カテゴリー「091堀帯刀秀隆 」の記事

2012.02.21

火盗改メ本役・堀 帯刀秀隆の組替え(3)

「これは根も葉もない噂で、組といたしてははなはだ迷惑をしておりますが、手前ども与力10名が5両(80万円ずつ)、同心30名は1両(16万円)ずつ、計80両(1280万円)を お頭(かしら)の用人へつかませて弓の7番手へ組替えしてもらったなどと---」
次席与力・高遠弥之助(やのすけ 43歳)がしゃもの肉をつまんだ箸をとめ、怒りの言葉を吐いた。

ちゅうすけ注】噂は、この2年後の天明7年、老中首座になった松平定信側の隠密が耳にした記録を呈上している。(『よしの冊子』)
つまりこの噂は2年ものあいだ、中級以下の幕臣たちのあいだでささやかれつづけていたともいえないことはない。 

いや、もしかすると、これは堀 帯刀秀隆(ひでたか)をおとしめるための記録ではなく、田沼意次(おきつぐ 老中 相良藩主)の時代には買職があったらしいとの噂の一つとして記録されたのかもしれない。
真相は藪の中である。

先手組頭の発令と同時に組替えという例は、河野勝右衛門通哲(みちやす 62歳 600石)以前にも以後にもこの1例だけであり、きわめい異例のことがおこなわれたといえる。

そのことに触れていない『よしの冊子』の信用度はかなり低いといえよう。

ただ、堀 秀隆の側にも、脇の甘さがあったことは事実であろう。
とりわけ平蔵(へいぞう 40歳)は、堀家の用人の一人には不快なおもいをさせられているが。

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(先手・弓の7番手の組頭 前田、横田、河野、堀の発令歴 『柳営補任』)


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(先手・鉄砲の16番手 本多、堀、河野の発令歴)

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2012.02.20

火盗改メ本役・堀 帯刀秀隆の組替え(2)

堀 帯刀どののお人がらを聴こうにも、(にえ) 越前)どのは堺、建部(たけべ)大和)どのは京都だ)
平蔵(へいぞう 40歳)は、なぜか火盗改メ・本役になった堀 帯刀秀隆(ひでたか 50歳 1500石)の用人の無愛想な振るまいにこだわった。

帯刀の火盗改メ・助役(すけやく)時代の働きぶりを話してくれそうな贄 越前守正寿(まさとし 45歳 300石)は奈良奉行として赴任したままだし、建部大和守広殷((ひろかず 58歳 1000石)はこの夏の初めに禁裏付となって京都へのぼってしまっていた。

建部どのを高輪の大木戸でお見送りしたのは、つい昨日のことにのようにおもえるが、かれこれ半年がすぎている。歳月は光陰のごとしとは、よういうたものよ)

参照】2011117~[建部甚右衛門、禁裏付に] () () (

瞬時、感慨にふけったが、立ち戻るのも早かった。
(そうだ、転任したばかりの先手・弓の7番手の与力・高遠(たかとう)弥之助(やのすけ 43歳)という手があった)

高遠弥之助は、平蔵(へいぞう)が銕三郎(てつさぶろう)時代に親しくしていた同組の、次席与力・高遠弥大夫(やだゆう)の職席を継いでいる。

松造(よしぞう 35歳)にいいふくめ、裏猿楽町のの屋敷へ走らせ、こっそり本所二ノ橋北詰のしゃも鍋〔五鉄〕の2階で待っていると耳打ちさせた。

弓の7番手の組屋敷は資料により、麻布竜土町としているものと麻布我前坊谷(がぜんぼうだに)と記しているものがあるが、とりあえず竜土町説をとっておく。
どちらにしても帰りの送り舟は、赤羽橋下となる。

弥之助は約束の時刻---七ッ半(午後5時)きっかりに〔五鉄〕にあらわれた。
「近くでともおもったが、ご存じのとおり、すぐそこの両国橋東詰には鶏肉市場があり、ここらあたりはしゃも料理の本場ゆえ、放俗(ぼうぞく)の味が楽しめるので、わざにお越しをいただいた」
高遠は恐縮し、
「生まれて初めて口にいたします」

