『よしの冊子』(ここより寛政3年(1791)と見込む つづき)
一、河野勘右衛門(通秀 みちよし1000石 西城留守居 この年、52歳)、本所の大島重四郎(『寛政譜』に記載されていない)へも乱入したが、2ヶ所とも秘しているよし。
萩寺(龍眼寺 江東区3丁目34)へも押し込んだらしい。
(萩寺=竜眼寺 『江戸名所図会』より)
本所に住む玄意という医者が、患家からの依頼があったので疑うこともしないで出向いたところ、御竹蔵(現在の国技館あたり)に大勢待っていて、丸裸に追剥ぎされたとか。
一、神田のうなぎ屋へ乱入、妻と娘をさんざん犯して疵つけたよし。
一、市ヶ谷田町へ入って銭を盗み、その上、赤ん坊を抱いているのを見て、「子をおろせ」という。「おろすと泣く」とわびると、そのまま帰って行ったよし。
同所の男伊達のところへ1人で抜き身をもって入ってきたのに、頭が「おれのところと知らずに入ったのか」といい、組の者たちが、泥棒を剥いで酒代にしよう、と気勢をあげたら、詫びごとをいって逃げたよし。
巣鴨あたりへ入った泥棒の一人を縛ってみたところ、近所の旗本の次男坊だったので、あきれてしまい、突き出すわけにもいかず、わざと縄をゆるめて逃がしたと。
市ヶ谷(田町2丁目裏通り)の小林伊織(正智 まさとも 500石 大番 この年、33歳)という小普請へ盗みに入って衣類などかなり盗んだよし。これは事実の話。
一、板橋で長谷川組が善奴という者と、大松五郎という大盗賊を召し捕ったよし。
【ちゅうすけ注】
善奴についての詳細は不明。
大松は、松平定信『宇下人言』(岩波文庫)にも記載がある。
「そのうちに大松五郎といふを長谷川何が
しとらへぬ。このもの一人して一夜に二三
ヶ所ほどづつ入て盗みぬ。
一二ヶ月の間に五十何ヶ所と入りて、或は
人をころし、町はおびやかしてとりゑし也。
(重き刑にあへり)。
このもの一人にてありけれども、風声鶴唳
にも驚ききしは、実に義気のおとろへしけ
れば、かくてはなげかわしとて、さまざま評論ありて義気発すべき
御手だては、とりはからひ在りし也」
本所の妙見の寺(墨田区本所4丁目6 元・能勢家下屋敷内)へも押し入ったよし。
(本所・北辰妙見堂)
駿河台の太田姫稲荷(千代田区神田駿河台1丁目2)の近くで追いおとし(路上で強奪)が出たとのこと。
大屋:甚左衛門方へ入ったというのは間違いで、彼の地所を借りている木村玄妓という医者のところへ押し込みに入ったが、件の医者が起きていて誰何したので、逃げ去ったよし。
小日向あたりの小普請組頭:多田善八郎(頼右 500石。この年、32歳)方へも、先日、表の塀をやぶって入ろうとしたところ、中間が機転がきく者で、鎗持ちの力で塀越しに突いたところ盗人に傷を負わすことができ、賊は逃走したよし。
鉄砲洲へんとも八丁堀あたりともいうが、まあ、どっちにしても白河様(老中・松平越中守定信)のお屋敷の近くに医者ていの者がいた。この医者ていの者ははなはだあやしい男で、深夜に何用があるのか往来しているよし。この春、この医者の家へ下女として住みこんだ者が、その様子を見て安心できず、親の病気をいいわけにして暇をとったよし。この医者は盗賊の頭ではないかと噂されている。
一、麹町1丁目の芸者・よねが追剥ぎにあい、その上、一丁ヶ原でおかされたよし。このころ病気で本復もできまいといわれている。
『よしの冊子』(寛政3年(1791)と見込む つづき)より
一、芝の牛小屋(東海道筋・牛町の牛舎)で、左金吾殿が盗賊を召し捕られたよし。しかし7、8人が抜き身でいたので、左金吾殿もはじめは大てこずり されたよし。
(高輪牛町 『江戸名所図会』)
(広重 高輪うしまち 『江戸名所百景』)
一、下谷の三味線堀で、長谷川組の吉岡左市という与力が、どぶへほおりこまれたよし。
【ちゅうすけ注】
長谷川組(先手・弓の2番手)の与力の姓がこれで判明したの
