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2012年5月の記事

2012.05.31

田沼主殿頭意次への追罰(2)

田沼意次(おきつぐ 69歳)の追徴について、天明7年10月2日の『続徳川実紀』は、ずっと後年にまとめられた故もあり、かなり穏当な語句でまとめている。

○二日 田沼主殿頭意次へ仰せ下されしは、勤役中不正の事ども相聞へ、如何の事におほしめしぬ。前代御病臥のうち御聴に達し御沙汰もありし事により、所領の地二万七千石を収納し致仕命ぜられ、下屋敷に蟄居し、急度慎み在へしとなり。

家治(いえはる 享年50歳)の喪が発せられてから24日後、実際に没してから30日もたって、前将軍の遺言の形での追罰であった。
臨終の病室には入ることを拒否された意次である。
ほんとうに遺言なのか、あるいは死後にご三家と一橋治済(はるさだ 37歳)が共謀してつくりあげた遺言かもしれないが、意次としては、それは腹でおもっても口にはだせなく、悔しいおもいをしたろう。
口にだしたら、将軍家に対して不敬であるということで死罪になっていたかも。

翌日、10月3日の『続実紀』――

○三日 岡部美濃守長備、遠江国相良城請取、且警衛すべきよし命ぜらる。

なんと手まわしのいいこと。
事前にしっかり打ち合わせていたことがこれで露見したではないか。
――
岡部備前守長備(ながとも 27歳 和泉国岸和田藩主 5万3000石)は、意次が加増をうけたときに藩内のもっとも豊饒な地1万石をあてられ、爾来、田沼を恨んでいた。
そこのところを定信(さだのぶ 30歳 老中首座)か治済が利用した。

岸和田藩側の準備がととのい、相良へ達したのは11月24日であったらしいが、2500人のひと騒ぎでも起きそうなほどの、たいそうな行列で乗りこんだらしい。

参照】2006年12月4日[相良城の請け取り
2006年12月4日[『甲子夜話』

このあと、相良城の取りこわしが始まった。
せっかくの城が一草もない平地にされた。

ちゅうすけに閃めいたのは、これである。

相良の3万石ほどの豊穣な地は、しばらく幕府直轄であったが、やがて、一橋家の10万石分のあてがい封地のうち、甲府で3万石と公称されていた痩せ地と交換されたのである。

一橋田安清水の三卿は幕府から一卿あたり10万石ずつあてがわれていたが、これは領地ではなくあがりだけが取り分であった。
だから城はなく、陣屋をおいて管理していた。
家臣も幕臣の派遣であった。

そう、城はなく――というより、あってはならないといったほうが正確であろう。

城があっては封地にできない――つまり、痩せ地を豊穣な地と交換(?)しようとおもったら、城は邪魔なだけなのである。

一橋治済はそこまで読み、意次憎しの一念の定信の耳に悪魔のささやきを入れたのではなかろうか。

もし、類推があたっているとすると、治済定信は、私利私怨のために日本の美――文化を破壊した非道の主ということになるが。

いや、証拠はいまのところ、ない。
徳川宗家あたりから、いつの日か、文書があらわれるのではなかろうか。

相良城が小さくはあるがどんなに美しい平城であったか、平岩弓枝さん『魚の棲む城』(毎日新聞社 のち文春文庫)からご想像いただこう。

参照】200719[平岩弓枝さん『魚の棲む城』] (
 

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2012.05.30

田沼主殿頭意次への追罰

この10数年、いくつかの成人学級で長谷川平蔵――鬼平を冠したクラスを5年から10年つづけ、単発のスピーチはたぶん100ヶ所を超えるほどこなした。

リスナーは当然、鬼平ファンであるが、小説の鬼平と史実の平蔵を混同していたので、そこをはっきりと区別するように――つまり、池波鬼平に副(そ)いながら、当時の江戸という大都市の町並み、人情、犯罪、さらには幕府の職制と習俗について解説した。

もっとも受講者が驚くのは、ちゅうすけ田沼意次は賄賂政治家ではなく、商業資本化していた経済構造にしたがい、日本の税制を農に商を組みこんだ先見性の高い幕閣であったと説明した瞬間であった。

もちろん、ちゅうすけは経済や税制の専門家ではないが、田沼に対して行った松平定信(さだのぶ))のあまりにも幼稚で偏狭な処置にいきどおりさえ覚えているため、つい、いいすぎとみられることもあった。

賄賂政治家説は、定信派が自分たちを良と思わせるるために、田沼を対極の悪の権化のように――日本3大悪人の 一人と当時の人びとに思いこませるように工作していた気味がある。

(余談だが、この国のいまの政府・与党のやり方にもそれは使われている。たとえば、小沢氏に対する金権政治家といった印象を貼りつけるためのマスコミ操作。あるいは原発をめぐっての世論操作など)

謀略で政権を手にした定信が、ご三家、一橋治済(はるさだ)と組んで、天明7年(1787)10月からおこなった相良城の取りこわしと田沼の封地の2万7000石の追徴召し上げも、政権交代の反動にしては酷すぎる。

家重(いえしげ)、家治(いえはる)が与えた5万7000石のうち、病気による辞表提出すぐの2万石没収、そして1ヶ月たらずおいての2万7000石追徴であった。
理由が、賄賂の悪習を煽り私服をこやしたというのである。
賄賂と贈与の境界づけはむつかしい。
こちらが要求していなければ贈与とみるぺきであろう。

とくに、幕府上層部のばあいはこの区別がはっきりしない。
というのは、封建的領主(藩主)とはいい条、幕府は絶対的権力をもって各藩に、藩外の築堤や修理などの巨額のご用を申しつけることができた。
各藩としては、幕府権力者へ1000両の贈与をしても、2万両のご用お手伝いを逃がれられれば、藩は1万9000両近く助かったことになる。

倫理感の問題ではなく、算術の引き算の問題であった。

もちろん、田沼がそれをやったというのではなく、幕府の制度からきている悪習であった。

そういった根本の問題はおいて、田沼から4万7000石をとりあげるなら、それに値するものを受けとったという証拠をあげて罰するべきである。
封地の4万7000石は、田沼個人のものではなく、300人からの藩士の生活の問題であった。

相良城の取りこわしにいたっては、まったく 田舎(でんでこ)芝居であったといえようか。
いや、もっと悪い。取りこわしを拝命した藩にとってはおもわぬ大金を浪費させられた。

参照】2007年11月27日[一橋治済

4年半前の上の文章を読んでいて、突然、相良城を徹底的に取りこわしたわけが閃いた。
そうか、それでは、跡形もなくこわさないとなるまい。

これまで、そのことに推理をおよぼした人は誰もいなかった。

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2012.05.29

筆頭与力・佐嶋忠介(5)

どういうはずみで話題が館(たち)の姓へおよんだのか、宴が終わってみるともうおもいだせないほど、どこかで{飛躍したのであろう。

火盗改メ・本役を勤めている先手・弓の1番手の筆頭与力・佐嶋忠介(ちゅうすけ 50歳)が、
「かつてお父ごからうけたまわったことがあったが、館うじの姓、〔たち〕と読むのは加賀あたりだけだそうですな」
「はい。会津や陸奥では〔たて〕と読んでいるようで、亡父から聴いておりますかぎりでは、加賀でだけが〔たち〕と……」
館 朔蔵(さくぞう 32歳)の応えに、奈々(なな 20歳)が口をはさんだ。

「紀州にも上館(かみだち)ゆう村がおます。なんでも昔むかし、高麗のほうから渡ってきいはった偉い人の屋敷があったよっての地名やいうことだす」

それまで筆頭同士の話ふりを興味ありげに聴いていた平蔵が割ってはいった。
佐嶋うじのご先祖はいずこですかな?」
「はい。相模の三崎(みさき)の佐島村です」
「すると、北条どのの……」
「軽輩だったようです」
「三浦郡(みうらこうり)の佐島村には〔山〕がついておらなかったように記憶しておるが……あのあたりは、たしか、江川太郎左衛門 たろざえもん)どの支配の官領地――」

火盗改メに任じられて1ヶ月も経っていないのに、伊豆の漁村の代官支配地までもう記憶してしまっていることに、佐嶋は内心おどろいていた。
(うちのお頭(かしら)とはひと味もふた味もちがうご仁のようだ)

「嶋と島の使いわけですが、〔山〕がついた嶋は山の国の不便な土地、〔山〕のつかない島は海とか湖にか決まれた本来の島と聴きおります。したがいまして、先祖は三浦岬の山中に住していたものと想像しております」

「そうかの? 宝の山と申すぞ。佐島村の中でも宝を生むもの――銀山か金山を所有なさっていたので、ご先祖が〔嶋〕の字をお使いになったのであろうよ」
「不肖の子孫で、お恥ずかしいかぎり」

「巷では、鬼も恐れる火盗は強者(つわもの)ぞろい、中でも猛(たけ)きは佐嶋忠介、弓の一番しょって立つ――と童たちまでが囃しておるそうな。これからも精をだし、ともに努めましょうぞ」
「こちらこそ、よしなにお導きを」

平蔵のような外れ者がどうして火盗改メ・助役(すけやく)に任じられたのかわからない――と、佐嶋忠介の上司である組頭の堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石)が洩らしていると耳にしていた佐嶋筆頭与力としては、いつ平蔵からそのことを切りだされるかとひやひやしていたが、その気配がまったくなかったばかりか、自分がもちあげられたので、安心して最後の盃を口へ運べた。 

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2012.05.28

筆頭与力・佐嶋忠介(4)

「ところで、佐嶋うじが使っている密偵は、豆岩ひとりではありますまい?」
平蔵(へいぞう 42歳)が左頬にえくぼをつくりながら訊いた。

「はい」
「いや、数はどうでもよろしいので。ただ、人数がふえると、その者たちの生計(たつき)のあてもしてやらないといけないが、その金の出どころは――? 幕府勘定方が面倒をみてくれるとはおもえないが……」

火盗改メの本役を務めている先手・弓の1番手の与力筆頭の佐嶋忠介(ちゅうすけ 50歳)が急所を衝(つ)かれたといった体(てい)で目をしばたき、ちょっといいよどんだが、肩で息をして応えた。
「さようですから、密偵としてえらぶのは、まず、自力の生活力があるかどうかです」

火盗改メから支給される報酬で暮らしがやっていけるはずはない――と、佐嶋与力も強調した。
また、密偵専業では世間の目がごまかせないし、疑惑がもたれれば盗賊のほうでも生かしてはおかない。
「ですから、いろんな職業に就ける才覚の持ち主であることが第一です。町内でふつうに生きていくためには人別も整っていないといけませぬ」

もちろん、人別は火盗改メがこしらえて持たせてやるのだが、とにかく、ふつうの人たちの中へ溶けこめる性格の男であること。

佐嶋の言葉に、平蔵は深く頷(うなず)き、香具師(やし)の元締衆と親しくしておいたことが、火盗改メの仕事に生きてくると自問し、自答をだした。
密偵の人別を、いちど香具師の世界で定着させてからふつうの町中へ移せば筋がとおりやすいと判断したのであった。

参照】2010年2月4日~[元締たちの思惑] () () () (
2010年11月26日~[川すじの元締衆] () () () 

いま、香具師の元締衆との網は、江戸の町々へはほとんどひろげてある。
東海道も、大井川の東西の三島・金谷まではどうにかつながった。

参照】2011年4月21日[〔宮前(みやまえ)〕の徳右衛門
2011年4月21日~[[化粧(けわい)読みうり]相模板] () ) () (
 
中山道も高崎城下までは伸びた。
日光道も宇都宮に点ができている。

これらは、意識してつくりあげたのではなく、その場に臨んで解決策としておもいついたにすぎない。

(あとは甲州路だな)
平蔵がそうおもったとき、佐嶋筆頭が意外なことを口にした。

「密偵たちの手当ては、盗賊に襲われそうな大店(おおだな)や富商から寄進してもらい、それらを働きに応じて分配させております」

(これまでの悪達者な岡っ引きのやり口に近い)
咄嗟に胸のうちでおもったが、平蔵は表にはださず、聞き流したふりをした。

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2012.05.27

筆頭与力・佐嶋忠介(3)

「いや、御厩河岸の舟着きの〔三文茶房〕の裏手、〔豆岩〕という呑み屋の亭主の岩五郎(いわごろう 30代前半)がことよ」
平蔵(へいぞう 42歳)はつとめてさりげなく話しているのだが、(たち) 朔蔵(さくぞう 32歳)は呆気(あっけ)にとられた表情で、佐嶋忠介(ちゅうすけ 50歳)は細おもてを硬くして、つづく言葉を待つ。

