カテゴリー「005長谷川宣雄の養女と園 」の記事

2011.12.16

長谷川家の養女・与詩の行く方

与板の大店〔備前屋〕の後取り・藤太郎(とうたろう 17歳)は、実家へ帰っていった。

三ッ目通りの長谷川邸へ戻った与詩(よし 28歳)は従前どおり、平蔵(へいぞう 40歳)の生母・(たえ 62歳)の世話をしたのだが、3日目に悲鳴があがった。
悲鳴の主は老母・であった。

与詩の寝言がひどく、しかも失禁の癖が再発したと訴えた。
お寝しょの癖は、長谷川家へきた6歳のときに直っていたのだ。

参照】2008年1月5日[与詩(よし)を迎えに] (16

与詩をこの前の書見の間へ呼んで問い質(ただ)すと、藤太郎との閨事(ねやごと)の夢をみ、頂上へぼりつめると失禁しているのだと。

藤太郎との交合で、性の深奥への扉がひらきっぱなしになってしまい、もう、独り寝には耐えられないから、男を見つけてほいしとまでいった。

「初穂刈りだったはずだが、それほどであったとは---」
「はっきり申します。三宅の爺ィさんの3倍の持ち主です」
顔を赤らめるどころか、平蔵を瞶(みつ)めていいはなった。

武家のおんなとしての抑制が、藤太郎との房事であっけなく霧消 おんなの生来の本能に帰ったのであろう。

三宅の爺ィさんのをそこいらのどぶ川としますと、あの人のは大川です。あの人の国の信濃川です」

「そうか。3倍の持ち主か。それほどの男でないと満足できなくなってしまったのだな。おことを藤太郎にさしむけたのは浅慮であった」

大川端の旅亭[おおはま]の湯桶で互いに握りあって男の約定を交わしたときには、さほどのものとはおもわなかったが、こればかりは膨張力によるから、ふつうの状態ではつかめない。

参照】2011年12月9日~[〔備前屋〕の跡継ぎ・藤太郎] () () () () () (

ことに及んだおんなしかたしかめようのない秘事の一つである。

「しかしな、与詩。代わりの男をおことにあてがうとしても、いちいち、貴殿のなにのその時は何寸であろうか? などと訊くわけにはまいらぬ。合衾したあとで、貴殿のは与詩が求めておる半分ほどでござったそうだから、この話はなかったことに---といって、天下の旗本の長谷川平蔵が頭を下げるわけにはいかぬ」
「はい。わかっておりますが、このままでは、寝言も失禁もやみjせん」

「そうだな。道は一つしかない。与詩が与板へ住みこみ、藤太郎のわたりを待つことだ」
「行かしていただけるのですか?」
「『備前屋』がどういうかはわからぬが、藩主の井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳 西丸・若年寄)さまはなじみがあるから、お許しはいただけよう。『備前屋』の女将・佐千(さち 38歳)どのになんとか頼んでみる」

この晩から、与詩のお寝しょの癖はとまったが、寝言はあいかわらずで、
「そこ、そこッ---」
などと、老母・を赤面させ---というか亡夫・宣雄との睦みをおもいだして寝苦しくさせていた。

与板藩庁からの永住の許しがあり、佐千からも男友だちへの息子のいらだちも消えた感謝と与詩の暮らし向きことは引きうけたといってき、与詩はいさんで旅立った。
もちろん、下僕が与板までついた。

ちゅうすけ後記】与詩については、不思議がある。
三宅家を不縁になり実家ともいえる長谷川家に出戻ったことは『寛政譜』に記されている。
ところが、香華寺・戒行寺の霊位簿に歿年も戒名もない。
少なくとも、江戸の長谷川家からは葬式がでていない、ということで、与板死亡説もゆえなしとしない。

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(『寛政譜』 平蔵宣以の妹たち)

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(上図の部分拡大)


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2011.12.15

{備前屋〕の後継ぎ・藤太郎(6)

翌日から、連れだっての江戸見物がはじまった。
---といっても、真夜中まで飽きもせずに閨事(ねやごと)にふけっているので、起きだすのは近隣の農家からの手伝い婆やがやってくる五ッ(午前8時)をまわってからだから、朝餉をとってから髪結いを呼び、支度がととのうの四ッ半(午前11時)をすぎた。

藤太郎(とうたろう 17歳)は、〔備前屋〕の津軽まわりの廻船で江戸へやってきていた。
しぱらく江戸に滞在し、商いと世事を見聞してから陸路を帰ることは、船長(ふなおさ)に[おおはま〕を通して伝えてあるし、飛脚で与板にも報じたから、あとは与詩(よし 28歳)の女躰探求にはげむだけであった。

与詩与詩で、三宅の爺さんからはえられなかった性の奥儀を、若くて剛直・長大の持ち主と悦所を究(きわ)めることに貪欲であった。
事実、夜ごとに---いや、手伝い婆さんに駄賃をもたせ、隅田川の向こうの浅草あたりまで買い物へだし、昼間っからでもだが---28歳にしてまったく新しい性感の掘りおこしがつづいた。


きょうの散策は、秋葉大権現社と千代世稲荷へ参詣し、隣りの庵崎(いおざき)で鯉料理〔武蔵屋〕で昼餉(ひるげ)をとり、飛木稲荷に賽銭を献じ、三囲(みめぐり)稲荷の先の竹屋の渡しの脇の船宿で舟をあつらえて大川を遡行して寺島村の寓へ戻ってくるという順路であった。
町方の女房風のこしらおも板についてきた。


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秋葉大権現・千代世稲荷 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


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庵崎の鯉料理屋群 同上)


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庵崎の鯉料理屋〔武蔵屋〕 『江戸買物独案内』)