で、目白台にある3組の各戸割りになって姓名が記されてい
る組屋敷の最右端のブロックがそれと判明。
(目白台の弓の3組の組屋敷。赤○ブロックが長谷川組)
麹町8丁目の日雇取りが番町で襲われたとき、下帯だけはゆるしてくれ、といったが、それも聞いてはくれず、古い下帯と取り替えられたよし。ところがその下帯に3分(約15万円)結びつけてあったので日雇取りは大悦び。さっそくに木綿屋の吉水屋で袷をあつらえたよし。はぎ取られた品は全部あわせても3分には達しなかったもよう。
穴八幡の先の閻魔堂のある寺へ、押し込みが入って金子を取られたよし。「寺社奉行から参った」といって開門させたよし。
一、番頭の大久保備前守(不明)の屋敷へも4、5日前に大勢入り、おびただしく盗まれたよし。これは屋敷内の家来には分かりかね、門の出入りを止めているよし。
日夜、小盗人はところどころに働いているが、町方などでは、そういう小さな事件は訴え出ても盗まれた品は出てきっこないから、そのまま泣き寝入りをしているよし。そういう小さな事件はいたるところで起きているよし。
浅草観音のご開帳の朝参り、籠り、また夜参りなど、これまでにないほど警戒が厳重とのこと。当節は舟遊山もされなくなった。下賤の売女や辻の売女などの姿もまったく見かけず、難儀至極のよし。
町々は日が暮れると人通りもなくなってさびしく、四ツ(午後10時)には拍子木と鉄棒の音だけが聞こえるのみのよし。
昨14日、市岡丹後守(房仲 ふさなか 1000石 先手鉄砲組頭 この年、54歳)の屋敷へ押し込み、大騒ぎになったよし。
一、先手の非番組が巡回して、先日、一夜に39人召し捕り、六ッ(午前6時)ごろに宅へ帰ってきたところ、自分の屋敷の門前で中間を一人召し捕らえて顔を見たら当家の家来だったので、同心が「許しますか?」と聞いたところ、「自分のところの家来であっても出てはいけない時に出たのだから召し捕れ」と、縄をかけて加役へ引き渡したよし。で、しめて40人の召し捕りとなった。
一、同じご仁が夜中に若い男を召し捕ったところ、自分の息子であった。遊所へでも行く途中だったのだろう、が、時が悪いと、縛り、これまた加役へ引き渡したよし。
どうもあまりにできすぎた話だ、しかし、安藤又兵衛(正長 まさなが 331俵 先手鉄砲頭。この年、64歳。同年、罪を得て小普請入り)ならやりそうなことだと噂されている。
一、長谷川のところの中間が廻りから帰り、暮れ方に湯へ行き、帰りがけに近所で売女を買い、五ツ半(午後9時)に戻ってきたところを先手が召し捕って吟味したところ、長谷川の中間と分かった。
しきりに詫びるが、「長谷川の家来ならば勤めがら不埒である、と縄をかけ、ただちに長谷川へ引き渡したよし。長谷川でもただちに門前払いにして本金(すでに渡してある給金)を返還させたよし。
一、赤坂で盗賊6人を召し捕ったところ、3人は赤坂御門の下番、3人は駕籠かきだったよし。
盗賊者を駕籠へ入れ、提灯を点し、□□台へ持ち回るところを召し捕ったのだと。葬礼用の棺の中へ盗品を入れ、上下あみ笠などで盗賊どもも葬礼用の出で立ちで供について歩いていたよし。これは先年、前田半右衛門(玄昌 はるまさ 1900石 この年、61歳 先手・弓の2番手組頭として長谷川平蔵の前任者)が火盗方をしたときに途中で見咎めて召し捕ったことがあった。今回もまた似たようなことがあったと。
一 沼間(ぬま)頼母(隆峯たかみね 800石 西城御徒 この年、59歳)隊下の河野権之助は剣術もよほどにできたが、このほど組頭と頼母へ暇を願い出たので、組頭がなにゆえと困惑、沼間は「吟味するとことのほかむずかしいことになりそうだから暇を願い出させました。
