与詩(よし)を迎えに(40)
江ノ島の東の腰越村から稲村ヶ崎までの渚道(なぎさみち)は42丁。7里ヶ浜である。
坂東流の距離表記で、6丁(ほぼ654m)を1里としたための7里であることは、常識。上総(かずさ 千葉県)の九十九里浜も同上の計算による命名。古いチャイナの計測法によっているものか。
(明治19年製版。参謀本部陸地測量部。江戸期に最短)
阿記(あき 21歳)が入道する縁切り寺の東慶寺は、鎌倉でもうんと北にあり、稲村ヶ崎からさらに50丁(5.5km)はあると、〔三崎屋〕の亭主が教えた。
阿記は、銕三郎(てつさぶろう)といっしょに俗世にいられる最後の半日だから、東慶寺のある台村まで、共に歩きたいという。
藤六(とうろく 45歳)が、与詩(よし 6歳)のために、牛を手配してきた。砂道なので、馬よりも牛とのことであった。
「牛のあゆみだと、台村まで、2刻(4時間)ちかく、かかりましょうな」
〔三崎屋〕の亭主の読みである。そのことを、阿記はむしろ、よろこんだ。銕三郎とそれだけ長くいられる。
腰越村をすぎる時、銕三郎は、その昔、軍目付(いくさめつけ)の梶原景時(かげとき)に、
「御弟、九郎大夫判官(だいぶのはんがん)殿こそ、終(つい)の御敵(かたき)」
と頼朝(よりとも)へ書き送られ、ここの満福寺へ足止めをくらった義経の、胸のうちを推察したが、阿記は、彼のそんな忖度(そんたく)など気にもとめておらず、
「静御前(しずかごぜん)も、義経公のことをおもいながらこの道を通ったのでしょうね?」
(まあ、阿記は、おんなだから、仕方がないか)
あきらめて、生返事をしておく。
(讒言(ざんげん)おそるべし、とはいえ、武家の目付とは、もともとそういう役目なのだ。留意して、しすぎるということはない)。
銕三郎は自分が、25年後に、政敵・森山源五郎孝盛(たかもり)による讒言によって、宰相・松平定信(さだのぶ)から嫌われることになろうとは、ゆめ、おもわなかったろう。
稲村ヶ崎までは渚道(なぎさみち)と呼ばれるだけのことはあって、打ち寄せる波に、いまにも足をあらわれそうなほどである。
昼食は、極楽寺村の茶店で摂った。
(左から長谷、坂下、極楽寺の各村 道中奉行制作『江嶋道見取絵図』)
(左から由比ヶ浜からの八幡参道と長谷村
道中奉行制作『江嶋道見取絵図』 )
長谷村を過ぎて、八幡参道にかかるころから、阿記の口数が減ってきた。
かわりに、牛背の与詩の口がなめらかになった。
「はちまん(八幡)さま、おしろ(城)の、とおくに、ありまちた---した」
駿府城の南の八幡(やはた)山のことを言っているのである。
「あにうえ(兄上)。えど(江戸)にも、はちまんさまはありましゅか---すか?」
「八百余州、八幡さまのないところは、ありません」
「かまくら(鎌倉)のはちまんさまと、おしろ(駿府)のはちまんさまと、どっちが、おおきいでしゅか---ですか?」
「鎌倉の八幡さまは、東国で一番大きいのです」
「とうごく(東国)とは、どこのことですか?」
「与詩のお城のあったところから、ずっとずっと東、江戸のむこうまで、のことです」
「かまくらの、はちまんさまより、おおきいの、ありますか?」
「鎌倉の八幡さまは、京の近くの石清水八幡さまの弟だから、京のほうが大きいとおもうが、兄は行ったことがないから知りません」
「あにうえでも、しらない---おしりでないことが、ありますか?」
「あたり前です。知らないことは山ほどあります」
「あの、ふじ(富士)の、おやま(山)ほど、ですか?」
「そうです」
藤六が笑っている。
(与詩も、みんなのお蔭で、だいぶ、丁寧に話せようになってきた。あと一ト息だ)
そのまま、鶴岡八幡宮に参詣し、台村へ向かう。
(鶴岡八幡宮 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
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コメント
与詩ちゃんの心が開いて言葉もなめらかになっていく様子、読んでいてほっとしますね。そこまで感情移入しています。
投稿: えむ | 2008.02.04 13:36