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2011年11月の記事

2011.11.30

〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の相談ごと

「春米の売却代金でございます」
蔵宿の〔東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40前)が、金包を6ヶ、平蔵(へいぞう 40歳)の前に並べた。

平蔵が昨年の極月(12月)から西丸・徒(かち)の頭(1000石格)に就任し、家禄との差の足高(たしだか)として給される600俵の半分---2月分の300俵の換金であることは、訊くまでもなかった。

参照】2011年9月20日[ちゅうすけのひとり言] (77

足高は、現金でもらう場合と蔵米を希望する者とにわかれていた。
現金支給の方式は、勘定奉行がきめたその季節の米価が江戸城本丸中の口に張りだされたので、張り紙値段と呼ばれていた。

飢饉の余波がのこっていた天明5年3月の100俵の張り紙値段は、98両(1568万円)であったから、平蔵の場合のそれは288両(4704万円)と見込まれる。

もっとも、平蔵は現金支給でなく、蔵米のほうを希望し、その蔵宿に〔東金屋清兵衛の店を指名していた。
それというのも、西丸・徒の4の組の徒士たちの蔵米取りを〔東金屋〕一手にまとめ、借財を清算させたからであった。

参照】2011年9月21日~[札差・東金屋清兵衛] () () () (
2011年9月29日~[西丸・徒(かち)3の組] () () () () (

いろいろと骨をおらしたから、せめて足高分の利ざやなと稼がせやろうと、平蔵の配慮であった。

ところが、〔東金屋〕が持参した金包みは1ヶが50両(800万円)、6ヶで300両(4800万円)であった。
幕府の張紙価格より12両(192万円)も多い。

蔵宿の手数料は100俵につき3分(12万円)だから、300俵で2両1分(36万円)すら取っていない。
2両1分のうち、1両2分(24万円)は人夫賃や船賃だから、〔東金屋〕は平蔵の足高を扱ったことで持ち出しになっている計算であった。

平蔵がそれをいうと、清兵衛は笑い、
「お気づかいなく。きちんと儲けさせていただいております」
「どこで---?」
「お上の張紙値段が市場の実勢よりも低くつけられております」
「お上も、なかなかにずるいな」
「まったく---しかし、手前が申したことはご内密に---」
「たとえ、百貫の石を抱かされて責められても、洩らさぬ。は、ははは」

「ところで〔東金屋〕どの。代金は番頭にとどけさせてもすむものを、主(あるじ)どのがわざわざ出向いてきたのには、わけがありそうな---」
「さすが、長谷川さまのお眼力、恐れいりました」
「追従(ついしょう)はおき、申してみよ」

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2011.11.29

ちゅうすけのひとり言(84)

銕三郎(てつさぶろう 14歳)の妹として宝暦9年に、松平大学頭家臣・三木忠大夫忠任のむすめ・多可(たか 14歳)が養女にきたくだりは、早くに記した。

参照】2007年10月28日~[多可が来た] () () () () () () (

丸4年も前だ、調べもゆきとどかず、江戸詰めの高崎藩士とおもいきめていた。

しかし、初めて異妹・多可を身近に感じた少年・銕三郎のヰタ・セクスアリスは、そのときに想像したとおりなので、書きかえる気持ちはない。
銕三郎は、多可に会う前に、25歳の若後家・芙沙(ふさ)によって女躰の神秘に触れていた。

三木忠太夫が江戸藩邸住まいの守山藩士とわかり、藩士のほとんどは水戸藩から分与されていることをしったいま、つぎにとりかることは、水戸藩の三木捜しである。

水戸藩から守山藩へ移動した藩士の数---

初代・頼元のとき 48名
2代 ・頼貞のとき 48名
3代 ・頼寛のとき 18名
4代 ・頼亮のとき 22名
計         136名


三木忠大夫がどの藩主のときに水戸藩から移されたかの記録は未見である。

ただ、水戸藩に三木を姓としていた重臣がいたことははっきりしている。

慶長9年(1604)に、2代・頼房の乳兄弟であった播磨の別所一族の三木之次仁兵衛)が500石で徒の頭としてとりたてられている。(『水戸市史 中巻』 1968)

三木家にはその後、1500石の大番頭になった者もいるし、子孫は1000石の家柄となったから、その末が守山藩につけられたと断じていい。

もっとも、守山藩は2万石の小藩だから、家老といえども300~200石で、関係諸書に名がでてこない忠大夫は100石前後か以下であったろう。

そのことは、親藩の水戸藩士の家禄別の人数リストからも推察がつく。

10,000石以上   2人
 1,000石以上  28人
   500石以上  31人
   100石以上 491人

ただし、四ツ坪ならしといい、100石の取り分は40石(四公六民)。
守山藩もそうであったろう。

寛文元年(1664)に水戸藩から守山藩へ送られた家老格5名の姓は、野口、近藤、大嶺、和田で、三木姓はない。


忠大夫宣雄の接点はまだ手がかりがつかめていない。

しかし、播州・別所かかわりの三木姓とわかったのは、別の太い糸口であった。

播州・別所といえば、司馬遼太郎さんが黒田官兵衛に血を通わせた『播磨灘物語』(講談社文庫)が書架にあるではないか。

さっそく再読に及んだ。
別所長治がこもる三木城の兵糧攻めは巻2である。
が、そこには三木掃部助(かもんのすけ)通秋がよっている英賀(あが)城は登場しない。

兵庫県史』や橘川真一さん『別所一族の興亡 「播磨太平記」と三木合戦』(神戸新聞総合出版センター 2004)などによると、別所一族がこもっていた三木城陥落後の天正8年(1580)3月、秀吉の軍は英賀(あが)城を攻め、城主の三木通秋は海路、筑前へ落ちたと。