どうしても、ということであれば調べますが……」といったので、組頭も早々に承知して謹慎させておいたよし。この者、ふだん親しく出入りしている小普請の宅へ先夜泥棒に入り、風呂敷包み、三味線などを盗み、その三味線を故買屋へ売り払ったが、被害者がその三味線を見つけて故買屋を責め、権之助から買ったことを聞き出し、中へ悪党を入れて権之助を詰問、白状させた。こういう次第だから、ほかへも夜盗に入ってもいよう。組頭はそのことを一向に知らずにいたところ、頼母は承知していたらしくて、はやばやと暇を願い出させたよし。
【ちゅうすけ注】
この事件の後日談が『寛政譜』に記されている。
隠密のこの報告書によって水野為永が辞職した河野権之助に
監視をつけたらしく、つぎの犯行で重刑に処された。
沼間頼母については、権之助が組下にあったときすでによから
ぬ行状をかさねていたことを知っていながら病気退職をすすめた
のは不届きであると同年11月20日に小普請におとされ、出仕
を2ヶ月間とめられた。
一、 長谷川の管理する無宿島から逃げた無宿人は10人や20人ではない、もっと多いはず。
このところの盗難事件は逃げた無宿人の所業に相違ないと噂されている。
【ちゅうすけ注】
無責任なリポートである。
長谷川平蔵は、参考にした深川・茂森町の無宿人養育所の失敗
例にかんがみて、逃亡者は死刑、ときびしい規則を決定めて、逃
亡を防いでいる。
『よしの冊子』(寛政3年 1782年と見込む つづき)より
一、外濠外での押し込みはしばしばあったが、外濠内の武家屋敷への押し込みはまずなかったのに、このごろ始まったのははなはだ遺憾なこと。
家の者男女10名ほどのところへ10余人も抜き身で乱入されては防ぎようもない。
その上、目の前で婦女を犯すのだからたまったものではない。
嫁入り前の娘を持っている者は夜な夜な心配し、婦女はぶるぶる震えて、お上の無策を恨んでいるとのこと。
その噂はぱっと広まったよし。
元昌へはたびたび盗賊が入っているらしい。
【ちゅうすけ注】
『よしの冊子』の盗難で武家方のリポートが多いのは、町奉行
所の御用聞きなどのそれではなく、老中首座・松平定信の腹心
・水野為長が手配している、もともと、幕臣を探索するのが仕事
の徒(かち)目付や小人目付とその下働きも者たちの報告のせ
いといえる。
一、強盗は富家のみを狙って入るものと世間で思っていたのに、このごろは貧家へも見境なく乱入しているので、わが家は貧乏だからといって安心してはいられない、といい交わされている。
一、盗賊を切り捨てたり召し捕らえた者へはご褒美をくださると仰せ出されてはいるので、召し捕る者もないではないが、現状では、押し込みを防ぐだけで精一杯、切り捨てとか召し捕りまでは思いもよらないと、もっぱらの噂。
2、3日前、上野の山下原へ70~80人寄合い、いずれも大小を差して徒党を組んでいた。
そのあたりの町家では、妻子をみな外へ避難させたらしい。
赤城若宮町の芸者2人が、加賀屋敷ヶ原(現:市ヶ谷自衛隊駐屯地北側)で犯されたそうな。
一、昨夜、赤坂檜の木坂下の町家まきやへ、押し込みが入ったよし。大勢で声をたて、拍子木を打ったので逃げ去ったと。
一、先日、京極備前守高久(若年寄 峰山藩主 63歳 1万1000余石)殿より、この節、御徒方の勤務ぶりがよろしいとお褒めをいただいたばかりなのに、前記のように御徒の内から盗賊が出たのだから、御徒方でも困ったものだと笑っているよし。
もっとも、御徒1組30人のうちには、いずれの組にも腕を撫して、どうでも盗賊を切るか捕らえるかしないとなるまいといっている者も3、4人ずつはいるようだ。
一、一昨年(寛政元年 1789)、神田鍋町と蝋燭町のあたり、6、7人ずつ連れだった盗賊が横行したよし。
もっとも大勢で拍子木、割り竹などで囃したために、人家には入らなかったものの、その盗賊どもを捕らえるまでにはいたらなかったよし。
ただ騒いで向こうの町へ行かせただけだったよし。いずれの町でも乱入されないように用心をしているよし。
一、神田で白昼、3、4人乱入したよし。
そのほかも生薬屋で番頭の計略で3人召し捕ったよし。