朔蔵平蔵の配下で、先手・弓の2番手の筆頭与力、佐嶋忠介も同じ肩書きながら、こちらは弓の1番手であった。

長谷川家の家士の松造(よしぞう 36歳)だけは、にやにや顔で料理をつついていた。

平蔵は目で奈々(なな 20歳)に座をはずすようにうながし、姿が消えてから、あそこの茶店と岩五郎・お(かつ 39歳)の商い店を火盗改メが使うように幕府へかけあったのは亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)だと打ち明けた。

肩の力を抜いた佐嶋与力が、
「〔三文茶房〕のほうもそうだったとは知りませなんだ」

参照】2009年6月20日~[〔銀波楼〕の今助] () () () () (
2009年6月21日~[〔神崎(かんざき)〕の伊之松] () () () (
2009年6月25日~[〔般若(はんにゃ)〕の捨吉] (1) (2

「その〔豆岩〕のすぐ前の〔三文茶房〕のおんな主人のお(くめ 46歳)の亭主どのが、ここで鰹(かつお)の刺身をつまんでいる烏山松造でね……」
「これはまったく、異なご縁で……」
「だから、岩五郎のことは、筒抜け」
「恐れいりました」
佐嶋筆頭与力が鬢(びん)をかき、 与力は初めてお頭(かしら)の別の顔を見たように目を見はった。

「せっかくだから、佐嶋うじから密偵のあつかい方をご伝授いただけるのを楽しみにしていたのだが……」
佐嶋が座りなおし、
長谷川さまに手前ごときが申しあげることは今さらございませんが、あの者たちはかつての仲間からイヌとさげすまれております。そうではない、世のため人のために尽くしているのだと、自信を支えてやることが第一だとおもいます」
「自信を支えてやること―― 筆頭。しかと腹にいれて、配下の者にいいきかせるように」
「はっ」

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2012.05.26

筆頭与力・佐嶋忠介(2)

「お言葉に甘えるのも目上の方への礼儀のうちと割り切り、参上させていただきました」
低い声での口上もさわやかに、細身でしなやかに動く躰で、しつらえてある席に、佐嶋忠介(ちゅうすけ)がこだわることなく着いた。

(50歳にとどいたばっかりと聴いてたけど、5つは若う見えはる)
20 歳(はたち)の奈々(なな)の目にも、所作がさわやかであった。

「なんの。お請(う)けいただき幸甚」
2度目の対面とおもえないほど、平蔵(へいぞう 42歳)もくつろいだ口調で応じていた。

初回の面合わせは、平蔵が火盗改メ・助役(すけやく)を発令されて真っ先に、本役の堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石)の役宅の小川町(おがわまち)裏猿楽町を訪(おとな)うたときであった。

忠介 本役の傍らにいたが、頭をさげるだけでほとんど口をきかなかった。

風邪ぎみで気分がすぐれなかったのであろう、平蔵が、
「よろしくお引きまわしを……」
儀礼的にいうと、秀隆は大きなくしゃみを洩らしてから、
「いやいや。お父ごの時にご経験であろうから、おもいどおりにおやりになされ」
なにか含むところでもあるような受けの言葉を吐いた。

(いちいち、父上を引きあいにだされると、負担ではある)

今夕の会見は、 本役のそのときの失言じみた言葉の謝罪をしておきたいとの佐嶋筆頭の申し出があって、もたれた。

平蔵側が、(たち) 朔蔵(さくぞう 32歳)が家格にしたがい、筆頭与力の職に就いた報告をかねた挨拶と今後の交流を頼み、ついでに松造(よしぞう 36歳)を引きあわせた。

終わったところで、佐嶋に酌をすすめた奈々を、
「ついでの紹介の形になってしまったが……」
断って、〔季四〕が前の老中・田沼相良侯のご縁の女将と、さりげなく披露目(ひろめ)ておいた。

受けた盃にちょっと口をつけただけで膳へ戻し、
「あの節、頭(かしら)は運悪く、時風邪(ときかぜ)のさかりでして、真意は、行人坂の火付け犯をお召し捕りになった備中守どののご嫡子のこと、わが組にもその至芸のほどをご教示いただきたい――と申すつもりのところ、くしゃみで言葉をとりちがえたようです」
まず、佐嶋筆頭が謝罪した。

平蔵は顔の前で掌をふり、
奈々女将どの。佐嶋筆頭どのは、非番の日には1升ではすまぬと聴いておる。もっと大きい盃に替えて進(しん)ぜよ」
これで、こだわりがすっかり流れた。

佐嶋筆頭が新米 筆頭に酌をし、
「先代の筆頭(伊織(いおり 享年60歳)どのとは、持ちつ持たれつの永いおつきあいをいただきました。お酔いになると――浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ。われらが飯の種も、ゆえに尽きまじ――がお口ぐせでありましたな」
笑うと、大きく張りでている喉ぼとけがはげしく上下し、奈々に性的なものを感じさせた。

「――飯の種も、ゆえに尽きまじ――とは、できすぎにしても、弓の2番手組の真の役目をよくあらわしておりますな。ところで、佐嶋うじの密偵使いの秘訣は?」
平蔵の突然の問いかけに、佐嶋筆頭の盃を持った手が、一瞬、はっと止まった。

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2012.05.25

筆頭与力・佐嶋忠介

「ほう。本役のどののところの筆頭与力・佐嶋忠介(ちゅうすけ 50歳)うじからの使者とな……」
同心・吉川晋助(しんすけ 29歳)がとりついだ書簡にざっと目をとおすなり平蔵(へいぞう 42歳)が、
「使者は、どこに?」
「門番部屋でお返事を待っております」

「すぐに認(したた)めるゆえ、そちたちの溜まりへ案内し、みなでお相手しながら、暫時、待ってもらえ……」
書院へ消え、小半時(30分)もしないうちに返書を吉川同心に預けた。

返書には、明日の七ッ半(午後5時)に、深川・冬木町寺裏の茶寮〔季四〕でお待ちしているとの文面と、佐嶋筆頭がつめている先手・弓の一番手の役宅――小川町裏猿楽町の堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石)の屋敷から茶寮までの道筋図がさらさらと要領よく描かれていた。
亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)ゆずりの画才であった。

ちゅうすけ注】佐嶋忠介の年齢が明記されているのは52歳にしては若々しく見える ――とある[浅草・御厩河岸]p142 新装版p153。 この篇はじつは 『鬼平犯科帳』シリーズが始まる1ヶ月前――1967年12月号の『オール読物』に掲載されたのち、シリーズの一篇として編入された。時代背景は平蔵が本役になってすぐだから寛政元年(1789)と推定できる。
しかし、当ブログの今日の舞台は、平蔵が火盗改メの助役(すけやく)になったばかりの天明7年(1787)の晩秋の物語である。


翌日。
夕暮れの気配がすでに立ちこめている七ッ半、平蔵の姿は深川・冬木町の茶寮〔季四〕にあった。

火盗改メへの昇進廻りにかまけていたので、平蔵にとっては久しぶりの〔季四〕の座敷、若女将・奈々(なな )にしてみれば袴の上から前をまさぐりたいほど待ちどおしいおもいに耐えていた1ヶ月近い空白の日々といえた。

ほかの客室の準備の気くばりをしながらそのあい間あい間に平蔵の顔を見にやってきては、供の与力・館(たち) 朔蔵(さくぞう 37歳)の目を気にしながら、とるにたらない言葉をささやいては出ていった。

松造(よしぞう 36歳)が気をきかせ、
さま。あたりの風景を見ながら、亀久橋まで出迎えにまいりませんか?」
誘いをかけるのだが、朔蔵は気がまわらないで、窓から掘割に映ってはゆれる木立ちの影をおもしろそうに眺めて生返事をかえしていた。
子どものときから目白台地の組屋敷で育った朔蔵にしてみれば、堀が縦横に走っている深川の風景はたしかにもの珍らしかったであろう。

そういう意味では、牛込・市ヶ谷台地の俗称二十騎町と、いかにも寄騎(よりき 与力)の組み屋敷をしのばせる区画で生まれた佐嶋忠介にも雅趣に富んでに見えるであろうと、松造はいまさらながら平蔵の気くばりの厚さに感銘をうけた。

参照】2020年4月10日[ちゅうすけのひとり言] (94

そうこうしているうちに、佐嶋忠介があらわれ、
「あたり一帯に、潮(しお)と水の匂いと肌ざわりが満ちみちておりますな」
 

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2012.05.24

平蔵、捕盗のこと命ぜらる(4)

「お頭(かしら)。お早うございます」
筆頭与力の脇屋清助(きよよし 59歳)が書院へあいさつに来、そのまま役宅用の別棟へ下がった。

時刻は4ッ(午前10時)に近かった。
今日が三度目の遅刻であった。

平蔵はすぐに脇屋筆頭の供の小者を呼びにやり、縁側の踏み石にひかえるとやさしげな音調で、
「今日は、どこで気づいたかの?」
「平河口ご門でございました」
「ふむ」

火盗改メ・助役の任に就いてから15日ほどたち、平蔵が手ずから庭の一隅に植えた梅擬(うめもどき)が紅い小さな実をつけていた。

脇屋清助の様子がおかしいと気づいたのは、7日前であった。
先手組としての出仕・警備場所である江戸城内の五門のひとつ――坂下門へ入って行こうとしてとがめれた。

火盗改メの与力の詰所は、お頭の屋敷――つまり役宅である。

平蔵はすぐに、安っさんこと、医学館の教頭・多岐安長元簡(もとやす 33歳)の意見を徴した。
「老朦のはじまりだな。大事にいたらぬ前に隠居させなさい」

脇屋清助とのつきあいのはじまりは、ずいぶんとふるい。
平蔵が28歳、45歳の脇屋は、いまの先手・2番手組の筆頭与力並であった。

参照】20091211[赤井越前守忠晶(ただあきら)] (

老朦とは、いまの認知症に近く、明哲・敏腕でもとりつかれる。

平蔵
は、ひそかに筆頭与力並で次席と呼ばれている(たち) 朔蔵(さくぞう 32歳)と最古参の高瀬丹蔵(たんぞう 51歳)と合議、朔蔵を筆頭、高瀬を次席にあげ、脇屋に引退をすすめる手はずにしていた。

いいだせずにいたのは、脇屋の家庭の事情があったからだ。
すなわち、脇屋夫婦には2人のむすめがい、両方とも嫁(とつ)いでいた。
養子の男の子はまだ12歳で見習いにあがれる年齢ではなかったが、そこをなんとかして与力の扶持の半分でももらえる算段をしていたところであった。

しかし、猶予はできなかった。

高瀬の次男・友三郎(ともさぶろう 16歳)を脇屋家に養子として入れ、与力見習いとして出仕させ、見習い手当てを支給する。
3年後、元からの養子の子が16歳になったら友三郎と入れ替わる。

友三郎のその後の身のふり方についてはわれが責任をもつ」
平蔵が提案した。

先手組の与力・同心は旗本の身分ではないから初見もなく、表向きは一代かぎりの勤め・再雇用という形式をとっている盲点を利用した救済策であった。

同時に、組の若返りも狙っていた。
55歳をすぎている与力はいなかったが、同心には3人いたので、半年以内に息子を家督させるように手くばりをはじめた。

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2012.05.23

平蔵、捕盗のこと命ぜらる(3)

(先手組の頭(かしら)になったからには、父上のように火盗改メを経験するのも悪くはない)
拝命したとき、平蔵(へいぞう 42歳)はそうおもった。

一門の中で、平蔵以前に火盗改メの職についたのは、本家の大伯父・太郎兵衛正直(まさなお 69歳 1450石)と、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)だけであった。

太郎兵衛正直は45歳のときだし、亡父の宣雄は家督がおそかったこともあるが47歳だから、2人にくらべると、平蔵の42歳は、親類中が喝采してくれたほどに速いといえた。

想定していなかった職席というわけでもなかったから喜べはいいのに、すなおに乗れなかった。
というのは、田沼主殿頭意次(おきつぐ 69歳 相良藩主 3万7000石)の追罰の噂さと、兄同然の佐野豊前守政親(まさちか 57歳 1100石)の大坂西町奉行解任、寄合入りのことがこころのどっかにひっかかっており、時をかまわずちくちくと刺すからであった。