で、三木氏徳川とつながりの発見に四苦八苦していたら、facebook でAtsushi Temporin さんが英賀神社の宮司が英賀城史を書いていると教えてくださった。

参考】http://www.agajinja.jp/nishiki/agajoshi/

人命を大事にした秀吉通秋をゆるし、郷士頭にしたらしい。
もちろん、播州の一つの押さえとしたのであろう。

秀吉から徳川へ、これでつながりがわかった。

あとは、守山藩と長谷川宣雄のあいだを推測すればいい。
ここまで分明させておけば、各人各様の推理が出やすかろう。

そうそう、三木は、四国の河野氏の分家で、姓のゆえんは、讃岐の三木郡からきておるとも。
平蔵の長女・(はつ)の嫁ぎ先が河野家であったことも付言しておく。


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2011.11.28

ちゅうすけのひとり言(83)

大塚吹上(ふきあげ)にあった陸奥守山藩邸6万3000坪を偲んでいる。

歴代の藩主・大学頭は定在府で参勤交代をしなかったというから、家臣の大半も代々藩邸に住んでいたであろう。
藩の政務もここで行っていたらしい。

いま、スポーツ広場とか憩いの広場、それに筑波大学、放送大学、区スポーツセンターの建物のある、いわゆる小日向(こひなた)台地に藩主の住まいと家臣の長屋があった。

庭園の占春園は、台地が千川へなだれている斜面を利用している。

藩史事典』によると、藩邸の長屋の間口は100石以上の家格で6~12間、並みの頭級だと3.5~5間だった。
奥行きは書かれていないが間口の3倍ほであったらしい。

長谷川家に養女にきた多可(たか 没年17歳?)が育った三木忠太夫は3.5間クラスではなかったか。

家格は別とし、2万石の大名で藩士は何人だったろう。
維新のとき、守山の陣屋が官軍と戦わずして降伏したのは、藩士が200人もいなかったことも理由の一つにあげられていた。(『水戸市史 中巻1』)

江戸藩邸内住まいの三木の2家が、むすめは幕臣の養女にと考えたのも、藩内に養家先が少なかったのと、家禄が低かったこともあったかもしれない。
藩士の家数は200家前後と推定されている(『福島県史 第3巻 通史編3』)。

話題を変える。

25年ほど前、23区内にあった江戸の稲荷1000社以上を、早朝に記録してまわったことがあった。
これにより、『鬼平犯科帳』にでてくる町や坂や橋、神社や寺ががそらんじられた。

まわった稲荷の一つに、吹上稲荷社(文京区大塚5丁目21)があった。
そのときは、奇妙な社号だなとおもっただけであった。

こんど、三木家が守山藩士とわかり、藩邸内に吹上(ふきあげ)稲荷があったことをしり、再訪した。

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(吹上稲荷神社 前景)

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神社略記より

元和八年(1622)徳川秀忠が下野国日光山より稲荷大社の御神体を戴き、江戸城中紅葉山吹上御殿に「東稲荷宮」と称し、海川山野産食物の神として崇敬し奉り、武家諸公の信仰が厚かった。
徳川家から水戸家の分家松平大学頭家へ、そして宝暦元年(1751)に大塚村民の鎮守神として現小石川4丁目に移遷し、崇敬者多数に及び武家の信仰も厚かった。
またこの時に、江戸城内吹上御殿に鎮座せられるを以て、吹上稲荷神社と改名奉った。
その後護国寺月光殿から大塚上町へ、そして大塚仲町と移遷し、明治45年(1912)に大塚坂下町(現在地)に遷座し奉り今日に及ぶ。

25年前に参詣したとき、根性を入れて略記を拝読していれば、松平大学頭の称呼も銘記したろうに。

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2011.11.27

ちゅうすけのひとり言(82)

切絵図の大塚久保町(記録では大塚吹上)に松平大学頭と記されている守山藩邸址へは、幾組かの〔鬼平クラス〕のウォーキングで数回訪れていた。

しかし、そのウォーキングの眼目は、波切不動(現・本伝寺内 文京区大塚4丁目42 日蓮宗)、簸川(ひかわ)神社(文京区千石2丁目10)で、その経路の近道として占春園(せんしゅんえん)を選んだ。

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波切不動 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

ウォーカーたちの印象は、「都内にも、こんな隠された自然庭園があるんだ」

通りすがりだから、銘板にも注意を向けなかった。


再掲出
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(庭園が現在は[教育の森]となっていることを告げる銘板)

