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2009.04.29

先手・弓の組頭の交替

明和7年(1779) 6月2日。
先手・弓の1番手の組頭に14年間在職していた・松平(滝脇)源五郎乗通(のりみち 76歳 300俵) が老年を理由の隠居願いが認められけられ、致仕した。

後任は、天野伝四郎富房(とみふさ 67歳 700石)で、小姓組・1番手の与頭(くみがしら 組頭とも書く)からの出世であった。
1000石格の小姓組与頭を14年間勤めての、やっとの先手組頭といえようか。

天野家といえば、竹千代と呼ばれていた6歳の家康今川方の人質として行くときに、戸田弾正少弼宗光(むねみつ)・正直(まさなお)父子の詭計によって織田信秀に売られたときも、のちに今川方の人質として駿府へ送られたときも、5歳年長の三之助(のちの康景 やすかげ)は、小姓としてしたがった。
富房は、この天野本家の庶流の末である。

宮城谷昌光さん『風は山河より 第三巻』(新潮社 2007.1.30)に、戸田五郎正直が渥美半島の田原城から竹千代を船に誘ったときを、

「さあ、竹千代どの、お乗りください。扈従(こしょう)のかたがたは、そこもととそこもとと---」
 正直は阿部徳千代と天野三之助のほかひとりの小姓をえらんで乗船させ、金田与三右衛門などの数人の供奉の人々を同乗させると、あとのかたがたはほかの船へお乗りください、といわんばかりに、おもむろに手をあげ、自身は配下の者と船尾へ移った。

このあと、詭計に気づいた三之助は、竹千代に異変を耳打ちする。
さすが、5歳の年長者であった。
 
竹千代の熱田での幽閉は2年つづいた。

新しい先手・弓の組頭を列記し、天野伝四郎の個人譜を掲げておく。

新任のあいさつの席を、体調がすぐれないからと、しきたりを破り、麻布飯蔵中町の自邸に近い宮下町の料亭〔車屋〕でもよおすという異例さであったが、富房の76歳という年齢をおもんぱかって、表立っては、だれも苦情はいわなかった。

むしろ、着任ちょっとで卒したことのほうをあわれんだというほうがあたっている。

天野富房の着任時の先手・弓の組頭

1番手
 天野伝四郎富房(とみふさ)  76歳       700石    

2番手
 奥田山城守忠祗(ただまさ)  67歳   4年  300俵

3番手
 堀甚五兵衛信明(のぶあき)  61歳   5年  1500石

4番手
 菅沼主膳正虎常(虎常)    56歳   4年  700石

5番手
 能勢助十郎頼寿(よりひさ)   69歳   3年  300俵
  
6番手
 遠山源兵衛景俊(かげとし)   63歳   3年  400石

7番手
 長谷川太郎兵衛正直(まさなお)61歳   7年  1450石

8番手
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)    52歳   5年  400石

9番手
 橋本河内守忠正(ただまさ)    60歳  3年  1300石

10番手
 石原惣右衛門広通(ひろみち)  78歳   3年  200俵


番方の出世の終点とも思われている先手・弓の、しかも1番手の組頭を手にした天野富房は、就任2ヶ月後の8月18日に逝去が認められた。

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(先手・弓の1番手組頭・天野伝四郎の個人譜)

後任は、平岡与右衛門正敬(まさとし 69歳 300俵)で、小姓組与頭を15年まじめにに勤めあげたすえの抜擢である。
この仁については、後刻詳報することになろう。

ついでに記しておくと、しばしば家名がでた、先手・鉄砲(つつ)の7番手の組頭・諏訪左源太頼珍(よりよし 64歳 2000石)も、この年の5月13日に病死したことになっている。

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