田沼主殿頭意次への追罰(2)
田沼意次(おきつぐ 69歳)の追徴について、天明7年10月2日の『続徳川実紀』は、ずっと後年にまとめられた故もあり、かなり穏当な語句でまとめている。
○二日 田沼主殿頭意次へ仰せ下されしは、勤役中不正の事ども相聞へ、如何の事におほしめしぬ。前代御病臥のうち御聴に達し御沙汰もありし事により、所領の地二万七千石を収納し致仕命ぜられ、下屋敷に蟄居し、急度慎み在へしとなり。
家治(いえはる 享年50歳)の喪が発せられてから24日後、実際に没してから30日もたって、前将軍の遺言の形での追罰であった。
臨終の病室には入ることを拒否された意次である。
ほんとうに遺言なのか、あるいは死後にご三家と一橋治済(はるさだ 37歳)が共謀してつくりあげた遺言かもしれないが、意次としては、それは腹でおもっても口にはだせなく、悔しいおもいをしたろう。
口にだしたら、将軍家に対して不敬であるということで死罪になっていたかも。
翌日、10月3日の『続実紀』――
○三日 岡部美濃守長備、遠江国相良城請取、且警衛すべきよし命ぜらる。
なんと手まわしのいいこと。
事前にしっかり打ち合わせていたことがこれで露見したではないか。
――
岡部備前守長備(ながとも 27歳 和泉国岸和田藩主 5万3000石)は、意次が加増をうけたときに藩内のもっとも豊饒な地1万石をあてられ、爾来、田沼を恨んでいた。
そこのところを定信(さだのぶ 30歳 老中首座)か治済が利用した。
岸和田藩側の準備がととのい、相良へ達したのは11月24日であったらしいが、2500人のひと騒ぎでも起きそうなほどの、たいそうな行列で乗りこんだらしい。
【参照】2006年12月4日[相良城の請け取り]
2006年12月4日[『甲子夜話』]
このあと、相良城の取りこわしが始まった。
せっかくの城が一草もない平地にされた。
ちゅうすけに閃めいたのは、これである。
相良の3万石ほどの豊穣な地は、しばらく幕府直轄であったが、やがて、一橋家の10万石分のあてがい封地のうち、甲府で3万石と公称されていた痩せ地と交換されたのである。
一橋、田安、清水の三卿は幕府から一卿あたり10万石ずつあてがわれていたが、これは領地ではなくあがりだけが取り分であった。
だから城はなく、陣屋をおいて管理していた。
家臣も幕臣の派遣であった。
そう、城はなく――というより、あってはならないといったほうが正確であろう。
城があっては封地にできない――つまり、痩せ地を豊穣な地と交換(?)しようとおもったら、城は邪魔なだけなのである。
一橋治済はそこまで読み、意次憎しの一念の定信の耳に悪魔のささやきを入れたのではなかろうか。
もし、類推があたっているとすると、治済と定信は、私利私怨のために日本の美――文化を破壊した非道の主ということになるが。
いや、証拠はいまのところ、ない。
徳川宗家あたりから、いつの日か、文書があらわれるのではなかろうか。
相良城が小さくはあるがどんなに美しい平城であったか、平岩弓枝さん『魚の棲む城』(毎日新聞社 のち文春文庫)からご想像いただこう。
【参照】200719[平岩弓枝さん『魚の棲む城』] (7)
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