この地は、徳川光圀の弟、徳川頼元が万治元年(1659)屋敷とした。その子頼貞は元禄13年(1700)常陸の国)(茨城・行方)と陸奥(守山)3郡2万石をうけ守山藩主として大学頭を名のった。邸内敷地6万2千坪という。
氷川下の低地にある池は当時吹上邸として有名な占春園の名残りである。
ホトトギスの名所であったという。
明治36年東京高等師範学校がお茶の水(現医科歯科大学の所在地)よりここに移転してきた。戦後東京教育大学・筑波大学へと発した。
昭和59年区民の念願により旧東京教育大学跡地のうち、約29ヘクタールの払い下げをうけ、区民の憩いの場・防災広場・スポーツセンターとして活用するため、都心の緑の地として設計した。
そしてこの由緒ある地を『教育の森公園』と命名した。
              昭和62年3月   東京都文京区教育委員会  

交通機関は、東京メトロ・丸の内線[茗荷谷] 、都fバス[茗荷谷駅前]

駅前の交番脇の湯立坂上を横切り、坂ぞいに100mも歩くと公園。

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大学構内への入り口の右手の銘板。

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(旧藩邸碑文)

東京教育大学大塚の敷地は、その昔、水戸家の分家である守山藩主松平大学頭の上屋敷であった。
文政10年(西暦1827年)に小石川水戸中納言の礫川邸が類焼し、当主八代目の斉脩(なりのぶ)公(水戸烈公の兄)は夫人峰姫と共に駒籠邸に難を避け、そこから大塚吹上の松平大学頭(頼慎 よりよし)の屋敷に移った。
これを迎えた松平大学頭(頼慎 よりよし)公はよく斉脩公(天然子)を待遇したので、公はその厚意を謝し、吹上邸の庭(占春園)の景観を称えて詠んだのがこの碑文で、格調高いものである。

 吹上邸中山苑東 幾株梅樹遠連空  
 落英渓畔千林雪 斜月楼頭一笛風
 疎影蔢娑留舞鶴 清香馥郁伴詩翁
 人間何処無春色 春色須従此地融
                   天然子

昭和五十二年一月
                東京教育大学


占春園の入り口は、校舎に対峙し左手、スポーツの広場の近く、右手。

Photo

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(門扉を入った真正面の石碑。付属小は左、庭園は右へ)

石碑の解説銘板。

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占春園

守山藩の上屋敷の庭園であった。
延享三年(西紀1746)に建いられて碑文に、
「我が公の園は占春と名づく。
その中観る所は、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月冬雪、凡そ四時の景、有らざるは莫し」
とある。
当時は江戸の三名園の一つであったという。
池を落英池、橋を折柳橋という。
                         
            昭和五七年一○月一日 筑波大学


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(コース)

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(落英池)

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なぜか、突然、嘉納治五郎さんの銅像が---
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(落ち葉のじゅうたんを敷きつめた広場)

その広場に、こん呼びかけ札が。
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都会の塵や騒音から隔絶した世界へ入った感じにひたれる。


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(赤○=松平大学頭藩邸 近江屋板)


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2011.11.26

月輪尼、改め、於敬(ゆき)(4)

「於(ゆき)。そなたは橋場の石浜神明の神官・鈴木大領知庸(ともつね)の養女から、幕臣・永井亀之助安清(やすきよ 52歳 400俵)の次女として、わが家にもらわれることになった。いや、もう、養女としてとどけられておろう」
「はい」

祝い酒を久栄(ひさえ 34歳)にいいつけた平蔵(へいぞう 40歳)が、辰蔵(たつぞう 16歳)と月輪尼(がちりんに 24歳)改め於(24歳)に注いでやりながら、
辰蔵。おぬしの許嫁(いいなずけ)が7歳も若返った祝いである」
「は----?」

永井家は、小普請組頭への養女縁組届けに、17歳と書きまちがえおったのじゃ。わっ、ははは」
「お父上。うれしゅうございます」
が酌を返し、目じりをぬぐった。

「一つ齢上の女房は金の草鞋(わらじ)を履いてでもさがせ---と巷間に申しますのに、辰蔵はいながらにして----ほんにようできた親ごさまでありますこと」
久栄が祝辞とも皮肉ともつかないことを口にした。

「いや、久栄。七つちがいは賢妻というぞ」
「聴いたことはございませぬが、おくんなどもが放っておいてくれない旦那どのには、賢妻でなければ勤まらないかも---」
「祝いの酒だ、久栄も酌(く)め」
「酔いつふれてもよろしゅうございますか?」
「嫁どのが世話をみてくれようぞ」

「於永井家のことは放念してよろしい。長谷川家で育ったように振舞ってくれ。万事は久栄が教えてくれようほどに」
あくまで久栄をたてた。

その夜。
平蔵与詩(よし 28歳)を書見の間へ呼び、
「そなたが三木家の者かかわりであったことが於に幸いした。これは、われからのこころばりの礼である。着物なり頭の飾りものなり、好きに費(つか)ってくれ」

包まれていたのは10両(160万円)であった。

与詩の継母であった志乃(しの 47歳)に会ったことは告げなかった。

参照】2008年1月6日[与詩(よし)を迎えに] (16

長谷川家の離れのことは報らせるまでもなかろう。
が、熱演の糸口になった於の台詞だけは推測できる。

(たっ)つぁん。17歳の処女(おとめ)を試してみる---?」

が閨で平蔵の「へ」も出さなかったのも賢明であった。

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2011.11.25

月輪尼、改め、於敬(ゆき)(3)