一連の処置は、ご三家と一橋民部卿治済(はるさだ 36歳)の策謀により、老中首座という念願の権力の座を手に入れた松平越中守定信(さだのぶ 30歳 白河藩主 11万石)らの報復としか思えなかった。

いや、意次定信の不利になることを何かしたという話ではない。
商人の銭によって世の中がまわっていくように時代が変わったのにあわせた政策をとったにすぎないのに、士道が墜ちただの、銭まみれになったのだのといいたてて、精神主義に戻そうと力みはじめたのである。

田沼に目をかけられていた平蔵であったから、己れへの火盗改メの役職の振りは、裏に別の魂胆があるように思案しているのであった。

しかし、そんなことをさぐってみても、
長谷川家は両番(小姓組番と書院番)の家柄なのだから、先手組頭は相当の役席だし、番方の先手組なら火盗改メの加役は必然――というか、むしろ名誉職だし、そこで手柄をたてれば役方(行政官)への道もひらけるというもの……」
盟友の浅野大学長貞(ながさだ 41歳 小姓組番士 500石)が、祝賀の宴で慰めてくれた。
「うん、うん」
生返事はしたものの、平蔵のこころは釈然とはしていなかった。

「まあ、宿老(老中)などは、われらからみれば雲の上の仁だから、一生、じかに言葉をかけられることもないが、越中侯はまだ30歳というではないか。10年や15年は職iにいつづけよう。適当に忠義づらをみせておけばよい」
もう一人の盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 42歳 600俵 西丸・小姓組番士)は、齢とともにいよいよ、ありきたりの弁を弄(ろう)することが多くなっていた。

平蔵もまともにはとりあわない。
「重箱のすみをほじくるような性格といわれておる、10年保(も)つかな」

「保たなければ、それもよしとせい」
「長生きするよ、佐左(さざ)は……」
「寿齢(80歳)はまっとうしたい」
笑いになった。

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2012.05.22

平蔵、捕盗のこと命ぜらる(2)


もちろん火盗改メの発令は、とつぜん、天空から降ってくるわけではない。

まず、先手組の最長老、次老、三老に候補者の下問がある。
職務手当ては40扶持でるが、仮牢やら牢蕃の雇人代、火事場へ掲げる高張提灯やら捕り方に着せる番頭の家紋入りの羽織、入牢者への食事、帳簿類など、さらには与力・同心の出役(しゅつやく)の旅費まではとてもまかないきれない。
勝手向き(家政)に余裕がないとたちまち赤字、借財となる。

そこのところを3人の古参たちが勘案してあげた候補者たちのありようを、小人目付あたりが嗅いでまわる。
1人にしぼられたところで、月番の若年寄がうちうちに面接した上で、発令となる。

平蔵(へいぞう 42歳)に面接した若年寄は、井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)であった。

十分に顔見知りであったからほとんどを雑談ですごしたあと、思いだしたように、
「老中首座の越中守 定信 さだのぶ 陸奥・白河藩主 11万石)侯から、このたびは助役(すけやく)なれど、追って本役も勤められる人物を……と念をおされておる」
井伊少老は、片目をまばたかさせて申しわたした。

平伏して承った体(てい)をとりながら、
(あいかわらず、与板侯はお人がよい)
平蔵は腹の中で笑った。

そもそも、平蔵が今回の火盗改メ・助役(すけやく)候補にのぼったのは、先手・弓の2番手の組頭であった前田半右衛門玄昌(はるまさ 享年58歳=天明6 1900石)が去年の7月に病死したその後任の形らしかった。
玄昌は死の2ヶ月前まで、助役・増役などつごう3度目の勤めを任されており、その解役後はほぼ1年以上も助役が決まっていなかった。

将軍・家治(いえはる 享年50歳=天明6年)の病死、田沼意次(おきつぐ 68歳=同)の老中辞任とその一派の粛清の噂さ、定信(さだのぶ 29歳=同)の去就などで、火盗改メの助役の後任選びどころではなかったのであろうか。

前田玄昌が弓の7番手組頭から2番手の組頭へ転じてきた経緯(いきさつ)はすでに物語っている。

参照】2012年3月18日[平蔵、先手組頭に栄進] (

火盗改メの増役(ましやく)と助役をこなしてきていたのは、弓の7番手の組頭を勤めていたころであった。
そのことは、『徳川実紀』をひいて説明にかえる。

○天明三年(1783)三月十二日 近日火災しげきにより、先手頭・前田半右衛門玄昌に、昼夜府中を巡察し、諸邸の内にても、偸児の党類ひそみかくれば、追捕すべしと命ぜらる。

冬場の助役(すけやく)には、鉄砲(つつ)7番手の組頭・安部平吉信富(のぶため 54歳 1000石)が先任していた。

○同年五月七日 先手頭・安部平吉信富、前田半右衛門、玄昌盗賊考察をゆるされる。

○同年十月二十七日 先手頭前田半右衛門玄昌、火災多をもて、組子をひきひ、夜ひる街衢を巡進(じゅんしん 上に日がのる)して放火の賊を逮捕し、町奉行の庁に送るべしと命ぜらる。

上のは、冬場づとめの助役の発令であった。
本役は、1ヶ月前に発令されていた柴田三右衛門勝彭(かつよし 62歳=天明5年 500石)。

○天明四年(1984)四月十六日 先手頭・柴田三右衛門勝彭、前田半右衛門玄昌ともに盗賊考察をゆるさる。

このときは増役だったらしい。

○天明六年一月二十三日 このほど火災しげければ、先手頭・前田半右衛門玄昌に昼夜府内を巡り見て、放火の賊を捕ふべしと命ぜらる。

これも助役で、本役は堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳=天明6 1500石)が昨年から勤めていたが、年末に弓の7番手の組頭から本役をもったまま1番手へ組替えさわぎがあったりして、助役の督促を忘れていたのかもしれない。

参照】2012210~[火盗改メ本役・堀 帯刀秀隆の組替え] () () (

○同年五月三日 先手頭・前田半右衛門玄昌、盗賊考察をゆるさる。 

最終記録――玄昌への解任辞令から、平蔵への天明7年9月19日の火盗改メ・助役の申しわたしまで、さきに記したとおり、助役は空席になったままであった。

繁文縟礼(はんぶんじょくれい)には気のよくまわる幕府官僚としては、ちょっと信じがたいような手ぬかりにもみえる。

ついでながら、前田半右衛門玄昌の家系は、岐阜の斉藤家の家臣から信長を経て豊臣家五奉行の一人であった前田玄以(げんい)の流れ。


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(前田半右衛門玄昌の個人譜)


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2012.05.21

平蔵、捕盗のこと命ぜらる

以下の( )の中行は、飛ばしていただいて結構。

(食物・飲み物につづき、呼吸も困難になるというので、2月の今日――21日、喉を切開し、カニューレ(呼吸バイパス))を埋めた。これで4月21日までのはずであった余命はあと3ヶ月保つやもしれない。栄養の補給は24時間の点滴だから、筋力は徐々に下降している。痛みどめの薬財の精神への影響もある――パソコンに対しえるのはあと1ヶ月か1ヶ月半とみておこう。それまでに、おまさの救出ができれば幸いなのだが……)


天明7年(1787)6月19日の『続徳川実紀』――

○十九日 松平越中守定信(さだのぶ 30歳 白河藩主 11万石)、加判の列・上座命ぜられ、侍従に任ぜらる。よて此事、布衣以上話合の輩(やから)へ水野出羽守忠友(ただとも 53歳 沼津藩主 3万石  老中)をして伝へらる。

一橋民部卿治済(はるさだ 37歳)とご三家の尾張大納言宗睦(むねちか 55歳)、紀伊中納言治貞(はるさだ 60歳)、水戸宰相治保(はるもり 36歳)による工作が功を奏した結果の発令であった。

幕臣たちに告げさせられた水野忠友は、13年前に田沼意次(おきつぐ)の四男・金弥(きんや)を次女の婿に迎えて嫡男にすえていたが、意次の失脚の10日後には解縁していたほど変わり身をあざやかに演じていた。

水野老職とともに田沼派であったお側申次の横田筑後守準松(のりとし 54歳 9500石)が役を免ぜられ、菊の間縁詰となり、田沼派の最後の抵抗線がくずされてからまる1ヶ月目であった。

さらに1ヶ月ほどのちに、定信の盟友・本多弾正少弼忠籌(ただかず 49歳 泉藩主 1万5000石)が若年寄となり、定信の脇を固めた。

そうした中での9月19日の『続実記』――

○十九日 先手筒頭、長谷川平蔵宣以、捕盗の事命ぜらる。

晩秋から初春へかけての半年の火盗改メの助役(すけやく)である。

本役は、天明5年(1785)11月15日から任に就いている堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石)で、昨年から弓の1番手へ組替えしていた。

とりあえず半年のあいだであれ、弓の1番手と2番手が火盗改メに任につくことに異をとなえる先手の組頭もいたが、平蔵は老中首座の声がかりらしいとの風評がどからともなく伝わると、声は消えた。

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2012.05.20

平蔵と佐野与三郎政親(2)

くどいようだが、佐野豊前守政親(まさちか 56歳=天明7年 1100石 元・大坂西町奉行)は、平蔵(へいぞう 42歳)の少青年時代――銕三郎に強い影響をおよぼした実在の人物として、ちゅうすけが肩入れしている一人である。

このブログで鬼平を、ともに造形している鬼平ファンには、できるかぎり佐野政親にいっしょに深入りしていただきたいのである。

父を早くに失った与次郎(よじろう 与八郎の幼名)は祖父に育てられ、11歳でその遺跡を継いだ。
そのあたりのことは考察の結果をきのうのコンテンツにすでにあちこちへリンクしている。

きょう、探索してみたいのは、藤田 覚さん『田沼意次』( ミネルヴァ書房)に書かれている、奥医・河野仙寿院通頼(みちより 74歳 500石)とのかかわりかたの深さである。


佐野豊前守政親の正妻が、幕臣・河野豊前守通喬(ちみたか 享年64歳=宝暦6 1000石)の八男七女の末むすめであることもかつて記した。

参照】2010年9月20日~[佐野与八郎の内室] () () () () (

母親の実家(さと)の縁で豊前守の嫡子・政敷(まさのぶ)は、河野一門奥医師・仙寿院法眼の三男四女の末女を嫁(めと)っている。

この嫁が、仙寿院法眼の正妻――幕臣・河野豊前守通喬( ちみたか 享年64歳=宝暦6 1000石)の八男七女の五女――が産んだという史料はないとしても、家譜の上では母娘であり、父が法眼であることにかわりはない。

――が。

佐野政敷に嫁(とつ)いだ河野仙寿院法眼のむすめは、一女二男をもうけたあたりで永世したらしい。

夫・与八郎政敷がいくつのときか不詳である。
実母の実家は、幕臣・河野豊前守通喬(みちたか 享年64歳=宝暦6 1000石)の八男七女で末むすめ。
たぶん、次男の産後あたりに他界したように察しているが、香華寺の一つである赤坂の道教寺(港区赤坂7丁目4)は確認していない。

いや、道教寺も不確かな情報である。
佐野家の家譜には、政親の祖父が葬られているのは、雑司ヶ谷の大行寺と記されている。
同家の『寛政譜』 に記録されている葬地は、道教寺と大行寺の2寺だけであるが、大行寺が現存しているかどうかはわからない。

河野一門はそのむかし、四国の豪族であったが、まさか、政親の最初の内室の実家が河野氏だから、四国に葬られたとはとうていおもえない。

そのことは、ま、ともかくとして天明のころにはまだ未初見の身分であった政敷への、河野家からの内室はすでに亡いのに、その亡妻の実家との交流がどの程度維持されていたろう、継室の手前もあろう、想像しかねる。

備前守政親の大坂東町奉行解任は、藤田 覚さんのみるとおり、田沼政権による大坂の富商への御用金算段の交渉を担当させられていたことが定信政権の忌避にふれたのであろう。
大坂の豪商からの定信への働きかけも想像できる。

続徳川実紀』の天明7年10月6日の文面の息づかいは、尋常ではない。

○ 十月六日 大坂町奉行・佐豊前守政親、職務御免ありて寄合とせられる。

大坂の富商、両替商たちの新幕閣への手回しの速さとみるか、『続実紀』編纂者への工作の手厚さと読むか。

参照】2009年7月11日[佐野与八郎政親
2010年2月8日[火盗改メ・庄田小左衛門安久

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2012.05.19

平蔵と佐野与三郎政親(1)