いずれ少々は実説もあるとのこと。
官人はとかく忌み嫌ってよきようにいっているよし。
お触れ後がお触れ前よりもかえって強い、と下ではいっているそうだが、官人はお触れ後は薄くなったと、とかく世直しをいっているよしのさた。
【ちゅうすけ注】
こう、盗賊がはびこっては、火盗改メも席が暖まる暇もなかろうと
いうものだが、武家方が襲われた時も、管轄は長谷川組なのだ
ろうか。
それとも、武家方は、若年寄支配の目付なんかの管轄なんだろ
うか。
よしの冊子(寛政3年(1791)4月21日)より
一 佐野豊前守(政親 まさちか 60歳 1100石 先手・鉄砲の16番手組頭)が加役を命じられた節(寛政2年11月)、岡っ引きで神田の勘太という者を召し捕らえたよし。
この勘太は年来岡っ引きをし、金子を儲け、米屋株を拵え、自分は裏へ引っ込んで御門番所、見附々々の中間などを口入れしていたところ、その中間のなかの1人が(2月ごろに)豊前守に召し捕られ、勘太が偽の名主や大屋を拵え、豊前方へ訴訟へ行くところ、偽の名主や大屋のことが露見して入牢してしまった。
ところがこの節、勘太が免され、ところどころさし口(密告)するので、見附々々の中間どもが大勢召し捕られたとのうわさ。
【ちゅうすけ注】
『夕刊フジ』の連載コラムに、佐野豊前守の深慮遠謀ぶりを長
谷川平蔵が買っているさまを2度、[ともに尊敬しあい]と[美
質だけを見る]として登場させた。
上記の順番に再録。
「いや、長谷川どのはわれらがもつことがかなわぬ体験をへておられる。うらやましいかぎり」
火盗改メの冬場の助役(すけやく)に任じられた先手鉄砲組16番手の組頭・佐野豊前守(1100石)が、平蔵のところへあいさつにきた、寛政2年(1790)10月ののことだ。
この仁(じん)人は51歳で大坂町奉行に就いたほどで出来ぶつのうわさが高い。
助役発令の際にも、
「このごろの先手組頭で加役(助役)を仰せつけるとすれば、佐野おいてほかにいない」
と殿中で噂されていた。
そんな豊前守政親の真意をはかりかねたかのように、平蔵は、
「なんの、なんの」
とことばを濁した。
「お若いころの遊蕩のことですよ。人なみに遊びたいと思っていても、上への聞こえをおそれるわれらは、よう遊びませなんだ。
8年間つとめた大阪の町奉行を病いをえて辞し、3年間療養にしていてハタと悟りましてな。
人生には無用の用というものがあり、それを体した者が大器になりえると」
「遊蕩が資すると---?」
「いかにも。人にもよりましょうが---」
旗本として出仕前の若いころの遊蕩の価値を、15歳も年長の先達に認められたのだから平蔵も悪い気はしない。両人の親交はこうしてはじまった。
なにかにつけて「長谷川どのは先任者…」を豊前守は口にしては、火盗改メのしきたりについて教えを乞う。平蔵も「豊前どのこそ人生の先輩」と立てた。
ことごとに対立した松平左金吾のあとだけに、豊前守のソフトな対応はよけいにうれしかった。
菊川(墨田区)の長谷川邸へ招いたり、永田馬場南横寺町の豊前守の屋敷へ招かれたりして情報を教えあい、盃をかわした。年齢差を超えての交際となった。
早くに父を失った佐野豊前守は、祖父から家督した11歳以来、家名の重みがずっとその肩にあった。相手の長所だけを見ることを課した自律の半生ともいえた。
だから平蔵のような天性をまるまる発揮してなお魅力を失わず、部下からも慕われる器量の持ち主を友にできたことに感謝した。平蔵も、豊前守から謙虚さを学んだ。もちろん自分には身につかない美徳とあきらめはしたが。
たとえば助役になると、与力や同心たちが捕物のときに着るそろいの羽織に、組頭を示す模様をつけ、町々へふれさせるのが従来のしきたりだが、豊前守は、
「助役の模様なんかは知られないほうがなにかと都合がよろしい」
と秘した。
なるほど助役の任期は火事の多い晩秋から晩春へかけての半年ばかりだから、識別模様が徹底するころにはお役ご免になっているケースのほうが多かった。