堀帯刀秀隆河野勝左衛門通哲(みちやす 62歳 600石)が相互組替えになったわけを訊いた。
河野家は四国の名門・越智氏つながりで、血筋も悪くはない。

河野さまが同日(天明5年 1785 11月15日)に、留守番からとりあえず弓の7番手の組頭に発令なされたのは、上ッ方のほうで越智ご一族のお顔を立て、しかしご病気がちなので火盗改メは無理といいふくめられ、鉄砲(つつ)の16番手への組替えをのまされたと聴いております。手前どもとしますと、たびたび火盗改メのお頭をいただいてきておりますので、この同日組替えは、のぞむところでした」

鍋を仕込みながら、2人に酌をしていた三次郎(さんじろう 36歳)が、
「煮あがりました。どうぞ、ごゆっくり---」と降りていった。

「すると、河野うじは、一度も7番手の組へはお顔を見せにならなかったということかな?」
「はい」


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(河野勝左衛門通哲の個人譜)


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2012.02.19

火盗改メ本役・堀 帯刀秀隆の組替え

(肌はあさぐろくずんぐり、声のみが高かった、無遠慮な、あのご仁がなあ)
平蔵(へいぞう 40歳)は、4年前に九段坂東の中坂下の席亭〔美濃屋〕で、火盗改メ・本役に就任した(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 41歳=当時 300石)が助役(すけやく)の堀 帯刀秀隆(ひでたか 46歳=当時 1500石)、増役(ましやく)の建部(たけべ)甚右衛門広殷((ひろかず 54歳=当時 1000石)を紹介されたときの、堀の印象をおもいうかべていた。

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(左の坂=九段坂に向かい右手=中坂 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)


初老の狸(たぬき)といえる風貌であったが、とりあえず、下の【参照】(1)だけでもクリックして記憶をよみがえらせていただくと話しがすすめやすいというもの。

参照】2011年4月4日~[火盗改メ・堀 帯刀秀隆] () () () () () (

【参照】(1)にも、ちらと書いたが、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭であった堀 帯刀は、天明5年(1785)11月15日に火盗改メ・本役を仰せつけられ、即日、弓の7番手へ組替えを命じられた。

もっとも、『徳川実紀』は、組替えには触れていない。

 十一月十五日先手組頭堀 帯刀秀隆盗賊考察の事承る。

よけいごとを記しておくと、このことを報じている『(1972.02.01)実紀 第十篇』の278~9ページの月表記は「十一月」とすべきところが「十 月」と「一」が脱落しているので、今後の研究者のために。

実紀』は組替えには触れていない。
公けのことではないと編者たちが判断したのであろうか。

堀 帯刀秀隆の火盗改メ・本役発令をしった長谷川平蔵宣以は、2年後に自分が 本役とともに火盗改メ・助役(すけやく)を務めることになろうとはおもいもしなかったろう。
というのも、火盗改メは先手組頭から選抜されるしきたりで、平蔵は西丸・徒(かち)の頭(かしら)に抜擢されてまだ1年経っていなかったからである。

いかに自信家といえども、徒の頭は2年以上---たとえぱ、平蔵が属していた西丸・徒の4の組頭の前任の5人の平均在職年数は11年強---であったから、平蔵としても6,7は覚悟していたとも推定できる。

とにかく、贄 壱岐守の引きあわせで面識ができていた堀 帯刀が、先手頭に指名されたというので、平蔵は酒の角樽を用意して祝辞をのべに裏猿楽町の屋敷を訪(おとな)い、驚いた。

玄関の式台に用人と名乗った貧相な男があらわれ、角樽を受けとり、
「主人がよろしくと申しております」
それだけであった。

「なんです、あいつの態度は---?」
門を出ると、松造(よしぞう 35歳)が唾をはきながらつぶやいた。

。言葉をつつしめ。まあ、ああいうのを虎の威を借りるやからというのだ」
「しかし、殿。 さまは殿の先達でもなければ引き立て人でもありません」

「そう、怒るな。腹を立てた分だけ腹が減って損をみるのはこっちだ。もっとも、さまは家禄が1500石、先手組頭の格も1500石だから、足(たし)高なしの持ち高勤めで足(あし)が出ているのがご不満なのであろうよ」

