鎮圧出動令の解除の怪
またしても、些細なトリビアリズムに当面してしまった。
学問的な事項ではないし、幕府行政の習俗といったほとのことでもない。
しかし、長谷川平蔵や天明7年(1787)の江戸・打ちこわしについての後続の史跡研究者の参考のためにメモをのこしておくつもりで書いておく。
江戸市中の打ちこわしは、天明7年5月20日の夕刻からはじまった。
当初幕府の上層部は、町奉行所と火盗改メの本役・先手の弓の7番手――堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石)の組だけで片がつくと軽くかんがえていたらしいが、とんでもなかった。
23日に、先手組の中でも組頭(くみがしら)が若い組に市中巡回、鎮圧捕縛の命令をだしたことは、これまでの経緯で述べた。
騒擾(そうじょう)のようすは『続徳川実紀 第1巻』の31~33ページにかなりくわしく叙述されているから、大要はのみこめよう。
暴動は24日にはいちおう収束したが、先手10組に巡回解除の通達がでたのはほぼ1ヶ月後の6月18日で、それも、『続実記』によると、奇妙な形であった。
十八日 西城・先手筒頭 奥村忠太郎正明へ、去りしころ市井物騒がしきにより、同僚十人市中巡り命ぜられしが、このほど静謐(せいひつ)に及びしによりその事御免のむね、同僚残りの面々へも申つたふべきよし、(老中)牧野越中守貞長(さだなが 57歳 笠間藩主 8万石)申伝ふ。
先手組はふつうは、若年寄の配下にある。
しかし、江戸の騒擾――天下の一大事ということで老中のあつかいに移されたのかもしれない。
向後、この天明の打ちこわしに論がおよぶときは、先手10組を統率したのは月番の老中であったかもしれないとの意識で判断をしたほうがいいようにおもった。
それはそれとして、先手10組の鎮圧命令がくだったときは、弓組での先任ということで『続実記』は、「先手筒頭」と誤記はしたが、長谷川平蔵を冒頭に置いた。
奥村忠太郎は筒組8名の中にまとめられ、末尾から2番目であった。
【参照】2012年5月8日[ちゅうすけのひとり言] (94)
ところが解任時は、ほかの9人の組頭をさしおき、1人だけ呼ばれ、あとはそなたから伝えよ、というこであったらしい。
上の【参照】をクリックして検分していただくとわかるが、奥村組頭は年齢からいっても家禄からみても、10名の真ん中へんの人物である。
なにごとにも先例、格式、礼法を重んじる幕府のこと、もしかしたら先任順かとおもいつき、【参照】から並べなしてみた。
筒7安部平吉信富(安永5年(1776)5月10日ヨリ)
筒6柴田三右衛門勝彭(天明元年(1781)11月12日ヨリ)
筒19安藤又兵衛正長(天明2年(1782)12月12日ヨリ)
筒17小野次郎右衛門忠喜(天明3年(1783)8月14日ヨリ)
筒2武藤庄兵衛安徴(天明4年(1784)10月28日ヨリ)
筒16河野三右衛門通哲(天明5年(1785)11月15日ヨリ)
弓2長谷川平蔵宣以(天明6(1786)年7月26日ヨリ)
西 奥村忠太郎正明(天明6年(1986)閏10月8日ヨリ)
弓6松平庄右衛門穏先(天明6年(1786)11月15日ヨリ)
筒9鈴木弾正少弼政賀(天明7年(1787)正月11日ヨリ)
奥村忠太郎がほかの9人の組頭と異なるところをしいて探すと、家柄が70年ほど以前に吉宗(よしむね)にしたがって江戸城入りした紀州勢ということぐらいであろうか。
もうすこしうがった解釈は、弓の先任、田沼派に近いという偏見で平蔵がはずされ、それなら4組しかいない西丸の先手からただ一人選抜された組頭であれば、このあとも妬みをかうまいと……まさか。
万策尽きた……とはこのような事態のときに使うのであろう。
この事態の解釈案をおもいつかれたら、コメント欄にご提案いただきたい。
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