カテゴリー「217石谷備後守清昌」の記事

2009.07.16

小川町の石谷備後守邸(2)

「それでは、それがしは、これにて---」
京都所司代の公用人・矢作(やはぎ)喜兵衛(きへえ 38歳)が告げると、石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 58歳 800石)は、
「さようですか。ご用のおもむきは、しかと、田沼侯へお伝えすると、所司代さまへお伝えくだされ。で、京へのお戻りは?」
「明後日です」
「つつがいお旅を---」
「ありがとうございます」
手を打って控えの者を呼んで矢作を案内させておいて、

長谷川どの。お引きあわせしておきたい仁がおります」
「はい」

控えの者が戻ってくると、
中井うじを、これへ」
命じた。

別の部屋で待っていた60歳ほどの、腰がまがりかけている、ふっくらとした、羽織姿の老人がみちびかれてき、部屋へは入らず、廊下に坐った。
中井うじ。そこでは話が遠すぎる。こちらへ」
清昌がうながしても、動こうとはしない」
「こちらへ、と申しておる」
声を荒だてるように言われ、はじめて、膝すすみで入ってきた。

長谷川どの。西丸のご膳所頭の中井富右衛門うじです。有徳院殿吉宗)さまが紀州からお連れになりました」
富右衛門は、蟹の甲羅のように平べったい顔を畳にすりつけて、挨拶した。

有徳院殿についてきたといえば、石谷清昌の父・権左衛門清全(きよのり 享年82歳)もそうだし、田沼意次の父・喜左衛門意行(もとゆき 享年47歳)もそうであった。

中井うじ。長谷川どのへのお願いの筋を、自ら申されよ」
清昌のすすめで、喜右衛門は、徒組の甥に、ご所不正の探索を申しつけてほしいと頼んだ。

喜右衛門が、西丸・目付の佐野与八郎政親(まつちか 41歳 1100石)に願ったところ、近く、京都西町奉行として発令される長谷川どのに、じかに頼むようにすすめられたという。
石谷備後守のところの用人の中井専右衛門が同族なので、口をきいてもらったら、きょう、お引きあわせしようと言われたと、恐るおそる述べた。

「あい、分かり申したが、まだ、辞令を受けたわけではないので、正式に用務を命じられたら、上へお願いしてみるが、ご所お役人衆の不正のこと、甥ごへはどのようにして伝わり申したのかな」
「甥が申しますに、すでに徒目付衆、小人目付衆のうちから何人かが京師へ潜行しておられるので、気が気でないと申しております」

宣雄は、石谷奉行へ目で、
(内密の探索が、もう洩れているようでは、困りましたな)
伝えると、奉行も、さもこころもとなさそうな表情になった。

「お上からご所へお渡ししている諸掛かりのことゆえ、洩れてはこまるのじゃがな---」
形だけでも、中井富右衛門に釘をさすようにつぶやいた。

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2009.07.15

小川町の石谷備後守邸

銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、東本所・四ノ橋橋界隈の〔盗賊酒屋〕で、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 37歳)と他愛もないむだ話をやりとりしていたころ---というのは、明和9年9月中旬(旧暦)であるが---。 

長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 火盗改メ・組頭)は、雉子橋通小川町(きじばしどおり・おがわまち)にある勘定奉行・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 58歳)の屋敷に呼ばれていた。
石谷清昌とは、老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 54歳 相良藩主 3万石)が側用人時代に、木挽町の中屋敷で幾度か会ったことがあった。
宣雄は、能吏としての石谷清昌に一目おいている。
清昌は、田沼意次とは別の意味で、宣雄の独創の才能と清潔さを買っていた。

参照】2007年7月29日~[石谷備後守清昌] () () (
2007年12月12日~[平蔵の五分(ごぶ)目盛り紙] () () (
2009年5月7日[相良城の曲輪内堀の石垣] (

「こちらは、所司代・土井大炊頭(おおいのかみ)侯の公用人をおつとめの矢作(やはぎ)どのです」
ひかえの者を遠ざけてから、清昌が先客を紹介した。

土井大炊頭利里(としさと 51歳)といえば、下総・古河(こが)藩主(7万石)で将来の老中候補である。
御所の修理がなった仙洞院について幕閣への報告に、代理として、こころ利いた矢作喜兵衛(38歳)を下らせたのである。
矢作は、小柄だか引きしまった躰をしており、なにより、目が澄んでいて、頭の回転がはやそうにみえた。