平蔵(へいぞう)―― というより銕三郎(てつさぶろう 28歳までの幼名)と佐野与八郎政親(まさちか 45歳で備後守を授爵、のち豊前守  1100石)、それに田沼意次(おきつぐ 相良藩主)とのあいだがらについては、これまでに何度もふれてきている。

銕三郎佐野与八郎のつながりには、元老中・本多伯耆守忠珍(まさよし 駿河・田中藩元藩主 4万石)がからんでいた。
藤枝の田中城の城主が長谷川家の先祖で、三方ヶ原で戦死した紀伊(きの)守正長(まさなが 37歳)であったという因縁で、宣雄(のぶお 享年55歳)が近づきになった。
もちろん、これには宣雄と同じ時期に先手の組頭をしていた本多一門の采女紀品(のりただ 2000石)の仲だちがあった。

老中職であった本多忠珍を隠居に追いこんだのが、当時側衆をつとめていた田沼主殿頭意次で、本多侯の中屋敷で紀品宣雄政親銕三郎と面識し、木挽町(こびきちょう)の中屋敷にも顔をみせるように誘ったという次第。

史実にのこっている平蔵佐野与八郎政親のつながりは、天明7年(1787)の大坂、江戸、駿府、甲府などの打ちこわしから3年後の、寛政2年(1790)11月に政親が火盗改メ・助役(すけやく)に任じられたときかぎりである。

しかし、宣雄宣以(のぶため)父子と、佐野政親の家譜をつきあわせていくと、これまで記したような密接なかかわりが読みとれた。

参照】2007年6月3日[田中城の攻防] (
2007年6月4日~[佐野与八郎政信] () (
2007年6月5日[佐野与八郎(政親)]
2007年6月8日[佐野大学為成] 
2008年11月7日~[西丸目付・佐野与八郎政親] () () (

もっとも、ちゅうすけが佐野豊前守政親平蔵との永いつきあいに気がついたのは、それほど古いことではない。
(もともと、『鬼平犯科帳』を読み始めたのは20年ほど前のことで、専用ワープロによってデータを集めることに興味がわいたからであった)

集めていたデータが『夕刊フジ』のIT担当のS記者の目にとまり、連載がはじまった。
その連載の1枠の[尊敬しあえる徳をもつ]という項に、以下のような記事を書いた。
いまからおもうと冷や汗1斗のコンテンツであった。

参照】2010年9月20日~[佐野与八郎の内室] () (

体調がすぐれず、キーを打つ意欲が高まらないので、高揚していた時期の過去記事のクリックを多くしてしまった。
ぜひ、クリックし、『鬼平犯科帳』には登場していない史実の人物とのからみで、未完了に終わった『犯科帳』の埋め合わせの一助としていただきたい。

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2012.05.18

鎮圧出動令の解除の怪

またしても、些細なトリビアリズムに当面してしまった。

学問的な事項ではないし、幕府行政の習俗といったほとのことでもない。

しかし、長谷川平蔵や天明7年(1787)の江戸・打ちこわしについての後続の史跡研究者の参考のためにメモをのこしておくつもりで書いておく。

江戸市中の打ちこわしは、天明7年5月20日の夕刻からはじまった。

当初幕府の上層部は、町奉行所と火盗改メの本役・先手の弓の7番手――堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石)の組だけで片がつくと軽くかんがえていたらしいが、とんでもなかった。

23日に、先手組の中でも組頭(くみがしら)が若い組に市中巡回、鎮圧捕縛の命令をだしたことは、これまでの経緯で述べた。

騒擾(そうじょう)のようすは『続徳川実紀 第1巻』の31~33ページにかなりくわしく叙述されているから、大要はのみこめよう。

暴動は24日にはいちおう収束したが、先手10組に巡回解除の通達がでたのはほぼ1ヶ月後の6月18日で、それも、『続実記』によると、奇妙な形であった。


十八日 西城・先手筒頭 奥村忠太郎正明へ、去りしころ市井物騒がしきにより、同僚十人市中巡り命ぜられしが、このほど静謐(せいひつ)に及びしによりその事御免のむね、同僚残りの面々へも申つたふべきよし、(老中)牧野越中守貞長(さだなが 57歳 笠間藩主 8万石)申伝ふ。

先手組はふつうは、若年寄の配下にある。
しかし、江戸の騒擾――天下の一大事ということで老中のあつかいに移されたのかもしれない。

向後、この天明の打ちこわしに論がおよぶときは、先手10組を統率したのは月番の老中であったかもしれないとの意識で判断をしたほうがいいようにおもった。


それはそれとして、先手10組の鎮圧命令がくだったときは、弓組での先任ということで『続実記』は、「先手筒頭」と誤記はしたが、長谷川平蔵を冒頭に置いた。

奥村忠太郎は筒組8名の中にまとめられ、末尾から2番目であった。

参照】2012年5月8日[ちゅうすけのひとり言] (94

ところが解任時は、ほかの9人の組頭をさしおき、1人だけ呼ばれ、あとはそなたから伝えよ、というこであったらしい。

上の【参照】をクリックして検分していただくとわかるが、奥村組頭は年齢からいっても家禄からみても、10名の真ん中へんの人物である。

なにごとにも先例、格式、礼法を重んじる幕府のこと、もしかしたら先任順かとおもいつき、【参照】から並べなしてみた。

 
筒7安部平吉信富(安永5年(1776)5月10日ヨリ)
筒6柴田三右衛門勝彭(天明元年(1781)11月12日ヨリ)
筒19安藤又兵衛正長(天明2年(1782)12月12日ヨリ)
筒17小野次郎右衛門忠喜(天明3年(1783)8月14日ヨリ)
筒2武藤庄兵衛安徴(天明4年(1784)10月28日ヨリ)
筒16河野三右衛門通哲(天明5年(1785)11月15日ヨリ)
弓2長谷川平蔵宣以(天明6(1786)年7月26日ヨリ)

西 奥村忠太郎正明(天明6年(1986)閏10月8日ヨリ)

弓6松平庄右衛門穏先(天明6年(1786)11月15日ヨリ)
筒9鈴木弾正少弼政賀(天明7年(1787)正月11日ヨリ)

奥村忠太郎がほかの9人の組頭と異なるところをしいて探すと、家柄が70年ほど以前に吉宗(よしむね)にしたがって江戸城入りした紀州勢ということぐらいであろうか。

もうすこしうがった解釈は、弓の先任、田沼派に近いという偏見で平蔵がはずされ、それなら4組しかいない西丸の先手からただ一人選抜された組頭であれば、このあとも妬みをかうまいと……まさか。


万策尽きた……とはこのような事態のときに使うのであろう。

この事態の解釈案をおもいつかれたら、コメント欄にご提案いただきたい。

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2012.05.17

江戸・打ちこわしの影響(5)

全国的な市中・打ちこわしの発端となった大坂の騒擾の間接的な要因は、前年の将軍・家治(いえはる)の死にもあるらしい。

病気の前に、都中央図書館で『新修大坂市史 第4巻』(大阪市 1990)を確認しておいた。
しかし、地下鉄の広尾駅から都中央図書館へのなだらかな坂道が退院後は無理とおもえた。

都中央図書館から住まいに近い区の図書館経由で借り出しを申請をすると、本によっては館内閲覧に限定されることがある。
そうなったら病躯にちょっと無理をさせ、区の図書館でコピーをとるより仕方がないかと覚悟していたが、なんと、世田谷区の中央図書館から都合がつき、病室でじっくり読むことができたのである。

自宅まで借りだせれば、範囲ページを指定し、家人に拡大コピーをたのめる。
(加齢とともに老眼もすすみ、見開きA4のページをA3に拡大して手元に置くようにしている)

天明4年の大坂の打ちこわしのことはすでに紹介している。
このころは病気発見の前で、都中央図書館へよくかよっていた。
(電車賃が大変だった、なにせ、無料閲覧のブログなんだもの)

参照】2012年1月14日~[庭番・倉地政之助の存念] () () () (

さて、大坂の天明6年(1786)の状況だが、天候不順で収穫は全国平均、例年の3分の1しかなく、翌7年の正月には米価は3倍に高騰していたが、買占め・売り惜しみを奉行所へうったえると、例によって米商人に買占め・買いだめの遠慮の布告をだしただけで、町人がわには「粥をすすれ」との返事であったという。
(このあたりは、いくらなんでも幕府役人のセリフとは信じかねる)


こんな矢先の(天明)七年正月四日、江戸表から大坂へ一万石の回米令が達せられた。しかもこれは当年四月に予定されている徳川家斉の新将軍宣下の儀式のときに入用に備えるものというのである。これを聞いた町民は平成でありえず、当然いろいろ不穏に噂が乱れ飛んだ。これに対して奉行所では、一万石くらい別段たいした量ではないから、これが米価の値上がりの原因になるはずがない。それにもかかわらず、これを理由に値段をつり上げようと浮説を流したり買い占めをしたりするのは不届き至極であると、高圧的な言い分で町民の不満を押さえ込もうした。町奉行あたりには飢えに苦しむ貧しい町民の気持ちは全くわからなかったのであろう。(147ページ)


このときの大坂東西の町奉行を書きだしてみる。

西町奉行
佐野備後守政親(まさちか 57歳 1100石)
 天明元年5月26日 堺奉行ヨリ
 同 7年10月6日 寄合

東町奉行
小田切土佐守直年(なおとし 49歳 3000石)
 天明3年5月19日 駿府町奉行ヨリ
 寛政4年正月18日 (江戸)町奉行

並べてみると、どちらも「粥をすすれ」などと不遜な言辞を弄するような仁とはおもえない。
与力あたりが行きがかリでつい 吐いたか、町人のほうが聞き間違えたかともおもうが、触れ書に書き留められていたと記しているものものあるので、首をかしげている。

記録ではほかに、『北区誌』(大阪市北区役所 1955)にもこんな記事が記されている。


天明七年五月十一日夜は、天満伊勢町茶屋吉右衛門の居宅を襲って家作諸道具を破壊したのを発端として、翌十二日には市内各所に押買い・狼籍が起り、銭百文を出して二升、三升の米を押買し、もし応じないときは米穀を引出し、あるいは店舗を破壊するという有様であった。
木津勘助(万治三年十一月歿、年七十五才)の事蹟は必ずしも明らかでないが、当時不作で米の値は上り、貧民は粥もすすれぬという騒ぎがあり、貧民たちはまず堂島の米市場を襲い、ついで中之島の蔵屋敷にせまり、叫喚が高まった。
このとき福岡藩筑前屋敷の廂の上に両脚を踏むばって上ったのが木津勘助であった。両手を左右にひろげ、腹の底から絞り出した大音声で、
「勘助餅の勘助ぢゃァ、あとは安心せい、この首を獄門に懸けて引受 けたぞ。」
と叫んだので、これに勢をえた群衆は白昼に市中至るところの米倉を襲ったが、この罪科を負うて勘助は二カ月の間、獄にあって、三カ月目に死罪を行うべきところ、生涯の流罪として流されたのが木津の勘助島であった。


西町奉行・佐野豊前守がこの年の10月に解職になったのを、藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴァ書房)は、騒擾(そうじょう)の責任をとらされたというより、むしろ、田沼派であったために粛清されと断じている。

参照】2010年9月24日[佐野与八郎の内室] (

たしかに、松平定信派による「田沼派干し」の気味はある。
大坂西町奉行まで勤めた人物を罷任するのは政争の末にはよくあることだろうが、その人物を3年後に1ランク下の先手・鉄砲(つつ)の組頭に就けさせるというのは、これみよがしの降格といえた。

あまりにも没義道な人事で、松平定信(さだのぶ)の人情を解さない狭隘な性格の発露とみる。

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2012.05.16

江戸・打ちこわしの影響(4)

7年半近く、1日も休まずにつづけてきたので、ちょっと休ませていただく。

4,5日前の当ブログで、打ちこわしの暴徒を指揮した若衆髷(まげ)の若者と坊主頭のことを7年前に『夕刊フジ』の連載で紹介したが、出典を忘れたと陳謝した。

参照】2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み

出典がわかった。
太田南畝(蜀山人)『一話一言』であった。
たしか『燕石十種 第1巻』(中央公論社)に収録されているはず。

じつは、昨日、そのことを思い出し、3.11で足の踏み場もないほどすごいことになっている書庫にさがしに入った。
探しているときには、相手はおんなのように隠れるものであろうか。
8冊そろっていたはずなのに、第1巻の姿が消えていた。