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(堀 帯刀秀隆の個人譜)

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2011.04.15

中屋敷の於佳慈(3)

「於佳慈(かじ 31歳)さま。そのような風聞は、どのような筋からお耳に入るのですか」
平蔵(へいぞう 37歳)の問いを、於佳慈は笑いと冗談ではぐらかした。
「おほ、ほほ。もっぱら、地獄耳の於佳慈といわれております」

「こちらの問いは、いかがでしょう? お生まれは深川と聞いておりますが---?」
長谷川さまは、いつから仲人をおはじめになりましたの?」
婉曲に逃げた。

「いつだったか、深川は築地(埋立地)ゆえ、水がよくない---とおっしゃったそうですね?」
里貴(りき 38歳)さまは、そんなことまで寝物語りでお告げになるのですか?」

里貴がすがるように、
(てつ)さまは、堀 帯刀さまの私ごとまで相良侯田沼主殿頭意次 おきつぐ 64歳)のお耳に達していることを驚くというか、私とのあいだがらもお上へ報じられているのではないかと怖れておいでなのです」

佳慈も真面目な表情になり、お上が、幕臣とおんなとのことで憂慮するのは、3点であると前置きし、
1は、家政がみだれたり、刃傷沙汰をおこして世間の耳目を集めたりしないか。
2は、おんなの縁者の猟官に走らないか。
3は、おんなに金を注ぎこんで不正を働くようにならないか。

長谷川さまと里貴さまは、茶寮〔季四〕が大赤字にでもならないかぎり、3の心配はないでしょう。わが殿も〔季四〕の帳尻には気をくばっておられます」
「ありがたいことでございます」
「2の猟官のことも、いまの里貴さまには、そういう縁者は見あたらない---」
「はい---」
「1は---」
「大丈夫です」

佳慈が言葉をつないだ。
「口外しないと指きりしてくださると、打ちあけますが---」
「誓紙を差しだしてもよろしいが、とりあえずは、里貴が指きりを---」
「いえ。長谷川さまといたしましょう」

里貴が眉根を寄せたが、かまわず、於佳慈が小指を平蔵に突きつけた。

心持ち指きりが長いと感じたのは、里貴だけではなかった。
(放してくれないな)
平蔵も、胸内でおもった。

指が離れると、
「わが殿は、お庭番とは別に、宿老としていただいている機密のお金で数人の隠密をかかえておられます。その隠密たちの取次ぎを私がやっているのです」
「すると、堀 帯刀どののご内室の件は---?」
佳慈の双眸(ひとみ)が、これまで見せたことのない冷たさで光った。
「20年のあいだに3人もの奥方ということなので、探索させました」

ちゅうすけ註】堀 帯刀秀隆は、その後、57歳で歿する寛政5年(1793)までの11年のあいだに、もう2人の内室を娶っている。総計5人。

「お佳慈さま。お生まれは深川のどちらでございましたか?」


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2011.04.14

中屋敷の於佳慈(2)

平蔵(へいぞう 37歳)とすると、正月早々から他家の新妻評など、耳にしたくはなかった。
けれども、於佳慈(かじ 31歳)とすれば、 組から火盗改メのことで依頼があったときの要心にとの親切心で話してくれていることがわかっているだけに、聞くしかなかった。

屠蘇がまわったらしく、里貴(りき 38歳)もふだんの抑制がゆるんで、金棒引きぶりを見せていた。
「新しくご内室にお入りになる方は3人目とおっしゃいました。2番目のお方は---?」
さすがに平蔵も黙っているわけにはいかず゜、
里貴。かかわりないことを口にするでない」