「これから申しあげることは、所司代の役人衆も存じおりませぬ。大炊頭侯とこちらの矢作どの、それに田沼侯だけが胸を痛めておられることゆえ、ゆめゆめ、ほかへお漏らしにならぬよう。長谷川どのには、近々、京の西町奉行職が発令になりましょう。ついては、このこと、含みおかれて、ご着任までに、なんぞ、方策をおたておきいただければと---」
石谷勘定奉行のひそやかなもの言いに、矢作喜兵衛も声をださないで大きくうなずいた。

この10年ばかり、御所の経費が目立ってふくれているのだという。
御所の経費は、山科の代官所が検閲し、割りあててある金額を超えたばあいは、幕府からの貸付金の名目で補っているが、その金高が、黙視できないまでにふくれあがってきていた。
これには、御所の役人の不正がからんでいる疑いもある。
ただ、禁裏のことゆえ、下手に表沙汰にするわけにはいかない。

長谷川どの。京へ赴任されたら、秘密のうちにお調べ願えまいか」
さすがに、怜悧といわれた石谷勘定奉行である。
平蔵宣雄なら、あるいは、探索の糸口をつかむやもしれないと、厳秘の事項を話したのであろう。

宣雄は、勘定奉行からの、まるで雲をつかむような依頼に、ただただ、頭をさげて請けるしかなかった。
まあ、まだ正式に京都町奉行を下命されたわけでもない。
また、禁裏のことは東町奉行の所管であるから、西町奉行の噂が洩れている自分が解決しなければならない事項でもあるまいと、半分、気軽に考えていた。

その宣雄のこころのうちを察したように、石谷勘定奉行は、
「この任は、長谷川どのへ、と仰せられたのは、木挽町の君です」
「はっ---」
とたんに、宣雄は、胃がきりきりと傷むのをおぼえた。

「京の町奉行所の与力・同心は、代々、土地(ところ)育ちの者たちゆえ、禁裏の役人や町方商人と縁故やなじみができていることもあろうゆえ、このこと、洩らしてはならぬと、木挽町が申しておられます」
「では、手の者は?」
銕三郎どのがおられよう。それに、江戸から、徒(かち)目付、小人目付を選んで上京させるもよろしかろう」
宣雄は、思わず大きく息を吐いた。
石谷はそれを見ると、初めて眉根をゆるめ、笑顔をもらした。


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2007.07.31

石谷備後守清昌(3)

なぜ、石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ)にこだわるかというと、観点は二つある。

その1. これまでも書いてきたように、田沼主殿頭意次(おきつぐ)は、幕府財政再建の実務面を石谷清昌にまかせることにより、実効をあげた。
その田沼は、長谷川平蔵宣雄(のぶお)の人柄と実力を買っていた。

その2. 宣雄の人柄---と書いたが、その実直、勤勉、理想主義に傾かずに実態をしっかり把握して対策を練っていくところは、小清昌ともいえるほどであるから。
田沼は、そこを実務家・長谷川平蔵として買ったのだとおもう。

つけ加えると、宣雄が出入りしている田中藩の前藩主・本多伯耆守正珍(ただよし)の、飛騨国・郡上八幡の一揆事件による老中罷免にも、間接的には石谷清昌がからんでくる。というのは、農民からの年貢の取り方に対する考え方の違いという点で。

Photoさて、田沼は、宝暦9年(1759)10月4日付で、45歳の石谷清昌を勘定奉行に引きあげ、幕府財政の再建に流通税をくわえる案の実行をまかせた。(石谷家紋の石持九曜)

もちろん、同役はいた。
一色周防守政沅(まさひろ) 63歳 600石
稲生下野守正英(まさふさ) 45歳 2000石
小幡山城守景利(かげとし) 51歳 1500石
うち、下の2人は公事(くじ)方だから財政面には関係ない。

学友 氏の文章を引用する。

石谷清昌は宝暦9年(1759)に45歳で勘定奉行に就任した。
この当時、幕府の金蔵の貯金額は最悪だった(吉宗よる)享保改革直前の状態から一応回復し、(享保7年 1722 に28万両余だったのが、宝暦3年 1753 には252万両 )と、ゆとりのある状態にはなっていたようだ。

