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2010.01.28

『よしの冊子』中井清太夫篇(5)

よしの冊子 五』には、天明8年(1788)8月からのリポートがまとめられている。

このブログでの進行は、まだ、安永2年(1773)の晩秋から初冬のあたりだから、天明8年といえば、15年も先走ってしまうことになるが、中井清太夫にかかわってしまったので、目をつむっていただきたい。
清太夫のことは新史料が手に入るまで、とりあえず、今日で中断ということで打ち切る。

天明8年という年は、禁裏にとっても、幕府にとっても、京都市民にとっても大変な年となった。

1月30日、鴨川の東から失火した火が、鴨川を越えて四条寺町の永養寺へ飛び火し、そこから禁裏、二条城、(たぶん、東・西奉行所)、37神社・201寺院、1,424町、65,300世帯を焼尽した。

もちろん、火盗改メ・助役(すけやく)だった長谷川平蔵宣以(のぶため 43歳=天明8年)は、亡父・備中守宣雄(のぶお 享年55歳=安永2年)が在任していたときに公私ともに世話になった吟味与力・浦部源五郎(げんごろう 65歳 隠居中)に見舞いの金子を贈ったことはいうまでもない。

幕府は、とりあえず、勘定奉行の根岸肥前守鎮衛(やすもり 500石 52歳)に、組頭・若林市左衛門義方(よしかた 58歳 100俵5口)と中井清太夫をつけて、はせのぼらせ、禁裏と二条城の普請を沙汰させた。

このことを記した『よしの冊子』(天明9年4月26日)

京都炎上で、根岸肥前守、若林市左衛門、中井清太夫が上京したとき、3人とも言語同断の倹約を申し出、とりわり中井はやかましく倹約をいいたて、ひはだぶきを瓦ぶき、良材をつかうべきところを松杉にするようになどと言いはり、しきたりもしらずにやたらと倹約をいいたてたので、御用掛はこの3人には仰せつけられず、余人を任命なされたのは至極よかったと申されたよし。

申された方の主語が抜けているが、まさか、主上でなかろう。

しかし、「倹約」「倹約」と口酸っぱ言ったと非難しているが、時の老中首座は古典経済主義者の松平定信侯だから、その心情を忖度すれば当然、「倹約」をいわざるを得なったかろう。
また、清太夫は、3人のうちでいちばん軽輩だから、嫌われ役を引きは受けざるをえまい。

だいたい、この書き手の隠密は、だれを取材したのであろう?
資格・身分(小人目付など)からいって、禁裏でも地下官人が相応であろう。
かつて、清太夫の策略で大勢の地下官人が不正のために処罰されている。
彼らは、清太夫に恨みこそあれ、好感をもっているはずはない。
また、地下官人たちは幕府の寄食者的存在で、生産者ではないから、「倹約」といわれても、素直には受けとるまい。

もちろん、中井清太夫を弁護する気持ちは、さらさらない。
才能というべきかもしれないが、上の者にとりいる姿勢が目にあまる。
主要幕閣の一人---本多弾正少弼(しょうひつ)忠籌(ただかず 50歳 泉藩主 2万石 若年寄)侯に気にいられていると公言し、松平定信侯のおもわくを聞きだすために、生家の田安家にさぐりをいれていると書かれたりで、かんぱしくない。

おかしいのは、京都へいっしょに行った組頭・若林義方の継嗣・平蔵忠知(ただとも)の後妻にむすめを嫁がせていることだが、残念ながら早逝し、忠知はあと2人の妻を娶っている。(4人!---とうらやましいとは、ちゅうすけもおもうが、こちらの気質をのみこませる手間もたいへん)。

とにかく、『よしの冊子』での清太夫の評判はよくないが、これは、書き手にも問題があるということを知っていただくために、ながながと引用した。
というのは、これに近い筆法が長谷川平蔵にも使われた時期があるということを存じおいていただきたかった。

明日からは、また、安永2年初冬へもどる予定。


       ★     ★     ★

きのう、週刊『池波正太郎の世界7 剣客商売二』(朝日新聞・出版局)がとどいた。

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大治郎と三冬が表紙を飾っている。『寛政重修諸家譜』の田沼家の譜には、三冬に相当する女子は収録されていない。だから、池波さんは、家臣の佐々木家へやられたむすめとした。佐々の流れをくむ佐々木家の家紋は三ッ目結(ゆい)である。表紙の女剣士の着物の紋は、秋山家の家紋をつけているようだから、祝言をあげたあとなのであろう。余談だが、武田家に仕えていた秋山一門は、三階菱をいろいろに変化させて使っていたようである。


