庭番・倉地政之助の存念(3)
「あ、倉地うじは、酒は法度(はっと)なそうな」
新しい燗酒をはこんできた奈々(なな 18歳)に、
「倉地うじは、里貴(りき 逝年40歳)女将と入魂(じっこん)であった」
今宵、招待することは、昨夜のうちには話しておいたが、あらためて紹介するふりをした。
あいさつする倉地に平蔵(へいぞう 40歳)は、
「若女将は、里貴女将の縁者で---」
とだけで説明はひかえたが、倉地政之助満済(まずみ 46歳)も2人の関係には無関心をよそおった。
目で合図された奈々は、
「ご飯とお汁椀をお持ちします」
部屋を離れた。
見定めてから、平蔵が口をひらく。
「騒動のあとすぐに東のご奉行・土屋駿河守(守直 もりなお 52歳=当時)さまが長崎のお奉行に転じられたのは、なにか理由(わけ)が---?」
倉地は首をふって否(いな)を示した。
【参照】2010年8月7日~[安永6年(1777)の平蔵宣以] (2) (3)
長崎奉行はこのころは2人制で、年ぎめで交代で下崎・駐在し、大坂・京都町奉行より上座と目されていた。
ただし、大坂町奉行から長崎奉行へ転ずることはめったにない。
幕府としては、上座の職へ栄転させた外見をつくろっての罰ということもないではない。
後任は土屋と同じ武田閥の小田切土佐守直年(なおとし 41歳=当時 2930石)が、駿府奉行から転じてきた。
倉地が口を開くまで、8年前に小石川・江戸川端の土屋邸で面談した守直(44歳=当時)のいかにもやり手らしい精悍な風貌を想いおこしていた。
「町奉行方に手落ちはございませんでした。打ちこわしの徒(やから)に対する警備の不手際はむしろ、定番(じょうばん)側にありました」
定番というのは、1万石級の譜代小大名に課せられる職責で、大坂では京橋口と玉造口を警備していた。
天明3年(1783)2月11日の場合の定番は、
京橋口
井上筑後守正国(まさくに 45歳=当時 下総国高岡藩主 1万石)
玉造口
稲垣長門守定計(さだかず 63歳=同 近江国山上藩 1万3000石)
定番の大名にしてみれば、番士は幕府の旗本の士で自藩の藩士ではなく、平常ののんびりした勤務のときはともかく、非常時には命令が徹底しなかった。
定番の小大名のなかには、馬も乗りこなせないのもいたという。
膳がととのえられるあいだ、倉地も平蔵も要心したように口をきかなかった。
(土屋守直の個人譜)
(小田切直年の個人譜)
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