「---------」
平蔵(へいぞう 40歳)は、朝倉家(300石)の後家・志乃(しの 47歳)の返答を待ち、じっと瞶(みつめ)ていた。

「---------」
志乃志乃で、まばたきもしないで平蔵を見返していた。
その表情の裏で、したたかになにかを計算しているらしいと読んだ。

数瞬がながれたとき、永井家の後家・伊佐(いさ 68歳)が、歌うようにつぶやきはじめた。
永井の家はの、右府信長)公ご不慮のおり、伊賀越えなされた権現(家康)さま、白子の浜から三河の大浜へお着きになった。それをお出迎えし、ご餐をたてまつった家柄じゃ」

参照】2007年10月20~日[養女のすすめ] () (10

「大本家のことをいうなら、わたしが嫁いだ朝倉のご先祖は、天子さまの皇子(みこ)にはじまり、越前の太守でしたよ」
応じたのは志乃であった。

参考朝倉家と朝倉義景

(あ、家柄をいいたて、値段をつりあげようと図っている。痴耄(ちもう)は擬態であったか---)

「むつかしい話なら、ほかにもこころあたりがあるから、これにて打ちきろう」
平蔵が手をうち、〔五鉄〕の亭主の三次郎(さんじろう 36歳)を呼ぼうとした。

「お待ちを---」
志乃が止め、伊佐とうなずきを交わし、
亀次郎(かめじろう 53歳)に50両(800万円)、わたしに10両(160万円)---」

首をふった。

「30両(480万円)と5両(80円)では---?」

平蔵が肯(がえん)じないとみると、
「10両(160万円)と3両(48万円)

懐から用意しておいた書付けをだした。
それには、5両(80万円)と1両(16万円)を借用と、伊佐志乃の記名箇所、証人として目付・池田修理長恵(ながしげ 41歳 900石)の署名と花押があった。


ちゅうすけのひとり言】たまたま手にした史料から、水戸徳川の支家・守山藩主が歴代大学頭に叙されていたとわかった。
道理で、『寛政重修諸家譜』の「称呼索引」に引っかかってこなかったわけだ。

寛政譜』が編まれた時代、大学頭といったら守山藩主、とみんなが察していたらしい。

これで数年越しの疑問が氷解し、図書館で守山藩のデータをコピーして帰ったのだが、こんどはヒントをくれた史料がどれだっか、思い出せない。
コピーした守山藩のデータには、藩の要職者に三木姓はいなかった。

守山藩主は常時在府ときめられており、上屋敷は現在の春日通り・大塚車庫前から一筋へ入った桜の巨樹並木の東の教育の森センターの一帯。

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(庭園が現在は教育の森となっていることを告げる銘板)

この地は、徳川光圀の弟、徳川頼元が万治元年(1659)屋敷とした。その子頼貞は元禄13年(1700)常陸の国)(茨城・行方)と陸奥(守山)3郡2万石をうけ守山藩主として大学頭を名のった。邸内敷地6万2千坪という。
氷川下の低地にある池は当時吹上邸として有名な占春園の名残りである。
ホトトギスの名所であったという。
明治36年東京高等師範学校がお茶の水(現医科歯科大学の所在地)よりここに移転してきた。戦後東京教育大学・筑波大学へと発した。
昭和59年区民の念願により旧東京教育大学跡地のうち、約29ヘクタールの払い下げをうけ、区民の憩いの場・防災広場・スポーツセンターとして活用するため、都心の緑の地として設計した。
そしてこの由緒ある地を『教育の森公園』と命名した。
  昭和62年3月   東京都文京区教育委員会  

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(ゆったりと憩う人たち)

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(旧守山藩邸跡の文京区スポーツ・センターや占春園の案内図)


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2011.11.24

月輪尼、改め、於敬(ゆき)(2)

「いかがでござろう---?」
平蔵(へいぞう 40歳)の問いかけに、永井家のおばば・伊佐(いさ 68歳)は、深い皺がきざまれている口元をもぐもぐさせ、
「わたいが17歳で三之丞安静 やすちか)どのに嫁いだときは、あちらはひとつ下の16歳でのう。初心(うぶ)なくせに元気だけは勇ましゅうて、とんでもないところを突いてこられて、おかしいやら、情けないやらで---」

(いかん、痴耄(ちもう)がはじまっておるようだ)

隣りの志乃(しの 47歳)があやまり、伊佐の耳元へ口を寄せ冷(さ)めた声で、
「姉上。お訊きなのは初めての晩のことではありませぬ。亀次郎安清 やすきよ 53歳)どのの意向です」

亀次郎? だから、あれは、やっとうまくいき、その晩に種づいたのよ。三之丞どのが放たれたときは、真冬だというに汗まみれであったわ。け、けけけけ」
初夜の房事でみごもったことが自慢であったらしい。

「その後は、まったく産めなかったくせに---」
志乃が小さくつぶやいた。
自分は、朝倉仁左衛門景増(かげます 享年61歳)の児を2人なしたことを誇りにおもっているらしかった。