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221よしの冊子」カテゴリの記事

コメント

御所の再建に関わる「よしの冊子」の記事の紹介ありがとうございます。
ところで、私が調べた中井の経歴では、
中井は天明七年四月二から天明八年九月三日までは小名浜代官を務めており、御所が炎上した時点で京都に派遣されたというのは疑問なのですが・・・派遣は天明八年の九月以降なのでしょうか?

法政大学に西沢淳男先生という幕府の代官たちを調べて本にまとめた方がいます。
中井清大夫が馬鈴薯普及に努めたこともその先生が日経の文化面で紹介されていたのですが、「幕領陣屋と代官支配」という本です。大本の史料まで見たわけではないのですが・・・
近いうちに、県立図書館あたりで西沢先生の本をもう一度確認したいです。別件で気になるところも出てきましたので・・・
お目見え以下の身分から布衣にタッチたひとがいるかどうか、など。勘定吟味役の中にはいたかもしれないと思っていたのですが・・・

耳嚢の作者根岸肥前守は興味深いですね。
実の父安生定洪もたしか御徒から身を起して代官になったという中井清大夫とよく似た経歴をたどった人ですね。そして息子の肥前守は布衣どころか従五位にまでたどりついた。
中井も彼らを見ていて、自分が布衣になれるかもしれないと野心を持っていたかもしれません。それは御奉公の励みになるので、私は必ずしも悪いことだとは思わないです。

投稿: asou | 2010.01.28 11:39

連投すみません。
>主要幕閣の一人---本多弾正少弼(しょう>ひつ)忠籌(ただかず 50歳 泉藩主 >2万石 若年寄)侯に気にいられいると公>言し、松平定信侯のおもわくを聞きだす>ために、生家の田安家にさぐりをいれて>いると書かれたりで、かんぱしくない。
このくだりですが、松平定信が老中に就任した天明七年時点の田安家の当主は一橋から養子に入った斉匡で定信とはさほど血縁が近くなく、また、田安家には実の兄弟も義母の宝蓮院もおらず姉妹もおそらくすでに他家へ嫁いでいたと思われるのですが、いくら実家とはいえそんなところへ探りを入れても有力な情報が入るとは考えにくいのですが・・・
実母の山村氏(山室信濃の一族?)が残っていて、そこへ探りを入れたということなのでしょうか?

投稿: asou | 2010.01.28 16:07

>asou さん
いつも、ご教示、ありがとうございます。
まず、手っ取り早く、あとのほうのコメントへのお答え。
[よしの冊子]巻8は、asou さんがお教えくださったp59のほか、67,72,188(3件),219,196,238,241,272,334,357,409(2件),475(2件),
巻9は、p82~3(2件),95,103(2件),193(2件),246,252(5件),331(4件)以上です。
定信の思惑を気づかっているのは、巻8のp188,272。
京都派遣は、巻8のp409です。

もし、コピーがご必要なら、メールで送り先をお知らせください。
とりいそぎ。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.28 16:42

出典の頁数お教えくださってありがとうございます。
こちらでよしの冊子をもう一度当たってみます。
ありがとうございます。
御所役人の不正探索と直接関係ない部分はかなり読み飛ばしていましたが、もう一度読み直してみたいです。
以前読んだときには、結構、よしの冊子の内容は悪意が多かったので途中から「山師」とか書かれていても
「またか」って感じになってしまいました。「山師」ってフレーズ結構好きですよね、よしの冊子の隠密たち・・・

投稿: asou | 2010.01.28 18:34

>asou さん
「山師』という雑言は、『よしの冊子』にかぎりません。
藤田 覚先生『田沼意次』(ミネルバ書房)の、田沼とその周辺を、「山師」とお書きになっています。
長谷川平蔵も「山師」扱いです。
ということは新しいこと(コンセプト)を最初にやる仁は、すべて山師扱いだつたのでしょう。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.28 18:49