与板の大店の長子だけあり、金づかいにはこだわらなかった。
それに、寺島村の寓居への支払いは必要なかった。

江戸のどこを訪れても藤太郎が吐く言葉は、山が遠いととう感慨であった。
与板は、山が家々へのしかかるように迫っていた。
関東の平べったさは、藤太郎には信じられないことであった。

きょうも庵崎の料亭〔武蔵屋〕で鯉の洗いを味わいながら、
与詩さん。一度、与板へ来ませんか? そうだ、中山道から奥州街道をゆったりといっしょに泊まりをかさねながら歩けたら、すばらしい道中になりそうだ」

「いまでも腰がだるいのに、そんなにつづけたら、歩くのが退儀になるでしょう」
「疲れたら宿場々々の継ぎ馬に乗ればいい。ぜひ、母にも会ってほしい」

男友だちをつくった母・佐千(さち 38歳)の性の求めのことは、すでに理解が及んでいた。
もっとも、男を許すこととは別の論理であった。

「お母上になんといってお引きあわせいただくのですか? 初めての放射をおうけしたおんなとでも? お、ほほほ。お母上が、それこそ、腰をお抜かしになりましょう」
茶目っ気で応えたが、内心はともにしている夜を永びかせたい一心でもあった。

藤太郎が与板に去ったあと、孤閨を守りきる自信はとうに失せていた。
自分も佐千のように男友だちをつくるであろう。
そのことは、兄に伝えて承諾をえるしかない。
家格にかかわるというのであれば、家を捨てることになろう。

おんなとして性の法悦に開眼することは、武家の寡婦としては、もしかすると不幸を背負うことになるのかもしれない。
いや、武家の寡婦とかぎることはない、町方のおんなであっても煩悶の責め苦はおなじであろう。
どうして世間はそのことがわかってくれないのか?
なぜ、鞭打つのであろう?

藤太郎のような青年を引きあわせた兄・平蔵を恨めしくもおもった。

「あと、2夜ですね」
湯殿の腰置きで太腿にまたがっての交合が、もっとも与詩を荒らぶらせ、乱れた。
奥の奥への刺激で失神、気がもどったときには閨に寝かされていた。

最後の夜には、藤太郎の肩に葉型がのこされた。
与詩の乳首も色が変わっていた。

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2011.12.14

〔備前屋〕の後継ぎ・藤太郎(5)

長谷川さまは、冷酒---それも、雪片のざらめを添えた、とりわけ冷たくした酒がお好きでした」

参照】2011年3月11日[与板への旅] (

「燗はいかほど---?」
橋場の料亭〔植半〕から取りよせておいた料理を並べながらの与詩(よし 28歳)の問いかけに、藤太郎(とうたろう 17歳)が誇らしげに応えた。

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(橋場の木母寺脇の料亭〔植半〕) 『江戸買物独案内』

「雪片のざらめを---お母上の発案だったんですか?」
外での平蔵(へいぞう 40歳)の挙措をしることよりも、雪国・与板にある〔備前屋〕という大店のあれこれをおもいうかべたかった。

たった一度、それも湯殿の腰置きに座っていた藤太郎の太腿にまたがった交合のあと、藤太郎とそのまわりのことをもっとしりたいとおもうようになってきたのは、おんなごころかもしれない。

湯殿でのことは、藤太郎が閨(ねや)まで待ちきれなかったからであった。

与詩の躰も熱く求めていたが、初体験はきちんと閨(ねや)でとのかんがえと、いえ、おんなが処女(おとめ)の徴(しる)しを捧げるのとは異なり、藤太郎のばあいは初めておんなに突入した思い出であろうし、それはこの10日間近くの愛の行為がひとかたまりとなって覚えられようから、ここでの初っぱなの接合にそれほど意味はあるまい---自分に都合のいいように割りきった。
躰がそれほどに求めていたのである。

太腿にまたがり、緩急をつけて腰を浮沈させる交わり方は、与詩も初めてであった。
嫁ぐときの秘画の一つにあったが、三宅の爺ィさんの小柄な体格では試すことはためらわれた。

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(北斎『万福和合神』 イメージ)


それを試みる機会がきたのだから、与詩としても期待十分でのぞんだ。

相手のものが長大だったことも幸いしたが、腰を緩急をつけて上下させている与詩のほうが先に達しそうになりあわててしがみついた。
放射の瞬間、与詩の名を連呼してくれたことも、悦びを倍加した。


冷酒を酌みかわした。
藤太郎は酒造家の世継ぎらしく強くなっていた。

参照】2011年3月11日[与板への旅] (14

「母はもっと強く、長谷川さまのお相手がつとまりました」
与詩は、兄と〔備前屋〕の女将との閨事(ねやごと)を連想したが、すく゛に打ち消した。
そのことをしっていたら、藤太郎はこんどの母の睦みごとにいきりたつより、平蔵に怒りをぶつけたはずだ。

平蔵のことは、
長谷川さまはこうなさった、長谷川さまはああおっしゃった」
尊敬の科白をこぼすはずがない。

藤太郎さま。お酒のせいではなく、さきほどの湯殿でのことで、腰がふらふら、力が入りません」
酌をしながらいったが、青年は微笑し、与詩の腰丈の紅花染めの閨衣(ねやい)に見とれていた。
与詩は、里貴(りき 逝年40歳)や奈々(なな 18歳)の片膝立ての座り方を見ていないから正座していたが、両膝がこころもちひらいていたのと、丈が短いために下腹のところで裾が割れ、黒毛がのぞいていた。