が、平蔵の受けとめ方は違った。世間に対しても本役を立ててくれていると感じた。
さらに豊前守は、大阪町奉行の前歴を生かしているかのように、組の与力同心をてきぱきと指揮して捕らえた者の裁きをすすめ、幕府の最高裁ともいえる評定所へ伺うことはなかった。
【ちゅうすけ注】
この項、2007年9月19日『よしの冊子(ぞうし)』(18)
2007年8月5日[佐野豊前守政親]を参照
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『夕刊フジ』のコラムに登場させた幕臣で、長谷川平蔵に次いで愛着を感じているのは、平蔵の同僚で、鉄砲組16番手組頭・佐野豊前守政親(1100石)だ。
経歴は堺町奉行や大坂町奉行を経ており平蔵の先達、15歳年長なのに助役(すけやく)という立場を忘れず謙虚に教えを乞う姿勢をとった。
欧米流パフォーマンスとかで、「おれが、おれが…」と自分を売りこむのが今日風と思われている。平蔵にもその嫌いがあった。だから同僚たちが敬遠しもした。
この国には、「能あるタカは爪を隠す」といって佐野豊前式のひかえ目を美徳とする暗黙の評価基準がある。
人望は、どちらかといえば平蔵流より豊前守式のほうへあつまる。
平蔵と豊前守は性格がまるで対照的なのにもかかわらず、互いに敬意をもって親交をつづけえたのは、人を見るときは美質だけ、との豊前守の信条によるところが大きい。
豊前守の組の者が神田の岡っ引きの勘太を捕らえた。
長谷川組の同心たちが所轄ちがいの所業といきまくのを、平蔵は、
「豊前どののやりようを学ぶよい機会(おり)だわ」
とりあわない。
所轄ちがい---火盗改メ・本役の所轄は日本橋から北、助役は日本橋の南を担当、と決まっており、神田は本役の管轄内。
長年岡っ引きをやっていた勘太は、商店をむしった金で米屋株を買ったり、素行の悪い男たちを中間として番所や見付へ入れるなどの悪評が立っていた。平蔵もいずれ引っ捕らえるつもりだった。
佐野組はまず、中間の1人を博奕の現行犯で捕らえ、その身元引受人というふれこみで勘太が偽の名主や大家をこしらえて出頭してきたところを入牢させてしまった。
「あれで終わらせるような豊前どのではあるまい」
平蔵が与力同心たちへいった旬日とたたないうちに、佐野組は勘太を放免した。
(うちの長官も焼きがまわったか)
組下たちがささやいたとき、佐野組は中間に化けて見付見付もぐりこんでいる盗賊たちを引きたてはじめた。
勘太の密告(さし)だった。
「かの仁の悪(わる)の使いようは、おれ以上よ」
と笑う平蔵から、長谷川組配下の者たちは敬意のささげ方をおぼえた。
ここで佐野豊前守のもう一つの顔を紹介しておきたい。
天明4年(1784)春、殿中で若年寄・田沼山城守意知(おきとも)に斬りつけた佐野善左衛門(500石)は、切腹を申しつけられて家は断絶。
人びとは彼を「世なおし善左衛門」とほめそやして浅草・徳本寺(東本願寺塔頭)墓前は紫煙がたえなかったという(殺人者をたたえるとは!)。
本家すじの豊前守は大伯父にあたる。
善左衛門<のことをほとんど話題にしない豊前守だったが、平蔵には洩らした。
「あの者は、とり柄の正義感が強すぎたがために扇動に乗りやす質(たち)で、父親が50をすぎてからの子なので諸事甘く育てられました。産んだのは美人自慢の、自分が中心になりたがる芸者---それを継いでいたのを反田沼さま派にたくみに利用され……」
よしの冊子(寛政3年(1791)4月21日つづき)より
一、20日の夜、山本伊予守(茂孫 もちざね 41歳 1000石 先手・弓の1番手 堀帯刀の後任組頭)が同心を従えて組屋敷の外通りの加賀屋敷ッ原(現:市ヶ谷自衛隊駐屯地北側)あたりを半夜ばかりそこここと歩きいろいろ狙ってはみたものの、怪しい者は一人も見かけなかったと。