里貴がしょげたので、於佳慈が助け舟のつもりか、
「いいえ。他家へ入るのはおなごの宿命でございます。いろいろな運命をしっておくのもおなごの心得と申すもの---」
平蔵をやりこめた。
(おんなの連合軍に、男の勝ち目はない)

去年の10月、目付から先手・鉄砲(つつ)の第16の組の組頭に任じられるとともに、火盗改メ・助役(すけやく)を仰せつかった堀 帯刀秀隆(ひでたか 46歳)が、3人目の新妻を迎えようとしていることが、おんな同士の話題の的になっている。
3人目は、持参金目当てらしいとの結論であった。

「そういえば、2人目は再縁だったようです」
主(あるじ)の田沼意次も用人たちも神田門内の役宅のほうの年賀受けへかかりきっているので地がでたか、屠蘇のせいか、お佳慈も言葉遣いもぞんざいになってきた。

それによると、堀 秀隆の2番目の内室は、(形原)松平権之助氏盛(うじもり 享年61歳 2000石)の次女であった。

婚じた相手は、名門の一つである内藤家---といっても本家は、増上寺での刃傷ごとで志摩・鳥羽藩(3万3000石)を召し上げられてい、分家・左膳忠賢(ただかた 享年41歳 2000石)。

忠賢が兄の養子となったのは明和7年(1770)と推測でき、34歳。
婚儀は、その後と考えると、ずいぶん齢の離れた夫婦であったとおもえる。
忠賢の死は、嫁いで3年目で、子はなかった。
家は忠賢の弟が継いだ。
内藤家を去り、実家へ戻った。
姉も離婚して帰ってきていた。
堀 秀隆との縁ができたのは、あちらが40歳、こちらが25歳あたりであったろうか。

25歳あたりといってから於佳慈は、ちらりと里貴をみた。
亡夫・藪 保次郎春樹(はるき 享年27歳=明和4年)が卒したとき、里貴は25歳であった。

(おんなも25歳で先だたれると、身がもたない)
いおうとして、言葉を呑んだ気配であった。
里貴には、亡夫との房事の記憶はとうに消えていた。
いまの平蔵とのそれがそれほど強烈であったともいえるし、そのたびに満ちているとも思った。

平蔵がさらりと話題を転じた。


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(堀帯刀の形原松平からの2番目の妻)


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2011.04.13

中屋敷の於佳慈

天明2年(1782)が明けた。

平蔵(へいぞう 37歳)、久栄(ひさえ 30歳)、辰蔵(たつぞう 13歳)。
里貴(りき 38歳)、於佳慈(かじ 31歳)。

老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 64歳 相良藩主)の木挽町(こびきちょう)の中屋敷である。

平蔵里貴が年詞に訪れているというか、於佳慈から誘いがあった。
意次は、年詞を神田橋内の役宅でうけるために、松の内は向うであった。
もっとも、平蔵は役宅へ年始に伺うほどの格では、まだ、ない。

佳慈の誘いというので、用心して里貴を伴った。
茶寮〔季四〕は、河岸も閉ってしるので、5日まで客を受けない。

平蔵がいちど通されたことのある、素朴だが風格のある於佳慈の部屋であった。
里貴は、なんども訪れていた。

佳慈田沼家での立場を里貴にたしかめたことがあったが
「さあ---」
はぐらかされてしまった。
意次の側室ということだと、里貴もそうであったことになりかねない。
しかし意次の言動からは、里貴に手をつけた匂いはなかった。

佳慈は熟れた30おんな、男なしでいられるはずがない。
(ま、おれにはかかわりのないこと---)
平蔵は、しいて、納得することにしていた。

正月2日なので、屠蘇がでていた。
仕事ではないので、里貴はすでに目元を淡い紅色に染めていた。

「ところで、長谷川さま。火盗改メ・助役(すけやく)の堀 帯刀(たてわき 46歳 1500石)さまの新しいご内室をご存じでございますか?」
佳慈里貴に流し目をくれながら問うた。