そこのところは与詩も察し、ことさらに胸元をゆるくして、乳房のふくらみが青年の視野へ入るような着つけにしていた。

藤太郎の好奇の視線が増してくるにつれ、淫らっぽい姿態で青年をさらに刺激してやるのが楽しくなった。
そうはいっても武家育ちのおんなだから、限度はわきまえていた。

膳にあった卵焼きの小片を半分くわえ、半腰で藤太郎の口の前こさしだし、受けて噛みきった唇を吸った。

半腰からなおるとき、さらに裾と膝をひらき、膳を脇へ遠く押した。
相手もその仕ぶりをj真似、抱いてきたので倒れた。
おっかぶさってきたのを掌でさえぎり、
「閨で---」

抱きあげらてれ閨へ運ばれた。
「灯火を---」

灯火がはこばれてくると、股を開き、
「また、見て---」

いいなりであった。

「横にきて---乳を吸う?」
(髪結いのこと聴いてなかったけど、明日、婆やに訊けば済むか)

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2011.12.13

{備前屋〕の後継ぎ・藤太郎(4)

翌日。

与詩(よし 28歳)が肩凝りの湯治と称し、船橋宿の湧き湯へ黒舟で旅立った。
松造(よしぞう 35歳)が途中まで付きそった。
黒舟は御厩河岸で、化粧(けわい)師のお(かつ 44歳)をひろった。

隅田川の上流・寺島村の寓には、里貴(りき 逝年40歳)が愛用していた腰丈の紅花染め閨衣(ねやい)や緋色の湯文字、若やいだ男女の浴衣、寸間多羅(すまたら)産の香木、多いめのはさみ紙などがとどいた。

寓がととのったころあいに、黒舟が大川端の旅亭〔おおはま〕へ藤太郎(とうたろう 17歳)を迎えにきた。
〔おおはま〕を清算し、乗った黒舟には、なんと、与板で親しんだ松造がい、藤太郎を驚ろかせた。

舟中で松造は、10歳年長のお(くめ 45歳)とのなれそめを話し、齢上のおんながどんなにいいか惚気(のろけ)た。

参照】2010,年6月27日~[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () () (

「初穂おろしは年増の達者にかぎります。手を引くようにやさしく導き、指や舌でどこをどうすればよいかを教え、けっこうな思い出をつくってくれます。それていて自分も頂点に達している---なにしろ、躰のいたるところが発火点ときていますんでね」
そのことに関しては初心(うぶ)な藤太郎が、勝手な連想をして顔を赤らめるようなことを、さらりと話した。

寺島村の舟着で降りた。
道中荷物は藤太郎が自分で持った。
寓の玄関で藤太郎を引きあわせた松造は、「舟を待たしているから」とそのまま引きかえした。
舟着きの黒舟には、おんなが乗っていた。
お勝であった。


与詩は、藤太郎の背丈が6尺(1m80cm)近くもあったのに驚くとともに、「これでほんとうに17歳?」といぶしがった。
並ぶと、結い上げた髷がやっと藤太郎の肩上で、妹になったような錯覚さえした。

かつて嫁いだ三宅は5尺(1m50cxm)そこそこ、小柄というより貧相といえたが、好色なくせに気位だけが高い老人であった。

ふだん見慣れている兄の平蔵(へいぞう 40歳)も甥の辰蔵(たつぞう 16歳)も5尺5寸(1m65cm)前後である。

藤太郎は、与詩の挙措から武家のおんなだなと察したが、まさか、この人が同衾してくれるとはそのときは思わなかった。

香木が炷(た)かれている居間で向いあって座り、
「風呂が沸いております。お召しかえなさいませ」
座ると、藤太郎の背丈からくる威圧感が消え、青年,になりかかっている一人男あった。

藤太郎のほうは、浴衣に着替えてお茶をささげて入ってきた与詩に、
「この人が、やはり、その人なのだ」
化粧は母の佐千(さち 38歳)のよりもうんと薄めだが品があり、しかも肌には張りと艶があった。

与詩が浴衣をひろげ、着せかけるしぐさで待っていた。
着ていたものを解き、下帯ひとつで腕をとおしたとき、つま先立ちで背の高さそろえていた与詩がよろけてすがった。
背に乳房を感じたまま立っていが、両肩にかけて支えていた腕が脇下にうつり、臀部に腹が押しつけられたので、衝動的に躰をまわし、正面で抱きしめた。

青年の胴をしっかりと抱き、つま先立ちで腰に腰をすりつけた与詩は、目をとじ、顎をあげた。
おんなの頰を双掌ではさんだ藤太郎が、遠慮がちに口をあわせると、舌が割りこんでき、まさぐる。
すぐに悟った男の舌がはげしく応えた。

前戯のはじまりであった。
与詩の腰から力が抜け、立っていられなくなった。

首にまわしかえた腕で引きよせた耳に、
「湯殿で---」
うなずき、膝裏に腕をさしいれ、抱きあげた。

抱きあげられたまま与詩が、湯殿を指さして教える。

与詩の胸内には、強い男に抱きあげられている安心感と期待感が泉の湧き水のようにひろがった。
満たされないままに抑えていた28歳の情欲でもあった。

湯殿で下帯をとったときの黒い茂みの下に挙立している藤太郎のものを寸瞥した瞬間の驚愕---、
(あ、三宅の爺っさまの3倍---)

おもわず、問いかけてしまった。
藤太郎さま。おんなの秘部をじっくり看察なさったことはおありですか」
頭(こうべ)がふられた。

手桶に汲くんだ湯を内股にあびせ、腰置きをまたぎように浅く座り、 湯桶で背を斜(はす)にささえ、秘所をさらすように開いた。
己れでも予想のしていなかった姿態であった。
恥ずかしいともおもわなかった。
もっと淫らに振舞いたい気分になっていた。

