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2008.03.21

於嘉根という名の女の子(その3)

「父上。折り入ってのお願いがございます」
母・(たえ 40歳)が2人の膳を召使に下げさせて部屋を出ると、銕三郎(てつさぶろう 20歳)がかしこまって、父・平蔵宣雄(のぶお 47歳)へ言った。

「じつは、子どもができました」
「ほう。どこに、じゃ?」
「箱根です」
「それだけでは、飲みこめぬ。もちっと、詳しく話してみよ」

銕三郎は、2年前の春、与詩(よし 宣雄の養女)を迎えに駿府へ旅したとき、旅程に芦ノ湯村を加えて、その地の湯治宿〔めうが屋〕のむすめで、実家へ帰っていた阿記(あき 21歳=当時)を抱いたこと。
【参考】阿記との出会いとなれそめ 2007年12月29日~ [与詩を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (25) (26) (27) (28) (29) (31) (32) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41)
 
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(英泉『古能手佳史話』)

阿記が鎌倉の縁きり寺・東慶寺へ入山まで付き添ったことを打ち明けた。
なんのためらいもなく、すらすらとありのままを話せる自分に、銕三郎は、
(それだけ、大人になったのだろうし、あれは、自然の成り行きだったからだ)
と、自分でも合点した。

「そのことは、辞めた藤六からは聞いておる。目の前においしいものがぶらさがれば、飛びついてでも食らうのが若さの特権というものだ」
「しかし、赤子ができたとなると、話は別でございます」
「いま、は、なんと申した? 嫁家先から実家へ帰る途中で知り合った---と言わなかったか?」
「申しました」
「さすれば、父親は、嫁家先の夫やも知れない」
「いえ。拙にはおもいあたるふしがございます」
「たわ言(ごと)を申すでない。母親は間違いなく産んだといえるが、父親はだれにもわからぬものと、古今からそういうことになっておる」

「しかし、阿記は、拙の子を産みたいと申しました」
「そのことを言っているのではない。父親はだれにもわからないと言っておるのじゃ。この場合、当の母親にもわからない」
阿記は、3年ものあいだ、幸兵衛(こうべえ)---あ、阿記の夫の名です、でした---幸兵衛とともに暮らしていましたが、子なしでした」
「3年目に子をなす夫婦もあれば、10年目にできる夫婦もある。2年と11ヶ月があいだ、孕まなかったからといって、銕三郎の子と断ずることはきぬ」
「そんな、無責任ないいのがれは、できませぬ」
銕三郎は、阿記との純粋に燃えた情熱が、汚されたような気がした。

「無責任になれ、と申しておるのではない。よく確かめろというておるじゃ」
「どのように確かめればよろしいのでございますか?」
「赤子は、10月10日目にかならず出てくるとはかぎらない。したがって、出生の日からは決めることはできない。が、しばらく待てば、親に似たところもでてこよう」
「1歳と3ヶ月ほど経っています」
「では、誰かに、顔、姿を確かめてもらおう。それには、その太物屋の幸兵衛とやらをも見分してもらう必要もあるな」

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(国芳『葉奈伊嘉多』)

「で、もし、拙の子に間違いないとなりました時は---?」
「厄介なことになる」
「どのような?」
「武家の出でない婚姻外の女が産んだ子は、庶子としてとどけることになるが、お目見(みえ)もすんでいないの子としてとどけるのは、いささかむずかしい」
「拙は、一向にかまいませぬ」
「そうはいかない。その方は、この長谷川の家を継がねばならぬ身じゃ」
「拙が家を出て、養子をお迎えになれば---」
「馬鹿ッ! それこそ身勝手というものじゃ」

その鋭く大きな声を聞きつけたが、何事かと驚いた表情で、2人が睨みあっている部屋へ入ってきた。

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