「あら、最初の奥方はお亡くなりになったのでございますか?」
里貴は自分ではさりげなく訊いているつもりであろうが、ふだんの声よりすこし上ずっていた。

「最初どころか、3人目のご内室なのでございますよ」
「お3人目---?」
里貴の声にうらやましげな響きを感じた平蔵が、
「去年、師走にお目にかかったときには、そのようなこと、つゆ、出なかったが---」
(そういえば、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)老がとがめるような口調で同心3人の交換の話をもちだしたのは、3人目をめとる家政の不行きとどきをたしなめていたのかもしれない)

「それが、花嫁は32歳---老桜(うばざくら)といわれている私とどっこいどっこい---」
30をすぎると、おんなは老けを自分からいいたて、否定のお世辞を待っている。

「あら。於佳慈さまが老桜(うばざくら)なら、私など枯れ葉でございます」
「両姫(りょうひめ)とも、なにが老桜(うばざくら)なものですか、いまが盛りの八重桜---」
「お世辞でも、そうおっしゃっていただくと、うれしゅうございます」

「その、三十路(みそじ)花嫁ご寮は、どうまちがっても、美しいとは申せない、有徳院殿吉宗)さまお好みのご面相だそうでございます」
「それで32歳までご縁が遠かった---」
器量自慢のおんな同士の醜女(しこめ)評は、平蔵が顔をそむけたくなるほどに容赦ない。
吉宗は、おんなは嫉妬(やきもち)を焼かないのが一番---と、面相を気にしなかったといわれている。

「それでは、たいそうな持参金でも---?」
さまの用人が彦坂さまへ---」

彦坂どのといえば、火事場見廻りをおつとめの弟ご九兵衛忠篤(ただかた 29歳 3000石)さま---あの家禄なら、嫁ぎ遅れておる姉ごに200両(3200万円)の持参金もつけられよう)

ちゅうすけ註】32歳の花嫁の弟ごの九兵衛忠篤だが、その後先手・鉄砲(つつ)の組頭となり、平蔵が逝ったときにたまたま月番を務めており、平蔵の退任届けを若年寄へ差し役を務めた。

ついでながら、堀帯刀秀隆は、この3人目の花嫁も病死させ、あと2人、継妻を娶った記録が残っている。


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(堀 帯刀秀隆の彦坂家からの3番目の妻)


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2011.04.09

火盗改メ・堀 帯刀秀隆(6)

「では、ごゆるりとお寛(くつろ)ぎくださいませ」
一通り酌をしおえた里貴(りき 37歳)が引きさがった。

「ここは、相良侯田沼意次 63歳 4万7000石)の息がかかっております」
(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 41歳 火盗改メ組頭)の言葉に、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 67歳 隠居料300石)が、
(む?)
たしかめる表情を平蔵(へいぞう 36歳)へ向けた。

「いや、言葉を誤りました。相良侯が後見をなされておるという意味です」
壱岐守があわてていいわけしたのに、平蔵が足(た)した。
「寮名の〔季四〕は、女主人の生地--紀州の貴志村の当て字だそうです。一橋北詰にあったときは、〔貴志〕とそのままの店名にしていました」

平蔵の双眸(ひとみ)の奥をのぞくように視た紀品はすぐIうなずき、
「なるほど、紀州つながりというわけじゃな」
ゆっくりと盃を平蔵へさしだし、酒を促し、つぶやくように、
「よいおんなぶりでもある。齢は30歳をすぎた---おんな盛り---」
「ご隠居のいまのお言葉を告げてやると、飛びあがって喜びましょう」
そういった平蔵へ、
「おんなの齢は、見た目よりも5歳は若くいうのが作法である」
笑った。「
「はっ。心得ました」

「ところで、 どの。堀 帯刀組頭どののところの与力の名がほしいのではござるまい。本題は---?」
「恐れ入り---じつは、組頭どのの内所(ないしょ)の用人にとかくの風評があり、たしかな所存を告げてくれる与力をご紹介いたたければと---」
「うむ---」