続燕石十種』(中央公論社)のほうは6冊そろって無事だったので、「長谷川平蔵殿」が書かれている四壁庵茂蔦『わすれのここり』を読み返すべく、病室へ移した。

参照】2009年11月30日~[おまさが消えた] () (

若衆髷は、このところずっと紹介している竹内 誠さん『寛政改革の研究』(吉川弘文館)にも引用されている。


騒動の最中に、ある噂が市中にひろまった。打ちこわしの先頭に、いつも前髪姿の若者が一人おり、獅子奮迅の活躍をしているという噂である。しかも若者は「美少年」であり、「太刀」で飛鳥のごとく飛びまわったという。「其の勢ひ中々人力にてはあるまじく、天狗の所為なるべし」と評判もっぱらであった。


まるで牛若丸と弁慶といったところだ。


一般に一人ひとりでは無力に民衆が、強大な権力に真正面から立ち向かうとき、その反抗のエネルギーを具現する象徴的な人物が必要であった。しばしばその人物に、超能力を有する美しい若者があてられた。民衆の集団行動を奮起高揚させるには、こうした稚児崇拝思想はおおいに役立った。( 『寛政改革の研究』)

竹内先生もたまには、現実から飛翔し、史実の幻影に夢を托してみたくもなろう。

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2012.05.15

江戸・打ちこわしの影響(3)

昨日、引用させていただいた竹内 誠さん『寛政改革の研究』(吉川弘文館)は、刊行日2009年7月10日.となっていて、ごく 最近の著のように見えるが、ご三家の会合の年月日の表が発表されたのは、同著「あとがき」によると、ほぼ40年前、国史の専門誌『史海』に「寛政改革の前提――天明の打ちこわしと関連して――」と題してであったと。

おおっ……とおもいつき、深井雅海さんの研究「天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割」が徳川黎明会の徳川林政研究所の『研究紀要』に掲載された号をあらためた。
昭和56年度(1981)――ほぼ、10年ほど後であった。

ということは、深井さんは竹内さんの研究に触発されて史料発掘と考察とすすめたともいえないこともない。

学問的にはまったく脈絡はないのだが、もうひとつ、おもいつき大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波書店)の刊行はと、奥付をあたった。
単行本は1991年、現代文庫は2001年であった。
(単行本と重ねて文庫も購入しているのは、書斎でちょっと調べたり旅先に携行したりするためである。それほど深く触発された。重ねて文庫も購っているのは、ほかには宮崎一定さん『論語の研究』ぐらいかな)

さて、本旨にもどり――

寛政改革の研究』で竹内 誠さんは、これは「水戸家の記録を分析した菊池謙三郎氏の実証的業績(「松平定信入閣事情」(『史学雑誌』)26編1号)だがとことわって、田沼意次の老中解任から松平定信の老中就任までの10ヶ月間の幕府内部の動きを日づけ順に展開している。

天明6年(1786)
 8月27日  田沼意次、老中解任さる。
 10月24日 一橋治済、水戸治保宛書簡にて、実直にして才力のある者を老中に推薦したき意を表す。
 閏10月6日 一橋治済、尾張宗睦・水戸治保宛書簡にて、松平定信を老中に推薦す。
 12月15日 御三家より大老井伊直幸らに対し、定信老中推薦の意見書を提出す。

天明7年(1787)
 2月朔日 大奥老女大崎、江戸尾張邸訪問の節、内々に定信老中の件、拒絶の趣を伝う。
 2月28日 御三家登場の節、老中より正式に定信老中の件、拒絶の回答あり。

(5月20日~24日、江戸・打ちこわし
 5月24日 御側申次本郷泰行、解任さる。
 5月29日 御側申次横田準松、解任さる。
 6月9日  大奥老女大崎、尾張宗睦宛書簡にて、定信の老中就任承諾の趣を内報す。
 6月19日 定信、老中就任す。寛政改革始まる。


さらにつづけて補うと、
 7月17日 本多忠籌、御側となる。
 9月1日 井伊直幸、大老解任さる。

天明8年(1788)
 3月28日 水野忠友、老中解任さる。
 4月3日 松平康福、老中解任さる。
 4月4日 松平信明、老中就任す。


天明7年5月の江戸・打ちこわしの最終日に御側取次・本郷大和守泰行(やすあき 43歳 2000石)が、同月29日に横田筑後守準松(のりよし 53歳 9500石)が罷免されたことで、田沼派の敗色が決定的となった。

この対戦を譜代派と新興派、農本派と商業派の政治的覇権争いとみる見方以上に、賄賂政治の敗北という倫理感の勝敗とする説も少なくはないし、それはそれで正論であろうが、その裏側には一橋治済(はるさだ 38歳)のどす黒く異常な権力欲の術策にのせられた喜劇とみては冷静さを欠いていようか。


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2012.05.14

江戸・打ちこわしの影響(2)

長谷川平蔵(へいぞう 42歳)という幕臣を、天明6年(1786)から同7年に置き、空想してみている。

この時期の、平蔵その人の業績の史料はほとんどない。
時代を連想させる脇役たちのものは、そこそこ公けになっているし、手元にも若干だがある。

将軍・家治(いえはる 天明6年8月25日薨ずる。享年50歳)
養子・家斉(いえなり 14歳=天明6年)

尾張大納言宗睦(むねちか 54歳=同上)
紀伊中中納言治貞(はるさだ 59歳=同上)
水戸宰相治保(はるもり 35歳=同上)

一橋家民部卿治済(はるさだ 37歳=同上)
田沼壱岐守意致(おきむね 48歳=同上 2000石 西丸側用取次)

参照】2012414~[将軍・家治(いえはる)、薨ず] () () () (

田沼主殿頭意次(おきつぐ 68歳=同上 相良藩主 老中)
松平周防守康福(やすよし 68歳=同上 浜田藩主 老中主席)
井伊掃部頭直幸(なおひで 58歳=同上 彦根藩主 大老)

横田筑後守準松(よりとし 53歳=同上 9500石 側用取次)
本郷大和守泰行(やすあき 43歳 2000石)
小笠原若狭守信喜(のぶよし 68歳=同上 7000石 西丸側用取次)

参照】2012 年3月4日~[小笠原若狭守信喜] () () () () () () () () () 

松平越中守定信(さだのぶ 29歳 白河藩主)

ここにあげた中の幾人かは、権力をめぐっての抗争にかかわっていた。
それを平蔵は、田沼派に与(く)みするようなかたちで公務をこなしながら、人生を横目でみて楽しんでいた。

竹内 誠さん『寛政改革の研究』(吉川弘文館)に目を通していて、61ページに掲げられているリストの意味するころのすごさに、双眸(ひとみ)がすいつけられた。

尾張藩の記録で、天明6年10月――すなわち、幕府が将軍・家治の死を公表してから5ヶ月間のご三家の当主たちの鳩首会談の頻度をしめしたもので、まあ、よくものこっていたと安堵するとともに、きっちり整理された精勤ぶりにも感心し、田沼派追い落としが着々と準備されていたことにも寒気をおぼえた。

_360


それぞれの藩邸に交互に寄りあっていた回数の多さも驚きだが、もっと注意をひいたのは、尾張家の祐筆の手になるとおぼしい記録、

「殿様(尾張侯)、水戸様、御退出より紀州様へ入られ、暮れ六時すぎ御帰」

当時、老中の江戸城退出は午後2時だから、三家はその前に城を出ていたろう。それから暮れ六ッすぎまで話しあいをつづけている。
おそらく、多人数におよぶ人事案まで話しあわなければ、3時間という時はつぶせまい。

三家といえば、将軍に次ぐほどの重要人物たちである。
それほどのキー・メンが時間をかけて人選しなければならないポストといえば、老中、側用人、所司代、大坂城代、三奉行あたりまでであろうか。

もちろん、話しあいの記録はほとんど表にでていないが、越権ごとともいえる話しあいがおこなわれていたことを田沼意次たちは気づいていたろうか。

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2012.05.13

江戸・打ちこわしの影響

ここ旬日、江戸始まって以来の不祥事といわれている市中うちこわしを、平蔵( へいぞう 42歳)がかかわったとおもわれる則面から記述した。

正面からとらえた詳細は、多くの史書に記録されているからである。

_150いまは終了してしまった静岡のSBS学苑〔鬼平クラス〕でともに学んできた一人――安池欣一さんから贈られたコピー、竹内 誠さんの労作『寛政改革の研究』(吉川弘文館 2009.07.10)に[寛政改革の前提]というブロックがもうけられ、

第一 改革の前提
      ――天明の打ちこわし――
 はじめに
 一 天明末年の政争
 二 政争前の法令検討
 三 将軍側近役の解任と江戸うちこわし
 おわりに

第二 天明の江戸打ちこわしの実態
 はじめに
 一 分析史料の紹介
 二 被逮捕者の分析
 三 打ちこわしの対象と動機
 四 打ちこわしの主体勢力
 五 江戸と近在農民との関係
 六 反権力・反田沼意識
 おわりに

ほとんど50ページ――このブロックの7割強があてられている。
労作全体からいうと11パーセントのページ数である。

打ちこわしは、都市で生活をしている下層住民の、米よこせ的な騒擾(そうじょう)であったが、それまでの江戸が経験したこともないほど大規模な騒ぎでもあった。

同著によると、その区域は府内4里(16km)四方、北は千住から南は品川まで、米穀店をはじめ油商、質屋などの富商が狙われた。

町奉行所が逮捕・吟味した「下書」から一例をひいて、深川六間堀町に店借りをしていた彦四郎(31歳 提灯張り渡世)は、近年の米価の暴騰で妻子を養いがたくなっていたが、20日の夜、同じ店借り人8人と、深川森下町の家持ちで米乾物類店・伝次郎宅へ押しかけ合力を強要したがうけいれられなかったので、建具家財を打ち壊したために翌日召し捕えられたと。

5月20日の事件というので、大坂からの指令とか事前の密議などがなかったか、調書を念いりに読んでみたがその気配はない。
共犯の7名は獄中で病死とあるが、はげしい拷問のすえの衰弱死とも想像できる。
それほどはげしく責めるられたら教唆者がいればその名を吐いていたかもしれない。

もう一例――。
三田3丁目に住んでいた清吉(39歳 人宿寄子)は、たまたま遠出をしていた湯島で打ちこわしの現場に出会い、おもしろそうなので加わり、逃げそこない不運にも捕縛された。
こういう偶然の参加者も少なくなく、捕り方がくると、ほとんどは一目散に逃げおうせた。

打ちこわしへの参加者は24組5000人にもおよんでいる。
5000人の参加者で刑をうけた者は42名、うち5名は逃走中で処刑はされてない。
また、同書のどこにも、反田沼の旗印をかかげた騒擾組はいない。

にもかかわらず、

「田沼意次政権から松平定信政権へという幕府内部の政権交替を促進し、かつ決定づけた点からして、単なる飢饉による米騒動=経済的平等化闘争として位置づけるのみでなく、客観的には、きわめて政治的色彩の濃い世直し的反封建権力闘争としてとらえる必要があろう」(72ページ)

いや、冷害や旱魃、虫害、洪水などの自然災害による飢饉、米価の高騰は、全部が政権の責任というものではない。
為政者が問われるのは、そうした自然異変による損害としもじもの痛みをどう軽減したかであろう。

打ちこわしという事態についてのちゅうすけの関心は、打ちこわしを権力闘争に巧みに利用した――というか、もしかしたらそれを仕かけたかもしれない者がいたかどうかにある。

要するに、史家たる才能が薄いのであろう。


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2012.05.12

天明7年5月の暴徒鎮圧(4)

ここまでおつきあいいただいた鬼平ファンの中には、あの若衆髷(まげ)の扇動者とその男を護衛している坊主頭はどうなったとお訊きになる向きもあろう。

参照】2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み

このエビソードは、じつは『夕刊フジ』の連載のために調べた。
架空の話ではない。
ところが、今回、あらためて調べなおそうとしたら、原典が見つからない。
3.11の地震で崩壊した書斎を修復もしないで、なんとかスペースをみつくろいパソコン机を置いていたが、それもそのままにして入院、手術。
あと、緩和ケアーをすすめやすくするために、家族の居住区に小さな仕事場兼病室をしつらえて移った。
史料を保管している書庫は元のところのままなので、手元には数少なくしか置いていない。

しかも、ちゅうすけ自身は病気の進行で体力が激衰し、このブログのコンテンツを5行書いては横手のベッドに寝ころんで息づかいが正常に回復するのを待ってはまたパソコンに向かう。

