先手・弓の組頭の交替
明和7年(1779) 6月2日。
先手・弓の1番手の組頭に14年間在職していた・松平(滝脇)源五郎乗通(のりみち 76歳 300俵) が老年を理由の隠居願いが認められけられ、致仕した。
後任は、天野伝四郎富房(とみふさ 67歳 700石)で、小姓組・1番手の与頭(くみがしら 組頭とも書く)からの出世であった。
1000石格の小姓組与頭を14年間勤めての、やっとの先手組頭といえようか。
天野家といえば、竹千代と呼ばれていた6歳の家康が今川方の人質として行くときに、戸田弾正少弼宗光(むねみつ)・正直(まさなお)父子の詭計によって織田信秀に売られたときも、のちに今川方の人質として駿府へ送られたときも、5歳年長の三之助(のちの康景 やすかげ)は、小姓としてしたがった。
富房は、この天野本家の庶流の末である。
宮城谷昌光さん『風は山河より 第三巻』(新潮社 2007.1.30)に、戸田五郎正直が渥美半島の田原城から竹千代を船に誘ったときを、
「さあ、竹千代どの、お乗りください。扈従(こしょう)のかたがたは、そこもととそこもとと---」
正直は阿部徳千代と天野三之助のほかひとりの小姓をえらんで乗船させ、金田与三右衛門などの数人の供奉の人々を同乗させると、あとのかたがたはほかの船へお乗りください、といわんばかりに、おもむろに手をあげ、自身は配下の者と船尾へ移った。
このあと、詭計に気づいた三之助は、竹千代に異変を耳打ちする。
さすが、5歳の年長者であった。
竹千代の熱田での幽閉は2年つづいた。
新しい先手・弓の組頭を列記し、天野伝四郎の個人譜を掲げておく。
新任のあいさつの席を、体調がすぐれないからと、しきたりを破り、麻布飯蔵中町の自邸に近い宮下町の料亭〔車屋〕でもよおすという異例さであったが、富房の76歳という年齢をおもんぱかって、表立っては、だれも苦情はいわなかった。
むしろ、着任ちょっとで卒したことのほうをあわれんだというほうがあたっている。
天野富房の着任時の先手・弓の組頭
1番手
天野伝四郎富房(とみふさ) 76歳 700石
2番手
奥田山城守忠祗(ただまさ) 67歳 4年 300俵
3番手
堀甚五兵衛信明(のぶあき) 61歳 5年 1500石
4番手
菅沼主膳正虎常(虎常) 56歳 4年 700石
5番手
能勢助十郎頼寿(よりひさ) 69歳 3年 300俵
6番手
遠山源兵衛景俊(かげとし) 63歳 3年 400石
7番手
長谷川太郎兵衛正直(まさなお)61歳 7年 1450石
8番手
長谷川平蔵宣雄(のぶお) 52歳 5年 400石
9番手
橋本河内守忠正(ただまさ) 60歳 3年 1300石
10番手
石原惣右衛門広通(ひろみち) 78歳 3年 200俵
番方の出世の終点とも思われている先手・弓の、しかも1番手の組頭を手にした天野富房は、就任2ヶ月後の8月18日に逝去が認められた。
(先手・弓の1番手組頭・天野伝四郎の個人譜)
後任は、平岡与右衛門正敬(まさとし 69歳 300俵)で、小姓組与頭を15年まじめにに勤めあげたすえの抜擢である。
この仁については、後刻詳報することになろう。
ついでに記しておくと、しばしば家名がでた、先手・鉄砲(つつ)の7番手の組頭・諏訪左源太頼珍(よりよし 64歳 2000石)も、この年の5月13日に病死したことになっている。
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