しばらく瞑目していた本多元称老は、末席の筆頭与力へ、
脇屋清助 きよよし)うじは、第16の組の氷見(ひみ)健四郎(51歳)与力をご存じかな?」
細い目を見開いた脇屋筆頭が、
「存じあげませぬ」
「さもあろう。人ぎらいゆえな」
含み笑いをし、言葉をつないだ。
「口数はな少なく、ほとんど話さないが、その分、耳と眸(め)を開いておる。何時であったか、なぜ、そのようなことを見聞きしておると訊いてみたことがあった。そしたら、口は1つきりだが、耳と鼻は2つずつ穴があいております。これに双眸(りょうめ)を加えると、6倍の働きになります---と答えられましての」

「算術はお説のとおりですな。脇屋。こころしてご交誼をお願いしてみよ」
正寿は満足げであった。

〔黒舟〕の屋根船で帰る3人を見送っあと、藤ノ棚の灯芯を高めた寝間で、紅花染めの短い寝衣の里貴の口を吸い、掌で胸をまさぐりながら、
「口は1つ、乳房は2つ、薄い茂みに穴1つ---」
「なにがおっしゃりたいのですか?」
「おれにとっての宝ものってことさ」

里貴の抜けるように白かった乳房は、早くも淡い桜色に染まり始めていた。

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2011.04.08

火盗改メ・堀 帯刀秀隆(5)

長谷川うじは、いまは隠居なされ、自適を悠々とたのしんでおられる本多采女(うねめ)紀品(のりただ 67歳 家禄2000石)どのとご面識がおありと聞いておりますが---」
あたりをはばかりながらの、 (にえ)越前守正寿(まさとし 41歳 先手組頭)の問いかけであった。

(ここで、なぜに、本多のおじさまの名が---?)
いぶかりながら、平蔵(へいぞう 36歳)が言葉を改めて質(ただ)した。
本多さまにもなにか---?」

「きちんとお引きあわせ願いたくてな」
越前正寿は笑顔で応え、
「いや。お案じになるような用件ではござらぬ。かつてお勤めであった先手・鉄砲(つつ)の第16の組頭として、信用のおける組与力をご推挙いただこうと存じてな」

鉄砲(つつ)の第16の組といえば、今宵の客の一人---堀 帯刀秀隆(ひでたか 45歳 1500石)が組頭の組ではないか。
(すると、 助役(すけやく)に、火盗改メとして遺漏(いろう)でもあってか)

「ご都合のよろしい日時は?」
平蔵の確認に、
「茶寮〔季四〕が抑えられる日時であれば、こちらはいつにても---」


里貴(りき 37歳)の返事は、師走月の朔日なら迎られるということであった。

この夕べの寝着は、浅草・雷門の前の〔天童屋〕に仕立てさせた、紅花染めの腰丈の半纏であった。
松造(よしぞう 30歳)がお(くめ 40歳)とお(つう 13歳)のために襦袢をもとめたことを、平蔵がちらと洩らすと、ひらめいたらしく、さっそくに出向いて注文したのであった。

「きのう、できあがってきたのです」
薄い桜色の寝衣だと、合わせ技のときの肌の染まりとともに、平蔵がいっそう昂ぶると想像したらしい。

たしかに効果はあった。
ただ、里貴のほうが先に昂ぶってしまい、いち早く脱いてしまっていたのだが。
平蔵が三ッ目通りの屋敷へ戻ったのもあけ方であった。


12月1日の七ッ(午後4時)、市ヶ谷門下の舟着にもやった〔黒舟〕の屋根船で、表六番町の屋敷からくる本多紀品を、平蔵が迎えた。
「お久しぶりでございます」
「あれこれの気くばり、大儀におもっておる」
「相変わらずのご壮健ぶり、麗(うるわ)しゅう存じます」
「病いに伏せぬが、目が弱ってな。絵筆の運びがままならぬ」
「そういえば、豚児・辰蔵(たつぞう 12歳)の元服の折りには、みごとな昇竜を頂戴いしたしました」
「憶することなくに元称(げんしょう)と署名しはじめてから、はや3歳(みとせ)になる」