湯をあびて太筆の房のようになった穂先からしずくをたらしている黒房を割り、
「これが実(さね)です。やさしくなでられると感じます」

指で陰唇を割りひろげ、
「玉門です。藤太郎さまの宝棒は、ここへ突入します」

膝をついた青年の食いいる視線に、与詩の下腹に淫らな刺激がはしった。

「もう一つ、お目にいれておくものがあります」
くるりと白い尻を向けた。

右の丘に指をあて、
「前夫のいやらしい趣味です」
そこには小さな矢じりの刺青があった。

藤太郎が音をたてて唾をのみこんだのがわかった。

「子種が的を射るようにということでしたが、上手な射手ではなかったらしく、子は恵まれず、不縁となりました」
生来の茶目ッ気が戻ってきたことでも、与詩も昂ぶってきていた。
10年近く、男の前では抑えきていた特技であった。

「お噛みきりになてもかまいません」

藤太郎が尻唇をあてて吸い、
「吸いとれるものなら吸いとりたいが、前の男の邪念は吸いとった」
脇へ吐いた。

「うれしい」
向きなおって立ち、脚を開いた股に青年の唇がからまり、両腕で腰が抱かれた。

次の場面を予想してのけぞりながら、与詩は男の頭を無意識のうちに手前に引いた。
齢の差は、どこかへふっとび頭から消えた。
藤太郎も同じであった。

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2011.12.12

〔備前屋〕の後継ぎ・藤太郎(3)

「そういうわけでな、藤太郎(とうたろう 17歳)の初体験にふさわしい女性(iにょしょう)を求めておる」

亀久町の奈々(なな 18歳)の家で、芙佐(ふさ 25歳=当時)とのことも淡い口調で語り終えた平蔵(へいぞう 40歳)は困惑していた。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

いざとなってみると、おのれがいきあったお芙沙のような後家が周囲にいなくなっていることに気づかされたのであった。
年齢(とし)を重ねすぎた。

しかもなお、少女から大人に熟れかけている奈々のような女性と、年齢を超えて親しんでいる。

相談をかけてみたい〔三文(さんもん)茶亭〕のおは45歳だし、浅草・今戸の〔銀波楼〕の女将におさまっている小浪(こなみ)にいたっては46歳だ。

参照】20101012~[〔三文(さんもん)茶亭〕のお粂(くめ)] () () (
2008年10月23日~[『うさぎ人(にん)〕・小浪] () () () () () () (
2010813~[〔銀波楼〕の女将・小浪] () () (

奈々に相談をもちかけたのは、〔季四〕の客で、奈々を芝居小屋へ誘う薬種問屋の後家・お(ふで)が頭にあったからだ

「おはどうであろう?」
「あかん、あかん。44歳の婆ちゃんで、閨で藤太郎はんが逃げまどわはる」
「は、はははは。閨で、男が逃げまどうか---、は、は」

そういえば、銕三郎(てつさぶろう 20歳=当時)は、茶店〔笹や〕の女主人・お(くま 43歳)に裸でせまられて逃げるのに苦労したことがあった。

参照】2008423[〔笹や〕のお熊] (その4

「それに、おはんは、芝居もんまみれや。初めての藤太郎はんが穢れます」
奈々は、しっかりしていた。

参照】2011年7月15日~[奈々という乙女] () (

「うちの店のむすめたちは男しらずやしィ。嫁はんにいくんならええけど、一度きりいうとこが、難儀や」

奈々が片方立てにしていた膝を折った。
腰丈の閨衣の前がひらいた。
そろそろ隣りの間へ移lりたいという合図であった。


翌日からの2日間は、家斉(いえなり 13歳)の具足・偑刀の儀式の祝事で、西丸の各組には交替で休みが与えられていた。

平蔵は、浅草・今戸の〔銀波楼〕の女将・小浪を訪ね、〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 65歳)の持ちものである寺島村の寓家はどうなっておるか訊いた。
「うちが預かってます」
「7日ほど借りられようか?」
長谷川さまなら大事おへん、そやけどまさか、新しいお相手はんと---?」
「ちがう、ちがう。越後の与板で世話になった大店の嫡男とおなごの密会に使わせたい」

長谷川さまは、奥方はんとのご祝言のあと、あそこで7夜をおすごしどした」
小浪が含み笑いをもらし、仇な視線で瞶(みつめ) た。

小浪がいうとおり、24歳だった平蔵久栄(ひさえ 18歳=当時)と新婚の甘い7夜を、その寓屋でみっちりすごした。

参照】2009年2月13日~[寺嶋村の寓家]  () () () (

「通いの婆ぁやもずっとやとってますよって、外気もあんじょう入れかえられとるはずどす」
酒や米味噌、調理道具など万端をととのえておくように、金をもたせて遣いをだしてもらった。


書見の間に与詩(よし 28歳)を呼んだ。
与詩は6歳のときに養女にきた。
銕三郎が駿河国・府中(現・静岡市)まで迎えにいった。

参照】2007年12月27日~[与詩を迎えに] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41) (番外) 

長谷川のむすめとして嫁入りしたのに、あっという間に不縁となって帰ってき、そのまま、(たえ 60歳の話相手をしている。

参照】2010年1月5日[与詩の離婚] () (

「おことが黙っているものだから、つい、いい気になり、お母上の世話をまかしきっており、すまないとおもっていた」
「兄上。ここがわたくしのわが家です」
「そういってくれるとうれしい。ところで、兄としておことに頼むだが、5日ばかり、ある若者の世話をしてもらいたい」
「兄上、ずいぶん遠慮なさったお言葉のようですが---」
平蔵は、考えていた以上に、説得がむつかしい依頼であることとおもいしった。

藤太郎と、旅亭〔おおはま〕の湯殿で股間のものを相互ににぎりあって男と男の約定を確認したというくだりでは、与詩は身をよじって笑ったが、ふと真顔になり、
「わたくしが駿府からの道中に、阿記さんという方が、鎌倉の縁切り寺へお入りになるまでずっと兄上と閨でごいっしょでした。わたくし、幼いなりに嫉妬していました」

