたい。

赤○=平蔵宣雄 黄○=平蔵宣雄就任時の同役 緑○=親友 青○=一族(本家)


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2007.06.12

神尾(かんお)五郎三郎春由(はるより)

長谷川どの。一献さしあげたいのだが---」
下城すべく、中の口から中省門へ向かっていた平蔵宣雄に、同役で七番組頭・神尾(かんお)五郎三郎春由(はるより)に呼びかけられた。

神尾春由のことは、2007年5月29日[宣雄、小十人組頭を招待]で、屋敷が神田門外にあると紹介した。あの時、39歳だったから、宝暦9年の5月は40歳。みっしりと肉がついているが、背丈が6尺(約180cm)近いので、さほどには感じられない。
亡父・若狭守春央(はるひで)は、有徳院殿吉宗)に引き立てられ、勘定吟味役から勘定奉行にすすみ、貨幣の改鋳に腕をうるった仁。6年前に67歳で卒している。

1500石の家禄にしては狭い700坪ほどの屋敷の書院で神尾春由は、宣雄の盃に酒を注ぎながら、
長谷川どの邑地は、下総(しもうさ)の武射郡(むしゃこおり)寺崎でござったな」
それこそ、1500石の大身旗本とはおもえない、ざっくばらんな口調である。
「はい。寺崎に220石、おなじ山辺郡(やのまのべこおり)の片貝に180石、いただいております」
「そのようにおふざけを申される。寺崎の実質は300石を越えておりましょう?」
「湿地を干拓して新田に変えたのを加えれば、そうなりますが、知行している者が拓(ひら)いた新田は勝手次第と---」
「その勝手次第でござる。当家も、父・若狭守春央(はるひで)が、武射、山辺、長柄(ながら)の下総3郡に1000石余の知行地を賜ってござる。ついては、武射の地をいささかなりと拓きたいと存じてな---」

手をうって用人を呼びいれ、紹介した。
「川辺安兵衛と申します。お見取りおきを---」
「川辺に、開拓のコツなどをご教授いただければ重畳」

たしかに、寺崎新田は、宣雄が指揮して湿地を拓いた。厄介の厄介だった身分の時だから、24歳から27歳の3年間を要した。そのほとんどを、寺崎の名主・戸村五左衛門の離れに滞在し、指揮・監督した。
戸村の娘・お(たえ 仮名)が下女たちを使いながら食事や洗たくの世話をしているうちに、銕三郎を身ごもった。

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(明治20年ごろの下総国武射郡の1部。青○=寺崎、
赤○=上は下吹入郷 下は八田。水色=沼、右端下=海)

「邑地は、武射郡のどちらで?」
下吹入郷八田でございますが、下吹入は山あいで、開墾の余地がございませぬ」
安兵衛が答えた。
「さよう。下吹入の郷名は聞いたことがあっても、実地を知りませぬ。八田寺崎に近いので現地の沼に釣りに行きました。あそこなら、100石ほどは干拓できましょう」

川辺安兵衛は45歳を過ぎていた。その年齢で干拓の初めての指揮はむずかしいと思ったが、宣雄はあえて言わなかった。神尾春由が費用の話題を出さなかった。だから、ことが現実味をおびてきてからいえばすむ。

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神尾が名を出した亡父・若狭守春央は、下嶋彦五郎為政(ためまさ 500石)の次男で、神尾家に養子に入った。春由下嶋家からの養子である。春央とは叔父・甥の間柄。
春央が出来者で、稟米400俵だった神尾家を1500石にまで大きくしたために、神尾一門でも発言権が強まった。
春央の妻女に子ができなかったので、実家の兄・政友の四男・17歳の五郎三郎春由の幼名)を養子にし、吉宗に初見参させた。
春央歿したのは67歳、春由34歳の宝暦3年(1753)のことである。