元称は、致仕後の紀品の画号であった。
継嗣・隼人紀文(のりぶみ 27歳)はまだ役に召すされずにい、小普請の身分のままであった---というより、病弱で出仕をはばかっていたというほうがあたっていた。

「今席の〔季四〕は---?」
応じる前に船は牛込門下の舟着きに寄せていた。
筆頭与力・脇屋清助(きよよし 53歳)をしたがえた贄 越前守正寿が待っていた。

平蔵が引きあわせた。
「ご足労をおかけし、申しわけございませぬ」
頭をさげた に、手をふった元称が、
「なにが足労なものでありましょうや。かように、屋根船で迎送をいただいております」
「これは、長谷川うじのお顔で---」
「ほう。銕三郎(てつさぶろう)は、いつのまに、そのような広い顔に---」

はにかんだ平蔵が、
「いつぞや、本多おじどのの相談役を詐称(さしょう)してお侘びに参じました、あの旅で面識した〔風速(かざはや)の権七(ごんしち 50歳)と申す雲助の頭が、江戸へきて船宿をやっておりまして---」
手短に権七とのなれそめを話した。

参照】2008年2月9日~[本多采女紀品] () () () () () () () () 

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火盗改メ・堀 帯刀秀隆(5)

長谷川うじは、いまは隠居なされ、自適を悠々とたのしんでおられる本多采女(うねめ)紀品(のりただ 67歳 家禄2000石)どのとご面識がおありと聞いておりますが---」
あたりをはばかりながらの、 (にえ)越前守正寿(まさとし 41歳 先手組頭)の問いかけであった。

(ここで、なぜに、本多のおじさまの名が---?)
いぶかりながら、平蔵(へいぞう 36歳)が言葉を改めて質(ただ)した。
本多さまにもなにか---?」

「きちんとお引きあわせ願いたくてな」
越前正寿は笑顔で応え、
「いや。お案じになるような用件ではござらぬ。かつてお勤めであった先手・鉄砲(つつ)の第16の組頭として、信用のおける組与力をご推挙いただこうと存じてな」

鉄砲(つつ)の第16の組といえば、今宵の客の一人---堀 帯刀秀隆(ひでたか 45歳 1500石)が組頭の組ではないか。
(すると、 助役(すけやく)に、火盗改メとして遺漏(いろう)でもあってか)

「ご都合のよろしい日時は?」
平蔵の確認に、
「茶寮〔季四〕が抑えられる日時であれば、こちらはいつにても---」


里貴(りき 37歳)の返事は、師走月の朔日なら迎られるということであった。

この夕べの寝着は、浅草・雷門の前の〔天童屋〕に仕立てさせた、紅花染めの腰丈の半纏であった。
松造(よしぞう 30歳)がお(くめ 40歳)とお(つう 13歳)のために襦袢をもとめたことを、平蔵がちらと洩らすと、ひらめいたらしく、さっそくに出向いて注文したのであった。

「きのう、できあがってきたのです」
薄い桜色の寝衣だと、合わせ技のときの肌の染まりとともに、平蔵がいっそう昂ぶると想像したらしい。

たしかに効果はあった。
ただ、里貴のほうが先に昂ぶってしまい、いち早く脱いてしまっていたのだが。
平蔵が三ッ目通りの屋敷へ戻ったのもあけ方であった。


12月1日の七ッ(午後4時)、市ヶ谷門下の舟着にもやった〔黒舟〕の屋根船で、表六番町の屋敷からくる本多紀品を、平蔵が迎えた。
「お久しぶりでございます」
「あれこれの気くばり、大儀におもっておる」
「相変わらずのご壮健ぶり、麗(うるわ)しゅう存じます」
「病いに伏せぬが、目が弱ってな。絵筆の運びがままならぬ」
「そういえば、豚児・辰蔵(たつぞう 12歳)の元服の折りには、みごとな昇竜を頂戴いしたしました」
「憶することなくに元称(げんしょう)と署名しはじめてから、はや3歳(みとせ)になる」