今回、弓の2番手と6番手が詰めた伝通院組の担当区割りの打ちこわしには姿をみせなかったということにしていただきい。


言い訳はこのくらいにして、打ちこわしが徳川幕閣に与えた影響について触れたい。

再度の依頼で恐縮だが、5年前、2007年8月31日の当ブログ[先手組に鎮圧出動指令]を再見していただけないだろうか。

このところ、騒擾(そうじょう)の経緯をめぐっていささか新記述を加えているので、5年近く前のコンテンツとドッキングしていただくと事態がはっきりしてこよう。

事態――そう、天明7年(1787)5月の江戸城内の気配である。

参照】、2007年8月31日[先手組に鎮圧出動指令

この風聞書が徳川宗家に保存されていたことから、御庭番に隠密を命令したのは、田沼意次とその派の横田筑後守準松、本郷大和守泰行らに距離を置いていたただひとりの側衆・小笠原若狭守信喜と推理している。(深井雅海「天明末年における将軍実父一橋治済の政治」)

家斉(いえなり 15歳)とともに本城へ移った用取次ぎ・小笠原若狭守信喜(のぶよし 69歳 7000石)については、入院中の3月にけっこう長く言及した。

参照】201234~[小笠原若狭守信喜] () () () () () () (

5年前に小笠原信喜に登場してもらったときには、天明の政変にこれほど大きな影響を及ぼした幕閣とは予想もしていなかった。

いまではすっかり手垢にまみれた「想定外」という言葉が、ちゅうすけにとってはこのご仁にぴったりといえる存在になっている。

田沼意次(おきつぐ 69歳)が不本意な依願免職の形で身を引いたこのとき、本城で田沼派の首領格として派閥をささえていた横田筑後守準松(のりとし 54歳 9500石)を、信喜が追い落としたのである。

江戸の打ちこわしの収束策の検討の場で、横田準松が少年将軍・家斉へ事態を正しく奏上していなかったと責め、免職をいいわたしたのであった。

これは、一橋治済の暗躍によりご三家の要望として、松平定信(さだのぶ 30歳 白河藩主 11万石)を老職にくわえるように老中会議へ送ったところ、徳川一族の者を幕閣にいれてはならぬという九代将軍・家重(いえしげ)の遺志に反するとの、家重の意向の拡大解釈を理由に拒否されていたのを粉砕す地雷となった。

小笠原信喜は、庭番による打ちこわしの風聞書も、打ちこわし頭取格の男が目安箱へ投げいれた意見書も横田準松へ何気ないふりで手わたしていたのであるから、その内容を家斉に告げなかったのは、たしかに責められてもしかたがない。

横田の失脚により、打ちこわしの約1 ヶ月たらずののちの6月19日に定信は宿願の老職となることができた。


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2012.05.11

天明7年5月の暴徒鎮圧(3)

騒擾(そうじょう)は5日目――5月24日の午前中に熄(や)んだ。

とはいえ、先手の10組が詰所を引きはらったのは、7日目の夕刻で、出し遅れた出動命令のぶざまを糊塗(こと)するかのように、平静にもどった町中を2日間、巡行しているのも、なんとなく滑稽であった。

組の指揮は6番手の組頭・松平庄右衛門親遂(ちかつぐ 60歳 930石)にまかせた平蔵(へいぞう 42歳)は、本城・控えの間で少老(若年寄)の一人・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 与板藩主 2万石)とひそかに対面していた。

直朗は、平蔵が暴徒の一隊の惣代・掛川藩浪人の吉田喜三郎(きさぶろう 30がらみ)とつなぎ(連絡)をつけ、そこから集団の惣代たちと頭取の談合にむすびついたことを手柄と認めてくれた。

「頭取やらとかの意見書は目安箱に入っておりましたか?」
「入っておったが、ご用取次の小笠原どのが封もきらずにお上へおとどけになった」
小笠原さま……_」
「そう、若狭守信喜 のぶよし 69歳 7000石)どのとすれば、大老・井伊掃部頭直幸(なおひで 59歳 彦根藩主)どのにとどけ、同僚先任の横田筑後守準松(のりよし 54歳 6000石)どのへ預けたらしい」

このとき、堺、淀、伏見、大津、駿府、甲府、奈良などの幕府直轄の地でも打ちこわしが起きている(竹内 誠『寛政改革の研究』(吉川弘文館)しらせを受けていた井伊大老は、暴徒頭取の意見書に事件終焉の糸口をみたであろう。


また、打ちこわされた江戸の米穀店500店、参加した江戸・下層民の数は24組、延べ5000人と概算されているが、刑に処されたのは42人で、しかも裏長屋住まいの細民がほとんどとの記録がのこされている。

刑も追放がほとんどで、農民一揆の発頭人の重刑にくらべると、ごくごく軽かった。


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2012.05.10

天明7年5月の暴徒鎮圧(2)

(たち)朔(さくぞう 37歳)が社務所に会談場所の借り受けの交渉にいっているあいだ、平蔵(へいぞう 42歳)は御手洗(みたらし)場で待ちながら、梅雨もよいの空を眺めていた。

騒擾(そうじょう)集団の惣代という30男が、筆頭与力・小津時之輔(ときのすけ 48歳)が左手に保持していた革たんぽ棒に目をとめた。

「こんどの打ちこわし対策用に、特別にあつらえさせたたんぽ棒だ」
平蔵が気軽に解説すると、惣代は驚いた顔になり、
「何ヶ月も前からこのことを予想していたのか?」

「そうだ。いや、想見したのはわれではない」
「だれだ? 聴かせてくれ――」
「知りたいか?」
「知りたい」

「なれば、おことから名乗れ」
ちょっと逡巡したが、
「遠州浪人・吉田喜三郎(きさぶろう)」
「相良ではあるまいな?」
「ちがう。掛川だ」

「このことあるを想見なさったのは、相良侯だ」
「いつだ?」
「2年前だったかな」

「それで、長谷川うじがたんぽの内に穂先をくるんだ槍を考案なさったのか?」
「穂先をくるんだ? 革ぶくろの中にあるのは綿だけだ」
「なんと――!」
「このことは、戦さではなかろう? 食っていけないことを公儀と世間に訴えているだけであろう。そういう衆を斬ったり突いたりするわけはなかろう? そのために、わざわざ綿入れのたんぽ棒をつくらせた。たぶん、大坂の町奉行所でも、こたびはこの棒をつかっているはずだ」

参照】2012年4月6日~[将軍・家治の体調] (3) (4) (5

次席が、席の用意ができたと告げにき、社務所の控えの間へ移ってからも、しばらくは革たんぽ棒の話題がつづけられた。
長谷川うじ。ご一統がお進みになるときに、鈴音のような鳴り物がする、あれは――?」
「景気づけの出囃子(でばやし)さ」
「出囃子――?」

「お化けだって登場するときには音を背負ってあらわれる。そこで、組衆が帷子(かたびら)の下にもう1枚まとっておる鎖帷子(くさりかたびら)の右腕に小鈴を100ヶほどもつけ、腕を振るたびに音を発するようにし、長谷川組の出番をしらせる」
「恐れいりました。長谷川うじにとっては、出役(しゅつやく)も遊び同然ですな」

「いや。そのようにはおもっておらぬ。おことたちにはご公儀に訴えたい必死の訴状があろう。その気持ちに対する拍手と受け取ってもらえると、あの鈴の音もなかなか風流に響こうか」

惣代を自称した遠州浪人・吉田がくずれた表情で平蔵を見すえた。
「ご公儀の中にも、長谷川うじのようにわれらを見てくるれる仁がおるのですか?」

「富商のとめどない欲肥(こ)えにはご公儀もほとほとあきれかえっていても、それを止める手だてが 見つからぬ。おことたちのこたびのやりようは、おことたちでなければできなかったことだとおもう士も少なくはなかろう。
とにかく、このあたりでおことたちのいい分をとりまとめて評定所の目安箱へ投げ入れ、しばらく結果を待ってはいかがであろう」

騒擾を起こして以来、やっと話しが通じる幕吏と出会えたとおもったのであろう、吉田惣代も首をたてにふり、惣代・頭取の談合にはかってみるといった。

平蔵が得た感触では、相当に上のほうから仕組まれた騒動というだけで、その正体まではうかがえなかった。

 


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2012.05.09

天明7年5月の暴徒鎮圧

4昼夜におよんだ江戸の打ちこわしのおおよそを過去のコンテンツから、ざっと復習したい。

参照】2007年8月29日[堀 帯刀秀隆
2007年8月30日[町奉行曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)]


先手10組にようやくに出動命令がくだったのは、23日の朝であった。

火の見櫓からの手旗により、水道橋から小石川金杉水道町へむかっている一団があるとの知らせが告げられた。
平蔵(へいぞう 42歳)は、鎖帷子(くさりかたびら)を着こんだ2番手の与力・同心と小者らの20人の右腕をうち振らせながら、6番手の組の20人を指揮して安藤坂へと急いだ。

先頭の長谷川組の20人が腕を振るごとに、姿の見えない鈴の合奏が町にひびくので、なにごとかと通り筋の家々がわざわざ表へ飛びだして見送った。

中には、鈴にあわせて手拍子を打ちながら、後ろからついてくる若者や子どももいた。

安藤坂にさしかかると、平蔵が号令をかけた。
「速脚(はやあし)!」

革たんぽつきの槍棒を小脇にかいこんだ40人が走ると、右腕の鈴の音とともに大軍団が駆けている喧噪が通りを貫いた。

「銭鬼(ぜにおに)!」
「欲呆(よくぼ)け!!」
「人でなし!」

口ぐちにののしりながら、いまにも竜門寺門前町などに5軒ほど点在していた米穀店の表板戸を破ろうとしていた暴徒が鈴の音に、手をとめて鎮圧隊のほうをみた。

「売り惜しみ屋!」
「おお。そういう打ちこわし屋へ申しつける。お上はこの3日間、そこもとらとの話しあいの機会をさぐってきたが、ひとりとして名乗りでてこぬ。ここには惣代はおらぬのか」
陣笠に火事装束の平蔵が呼びかけた。

暴徒が静まり返った。
「われは、先手・弓の2番手組と6番手組の総大将・並(なみ)の長谷川平蔵という者だ。そちら側のいい分を聴こうではないか」

一団の中から、まともの衣装の男がでてき、平蔵の前に立った。

「おことが惣代か?」
30男がうなずいた。
「よし、牛天神(うしてんじん)さんの席をかりて話しあおう。話がおわるまで、みなの者を境内の日陰で休ませてやれ」

383_360

牛天神 諏訪神社 『江戸名所図会』 塗り絵師:(ちゅうすけ)


社務所へ先にたって歩む平蔵に、6番手組の筆頭与力・小津時之輔(ときのすけ 48歳)と2番手組の次席与力・(たち) 朔蔵(さくぞう 37歳)がたんぽ棒を手に従った。

30男の惣代には、10代とおもえる前髪の少年がついていた。

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2012.05.08

ちゅうすけのひとり言(94)

手術から約2ヶ月半、ブログを始めてから丸7年半、1日も休まずにつづけてきたが、そろそろ、幕をおろす時期が近いようだ。

この3ヶ日、微熱がつづき、右のわき腹下に疼痛が走りはじめてきた。

このところ気になっていたある発見を記しておいたほうがよさそうだ。

すでに脇から踏みだしているが、天明7年5月の全国にひろがった打ちこわしに関連した先手組10組の鎮圧動員の推察にかかわる疑問についてである。

ほんとうに10組であったのか?
ただし、これは、歴史学には素人のちゅうすけにとっての疑問であって、学者の方々にとってはとるに足らないことかもしれない。

学会では問題にもならない些事だから、これまでだれも問題にしなかったのであろう。

続徳川実紀』の天明7年(1787)5月23日の項にこうある。
( )内のデータの補充と組分け数字とその訂正はちゅうすけによる)


先手・弓組
2長谷川平蔵宣以    (のぶため 42歳 400石)
6松平庄右衛門穏光  (やすみつ 60歳 930石) 

先手・鉄砲(つつ)
7安部平吉信富     (のぶとみ 59歳 1000石)
6柴田三右衛門勝彭  (かつよし  64歳 500石)
16河野三右衛門通哲  (みちやす 64歳 600石)
19安藤又兵衛正長   (まつなが 60歳 330石)
17小野次郎右衛門忠喜(ただよし  55歳 800石)
2武藤庄兵衛安徴    (やすあきら47歳 510石)
9鈴木弾正少弼政賀  (まさよし  48歳 300石)

西丸・先手・鉄砲組
4奥村忠太郎正明    (まさあきら56歳 600石)

