相良城・曲輪内堀の石垣(4)
「恐れながら---」
佐野与八郎政親(まさちか 37歳 1100石)であった。
3年前から西丸の目付衆の一人として、徒(かち)目付や小人(こびと)目付を統括している。
【参照】2007年6月5日~[佐野与八郎政親] (1)
2008年11月7日~{西丸目付・佐野与八郎政親] (1) (2) (3)
「おお、佐野うじの耳には、どのようなことが入っておるかの?」
老中格・田沼意次(おきつぐ 52歳 相良藩主 2万5000石)が気軽に受けた。
老中格のやりようではない、というのは、目付は若年寄に直結しているからである。
しかし、形式ばった柳営ではともかく、下屋敷での意次は、そういう垣根を意識しない。
「いま、話にでました先手・鉄砲(つつ)の1番手の為井又六祐安(すけやす 80歳 200俵)組頭のことに、じかにかかわることではございませぬ。先手の組頭衆のみなさまについての苦情でこざいます」
「それは、聞きずてならぬこと。申されてみよ」
佐野政親が告げたのは、徒目付・小人目付が聞きこんできている、つぎのような声であった。
先手の組頭は1500石格で、並みの番方(武官系)の、ほとんど終着地位に近い。
番方の幕臣がさらに高い地位をもとめるとすると、役方(行政畑)へ転じるしかない。
それでも、家禄によって壁があるから、このところ、先手組頭に死ぬまで居座るようになっている。
しかし、先手組というのは、泰平のいまの世でこそ江戸城内の門の警備役であるが、いざ、戦時ともなれば、第一線で敵と槍をまじえ、鉄砲を射ちあう部隊である。
その指揮者で組頭が、個人差はあるというものの、70歳代、80歳代でいいものか---との批判めいた声がないでもない。
「もっとも、おいしい席の先がつかえているために、長老たちの職への執着をとやかく言う者も少なくはありませぬ」
佐野目付は、言葉を選びえらびしながら、幕府の役人たちの高齢化を述べている。
勝手方の勘定奉行・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石)が口をはさんだ。
「当主がいつまでも在職していると、多くの継嗣は、30歳をすぎても、あるいは40歳になっても部屋住みのままで、あたら、才能をくさらしておりますな」
「うむ。さりとて、この職は乃公(われ)でのうてだれにできるか---と思いこみがちなのも、人の業(ごう)ではあるがな」
意次の言葉に、備後守清昌は遠慮をしない。
「人生は、仕事のみではございますまい。ほかに楽しみもあるはず」
「仕事人の備後どのの口からでた言葉ともおもえぬことを---」
同じ紀州の出身で、しかも親類というあいだからなので、意次と清昌は忖度会釈なしの仲であった
「ところで、佐野うじは先手組頭の高齢化を申されたが、なにか、証拠をお持ちかな?」
意次が訊いた。
「はい。下の小人目付たちからの言上がありましたので、調べてみました」
佐野政親によると、この年---明和7年(1770)の弓の10組の組頭の平均年齢は64歳を超えており、最年長は78歳、鉄砲の20組のそれは60歳強で、最長老は80歳の為井又六祐安(すけやす 200俵)と。
「西丸の先手組頭4人のことは、お許しくださいますよう---」
「それは申しにくいであろう。よいよい。先手の爺い組頭のこととして、少老(若年寄)部屋へ、若返りをささやいておこう。
今宵は、この話はでなかったことにいたそう」
佐野目付よりも、長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)の頭の下げ方が深かった。
宣雄が与(く)みしている弓組の10人組頭のうち、50歳台は宣雄ともう一人、60歳代前半が4人、後半が2人、70歳代が2人であった。
最若年は宣雄の52歳。
田沼意次の提案にもかかわらず、先手組頭の対高齢化策は、銕三郎(てつさぶろう 25歳)が平蔵を襲名して組頭になる17年後まで、ほとんどとられなかったといってよい。
人事の若返りは、一度は築かれた石垣のように、改修はそれほどむつかしいともいえる。
とりわけ、定年制が明文化されていなかった徳川体制のものでは。
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