元称は、致仕後の紀品の画号であった。
継嗣・隼人紀文(のりぶみ 27歳)はまだ役に召すされずにい、小普請の身分のままであった---というより、病弱で出仕をはばかっていたというほうがあたっていた。

「今席の〔季四〕は---?」
応じる前に船は牛込門下の舟着きに寄せていた。
筆頭与力・脇屋清助(きよよし 53歳)をしたがえた贄 越前守正寿が待っていた。

平蔵が引きあわせた。
「ご足労をおかけし、申しわけございませぬ」
頭をさげた に、手をふった元称が、
「なにが足労なものでありましょうや。かように、屋根船で迎送をいただいております」
「これは、長谷川うじのお顔で---」
「ほう。銕三郎(てつさぶろう)は、いつのまに、そのような広い顔に---」

はにかんだ平蔵が、
「いつぞや、本多おじどのの相談役を詐称(さしょう)してお侘びに参じました、あの旅で面識した〔風速(かざはや)の権七(ごんしち 50歳)と申す雲助の頭が、江戸へきて船宿をやっておりまして---」
手短に権七とのなれそめを話した。

参照】2008年2月9日~[本多采女紀品] () () () () () () () () 

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2011.04.07

火盗改メ・堀 帯刀秀隆(4)

建部(たけべ)どの---」
増役(ましやく)・建部甚右衛門広殷(ひろかず 54歳 1000石)が、呼びかけた今夕のもてなし役の(にえ) 越前守正寿(まさとし 41歳 300石)のほうへ耳をつきだした。

年齢も家禄も建部のほうが本役・よりも上だが、役職でいうと、同じ先手の組頭でも、弓組は鉄砲(つつ)組よりも上位につく。
さらに、火盗改メでは、本役は助役(すけやく)と増役の上に立つ。
しかも、贄 越前守は先任であった。

「気のきいた同心を3名ほど---とのお申し出でありますが、先手34組をみわたし、この50年間、火盗改メの経験を通算でもっとも長く経験しておる組は、自慢ではないが、われの弓の第2の組です」

建部広殷も助役・堀 帯刀秀隆(ひでたか 45歳 1500石)もうなずかざるをえなかった。

それをたしかめた上で、本役が提案した。
「どうでしょう、建部どの。増役の役明けは明年の4月あたりでしょうから、それまでの5ヶ月に日限をかぎり、わが組から気のきいた同心を3名、お貸し申そう。なに、代わりは無用です。わが組の目白台の組屋敷から建部どのの四谷南伊賀町のご役宅まで通わせます」

意外な申しでに、建部増役は面くらい、あわてて謝絶した。

建部どの。この席へ長谷川うじを招いたのは、同心3人以上の力をお持ちだからです。火盗改メの役目のことで、お困りの節は、長谷川うじの上役である、西丸・書院番第4の組の番頭(ばんがしら)・水谷(みずのや)出羽(守勝久 かつひさ 59歳 3500石)さまなり、われへお話しあれ」

本役の言葉に、安堵の色をみせたのは、 助役であった。
よほどに難題が嫌いらしかった。


平蔵(へいぞう 36歳)へ目顔でのこるように示し、本町の有名菓子舗・〔鈴木越後〕の折箱をみやげにもたせて助役と増役を送りだし、が戻ってきた。

「今宵は、特別なおこころ遣いを賜り、ありがとうございました」
平蔵が礼を述べると、
「いや、じつは、も一つ、用件があってな---」

正寿が告げたのは、意外なことであった。

ちゅうすけのひしり言】じつをいうと、建部甚右衛門広殷が組頭をしている先手・鉄砲(つつ)の第13の組は、与力は建部組頭のいうとおり6騎と少ないが、同心は40人と、ほかのほとんどの先手組よりも10 人多いのである。
建部組頭が堀 帯刀秀隆へが同心の交換を催促したのは、ほかに狙いがあったのであろうが、ちゅうすけはそれをはかりかねている。
しいて推測すると、堀秀隆の用人が賄賂をむさぼっているのを、暗に替えよと忠告したのかもしれない。

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