参照】200年8月17日[与詩(よし)を迎えに] (18

もっとも、家女に産ませた2女を育てさせられたが---。

三之丞安静永井家の次男であった。
家は長男の助次郎治元(はるもと 享年23歳)が継いでいたが、病身で、いずれ、弟の三之丞が家督すると目算していたので、未嫁(みか)の助次郎をさしおき、伊佐が娶(めと)られた。
つまり、伊佐は部屋住みの三之丞に嫁(か)するという、当時としては異例の婚儀であった。

300坪に足りない屋敷は南本所林町5丁目横町にあり、長谷川邸からも朝倉家からも1丁半(160m)と離れていなかった。

亀次郎が誕生して2年後の12月に、助次郎治元は妻なし子なしのまま逝った。
三之丞安静に遺跡相続の許しが与えられた。
伊佐は、正式に400俵の幕臣の内室の地位にすわった。

遺跡を継いだ安静は、3年目、21歳で西丸・小姓組番士として出仕したが30歳になってすぐに命がつきる前の数年間は、病気休仕届けをだす期間が多かった。

一人っ子の亀次郎安清(やすきよ)に、53歳にいたるまで、出仕の呼び出しがなかったのは、病弱というよりいささか痴呆の気味があったためであろうと推察している。

それでも子どもだけは6人もなしているが、正室は娶っていない。

平蔵が着目したのは、そこであった。

「姉は、承知してくれているのです。ただ、亀次郎どのがのろはのろなりに金次第と申しておりまして---」
姉を見かぎった志乃が代弁した。
(それを聴くためのしゃも鍋でもあった)

平蔵は黙って志乃の目を瞶(みつめ)た。

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(安静・安清の「寛政譜」)

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2011.11.23

月輪尼、改め、於敬(ゆき)

月輪尼(がちりんに 24歳)は俗名・於(ゆき)に戻り、三ッ目の通りの長谷川邸の離れで、津紀(つき 2歳)と暮らしているが、於のことを、
「ちいおば」
と呼んで、ときどき乳房をふくませてもらっていた。

離れにいたお(たえ 61歳)は、孫の辰蔵(たつぞう 16歳)がつかっていた部屋へ移った。

婚儀の披露目はまだしていない。
親族へは、於の頭髪が伸びるのを俟(ま)って、と伝えていた。
人別は、浅草の北、橋場の石浜神明の神官・鈴木大領知庸(ともつね)の養女であった。

幕臣の養女へ形だけ転じる下準備は、平蔵(へいぞう 40歳)が万端すすめている。

参照】2011年11月12日[月輪尼の初瀬(はせ)への旅] (11

は普段は頭髪が短いことを人目にはさらしたくないとみえ頭巾で覆っているが、登城する平蔵久栄(ひさえ 33歳)とともに見送るときは、頭巾をとった。

3寸(9cm)ばかりにまでのびてきている頭を目にするたびに、平蔵は話をすすめなければと思った。
下城の途次、南本所林町3丁目というより五間堀・伊予橋東といったほうが近い朝倉邸を訪れ、先代の残され人となっている志乃(しの 47歳)を打診していた。

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(南本所五間堀・伊予橋東の朝倉家)


参照】2008年1月5日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (18

志乃とは、22年前、銕三郎(てつさぶろう)が18歳、駿府の町奉行・朝倉仁左衛門景増(かげます 享年61歳)のむすめ・与詩(よし 6歳=当時)を養女にもらいうけに出向いたとき、その役宅で会った。

会ったといっても、ほんの半刻(1時間)ほど言葉を交わしただけだったが。
そのとき、景増は死の床にあり、志乃はその3人目の室であった。
看病と先妻や家女や自分が産んだ子の世話にまぎれ、齢よりもやつれていた。

平蔵にとっての25歳の後家といえば、銕三郎(てつさぶろう 14歳)をはじめて女躰に導いてくれたみずみずしい肌のお芙沙(ふさ 25歳)---

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

さらには、戒律を犯してまで銕三郎と情欲をともにして散った貞妙尼(じょみょうに 25歳)

参照】2009年10月13日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] (

そして、光が透けるほどに白い肌を桜色に上気させて高みに達した里貴(りき 29歳)---

参照】2010年1月19日[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (

22歳の銕三郎に、1年以上もあれこれの性技を授けてれたお(なか 33歳)---

参照】2008年8月14日[〔橘屋〕のお仲] (

2児を育てながに与板で大店の廻船問屋を支えていた家つき後家だったお佐千(さち 34歳)
参照】2011年3月18日~[与板への旅] (14) (16

みんな、おんなっ気をたっぷりたたえていた。

ところが25歳で後家となった志乃はそれきり男気を絶って47歳まできたらしく、細く、艶のない躰つきは、7歳しか違わない平蔵の目には、まさに老婆であった。

朝倉の家は、脇腹が産んだ主殿光景(てるかげ 55歳 書院番士)が継いでいたが、この仁は無欲であったか凡庸であったか、家禄300石をまもるのが精一杯であった。
継母の志乃はそれが不満らしく、平蔵に愚痴をもらしてばかりであった。

その宵、平蔵志乃をしゃも鍋〔五鉄〕の2階へ招いていた。
もう一人、老婆がいた。
永井三郎右衛門安静(やすちか 享年30歳 400石)の後家・伊佐(いさ 64歳)で、男っ気断ちのくらしを40年もつづけていた。