しかし、米価は下がり続け、(米で給与を受ける)武士階級全体の生活に打撃を与え、地方諸藩の財政も深刻な赤字に見舞われていた。
こうした状況を克服ーするための、流通経済の幕府による統制と、流通過程からの徴税と資金の引き出しの政策が、田沼=石谷グループの中心政策の一部として打ち出された。
  宝暦11年(1761) 大名財政救済を名目とする大坂商人への御
               用金170万両余(翌年撤回)
     12年(1762) 大坂金蔵銀為替廃止
              (江戸へ幕府の銀収入を集中し、大坂で必要
               な公金を江戸から為替で送ることにより、
               上方の銀通用量を減らす)
  明和 4年(1767) 上記江戸為替廃止(大坂経済の低落をもたら
               す現実無視の政策)
これらに石谷の直接の関与があったかどうかはわからないが、試行錯誤の例として見ることができる。
石谷の主導のもとに行われた流通業の再編成と統制は、幕府の収入確保のためばかりでなく、生活必需物資の安定供給と物価の高騰防止の意味があった。
  明和 7年(1770) 菜種絞油仲間
  安永 元年(1772) 大坂三所綿問屋
      2年(1773) 菱垣回船問屋
  そのほか大坂だけで80業種に達する株仲間の結成と冥加金・運上の徴収。

ところで、米価下落による武士階級の家計の逼迫に、長谷川家はどう対応したかだが、もちろん人並みに倹約はしていたろうが、宣雄が厄介時代に知行地の上総国武射郡・寺崎の知行地220石を、干拓・開墾によって実質330石に増やしていたことは、以前に記した。
そのためにほかの幕臣たちよりも余裕があり、かつ、余剰金で、明和元年(1764)10月に、築地・鉄砲洲の479坪から、南本所三ッ目通りに1238坪の屋敷を購うことができている。

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2007.07.30

石谷備後守清昌(2)

学友の一人---氏は、大学を定年後、住まいのある愛知県の『年金者大学』で、受け持っている江戸史の講座の講義録を送ってくれた。
石谷備前守清昌(きよまさ)の発見は、氏の講義録によるところが大きい。

ついては、氏の了解のもとに、講義録の一部を引用させていただく。

_100氏は、田沼の積極的経済政策として、大石慎三郎さんの『田沼意次の時代』(岩波現代文庫)からとして、つぎ4点をあげる。
1.年貢増徴でなく流通課税による財政再建
2.通貨の一元化
3.蝦夷地の調査と開発
4.印旛沼の干拓

このうち、1.は、ほとんど石谷清昌の企画・立案、施行によると、氏はいう。

田沼の経済政策の実質的な担当者は誰だったか。
彼(田沼)が老中に昇進してからは、松本秀持と赤井忠晶を勘定奉行にして、印旛沼干拓とか蝦夷地(北海道)開発などの派手なプロジェクトを推進させようとしたから、この2人が腹心の部下だったことはまちがいないが、これは田沼政権の末期に近く、上記の1.と2.の政策を進めた時期には、まだ下役の一人にすぎなかったし、財政負担の多いプロジェクトで、失敗や挫折をくり返して田沼政治を沈没させてしまう結果になったのだから、彼らを過大評価することばできない。
大石氏をはじめ、近世史家の多くが、そうした間違った評価をしているのは解せないことである。
この頃の幕府政治の実務を担当する官僚たちは、勘定方を中心に、頭も切れ、実行力にも富んだ優秀な人物が少なくなかった。
田沼自身は、小姓から御側御用取次・側用人・老中と、いわゆる側近のコースを歩んで昇進してきたから、勘定方の経験はなく、個々の具体的な政策面で案を立てたり、細かい処置を考えたりするためのに、実務知識や手腕を持っていたわけではない。
彼の役割は、総合的な方向をきめ、とりわけそれに必要な人事を行うという、総括者としてのものであったから、上記のような革新的な政策を企画し、調査と実行に当るための、優秀なスタッフがいなければ、とても実現できなかったはずである。
むしろも田沼自身の直接の提案や指示に出たと思われる政策では、思いつきの危うさと計画の粗さが目立つケースがおおい。