で、夜が明けたので同心たちを組屋敷(牛込山伏町)へ引きあげさせたところ、残りの同心たちの耳へ、昨夜は大いに騒いだ、地借の内へ2軒泥棒が入った、1軒は門をこじあけ、1軒は門を蹴放したという話が入った。
頭ならびに同心は右のごとく油断なく見廻っていたのに、いつの間に入ったのか、いたずら連中の仕業ではないかと沙汰しているよし。これはどちらも実説のよし。
【ちゅうすけ注】
山本伊予守の拝領屋敷は一橋外小川町末。
家紋は左三巴。
『鬼平犯科帳』文庫巻8[流星]で、若年寄・京
極備前守高久が、四谷坂町の長谷川組の組屋
敷の警備を山本伊予組に命じるが、坂町近辺に
はいくつもの先手組の組屋敷がある。山本組のは牛込山伏町。
そんなところの組が、わざわざ出かけて行くこともあるまいに。
一、町々の自身番所は昼夜起きており、炉へ大薬罐を3つほどかけ、湯をたぎらせ、茶を一つの薬罐にきらさず、またまた御先手が廻ってきて次の薬罐の茶をあけてしまったよし。
またまた一つ湯を沸かし茶を入れたころに御先手がまたまた廻ってきて弁当などにその茶を薬罐一ツ分あけてしまうほどに夜中にたびたび自身番へ立ち寄り、弁当をつかっていても、むこうに影が見えたら駈け出すよし。
御先手はいずれも目を鷹のようにして出精している模様。
一、御先手の組々が自身番へ立ち寄り、ずいぶんと念を入れよ、と言葉をかけて廻っているのは、定式のよし。
両番(小姓番組と書院番組)の棒ふり(若手)は、いろいろ下手に念をいう中には、夏だけれど火の元を大事にしろ、などと申しつける者もいるので、火の元に夏冬の差別があるものか、ほんとうに無駄なことをいっていると、町方では笑っているよし。
すこし富んだ小人目付宅へ2人が押し込みに入って、金子そのほか衣類など残らず取り去ったよし。
そのあと下女がいうのを聞いたところでは、きょうの泥棒は前に私が勤めていたところの旦那で、巣鴨あたりのお旗本です、しかも親子連れでした。しっかりご詮議なさったらじきに判明しましょう。前の主人ではありますが、泥棒になってしまってはもう見限ります。いまのご主人のほうが大切でもありますし。
沼間(ぬま)頼母(隆峯 たかみね 59歳 800石)組の御徒を召し捕ったところ、言上ぶりもいたって悪く、三味線などは借りたものだといって、大いにうろたえた口ぶりだとか。
【ちゅうすけ注】
隊下の者の不祥事が発覚し、この年12月に免職。小普請入り。
22日、麹町の毘沙門の縁日につき、暮れ前からその近辺に御先手2組が忍んでいたところ、1組はなんのこともなかったが、もう1組の同心どもは元気にまかせて、めったやたらに捕らえ、すこしでもいかがわしい者は打ちたたいたよし。
【ちゅうすけ注】
いまの半蔵門からの新宿通(麹町4丁目)から右折、旧日本テレ
ビへの下り坂を善国寺坂というが、ここに毘沙門天があった。
その後、神楽坂上へ移転。
(麹町9丁目 現:新宿通 四谷駅の東寄り 近江屋板)
麹町9丁目で夜中、深い竹の子笠をかぶったのが2人やってきたので、御先手組の同心どもが捕らえて笠をひったくって顔を改めたところ、長谷川平蔵だったよし。
平蔵は「これはこれは御大儀々々々。こうでなくてはならない。しっかり廻らっしゃい」とはげまして立ち去ったし。
御先手の跡を隠密の小人目付がつけていて、この状況を見聞したよし。
【ちゅうすけ注】
この経緯をリポートした『よしの冊子』は、松平
定信家(桑名藩)で昭和まで門外不出扱いだ
ったはず。
ところが明治20年代の『朝野新聞』の連載
コラムにこのエピソードがそっくり載っている。
リークしたのは情報操作の大切さを心得てい
た平蔵ではあるまいかと推察しているのだ
が。
*『朝野新聞』のコラムを収録した『江戸
町方の制度』(新人物往来社 1968.4.15)
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