代官で布衣を許された者を調べたわけではありませんが、京都大火で、根岸勘定奉行、中井清太夫とともに京都へ派遣された江坂孫三郎正恭(勘定吟味役 150俵)は、『寛政譜』にも収録されており、安永6年12月16日、布衣をゆるされたと記録されています。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.29 03:19

ありがとうございます。
この御所役人の件に関わった天野近江も代官から勘定吟味役を経ていますね。
代官から従五位というケースはいくつかあったようですが・・・
ただお目見え以下の身分、たとえば支配勘定から始めて勘定吟味役に一代で到達したケースとなると、幕末の川路聖謨くらいになってしまうのでしょうか。(彼は代官コースではないですが)
二代かければできなくはなさそうな気もしますが・・・
少し興味がわいてきたので、別件として調べてみたいです。

ところで、もしかしたら若林に嫁いだ中井清大夫の娘が産んだ子が布衣に達した可能性があります。若林市左衛門という名の佐渡奉行→作事奉行が天保期に存在するようなのですが、徳川実紀と寛政譜につきあわせて確認してみたいです。今日は図書館へ行く時間がとれるかもしれませんので・・・

投稿: asou | 2010.01.29 08:20

>asou さん
図書館へいらつしゃる前でしたら、いいのですが。
探索のお楽しみをそこなうようなコメントかもとれません。
『実紀』の人名索引(下)p533の若林勝三郎義籌(よしかず 佐渡守、肥前守)がその人でしょうか。
『続実紀』②p372,409,415,432,455,441,530に記載があるようです。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.29 09:31

ありがとうございます。
八木書店さんのサイトでは寛政譜十八巻の331頁だけ見られる状態で、それが手掛かりになっているので原書を確認したかったのですが、当時は岩太郎という通称だったようです。(ただしその部分だけでは家名が確認できなかったです。こちらで教えていただいた若林家のものと事情が共通します。)
その寛政譜の断片によると、諱は義籌のようで同じ人である可能性が高いですね。元服は済んでいるということなのでしょうか。(八木書店さん感謝です)
通称は何回か名乗りを変えているのでしょうか。
教えていただいた実紀の頁とつきあわせて、手掛かりにして探してみます。

もしかしたら清大夫の孫が従五位になっていたかもしれないのですね。
祖父や叔父ができなかったことを外孫の代でかなえたのかもしれません。

投稿: asou | 2010.01.29 11:22

>asou さん
探索のご成功を祈ります。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.29 15:58

学会人らしい asou さんと学際人らしいちゅうすけさんのやりとり、堪能しました。双方向ブログの極地を見せていただきました。感謝です。

投稿: 文くばり丈太 | 2010.01.30 05:46

まずはお礼を・・・
こちらでお教えいただいた「続徳川実紀」の頁が手掛かりになり、若林市左衛門(後、佐渡守→肥前守)の経歴を楽に調べることができました。
お礼申し上げます。
御蔭さまで↓
天保三年二月八日に納戸頭若林市左衛門佐渡奉行となるの記事より、
弘化元年十一月二十九日寄合若林肥前守が隠居して子に家督を譲るまでの経過を調べることができました。
こちらで「若林市左衛門」というキーワードを教えていただかなかったら、孫が従五位に至っていた可能性に気づくことができなかったです。
少し興奮しています。
この若林市左衛門(佐渡守→肥前守)が寛政譜十八巻331頁の「義籌 岩太郎母は九敬意が女」と同一人物かどうか、は「続徳川実紀」の本文には通称と官名のみで諱が記載されていないようなので検討した方がいいかもしれませんが・・・
こういう場合は「柳営補任」あたりになるのでしょうか?
まだ使いこなしたことがないのですが、こういうときに便利かもしれませんね・・・
若林市左衛門の天保三年以前の経歴と(納戸頭になるまで)、九敬娘の産んだ子、岩太郎義籌と同一人物かについては更に探索を続行したいです。

>文くばり丈太様
学会人なんてどんでもないです。
ただの歴史好き、時代小説好き、時代劇好きです。

投稿: asou | 2010.01.30 11:52

連投すみません。
「徳川実紀」安永三年八月末の記事の後日談というかその後を確認できる「徳川実紀」「続徳川実紀」の記事の紹介をまだしていなかったと思っていたので、これも参考までに。
「国史大系47 徳川実紀第十巻」558頁、
安永六年十二月五日の記事に
「京都町奉行山村信濃守良旺が御所の経費を節約するのに功があったので金五枚、時服四を、旗奉行天野近江守正景も禁裏付だったときに同じ功績があったので金三枚、時服三枚をたまう」記述があります。
寛政譜の山村信濃、天野近江の欄にこの件が記載されていないのは不思議な気がします。
こういった功績をあげて金何枚、時服いくらを賜ったことは名誉なので記載したい話、のはずです。
山村信濃の項目には別件で金何枚を賜ったことは記載されているのに・・・
(日光山へ下向する宮様をご案内した?件についての表彰だったかと・・・)