2人は、陸奥・守山藩主の松平大学頭頼寛(よりひろ 2万石)の家臣・三木久大夫忠位(ただたか)のむすめであった。

平蔵が体験してきた後家は艶っぽい思い出ばかりだが、目の前の2人は干からびた筋のようで、おんなという字をとうに捨てている老婆であった。

あらかじめ三次郎(さんじろう 36歳)に、招いているのは婆ぁさんたちで歯も欠けていようから、しゃもはたたいて団子に、葱も細く裂いておくようにいいつけておいた。

婆ぁさんたちがいちばん舌つづみをうったのは、やわらかい肝の甘醤油煮であった。

酒はもっぱら平蔵が呑んだ。
鍋は半分もすすまなかった。

「いかがでござろう、永井のおばばどの---?」

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2011.11.22

ちゅうすけのひとり言(81)

これまでの[ちゅうすけのひとり言]
()内のオレンジの数字をクリックでリンクします。


80) 下(しも)の禁裏附・水原摂津守保明と平蔵の妹・多可 2011.11.21
79) 禁裏附の職務 2011.11.20
78) 後藤晃一さん『徳川家治の政治に学べ』感想(2011.)  2011.10.31
77) 足高(たしだか)の実禄 2011.09.20
76) 長谷川久三郎家の知行地の移転 2011.09.09

75) 長谷川平蔵宣以の第三女謎 2011.09.08
74) 『群馬県史』の記録にみる長谷川2家・続 2011.07.20
73) 『群馬県史』の記録にみる長谷川2家 2011.07.19
72) これまでのお気に入りコンテンツ 2011.07.08 
71) ちゅうすけのひとり言・これまで 2011.086.28

70)若女将・お三津の企みごと……2011.06.28
69)「大岡政談」の[火盗改メ] 2011.0329
68)「今大岡」と呼ばれたが…… 2011.03.28
67)次男・銕五郎の養子が決まったのは……2011.03.27
(66)一橋家の豊千代のお;礼先……2011.02.14
65)将軍・家治(45歳)の世嗣を選んだ面々 2011.02.13
64)豊千代、将軍養子として登城日の儀 2011.02.12
63)目黒・行人坂大火時の火盗改メ役宅の火難 2011.02.07
62)安倍平吉の火盗改メ・増加役考 2010.09.19
61)「ちゅうすけのひとり言」これまで 2010.07.11
60) 長篇[炎の色]の年代 2010.07.07
59) 家治の日光参詣に要した金額など 2010.O6.05
58) 松平賢(まさ)丸(定信)の養家入りの年月日 2010.06.04
57) 日光参詣に参列・不参列の先手組頭リスト 2010.05,26.
56) 世嗣・家基の放鷹で射鳥して賞された士 2010.05.09
55) 平蔵以前に先手・弓の2組々頭11人のリスト 2010.05.08
54) 世嗣・家基の放鷹へ出た記録 2010.05.07
53) 渡来人の女性の肌の白さ 2010.03.31
52) 三方ヶ原の精鎮塚 2010.03.04
51) 禁裏役人の汚職の文献など 2010.01.23
50) 安永2年11月5日の跡目相続者 2010.01.04
49) 安永2年11月5日の跡目相続者 2010.01.03
48) 安永2年10月7日の跡目相続者 2010.01.02
47) 安永2年8月5日の跡目相続者 2010.01.01
46) 安永2年7月5日の跡目相続者 2009.12.31
45) 安永2年6月6日の跡目相続者 2009.12.30
44) 安永2年5月6日の跡目相続者 2009.12.29
43)安永2年5月6日の跡目相続者 2009.12.20
42) 安永2年2月11日の跡目相続者 2009.12.19
41)平蔵が跡目相続を許された安永2年(1773)の跡目相続人数 2009.12.18

40) 禁裏役人の汚職捜査の経緯
39) 3人の禁裏付
38) 禁裏付・水原家と長谷川家
37) 備中守宣雄の後任・山村信濃守良晧(たかあきら 
36) 備中守宣雄への密命はあったか?
35) 川端道喜
34) 銕三郎・初目見の人数の疑問
33) 『犯科帳』の読み返し回数
32) 宮城谷昌光『風は山河より』の三方ヶ原合戦記
31) 田沼意次の重臣2人

30) 駿府の両替商〔松坂屋〕五兵衛と引合い女・お勝
29) 〔憎めない〕盗賊のリスト
28) 諏訪家と長谷川家
27) 時代小説の虚無僧と尺八
26) 小普請方・第4組の支配・長井丹波守尚方の不始末
25) 長谷川家と駿河の瀬名家
24) 〔大川の隠居〕のモデルと撮影
23) 受講者と同姓の『寛政譜』
22) 雑司が谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
21) あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言

20) 長谷川一門から養子に行った服部家とは?
19)  『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん 2008.7.10
18) 三方ヶ原の戦死者---夏目次郎左衛門吉信 2008.7.4
17) 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照 2008.7.3
16) 武田軍の二股城攻め2008.7.2

15) 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日 2008.6.27
14) 三方ヶ原の戦死者リストの区分け 2008.6.13
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
11) 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問 2008.4.28

10) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論 ]2008.4.5
) 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』 2008.3.17
) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち) 2008.2.15
)長谷川平蔵と田沼意次の関係 2008.2.14
) 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係 2008.2.13

) 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期 2008.2.8
) 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先 2008.2.7
) 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁 2008.2.6
) 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿 2008.1.29
) 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した 2008.1.17

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2011.11.21

ちゅうすけのひとり言(80)

下(しも)の禁裏付(きんりづき)の水原(みはら)摂津守保明(やすあきら 64歳=天明5年 400俵 役高1000石 役料1500石)については、13,年前の安永元年(1772)に平蔵宣雄(のぶお 54歳)が京都西町奉行として着任したとき挨拶まわりのついでに、触れたことがあった。

参照】2009年9月8日~[ちゅうすけのひとり言] (37) (38

宣雄が着任したときには京都でなく江戸で腰物奉行であった。
25歳で小普組の与(くみ)頭となり、45歳で腰物奉行に引きあげられた。
家禄200俵から800石高の腰物奉行であるから、抜擢といってよい。
有能でもあり、こころがけもつくしていたのであろう。
さらに、公家衆を相手の禁裏付にまでのぼった。

参照】2009年9月10日[ちゅうすけのひとり言]  (39)

多可が産んだ源之助保興(やすおき)は、父の手あてもあったのであろう、15歳で書院番士として出仕しながら、27歳のときに博打かかわりで遠流となった。

この処分は、天明8年(1788)8月9日にくだされている。

当ブログは、まだ、平蔵(へいぞう 40歳)---(従弟?)保興処分の3年も前の天明5年3月をうろちょろしている。
翌天明6年7月、平蔵は先手組頭に抜擢され、次の年の10月19日から8年4月28日まで、冬場の火盗改メ・助役をつとめ、同年10月2日から本役を勤めている。

火盗改メは、武家を捕縛することはほとんどないが、博打だとどうであろう?
まあ、源之助をあげたのは目付の下の徒目付あたりと推察してはいるが、処分を聴いた平蔵はどんな想いであったろう。

妹おもいの強かった平蔵のことである、仏間でひそかに於多可の霊を慰めていたであろう。

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(保明の実家・幸田家)


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N2
N3
(保明と保興の家譜)


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2011.11.20

ちゅうすけのひとり言(79)

上(かみ)と下(しも)、両方の禁裏付が長谷川家にかかわりがあった幕臣というのもなにかの縁である。
禁裏付の職務を『江戸幕府大辞典』(吉川弘文館 2009刊)から写しておく。

禁裏付(きんりづき) 
天皇の住まう禁裏御所の警衛や同御所内の様子、公家衆の素行を調査・監察するなどした江戸幕府の役職。
寛永20年(1643)、江戸幕府は明正天皇の譲位と後光明天皇の即位にあわせ、はじめて旗本2名を同職に任じ、以後、原則定員は2名で、勤務は当番制となった。
禁裏付の就任者は、従五位下に叙され、その職務の必要上、毎日参内し、御所内の御用部屋に詰めた。
禁裏付の参内する様子は、下橋敬長(しもはしゆきおさ)の談話速記録『幕末の宮廷』に詳しく、「なかなかに偉い勢い」と表現されている。
参内後の禁裏付は、武家伝奏(ぶけてんそう)と折衝したり、京都所司代からの書状を武家伝奏らに回付したりし、また武家伝奏らを通じて出される公家衆からの要望などを京都所司代に取り次ぐなどの仕事をこなした。
また、禁裏付の職務の一つに、天皇以下の日常生活を支える口向(くちむけ)を幕府の立場から監督することがあった。
その口向で働く口向諸役人の統括者は執次(とりつぎ)はと呼ばれる地下官人であった。              その地下官人は長橋局(ながはしのつぼね)に付属していたが、禁裏付は幕府から派遣された旗本として金銭の流れや口向諸役人の職務の状況を監督した。
この監督の結果、安永2年(1773)には口向の諸経費などをめぐる不正流用・架空発注事件が発覚するなどしており、同事件では大量の処分者を出し、口向を監督する機構改革も行われた。
なお、禁裏付は慶応3年(1867)に廃止されるまで存続した。


引用されている下橋敬長『幕末の宮廷』(ワイド東洋文庫 2007)は、当ブログの不正事件の探索の項で紹介している。

_140参照】2009年9月23日[『幕末の宮廷』 因幡薬師

同書から、禁裏付についての説明を転写する。

口向(くちむけ)諸役人

それから、今度は口向諸役人を申します。これは本をお控えおきを願います(講述の際刷物を配ってあったと思われる)。
御附武家(禁裏付) 口向、御附武家(オツキブケ)衆2人、徳川家の旗本御附人、上(カミ 北)の御附は、相国寺門前町が今日の官宅、その時分の役宅でございますが、其処におりまして、下(シモ)の御附は、今日で言う高等女学校(現鴨浙高校)になっております寺町荒神口の角が役宅。
それが月番です。
7月が下の御附が月番ですと、8月は上の御附が月番。
そうして、すべて御用を取り扱いますのは月番の職掌でございます。
非番の方は相談はむろんでございますが、役宅におきまして
御用は取り扱いませぬ、御用を取り扱うのは、すべて当番でございます。
これはなかなか見識なものでございまして、此処に御附2人と申します者が、御内儀の口向を総括し、取次以
下士分残らず、口向及び仕丁に至るまでの進退(官の任免)を掌る。
すべて御用談は、武家の伝奏(てんそう 伝奏に武家伝奏と寺社伝奏がある)と相談をし、武家伝奏も、徳川家へ御用談の筋は、御附の詰所(祇候 しこうの間)へ伝奏が罷り出て、御附武家(禁裏付)と相談する。