阿記どのはあのとき、三島宿の本陣〔樋口〕の女将・お芙沙(ふさ 29歳)どのに嫉妬していたのだ」
「なぜですか?」

25歳で若後家になったばかりのお芙沙によってえた、すばらしい初体験の経緯(ゆくたて)を打ちあけた。
「このことは久栄(ひさえ 33歳)、父上にも話していない。父上も手くばりなさっただけで、男の子の秘事といって訊きもなされなかった」

参照】2007年8月3日[銕三郎、脱皮

「よう、打ち明けてくださいました。兄上と秘密を共持てること、与詩はうれしゅうにおもいます。よろこんで秘事にはげみます」
「やってくれるか。胸のつかえがおりた」
「兄上のときのお芙沙さまほどに若くもなく、男を離れてから年が経っておりますが、そのこと、おんな冥利といわれているものをいただける機会をお与えくださり、このとおり---」
頬を染めて頭をげた。

平蔵が小指をさしだし、
「秘密は墓場まで--」
うなずいて小指をからめた。


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2010.01.06

妹・与詩(よし)の離婚(2)

このブログ『Who’s Who』の中での養女・与詩(よし)は、16歳で、いうところの適齢期であった。

しかし、養母・(たえ 48歳)は、
与詩が桑名橋を不縁になって---」
平蔵宣以(のぶため 28歳)に告げてしまった。
桑名橋は、小石川竜門町と同諏訪町に架かる橋で、三宅家が諏訪神社の裏手に150坪ほどの屋敷地を拝領していた。

このあたりの矛盾については、きのうの回に疑問を呈しておいた。
とはいえ、疑問のままにしておくわけにはいかない。

与詩が16歳で三宅半左衛門徳屋(とくいえ 56歳=明和7年(1770) 200俵 西丸小十人)に輿入れしたとすると、養父・宣雄(のぶお)が先手弓の8番手の組頭(役高1500石格)のころである。
その格式をもってしても、また実父はすでに亡いとはいえ、名門・朝倉の分流で、駿府町奉行(役高1000石)を勤めた仁左衛門景増(かげます 享年61=宝暦13年 300石)だし、嫡兄は書院番士が長いから、ふつうなら、50歳代の半左衛門に嫁がせるとは思えない。

ふつうでないとすれば、与詩の側に、身体的(容貌的)な、あるいは性格的な欠点があって、レベ゛ルを下げなければならなかったか。
いや、そういうマイナ点があれば、婚姻を家名の維持の一条件とかんがえていた当時、宣雄が養女にしたであろうか。

宣雄の在世中の婚儀としたばあい、一つかがえられなくもないのは、宝暦8年から宣雄が勤めていた小十人頭(がしら)時代の顔なじみということであるが、半左衛門徳屋は西丸の組子であるから、それも早計には肯定しかねる。

益ない詮索はおいて。
三ッ目通り長谷川邸に戻ってきた与詩は、どうしたろう?
母屋は、当主となった平蔵宣以とその室・久栄(ひさえ 21歳)、それに息・辰蔵(たつぞう 4歳)と於初(はつ 1歳)が離れから移り住んでいた。

養母・は、銕三郎(てつさぶろう)時代の夫妻が居住していた離れに入れ替わっている。
与詩も、住むとすれば離れに1 部屋を建てまして住むことになろう。

「母上。与詩に、ぜひとのお声がかかりました」
与詩は、を実母のように慕っている。
「おや、どこからかえ?」
「納戸町の於紀乃(きの 74歳)刀自さまからです」

参照】2008年9月8日~[〔中畑(なかばたけ)のお竜(りょう)] () (
2008年10月5日~[納戸町の老叔母・於紀乃] () () () (

この話を母から相談をうけた夜、
久栄。そういうことだが、男を知ってしまっている与詩が、老叔母の介護だけでもつものかな?」
三宅の老夫さまが、どこまで熟(う)れさせておられますか。おんなは、男次第でございますゆえ」
「おんな同士、半左爺どののそのむきのこと、与詩から聞いておらぬか?」
「訊くには、(てつ)さまのその手ぎわも告白しませぬと、与詩さまも話しずらいでしょう」
「それは困る」
「あら、私は、はやばやと、熟れすぎさせられておりますよ」
「うむ」

久栄の指が、平蔵のものをやわらかく包み
「いかがでしょう? 隣家・松田彦兵衛貞居 さだすえ 66歳 1050石)の於千華(ちか 38歳)さまに引きあわせて、訊きだしていただいては?」
「だめだ。燠火(おきび)を燃え立たせてしまうようなものだ」
「このようにでございますか?」
久栄が、熱くなっている下腹をすり寄せた。

参照】2009年2月18日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () (
2009年6月19日~[宣雄・火盗改メ拝命] () (
2009年7月3日[目黒・行人坂の大火と長谷川組] (
2009年7月24日[千歳(せんざい)のお豊] (

[]ちなみに、奥田河内守貞居は、2年前に山田奉行として赴任し、内室の於千華は、一人子・新三郎(14歳)と留守宅にあったが、芝居に入れあげているとの風評であった。

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2010.01.05

妹・与詩(よし)の離婚

与詩(よし 16歳)が不縁になり、戻されます」
母・(たえ 48歳)が、つぶやくように告げた。

ちゅうすけ注】おおかたの読み手の方は、「与詩はいつ嫁入りしたのだ?」と不審がられるであろう。ちゅうすけ自身が首をかしげている。

とにかく、当時、駿府奉行であった朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)の次女・与詩(6歳=当時>を府中まで銕三郎(てつさぶろう 18歳)が迎えに行った顛末(てんまつ)は、以下に詳しく記している。

盗賊〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)とのかかわりも、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)という無二の盟友もこの旅でえた。

