« ちゅうすけのひとり言(5) | トップページ | 本多采女紀品(のりただ)(2) »

2008.02.09

本多采女紀品(のりただ)

「そのようなことは、詐称(さしょう)にあたるぞ。本多どのにお許しを得ねば---」
銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため=小説の鬼平)が、東海道・平塚の宿はずれの料理屋〔榎屋〕で、土地(ところ)の顔役である〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 35歳)に、 行きがかりで、江戸の火盗改メのお頭(かしら)・本多采女紀品(のりかず 49歳 2000石)どのの相談役、と言い放ったことに、父・平蔵宣雄(のぶお 45歳)が異を唱えたのである。

【参照】〔馬入〕の勘兵衛と対面の次第---2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに](37)

銕三郎は、番町表六番丁の本多紀品の屋敷へ、許しをもらいに行くために、一番丁新道の本家・長谷川主膳正直(まさなお 1450余石)の家で、城を下がってくる父・宣雄を待った。
大伯父・正直は、8年勤めた西丸の小十人の頭(かしら)から、52歳で本丸の徒(かち)の頭へ栄進していた。

七ッ(午後4)の鐘を聞いてほどなく、宣雄が下城してきた。

本多紀品の屋敷は、間口6間(10m)ほどの家が多い番町の中では、そうした家々の3,4軒分はあるとおもえるほど広く、1300坪はゆうにある。

訪問してみると、着替えた紀品は、酒の用意をして待っていた。
「いつものことで肴は、知行地の一つ、相模の荻園村から届いた自然薯の煮物だが---」

銕三郎が、〔馬入〕の勘兵衛紀品の名と役目をひけらかした経緯を話して詫びると、
「なに、それは、詐称とは申さぬ。呆弁(ほうべん)---阿呆(あほう)の呆に、弁舌の弁---と書いて、聞き手を煙にまく弁舌さ。まあ、べつに嘘も方便(ほうべん)ともいいますがな」
と、珍しく冗談を口にして笑った。
「そのようにお許しいただくと、胸のつかえがいちどに消えます」
すすめられた酒を、宣雄は形だけ受けたが、盃は口にしない。

「しかし、平塚の小悪党までが、火盗改メの名に恐れ入ると、お上の威勢も、まだ衰えていないようだな」
そういう紀品の盃へ、気が軽くなった銕三郎が注ごうとすると、
「じつは、今夜は、五ッ半(夜9時)から、組下を連れての夜回りがありましてな。あの者たちの手前、酒気の匂いを発するわけにもまいらぬので---」
「お役目、ご苦労さまでございます」
「なに、火盗改メといっても、冬場の助役(すけやく)ゆえ、あと、1ヶ月もすれば放免ですよ。それまでのお役目です」

紀品の予想ははずれた。助役は、3月中には免ぜられるのがふつうだが、紀品のこの場合は、5月の半ばまで許されなかった。
八代将軍・吉宗の代に、農民からの租税をきっちりとりすぎて---実行したのは元文2年(1737)から足かけ17年間、勘定奉行の職にあった神尾(かんお)五郎三郎春央(はるひで)といわれているが---起きた農村一揆などの余熱が、盗賊を生んだせいかもしれない。

宝暦11年6月から火盗改メ・本(定)役として先手・弓の8番手の組頭・本多讃岐守昌忠(まさただ 53歳 500石)を役に就かせている。この組は、前任の久松忠次郎定愷(さだたか)も昌忠の就任3年前に1ヶ年ばかり火盗改メを勤めている。ということは、組下が経験を蓄えているということである。

本多紀品の先手・鉄砲(つつ)の16番手は、駿河組の別称もあるほど由緒があり、前任の嶋 弥左衛門一巽(いちかぜ 1560石)も紀品に引き継ぐまで足かけ3年、火盗改メの本役を勤めていたから、本多紀品組の与力・同心には、職務の心得が十分にあった。

ところが、幕府は、盗賊の跳梁が我慢できなくなったか、篠本 (ささもと)靱負佐 (ゆきえのすけ)忠省(ただみ 52歳 廩米500俵)を増役(ましやく)として発令する、念の入れようであった。
この、篠本忠省という仁については、引きつづいて、本多紀品の月旦を紹介する。

16_360
(先手・鉄砲の16番手・組頭::本多采女紀品)

_360
(先手・弓の8番手・組頭:本多讃岐守昌忠
 次の長谷川平蔵宣雄は、組頭の後任で火盗改メの後任ではない)

_360_2
(先手・弓の5番手・組頭:篠本靱負佐忠省)


|

« ちゅうすけのひとり言(5) | トップページ | 本多采女紀品(のりただ)(2) »

032火盗改メ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ちゅうすけのひとり言(5) | トップページ | 本多采女紀品(のりただ)(2) »