このほど市井騒擾により、今日より市中相巡り、無頼の徒あらばめしとらへ、町奉行の庁へ相渡すぺし。手にあまりなば切捨苦しからざるよし達せらる。
こは、近年諸国凶作うちつづき、米穀価貴くして、去年は関東洪水にて江都別して米穀乏しく、諸人困窮に及び末々餓死に至らんとす。しかるに市井の米商ども人の苦しみをかへりみず、をのをの米を買い込みしにより、無頼の輩集りて、左ぬる二十日の夜より市街の米商をうち毀り家財等を打ち砕きしにより、かくは仰出されしなるべし。


この名簿で、最若年の平蔵がまっ先にあがっているのは、先手組は弓が鉄砲よりも格式が上とされているからである。
武器としてき鉄砲だが、それが渡来以前は騎馬武士から大将まで弓を引いた。
鉄砲は雑兵のあつかいと軽んじられた。
日本武将による美意識だったのであろう。

年長で禄高も上の松平穏光よりも先に書かれているのは、組頭への発令が平蔵のほうが数ヶ月早かったから。
同じ職位では先任順に席をきめた。

だからといって、平蔵が総指揮をとったわけではない。

発令順でいうと、鉄砲組も河野通哲をのけると発令順になっている。
通哲が順をみだしている理由は不明。


つぎの名簿はちゅうすけが、『柳営補任』などによって作成したもので、先手組頭への発令年月日を添えた。


先手・弓組
2長谷川平蔵宣以(天明6(1786)年7月26日ヨリ)
6松平庄右衛門穏先(天明6年11月15日ヨリ) 

先手・鉄砲(つつ)
7安部平吉信富(安永5年(1776)5月10日ヨリ)
6柴田三右衛門勝彭(天明元年(1781)11月12日ヨリ)
16河野三右衛門通哲(天明5年(1785)11月15日ヨリ)
19安藤又兵衛正長(天明2年(1782)12月12日ヨリ)
17小野次郎右衛門忠喜(天明3年(1783)8月14日ヨリ)
2武藤庄兵衛安徴(天明4年(1784)10月28日ヨリ)
9鈴木弾正少弼政賀(天明7年(1787)正月11日ヨリ)

西丸・先手・鉄砲組
奥村忠太郎正明(天明6年(1986)閏10月8日ヨリ)


疑問は、『柳営補任』をめくっていておきた。

とりあえず、疑念のない先手・弓組の2人の記述を引用する。


長谷川平蔵宣為(以 ため)

天明六年七月廿六日西丸御徒頭ヨリ
同七未五月組召連可相廻旨
同六月一統御免、同十一月ヨリ増加役
同八申四月廿九日御免、同年十月二日定加役
寛政七卯五月十六日病気二付願之通火附盗賊加
役御免、久々骨折相勤候二付金三枚、時服二被
下之、悴辰蕨儀1 蕨出精相勤候二付、雨御番政
御番入被仰付
同年五月十五日卒

うち、次の2行が騒擾鎮圧にかかわっている。

同(天明)七未五月組召連可相廻旨
同六月一統御免


松平庄右衛門親遂

天明六午十一月十五日小十人頭ヨリ
同七未五月廿三日組共召連相廻候様
同六月十八日御免
寛政二戌九月廿六日卒


鎮圧令の発令は、(天明7年)5月23日
解除されたのは、 同6月18日
であったことがこれでうかがえる。


河野勝左衛門通哲

天明五巳十一月十五日他組ヨリ組替
同七未五月町中相廻り候様
同七月三日卒

病身をおして鎮圧に努めたのであろうか?
それとも、与(くみ)頭が代理の指揮をとったか?
没年は7月3日とあるが、これは辞任願いが受け取られた表向きの月日で、じっさいの臨終の日は6月下旬であったろう。
寛政譜』に出動のことが記されていないのは、与(くみ)頭が指揮を代行したからか?


小野次郎右衛門忠吉(喜 よし)

天明三卯八月十四日西丸御目付ヨリ
寛政十午二月十七日御鎗奉行

天明7年5月23日から6月13日までの記述がまった欠落しているのは、幕府史料に欠落していたからか? それとも出動令を受けなかったか?

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2012.05.07

本城・西丸の2人の少老(6)

まだ打ちこわしがはじまっていなかったというから、5月の上旬であったろうか。

躑躅(つつじ)間に詰めていた平蔵(へいぞう 42歳)が、少老(若年寄)・井伊兵部少輔直朗(なおあら 41歳 越後・与板藩主 2万石)に呼ばれた。

控えの間に伺候すると、
長谷川うじの案、大筋のところは承認されたが、第2の区分け……」
「本郷通りから東、神田川から北の区域ですが、そこになに不都合でも――?」
「詰所は鳥越の寿松院とやらであったな?」

「さようです」
「少老のお独りから、鳥越では浅草寺や本願寺へ遠すぎないかとの異論がでてな」
「はあ……・?」
なにごとにもひと口ださなければ気がすまない幕閣と、井伊少老が弁明したので、平蔵はすこしきつく押し切った。

与板侯もご承知と存じますが、名のある寺院はだいぶんに貯めこんでおります。米よこせの暴徒が寺院を襲うような罰あたりのことをするとはおもえませぬが、もし来たら、塔頭(たっちゅう)の僧を門前に座らせて勤行の経などあげさせれば、暴徒も引き下がりましょう」
「なるほど。さように伝えておこう」

どんな議案にもひと口の疑問をなげかけてみ、おのれは居眠りをしていないぞ、と空威張りする仁は、どこの世界にもいるものである。

この少老の場合も、あとで寺社奉行に肩をもったぞ、と恩を売る意図などはなかったようであるが、江戸藩邸がかりの墳墓――江戸ずまいの正室か夭折した嫡男のそれでもあったのかもしれない。


ひと口閣僚の差し出ぐちはそれとして、奇怪でもあったのは、あちこちで打ちこわしが始まっているのに、大老・井伊掃部頭直幸(なおひで 61歳 彦根藩主 35万石)が、なにゆえに先手10組への出動命令を3日も遅らせたかの推量である。

大坂での発端のことは、東町奉行・佐野豊前守政親(まさちか 56歳 1100石)からの急報でしっていたはず。
その道筋――淀、伏見、大津、駿府のそれぞれの陣屋や町奉行所からも不穏な動きがもたらされてきていたばかりか、岩槻、古府中(甲府)からもしらせてきた。

(江戸の事件が片づいた5月末には、和歌山、奈良、堺、和歌山、大和郡山、福井、尼崎、西宮、広島、尾道、下関、博多、長崎での騒擾もとどいていた。
それらの詳細については、外出がままならない躰になっしまっているので、藩史を読みに中央図書館へ出向くことがかなわない。
奇特な鬼平ファンの方から地元のものだけでもコメント欄へいただけるとありがたい。
調べるときにご懸念いただきたいのは、どこかからのつなぎの気配はなかったかについてである)

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2012.05.06

本城・西丸の2人の少老(5)

天明7年(1787)5月20日から4昼夜におよんだ幕政にたいする警鐘の乱打ともいえた江戸の打ちこわしを、蔵前の札差株仲間の店々と幕府の米蔵は、無傷でやりすごしたことになる。

これもじつは、事後の平蔵(へいぞう 42歳)の内省に芽生えた疑問のひとつであった。

平蔵によると、札差の店々が襲われて米蔵に被害がおよんでいないのはおかしい――事件の首謀者がそう踏んだための、蔵前の見逃しだったと見るのが順当とおもえてきたのである。

つまり、大坂の騒動と江戸のそれとは仕組まれたものではなかったか、と。
群集心理ということもあるから、江戸でおこったことの大半はその場のなりゆきごとであったろう。
しかし、こと、幕府の米蔵と蔵前の札差の見逃しには、裏がある――平蔵は、疑念を胸の奥ふかくしまいこみ、死ぬまで表にださなかったことのひとつがこれであった。


それはともかく、蔵前の札差株仲間の店々が被害にあわなかったのは、定行事の一人・〔東金(とうがね)清兵衛(せえぺえ 40歳すぎ)と先手・弓の組頭・長谷川平蔵のはからいによることはだれの目にもあきらかであったから、10人いる定行事の数人から、
長谷川さまに応分の謝礼を……」
この提案には、蔵宿約100軒が1軒も反対しなかったばりか、分担金は1店あたり3両(48万円)まで覚悟したらしい。

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大蔵前の諸寺と蔵宿 『江戸名所図会 塗り絵師:ちゅうすけ)


東金屋〕と森田町組の定行事〔板倉屋〕次兵衛がそろって東本所・三ノ橋通りの長谷川邸へ出向き、
「現金では長谷川さまのお名前に傷をつけることにもなりかねないから、なにかお望みのものをお洩らしいただきたく……」
神妙にうかがった。

「ほう、蔵前の蔵宿仲間一同がお礼をわれにくれるのか。本来なれば、警備にあたった西丸の徒士120名全員にといいたいところだが、それも公儀の掟てに触れることになる。どうであろう、革たんぽつきの槍棒100本では。もちろん、保管は蔵前の火消し小屋ということにし、次の打ちこわし騒動のときの警備武具とする――」
「それでは、長谷川さまの手元にはのこりませぬが……」

「われの手元へのこせば悪い噂がのこるだけよ。虎は死して革をのこし、武士は死して名をのこすという。そのたんぽ棒を、平蔵棒とでも名づけたら……?」

ただ、平蔵はもうひと言、つけくわえた。
「徒士組に休仕を手配してくれた本城の若年寄・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)侯と、西丸の同職・松平玄蕃忠福(ただよし 46歳 上野・小幡藩主 2万石)侯への謝礼はぺつだぞ。どこか、一風変わった料亭で一夕、接待をしな」

革たんぽつき槍棒は、1店あたり1分(4万円)の拠出であったらしい。
100本で25両(400万円)の商売を無造作に武具商〔大和屋〕へ振ってしまった平蔵の潔(いさぎよ)さに、初めて接した定行事〔板倉屋〕次兵衛は、
「お武家にも、大商人顔負けの豪胆な仁がいなさるんだねえ」
のちのちまで誉めそやしていたという。

〔大和屋〕が長谷川分の40本の請求書――10両(160万円)から2両(32万円)を差し引いたことは、〔板倉屋〕も〔東金屋〕も、おもいもしなかった。

100本の平蔵棒は明治まで、元旅籠町2丁目の成田不動の境内の火消し小屋に収納されており、慶応の打ちこわしのときに警護にきた徒士たちの手ににぎられた、と古老のいいつたえがのこっているが、明治の廃仏毀釈で行く方がしれなくなった。


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2012.05.05

本城・西丸の2人の少老(4)

これは、打ちこわし秘話として書き留めておくことの一つであろう。

若年寄として本丸へ移っている井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)にもかかわる美談なので、忘れないうちに記録しておく。

3年前の大坂の打ちこわしが堂島新地の米穀商〔松安〕と玉水町の〔鹿島屋〕であったことを記憶していた平蔵(へいぞう 42歳)が、こんどの江戸打ちこわしでまっ先に心配したのが、幕臣としては浅草の蔵屋敷、個人としては蔵前の札差・〔東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40歳すぎ)のことであった。

東金屋〕には、前職・西丸の徒(かち)の組頭時代に組下の借財のことでずいぶん世話をかけた。

参照】2011年9月21日~[札差・〔東金屋〕清兵衛] () () () (

打ちこわしの暴徒たちがまず狙うのは、このところ値段を3倍近くにまであげている米穀商人であろう。
史料によると、平時なら100文(4000円)で1升(1.8リットル)購える精米が、3合5勺しか買えなくなっていたという。
「粥をすすることすらできねえ」
彼らのせっぱつまった表現であった。

蔵前の札差たちは、たしかに幕臣の米穀をあつかってはいるが、町の人たちを相手に売買しているわけではない。
しかし、そばに幕府の米蔵があり、富裕な暮らしぶりをしているから、当然狙われよう。
狙われて迷惑するのは、札差にたよっている下級幕臣たちなのだ。
打ちこわしを理由に貸ししぶられてはたまったものではない。

平蔵(へいぞう 42歳)は、柄巻きを内職にしている徒士の父親・飯野吾平(ごへい 59歳)のきりっとした顔をおもいうかべた。
隠居した老徒士のまま朽ちさすのは惜しい手練のぬしであった。