それよりなにより、『寛政譜』にも記載されていない銕三郎の婚外の子も、このときにつくった。
相手は、{芦の湯小町〕と呼ばれたこともある人妻・阿記(あき 21歳=当時)で、その経緯(ゆくたて)もたどっていて、たのしかった。

参照】2007年12月21日~[与詩(よし)を迎えに] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41

長谷川家に引きとられてからの与詩は、さほど登場しない。

参照】2009年1月11日[銕三郎、三たび駿府] (
2009年6月18日[宣雄、火盗改メ拝命] (

寛政譜』の長谷川平蔵宣以(のぶため)の項には、3人の妹が記載されている。

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3_260
(『寛政譜』の長谷川家の部分)

寛政譜』が長幼の序のあやまることは、ほとんどない。
ということは、2人の養女は、年齢が宣以よりも下ということである。
当時は数え齢だから、正月に兄が生まれ、晦月に妹が生まれた場合、まれに同い齢で兄妹ということもありえるが。

銕三郎と最初の養女・多可(たか)は、同い齢ということにした。

参照】2007年10月27日~[多可が来た] () () () () () () (

次の養女が与詩である。
銕三郎とは12歳違いとした。
安永2年(1773)には、16歳のはず。

ところが、不縁で長谷川家にかえされたと、『寛政譜』にある。
嫁ぎ先は、三宅半左衛門徳屋(のりいえ 59歳 200俵)。
この年齢で初婚らしい。

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(三宅半左衛門徳屋の個人譜)

しかも、与詩を離縁したあとに、小浜家(200俵)から後妻を迎え、継嗣・貞之丞をえている。
この貞之丞は、宝暦6年の生まれだから、安永2年には19歳である。

ちゅうすけ注】余談ながら、後妻の出である小浜家は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[寒月六間堀]で、二ッ目通りをやってくる老武士の息子の仇・金貸しになりさがっている山下藤四郎を、鬼平が身をひそめた塀の屋敷の主---小浜某(4000石)の分流である。

えっ? 先妻の与詩が16歳で、後妻が産んで子が19歳?
どういう計算なの?

だれだって、不思議におもう。
けれど、『寛政譜』は、そう記載している。

貞之丞が生まれる前に与詩が離縁されたし、「3年、子なきは去る」の諺どうりと考えると、16歳で嫁いで19歳で去ったとして、宝暦5年には婚家を出ていないといけないから、与詩は元文2年(1737)生まれで、銕三郎より9歳上、父・宣雄が18歳のときの養女ということになってしまう。

ということは、三宅家が幕府に呈上した[先祖書]がおかしいとしかいえない。

とにかく、この謎を解くには、時間がかかりそうだ。

それはともかく、与詩は、不縁になって以後、ずっと長谷川家にとどまり、宣以の厄介になっているはずだが、菩提寺の戒行寺の霊位簿にその名がみあたらないのも不思議である。

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2008.03.30

於嘉根という名の女の子(その7)

もし、銕三郎(てつさぶろう 18歳=当時 のちの小説の鬼平)と、縁切りの尼寺へ入った阿記(あき 21歳=妊娠当時)のあいだに生まれた女児・於嘉根(おかね 宝暦14年 1764 1月に尼寺で誕生)が、長谷川家に引き取られるとおおもいになったとしたら、筆者の力が至らなかったことをお詫びしないといけない。

於嘉根の年齢からいって、長谷川家の養女ではありえないことは、2008年2月7日[ちゅうすけのひとり言]の(4)で気がついて、(たえ 銕三郎の実母)から生まれたかどうかは別として、実妹に間違いないことは明らかにしておいたつもりである。
どうぞ、上掲のリンクつきの印してげあるオレンジ色(4)をクリックして、史実をお確かめおきいただきたい。

『寛政重修諸家譜』にある銕三郎の妹は、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳 をもうけた時は52,3歳)の隠し子・(その 文庫巻23[隠し子])なんかではない。もっとも、寛政7年(1795)前後に元下僕・久助(きゅうすけ 75歳)が鬼平(50歳)へ打ち明けた時のは30歳であったから、平蔵宣以の子という仮説もなりたたないわけではない。

そういうおもいが、筆者の頭の片隅にへばりついていて、ことあるごとに、実妹が平蔵宣以(のぶため)の子であるとすると、どういう経緯(ゆくたて)で妹として届けえたのであろうと空想にふけるわけである。

ここまで、銕三郎阿記の睦みあい、阿記の会話を記録していて、どう結末をつけるか---などと、空想した一つを、赤面しながら記してみると---。

春の某日---が訪問して旬日後。
芦ノ湖畔であそんでいた於嘉根が、何かにみとれて湖へ落ちる。阿記があわてて飛び込み、於嘉根をつかんで岸へ放りなげると、都合よく、男が受け取ってくれる。
しかし、そこは意外な深みで、水を吸い込んだ着物の重みで、阿記は溺死。
そのことを聞いたは、ふたたび芦ノ湯村へやってきて、於嘉根を貰いうける。
そのあと、は実家の上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎村(千葉県山武市寺崎)へ引きこもり、半年後に於嘉根とともに南本所・二之橋通りの長谷川邸へ戻ってき、何食わぬ顔で幕府へ実子としてとどけた---といった筋書きを、まじめくさってかんがえるのである。

しかし、解決しなければ問題は別にある。
辰蔵の生年である。明和7年(1770)、銕三郎宣以が25歳の時の嫡子。
とすると、久栄(ひさえ 小説の妻女 大橋家のむすめ)との婚儀はその前年であったろう。銕三郎は24歳。
銕三郎が23歳の明和5年(1775)12月5日がお目見(めみえ)---これを済ましたことで、いつ、父・宣雄にもしものことがあっても、家督する権利を得たことになる。
久栄との婚儀の話は、この前後からおきていたろう。
阿記とのことがすっかり片づいていないと、婚儀にさしさわりがでる。