つい、神尾家に立ち入ったのは、徳川幕臣の養子縁組にも、いろいろの形があることを書きたかったためである。

ついでに書くと、春由は6人兄弟で、5人ともすべてうまく養子にはまっている。

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2007.06.10

羽太(はぶと)求馬正尭(まさかみ)

宝暦9年(1759)が明けた早々の1月15日、平蔵宣雄(のぶお)の同役の、小十人組・6番組頭の本多采女紀品(のりただ 2000石)が耳打ちしたように、1番組 曲渕勝次郎景漸(かげつぐ)が西丸・目付に転じた。

1番組 曲渕勝次郎景漸 1650石 36歳
      宝暦7年7月1日→同9年1月15日西丸・目付
      (布衣)同年12月18日
     羽太求馬正尭(まさかみ) 700石 45歳
      宝暦9年2月4日→明和2年6月5日卒
      (布衣)宝暦10年7月18日

曲渕の家禄は、上のリストにあるように、1650石だから、1000石高格の小十人組頭や目付を勤めても、足(たし)高は1石も補填されない。
それでも勝次郎景漸が目付に執着したのは、将来に、町奉行(3000石高格)を見据えていたからとしか思えない。町奉行目付経験者という不文律のようなものが、当時、できていたのである。

景漸目付への執着は、発令の1月15日という日付にもあらわれている。
彼は、1月15日付で小普請奉行に転じた牧野織部成賢(しげかた 2000石 46歳)の後任である。
前任者の転出日に、即、発令というのは、いかに繁忙な職といえども、珍しい。事前の周到な根まわしをそこに見る。

逆に、後任の羽太正尭の発令が常識以上におくれているのも、曲渕景漸の人事がいかに急だったかをしのばせる。

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ところで、正尭「布衣(ほい)授爵が、翌10年7月にずれこんでいる。
宝暦元年(1751)から10年間の記録を調べたが、この年だけ、7月と恒例12月(ただし3人)の2回授勲があった。

で、考察してみた。
羽太正尭のような宝暦9年末の受爵予定者を、事務方が見落としたために、翌10年7月までの資格者と混ぜて、18日に「布衣」をゆるす発令をしたのであろうと。珍事である。

まったく異例の弥縫(びほう)処置と断じるには、7月18日の20人の叙爵資格取得日をあたってみないと、はっきりしたことはいえない。まあ、取りたてて騒ぐほどの事件でもないので、時間がある後日にゆずる。

【つぶやき】 
その1. 曲渕の目付への固執ついでにいうと、家禄500石以上も、町奉行への不文律の条件であったといわれている。
平蔵宣以(のぶため 小説の鬼平)が足かけ8年も火盗改メをつづけ、余人になしえないうな嚇々(かくかく)たる成果をあげ、世間では「次は町奉行」---との新聞辞令がもっぱらであったのに、火盗改メのまま終わったのは、家禄が400石で家格が100石不足していたのと、目付を経由していなかったために、幕閣たちが任命をがえんじなかったとも伝えられている。判官びいきの世論は「100石加増してやれ」との声をあげたが、松平定信派でかためていた幕閣は、もちろん、聞く耳をもたなかった。

その2.かねて念願の北町奉行となった曲渕甲斐守景漸は、月番にあたっていた天明7年5月に江戸で起きた、いわゆる米騒動の暴徒を鎮圧できなくて、長谷川平蔵宣以の先手組2番手など10組の出動を仰いだばかりか、「舂米(つきこめ)商人たちを詮索してみたが、米は秘匿していなかった。こうなったら、食えるものをなんでも口にして、秋の収穫まで我慢するしかないのう」などと、冗談にもならない暴言を吐いて罷免された。 

その3.こののち、牧野成賢大目付まで昇進していたが、天明4年(1784)3月24日、城中で、佐野善左衛門政言(まさこと)が若年寄・田沼山城守意知(おきとも)を刃傷におよんだ現場に居合わせながら、行動が適切でなかったと、25日間出仕をとめられた。成賢は71歳だった。

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