役割分担に関しての氏の指摘は全面的に的を射ているとおもう。
田沼の器量の大きさは、人材の登用と、将軍・大奥をはじめとする関係箇所への根まわしも周到に行ったことからも推察できる。
また、石谷清昌は紀州閥の一人とはいえ、吉宗没後に、彼を引き立てて経済諸政策を実行させた田沼の功績は、いささかもゆらぐものではない。遠い閨縁という関係ももちろんあることはあったが。
ことに、人事については、老中首座・松平左近将監武元(たけちか)の生存中は、田沼の独断は許されなかったろう。仮に独断を通したとしても、引き立てられた仁は、赴任先で陰湿にいじめぬかれて挫折しよう。
それを避けるための手くばりが、年を経た幕府官僚社会ではとりわけ必要だったのではなかろうか。
史家は、そういう些事ともおもえる陰湿な部分は、概して素通りしがちである。まあ、人間感情にこだわると小説にするしかないが。

石谷清昌は、勤勉・精勤、しかも、担当者の話をよくきき、問題の本質を見抜き、意見をよくとりあげたと、氏はいう。
ということは、田沼が、清昌の使い方を十分に心得、先、さきと手をまわしていたことをも暗示しているようである。

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2007.07.29

石谷備後守清昌

平賀源内(げんない)が、田沼主殿頭意次(おきつぐ)になにやら相談ごとがありげだったので、本多采女紀品(のりただ)、長谷川平蔵宣雄(のぶお)、佐野与八郎政親(まさちか)の初席組は、はやばやと退出した。

本多紀品の屋敷は表六番町、佐野政親は永田町馬場なので、築地・鉄砲洲の宣雄とは、まるで方角が違う。
そのことを承知しているが、田沼邸の角で、宣雄にいった。
「先刻の石谷どのだが、稀にみる能吏と、田中(藩)のご隠居から聞いていた。精錬所を一つにまとめたのも、諸掛りが半減するからと田沼侯はいわれたが、ありようは、〔かなこ(坑夫監督)〕と〔買石(精錬請負業者)〕とのつるみを断ち切るのがねらいと、これもご隠居からの話でござる。老中方は、たいそうなご評価のよう---」
「はて。本多どのは、はやくも目付のご気分---」
宣雄が顔を寄せて、冷やかすように小声でいったのは、どこに耳があるかしれないからでもあった。
それをしおに、本多佐野は三十間堀に架かる新シ橋のほうへ歩み、別れた宣雄は、大名屋敷の塀がつづく暗い道を築地川へ向かった。

ここで、宣雄に代わり、石谷備後守清昌について若干解説しておく。
石谷家が紀州藩の出であることは、先刻の田沼意次の『わが家とちがい、初代さま(頼宣)につけられて紀州へ下られたお家柄』との言ですでにお分かりのはず。

吉宗との関連でいうと、20歳の享保18年(1733)--というから、吉宗が将軍在位18年目から7年間、小納戸をつとめた。小納戸とは、将軍の側近くで私用を果たす役である。
そのときの気くばりと器用と勤勉ぶりが気にいられたかして、27歳の元文5年(1740)から37歳の宝暦元年(1751)まで、小姓(側衆)として、吉宗の後半期の政策実施---とりわけ、財政の改革をじっくりと勉強する。
つまり、延享2年(1745)9月、吉宗が将軍職を嫡子・家重に譲り、大御所として西丸へ移るとともに、清昌も西丸の小姓として勤務したわけである。
宝暦元年6月20日、吉宗の病死によって、勤務を解かれるが、翌2年には西丸の小十人頭となり、目付を経て、宝暦6年(1756 42歳)には佐渡奉行に栄進。
この人事には、田沼意次の後ろ盾が大きく働いていたという。
清昌の妻は意次の同母妹の義姉にあたる。また、嫡子・清定(きよただ)の妻は意次の姪で、その直ぐの姉は田沼の養女という姻戚関係である。
ついでに記すと、佐渡奉行の役料1000俵。

ここで、前任者たちが重い年貢を課して、農民が疲弊つくしていることを老中へ訴えるともに、吉宗時代に神尾(かんお)若狭守春央 (はるひで)が行った年貢増徴に疑問を投げかけ、のちに、物流への課税を意次に進言している。
春央の嫡子・五郎三郎春由(はるより)が、宣雄の小十人頭就任お披露目の宴会のあと、誘いをかけてきた、かの仁である。

勘定奉行、長崎奉行以降については、『寛政譜』をご覧いただきたい。

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