と、阿記を溺死が、現実味をおびてくる。

しかし、きょうからあと、銕三郎の婚儀成立までの3年間、色恋沙汰がないというのも、さびしい。書き手とすれば、銕三郎阿記を、もう一度、合褥(ごうじょく)させてやりたい。
銕三郎が23歳なら、阿記は26歳、芦ノ湯小町といわれた色香は、十分に残っていよう。
ただ、於嘉根が4歳だから、彼女の目を忍んでの同衾させるのは、工夫を要する。
秘画特有の、これみよがしの、しどけない大胆な姿技の引用もひかえることになろうか。

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(国芳『葉奈伊嘉多』([仮の逢う瀬]部分))

それとも、3年経って、髪も伸びてきているとすると、こっちの絵かなあ。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分)

なにをくだらないことに時間を浪費しているんだ---と自分が自分を叱る。

類推するなら、於嘉根が18歳ほどになった時の平蔵宣以との対面シーンではなかろうか。平蔵36歳の男ざかり。徒の頭(かしら 役高1000石)。分別十分。

於嘉根のイメージ。芦ノ湯村小町だった母親に似て、なかなかの美形。

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(英泉『玉の茎』)

それでは、あと16年、於嘉根のことには封印をしておこう。
銕三郎には、別のいい女との出会いを設定してやるか。

参照】2008年3月19日~[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

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2008.03.29

於嘉根という名の女の子(その6)

「お髪(ぐし)は、どれほど、伸びましたか?」
(たえ 40歳 銕三郎の実母)が、於嘉根(おかね 2歳)を阿記(あき 23歳)に渡しながら、訊いた。
阿記は、頭に巻いていた水色の布ぎれを無造作に外した。
3寸(約10cm)ほど伸びた毛髪が直立しているようにあらわれた。
「尼寺では、山を去る半年前から頭を剃らなくてもよいきまりになっており、ちょうど9ヶ月で、これほどに---。髪が結えるようになるには、あと2年ばかりかかりましょう。その日が待ちどうしゅうございます。髪は、女の2番目のおしゃれどころでございますから---」

「お産は軽うこ゜ざいましたか?」
「いえ。初産(ういざん)でもあり、軽うはございませんでした。でも、銕(てつ)さまのお子を授かるのだと、懸命に力みました」
阿記が、頭へ布巻きながら、恥ずかしそうに答える。
「私が銕三郎を産みました時も、重いお産で、なんという親不孝な子だろうと---」
2人は、顔を見合わせて笑った。

「お産は、鎌倉の尼寺で?」
「はい。一度、得度(とくど)いたしますと、お産といえども、山を出ることは許されません」
「寺でお産みになる方も多いのですか?」
「少なくはございませんが、縁を切りたい男の人の子ではないのを、入山の前夜か2夜ほど前にもうけたというのは、私だけでございました」
「では、ずいぶんと責められましたか?」
「いいえ。山では、浮世のことは、一切、み仏にお預けして---ということでございましたから---」
銕三郎の不行きとどき、幾重にもお詫びいたします」
「とんでもございません。こんなかわいい子を授けてくださいました。感謝しております」
「そのようにお許しいただくと、肩の荷がおりたようで、ここまで訪ねてきた甲斐がありました。ところで---」

と、は、於嘉根の人別(戸籍)のことを訊く。
縁切り寺で生まれた子は、ふつうは、父(てて)なし子として、扇ヶ谷村支配の代官所江川太郎左衛門へ届けるのだが、阿記の場合は、箱根・畑村宿をとりしきっている、めうがや畑右衛門が手まわし、父・次右衛夫婦の子ということになった。
産褥(さんじょく)に臥せっている阿記の知らぬ間の、再婚のことをおもんぱかった処置という。

「ひどい話だと怒りましたが、於嘉根が手元にいさえすれば、そのことはどうでもいいとおもうようになりました」
阿記さんは、お若いのですから、この先、独り身というわけにもいかないでしょう?」
「この湯治宿は、いま、よその温泉場で見習いをしております兄が継ぎます。その兄が嫁をむかえた時には、私は、ここを出て行くつもりにしております。たつきのお金は、兄が仕送りしてくれるといってくれておりますから、仕立てものでもしながら、どこかで、於嘉根と暮らしていくことになりましょう」

阿記は、が、「うちへおいでなさい」と言ってくれるとは、つゆ考えてもいなかった。しかし、のつぎの言葉には、内心、むっとした。
阿記さま。於嘉根ちゃんは、わたしが産んだ子として、長谷川家でお引きとりしてもよろしいのですよ。阿記さまの再婚のために---」
「とんでもございません。さまのお子をつくろうと決めました時に、はっきり申しあげました。ご迷惑はおかけいたしませんと」

【参照】その夜のことは、2008年2月1日[与詩を迎えに] (38)

「しかし、その時はその時。再婚のお話がでた時は、また、別でございましょう?」
「お伺いいたします。いまのお話は、銕三郎さまのお気持ちでしょうか?」
「いえ。あれはまだお目見(めみえ)もすんでいない部屋住みの身ですから、なにも相談しておりません。私一人の考えたことです」
「わかりました。どうぞ、このお話は、なかったことにしていただきとうございます」

阿記は、銕三郎が、突然、遠い存在になったようで、軽いめまいをおぼえた。
で、
阿記さんのような嫁なら、私ともうまくやっていけそうな気もするのだが。於嘉根も父親の下で安らかに育つことであろう。ただ、阿記さんは、武家の嫁にしては美しすぎる)
おもっていたが、心を鬼にしていた。

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(歌麿 阿記のイメージ)

strong>於嘉根を、自分の子として幕府に届けけられるのは、この夏までがぎりぎり---とふんでいたのである。

【参照】2008年3月19日[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5)