参照】2011108[柄(つか)巻き師・飯野吾平

吾平の名人級の手しごとの一つは、しりあった経緯(ゆくたて)とともに井伊少老へ贈ってあった。

東金屋〕のさばけたあつかいによって救われた飯野六平太(ろくへいた 35歳)をはじめ助けられた徒仕たちが、打ちこわしの期間中に休みをとって〔東金屋〕の警備にあたる許しを乞うたところ、にやりと笑みをこぼした少老が、
「打ちこわしのある市中へわざわざお上が出御なさることもあるまい。いっそ、西丸から本丸へ打ちこんだ徒組すべてに休仕をあたえ、蔵宿の警備にあたらせたらどうか」

「ありがたい仰せ。早速に〔東金屋清兵衛から蔵前の定行事どもへ申しつたえさせ、徒士衆の弁当や諸掛りは組合で負担するようにはからわせましょう」

「すると、先手衆の弁当や諸掛りは公儀持ちということか?」
「執政の手ぬかりの結果でございますれば---」
「油断ならぬ男よのう」

裏話だが、蔵宿の警備にでた徒士組への弁当が豪華なものであった噂を聴きつけた他の徒士が、弁当に釣られて幾人ももぐりこんできたという。

武士は食わねど高楊枝
 
遠い過去のものになっていた。

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2012.05.04

本城・西丸の2人の少老(3)

手くばりが終わったとみ、一足飛びに天明7年5月に移る。

先手組が詰めることになっている寺社――伝通院、寿松院、深川八幡宮への通達は、若年寄・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 与板藩主)が、寺社奉行・(大河内松平右京亮輝和(てるやす 38歳 上野・高崎藩主)に耳うちし、それぞれへ極秘裏に話が通じていた。

参照】2011年10月9日[日野宿への旅] () 
2011年10月21日~[奈々の凄み] () (

町奉行へひと言伝えればなんでもない南伝馬町会所のほうが、直前ですったもんだもめた。
原因はつなぎ(連絡)役の西丸若年寄・松平玄蕃頭忠福(ただよし 46歳がうっかりしていて4月に入ってから南の町奉行・山村信濃守良旺(たかあきら 60歳 500石)に申し入れただけで、北の町奉行・曲渕甲斐守景漸(かげつく 64歳 1650石)へ通じておくのを失念していたからである。

その手ぬかりは、江戸での打ちこわしが突然始まった5月20日夕刻に、先手・鉄砲の7と17の組が現場へ到着゜してわかった。
暴徒だというので、自発的に出動した安部組、小野組へ鎮圧命令がでたのも2日遅れた。


じつは平蔵(へいぞう 42歳)は、5月11日に大坂の堂島の米市場で打ちこわしがおこったことを、江戸の幕府の要人の誰よりも速く承知していた。

大坂・西町奉行の佐野備後守政親(まさちか 56歳 1100石)が事件についての第一報を公用の速飛脚でとどけてきたとき、ひそかに平蔵への書簡も同封していたのであった。

それで平蔵は、大坂の打ちこわしの噂が江戸へ達するのは少なくとも15日後――26日か27日とふみ、9組の同輩にはそのことをささやいておいた。

それが、佐野政親からの公用文書を落手した日の午後八ッ(2時)すぎ、赤坂門外の米穀商〔伊勢屋〕ほか23軒、つづいて麹町の6軒ほどが襲われたのにおどろくとともに、井伊兵部少輔直朗に、先手組頭たちを予定どおりのきめられた警備につかせるよう命令をくだしてほしいと告げた。

ところが、赤坂の米穀店の事件が大坂のと堂島の打ちこわしと関連があると察した幕閣はいず、もうすこし様子をみてといっているうちに大事になった。

あわてた幕閣は、北町奉行・曲渕甲斐守と火盗改メ・堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石)に鎮圧命令をだしただけで、先手組を忘れてしまった。

自主的に伝通院の堂宇へ詰めた平蔵は、大坂の飛び火があまりにも早く江戸へ達した経緯(ゆくたて)を、沈思しながら出動命令をじりじりしながら2日間も待った。
(幕府のお偉方ときたら、梅雨の雨のようにはっきりしないんだから)


その間、江戸のあちこちでは、暴徒がおもいのままに乱暴をはたらいていた。

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2012.05.03

本城・西丸の2人の少老(2)

「4つの合併組は、それぞれ、昼夜わかたずに次の場所へ詰めます」

弓の2番手と6番手は第1の地盤 への備えとして伝通院。

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(伝通院・部分 『江戸名所図会』)


鉄砲(つつ)の2番手と6番手は蔵前と浅草あたりの備えとして元鳥越の寿松院。

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台東区鳥越2丁目にある不老山寿松院


鉄砲の7番手と17番手は南伝馬町の町会所。

鉄砲の19番手と西丸の4番手は深川八幡宮。


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(富岡八幡宮舟着き 『江戸名所図会』  塗り絵師:ちゅうすけ)


弓の7番手と鉄砲の9番手は少老の手兵として清水ご門外のご用屋敷に待機。

「それぞれの詰所から の出動は、それぞれの組の責任者が決めます。なお、以上は組屋敷からの三度々々の食事の運びこみも考慮したうえでわけふっておりますゆえ、勝手ないいたてはご免こうむりたく」
「承知」
平蔵はたくみに言質(げんしち)をとってしまった。

「各組への下知はなるべく早くおくだしください。逃がし道や扇動人の捕らえおきどころを決めねばなりませぬ」
「逃がし道――?」
松平玄蕃頭忠福(ただよし 46歳 上野・小幡藩主 2万石)が訊きかえした。

「戦いと申しましても、殺しあいが狙いではありませぬ。いってみればおっかけっこみたいなものです。そのためには逃げ道を教えてやることも必要になります」
「おっかけっこ、のう――」

「はい。一度は逃げておき、またぞろ顔をだしましょう。その輩(やから)をおどすには、人相をひかえたと教えてやればいいのです」
長谷川うじは、軍者ができそうじゃな」
「打ちこわし方の軍者にやとわれましょうか?」
井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)が笑いながら、
「それはならぬぞ。軍者の職であれば、わが与板藩でやとうおう」

「扶持はおいくらいただけます?」
「うむ。100石」
「いまでも400石と足(たし)高1100石を頂戴したおります」
「本家の彦根藩へ話しても、その半分しかだすまい」
「では、この話はなかったことに――」
「承知」(笑声)

とにかく、平蔵とすれば、話の糸口はついた。

「ところで長谷川うじ。今宵、予定ははいっておるかの?」
「いいえ……」

「玄蕃頭(げんばのかみ)侯との初会ということで、どこぞ、下賎で安くておいしいものところへ、案内してくれぬか」
「お殿さまに珍しいものといいますと、しゃも鍋などはいかがでしょう?」
「朝鮮料理は、今宵といって今宵はむりなのじゃったな」
「あれの食材がそろいましたら、いの一番に与板侯へお知らせします」
「ざんねん。では、そのしゃも鍋とやらを、八ッ半(午後3時)にでかけられるように」

すぐに松造(よしぞう 36歳)を〔黒舟〕と〔五鉄〕へ走らせた。

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2012.05.02

本城・西丸の2人の少老

「まず、神田川をもって南北にわかちます」
平蔵(へいぞう 42歳)が説明をはじめると、家斉(いえなり 15歳)にしたがって本城の少老(若年寄)へ移った井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 越後・与板藩主 2万石)が、
「なぜ、神田川かな? 火盗改メは日本橋川を境にして南北へわけているのではないのか?」

「たしかにそのとおりです。日本橋川から北が本役、南が助役(すけやく)の持ち場ときまっております。が、これは、火事が多い冬場のことであり、平常は本役ひと組が江戸全域を担当します。しかし、こたびの江戸打ちこわし――あ、予想される騒擾(そうじょう)を、いまのところは仮に[打ちこわし]と呼ばせていただきます。
江戸の打ちこわしは、ひと組の狼藉者たちではすみますまい。ご府内数ヶ所が同時に襲われるという想定です」

「わかった。つづけよ」
「神田川で南北にわかちましたが、以北を本郷通りで西と東にわけ、西の小石川、音羽あたりを第1の地盤、東の湯島・蔵前・浅草辺を第2の地盤と仮定します。神田川の南はそれだけで第3の地盤。隅田川の東の本所・深川が第4の地盤となります」

「もうひとつ、わからぬのは、なぜ、4つの地盤わけでなければならぬのかな?」
疑問を呈したのは、西丸の若年寄・松平玄蕃頭忠福(ただよし 46歳 上野・小幡藩主 2万石)であった。
2年前に奏者番から若年寄に選ばれたばかりで、主(あるじ)がいなくなった西城をまもっていた。

年齢は井伊直朗よりも上だが、幕閣としての経験が浅いので、あるかどうかもわからない江戸打ちこわしの対策話を平蔵直朗へ持ちこんだとき、もし、こともなくすんだら平蔵が恥をかくことになるのをおもんぱかった直朗が、仕置(政治)の手習いのつもりでと、忠福に参加を呼びかけた。

34人いる先手の組頭の3分の2以上が60歳をすぎており、機敏に動かなければならない打ちこわし鎮圧隊の指揮官としては失格に近いことを初めて聴かされた松平忠福は、眉をひそめてつぶやいた。
「そんなになるまで、幕閣のどなたも、どうして手をお打ちにならなかったのか」

(そうおっしゃる小幡侯、ご自身も責任者のお一人ですぞ。少老閣議の討議にとりあげられますか?)
平蔵は腹の中で反論したが、口にはださなかった。

(先手組頭の若返りに手をおつけになろうとした田沼侯を罷免同様に追いつめたのは、あなたとはいわないが、徳川重臣のあなた方ではなかったのか?)

「動ける組頭が率いている先手組が8組、無理して10組しか動員できませぬ。それで2組ずつをひとつに組ませて4組。あとの2組は控え(遊軍)です」

(こういう陣立てすら知らないのが若年寄なんだから――もう)

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2012.05.01

先手・弓の6番手と革たんぽ棒(5)

細かなことは、近いうちに若年寄衆と町奉行どの、それに先手の若い組頭の数人が寄って詰めるが、まず、江戸を4つに区分けする---」

というのは、10組の先手組を2ヶの組ずつ組ませて5組とし、1区分けの鎮圧は組んだほうの1つの組で受けもつ。
騒擾がすべて片づくまで分担の区分けは変えない。

「なぜ、2ヶ組にするかというと、こんどの騒擾は5日とか7日とかの昼夜にわたる気配がする。1ヶの組では2昼夜で全員が疲れはてて物の用に立たなくなる。2ヶの共ばたらきの組なら、総勢が75人から80人、小者まで含めると150人にはなるから、これを50人ずつの3交代制にしてまわせば、寝たり休んだりが十分にできる。仮に10日におよぶ連日の仕事となってもつづけられよう」

愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう)が覚めた声で、
「なるほど、働くのが1なら、休むのと寝るのに2をあてると、無理がありやせんな」
「ほころびは、1と1で思案したとき、3日目におきると亡父から躾(しつ)けられた」
「なんでもご存じのお父上でした」

うなずいた平蔵が説明をつづけた。

4つに区分けしたら、その地図にまず、火の見櫓(やぐら)を位置を記し、それぞれの火の見櫓から1丁(109m)ずつ離れている櫓を拾い出してつなぎ(通報)の櫓とする。
つづいて、1つの区分けにした地区を、4つに色分けする――白、赤、青――この3つ色と間違いなく識別ができる色といったら黄色かな、いや、白と赤を斜めに仕切ったほうが見分けがきこう。その4つの小旗をすべての櫓に備えつける。

長谷川さま。昼間はそれで櫓から櫓へとつなぎがとれましょうが、夜はそうは参りませんな」
浅草、今戸をとりしきっている〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 39歳)が指摘して盃の冷たくなった酒をすすり、恥ずかしげに下をむいた。

今助元締どん、いいところへ気がついてくれた。今助どんならどうする?」
「龕灯(がんどう)かなんかを明滅させますかねえ。1回ずつなら1の地区とか……」
「すばらしい案だが、1つの区画に何十もの龕灯をそろえるのはことだろうなあ」
平蔵の疑問に、〔耳より〕の紋次(もんじ 44歳)が、
「提灯(ちょうちん)を左右に振ったら1の地区、上下させたら2の地区、斜めだったら3の地区…………」
4の地区でつまると、引きとった権七(ごんしち 55歳)が、
「後ろへまわしたら4の地区」
「できた!」
平蔵が低く叫ぶようにいい、
「実際は、持ったまままわって背中をむけるんだろうがね。左右の1との判別がつくようにな」

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