「国史大系48 続徳川実紀 第一巻」160頁、寛政三年八月十三日に
「代官中井清大夫九敬 廩米召放」の記事がありました。
「罪状」は「御拂米請負し市人より前勘定奉行赤井豊前守へ金子を用立て、その後不都合が多い(推定訳なので不正確かもしれませんが、できれば原文の解説をお願いいたします。)
「(代官の)手代に追放者を召し抱えていた」
「甲府代官時代に仕事が粗略だった。村々に難儀をかけた」(この部分は今でも清大夫を神様に祭っていた神社があったり、治水に感謝した市川三郷町に生祠が残っていたりする事実を考えると首をかしげてしまうのですが)
などのようです。
息子の勘十郎は父に連座して、「新たに五十俵下され拝謁以下命ぜられる」とのことです。
寛政譜に中井清大夫の家が乗っていないのは、「お目見え以下の家格」に落とされたため掲載される資格を失ったということだったのでしょうか。
普通の改易なら乗っていたかもしれませんね。

投稿: asou | 2010.01.30 12:44

すこしはお役にたてたようで、ご恩返しの万分の一でもできたかと、喜んでおります。

『柳営補任』の若林義籌 市左衛門 佐渡守 肥前守の項、たまたま、手元にありましたので、「索引・上 人名」から、お送りします。

②p75,200
④p128,136
⑤p148

以上に記述を年代順に記述しますと、

文政9年7月24日 田安用人ヨリ
          西丸納戸頭

天保3年2月8日  佐渡奉行
          200俵高加増

天保9年3月28日 作事奉行 

天保12年      宗門改兼任  
   10月12日 西丸留守居
   12月28日 人数減のため役免
          報賞

以上、確認のお手伝いとして。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.30 16:09

>asou さん
『寛政譜』に代官の家譜が収録されているかどうかという観点で見たことはないので、正確ではないのですが、それほど多くはなかったようにおもいます。
改易とか追放、遠島に処された家の家譜はかなり目にしていますから、[先祖書]の提出期限であった寛政11年には、お目見の家格ではなかったのではないでしょうか?

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.30 17:40

「柳営補任」の若林市左衛門の年譜ありがとうございます。
これで、文政九年の田安家用人までさかのぼれました。「続徳川実紀」と照らし合わせ、布衣になった時期を探してみようと思います。
田安家用人のときに布衣を許されたならさらに時期をさかのぼれるかもしれません。

しかし「田安家用人」とは・・・
もしかして御三卿の家スタッフになるのって、出世の早道だったりするのでしょうか?(当主や若君の近習をきっかけに・・・?)
このエントリーの内容で「祖父」(一応、清大夫の孫と考えてよさそうですね)中井清大夫が田安に探りを入れた云々の件は、もしかして、定信の考えを知りたいからではなくて別の目的があったのではないかという気もします。(息子の一人を田安家の家来に送り込みたい、とか、娘や縁者の女性を奥向に奉公させたい、とか?)
まだ「よしの冊子」を確認していないのですが・・・(もよりの図書館に取り寄せ依頼中)


>[先祖書]の提出期限であった寛政11年>には、お目見の家格ではなかったのでは>ないでしょうか?
提出期限が寛政11年ですか、これで若林家の寛政譜の時期がある程度特定できます。
寛政八年七月意向、寛政十一年までの間の状況と推定できます。助かります。

中井の家の方は、続徳川実紀の寛政三年八月十三日に「拝謁以下を命ぜられ」とあるので、「それまではお目見え以上だったが、お目見え以下に格下げされた」と解釈したのですが、自信がありません。
なんか、「絶対に寛政譜に載せてあげないもんね」みたいな底意地の悪い悪意を感じてしまうのですが・・・気のせいでしょうか・・・


投稿: asou | 2010.01.30 22:49

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