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2008.03.28

於嘉根という名の女の子(その5)

吾平(ごへえ)どん。先に〔めうが屋〕さんへ行って、まもなく、私が阿記(あき)どのを訪ねてきている、と申してきておくれでないか」
芦ノ湯村の手前の立場(たてば)で休んだ(たえ 40歳 銕三郎 てつさぶろう の実母)が、下僕の吾平(46歳)を先触れにゆかせ、供の女中・有羽(ゆう 31歳)から鏡を受け取り、髷(まげ)のほつれや白粉のはたはなおしをする。
それから、有羽の着付けのゆるみにも視線をくばった。
長谷川家のしつけのがしっかりしているところを、阿記(23歳)に見せるつもりなのである。

立場の老婆がだしたお茶をすすっていると、吾平のうしろから、かつて長谷川家で下僕をしていた藤六(とうろく 47歳)が駆けつけてきた。
「奥方さま。お久しぶりでございます。ようこそ、こんな雛へお越しくださいました」
「おお、藤六どん。そなたが阿記さまと於嘉根さまにお仕えしていてくれていることは、銕三郎から聞きました。いつまでも忠義のこころを忘れずにいてくれて、ありがたくおもっております」
「勝手をしました藤六をお許しくださったばかりか、おはげましのお言葉まで頂戴して、夢のようでございます。阿記さまがお待ちでございます。さ、どうぞ---」

〔めうが屋〕では、玄関で、於嘉根(かね 2歳)を抱いた阿記と亭主・次右衛門夫妻が待っていた。
阿記は、尼僧時代に剃髪した髪が伸びきらないらしく、淡い水色の布で頭をつつんでいた。
頭髪はまだ生えそろってないとはいえ、若い母親らしいゆとりのある阿記の美しさに、は、内心で、
銕三郎には、すぎたおなご---)
とおもった。
あいさつの交わしあいがすむと、有羽は、離れへ案内された。
脚絆などの旅装束を解いたは、有羽が差し出す、400石の幕臣の内室らしい裾を引く召し物に着替え、阿記を待った。

阿記が、お茶を捧げて、入ってきた。
の前に茶托(ちゃたく)をすすめ、
「このような山奥までのお運びで、さぞ、お疲れになられましたことでございましょうが、阿記は、このうえなく、うれしゅうございます。、湯で、ごゆっくりと、お疲れをおいやしくださいませ」
折り目正しい、口上に、またも妙は、内心、
銕三郎には、すぎたおなご---)

阿記さま。その節は銕三郎がすっかりお世話になりましたようで、お礼を申しあげます。これは、ほんの気持ちだけのものですが、お嬢さまの節句にでも着せてあげてくださいませ」
尾張町の呉服舗〔布袋(ほてい)屋〕であつらえた、女の幼児の着物である。

_360
(尾張町の呉服太物[布袋屋] 『江戸買物独案内』
川柳に「尾張町通りすぎると静かなり」 京弁の呼び込み)

360
([尾張町角に恵比寿屋、布袋屋、亀屋があったので、川柳は、
「尾張町めでたきものでおっぷさぎ」)

「まあ、お祖母(ばあ)さまからの頂戴もの。於嘉根が大喜びでございます」
平塚の太物舗〔越中屋〕の若女将だった阿記は、有名店〔布袋屋〕の名は知っている。

「私が、於嘉根さまのお祖母でございますか?」
「お祖母さまのお許しもなく、お嘉根をつくりまして、申しわけございませんでした。幾重にもお詫びいたします。でも、阿記は、なんとしても、銕三郎さまのお子をもうけたかったのでございます。悔しいのは、男の子でなく、女の子だったことですが、いとおしさには変わりございません」
「可愛い孫むすめを、このお祖母(ばば)にも抱かせてくださいますか?」

いそいそと母屋へもどっていく阿記のうしろを、有羽が〔めうが屋」への土産物を携えてしたがう。 
しかし、阿記於嘉根を抱いてふたたび離れへやってきた時には、有羽の姿はなかった。さりげなく、席をはずしたのである。

「おお。於嘉根ちゃん。私が、銕三郎の母ですよ」
は、あやしながら、於嘉根の顔から、20年前に抱いていた赤子---銕三郎の面影を探している。
於嘉根への呼びかけに、阿記が目をうるませたようだ。
於嘉根は母親似で、もし、長谷川屋敷で育てば、〔本所小町〕は間違いないとおもったが、ちょっぴり落胆したことも事実であったと言いそえておく。

「で、阿記さま。嘉根という名づけは---?」
さまにお諮(はか)りもせずにつけまして、申し訳ございません。さまの金偏(かねへん)をいただきました」
(そういえば、阿記の前夫の名は幸太郎、屋号は〔越中屋〕---どこにも嘉根の名にかかわるところはない)
於嘉根の根は、さまと知り合い、結ばれたのが箱根権現さまのお引きあわせとおもい、箱根の「根」をいただました」
於嘉根ちゃん、あなたは箱根権現さまのおさずかりものだそうですよ。後光がさしていますよ」
は、拝むふりをして、阿記を笑わせた。
は、こんなに躰の奥からなごんだ気分になったのは何年ぶりであろうかと考え、赤ん坊の銕三郎を抱いていた以来だから、20年ぶりに近いと気づき、はっとした。
その時---なぜか、於嘉根が小さな手をのばしての顔にさわり、
「おばば」
と言って微笑んだのである。
それで、はすべてを了解し、ほとんどを許してしまっていた。
許せなかったのはただ一点---銕三郎が、阿記母子のことを、この時まで妙に話していなかったこと。

参考銕三郎阿記との出会いとなれそめ 
2007年12月29日~ [与詩を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (25) (26) (27) (28) (29) (31) (32) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41)

2008年3月19日[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4)

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