御附(禁裏付)の参内行列 それから、御附が役宅から朝廷へ向けて参上いたします時には、なかなか偉い勢いなものです。
先徒士(せんかち)3人、次に槍(持)、それから駕籠に乗りまして、昇夫(かごかき)が4人で、近習2人両側に召し連れまして、後に草履取と傘持、その後に押(オサエ)と申して、羽織を着まして一本差した下(しもべ)が2人ほどございます。


朝廷・公家衆に対する幕府の威光の虚勢でもあったろいう。


ちゅうすけ注】左兵衛佐さんのコメントで触れられている平蔵宣雄の心くばりは、2009年9月9日~[宣雄、着任] (1) () () () () (

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2011.11.19

建部甚右衛門、禁裏付に(3)

「われが赴任するのは上(かみ)の役宅だが、下(しも)の水原(みはら)摂津守保明 やすあきら 64歳 400俵)うじは、たしか、長谷川うじのご縁者と耳にした」
建部大和守広殷 (ひろかず 58歳 1000石)が、平蔵(へいぞう 40歳)の表情の変化をうかがいながら口にした。

「はい。拙と同(おな)い齢の妹が摂津さまののち添えとして嫁(か)しましたが、一児をなしてすぐに没しました」

平蔵が述べた同(おな)い齢の妹とは、於多可(たか 享年17歳)のことである。
水戸家支藩の守山藩(2万石)の家臣・三木家から養女として、亡父・宣雄(のぶお 41歳)が引きとった。
銕三郎(てつさぶろう)は14歳まで一人っ子として育ったから、突然妹ができたわけだが、その年、三島宿で若後家・お芙佐(ふさ 25歳)によって性の愉しみの門をくぐっていたから、多可をおんなとして見がちであった。

参照】2007年10月28日~[多可が来た] () () () () () () (

多可は16歳で水原善次郎保明(やすあきら 40歳=当時 200俵)へ後妻として嫁ぎ、嫡子を産んで卒した。
細々しい体躯に、出産は無理であったかもしれない。

2007年12月3日~[多可の嫁入り] () () () () () () (

善次郎保明はその後、3人目の妻を迎えた。
幼児の保育つということもあったろうが、妻は5児を産んでいるから、まんざらでもなかったのであろう。
長谷川家としては、疎遠にならざるをえなかった。

2008年1月6日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) (19) (20) 

平蔵は、水原善次郎保明にふくむところはなかったが、疎遠の人の話題に和することもできなかった。

察した苦労人の大和守広殷が、
長谷川うじは、京にはつづいている知己もござろう、言伝(ことづ)てでもあらば、うかがっておこう」
祇園の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 50すぎ)の名をだすのもはばかられた。

「下(しも)の禁裏附どのの役宅は寺町荒神口と、かすかにおぼえております。その荒神口を呼び名にしておる〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 67歳)という盗人の噂がお耳に達しましたら、お報せいただきとうございます」
「なるほど。あくまでも火盗改メかかわりであることよ、な。は、ははは」

後日談を記すと、助太郎はすでに病死していたと、解散してから京都西町奉行所に捕縛・処分された一味の者の調書にあることを、問いあわせた禁裏附・建部大和守広殷へ返書してきたという。

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2011.11.18

建部甚右衛門、禁裏付に(2)

「口向(くちむけ)役人たちの不正を摘発したのは、長谷川備中守宣雄 のぶお 享年55歳)どの後任の山村信濃守良旺 よしあきら)どのということになっておるが、われは、そうはおもっておらぬのじゃ」
「は----」

参照】2009年8月10日[ちゅうすけのひとり言] (36

新任の禁裏付ととして発令された建部大和守広殷 (ひろかず 58歳 1000石)を叙爵名で記したのは、京へのぼって禁裏・公家を看視・応対する幕臣の叙爵は、京都西町奉行に任じられた長谷川備中守宣雄の例でみたとおり、発令からのお礼挨拶まわりのほぼ1ヶ月のうちに受爵してから上京していた。
(恒例の一括叙爵は、毎年12月の上旬であった)

建部広殷が江戸を発(た)つゆるしを得たのは、発令から34日後と『実記』に記載されているが、受爵日は欠落している。
しかし、34日内いずれかの日に拝受しているはずなので、以後は大和守でとおしたい。

備中どのにも内々にも密命があったものと見ておる。その証拠に、おことが先に上京しておる。ふつうは、家族は同行しないものじゃ」
「恐れいました」
「隠密まわりの結果はいかがであったの?」

町方にも口向(くちむけ 宮廷)役人と縁故のある者が少なくないので、ことを隠密裡にすすめる必要があった。

(かつ 31歳=当時)という旧知のおんなを容疑の役人の家へ入れ込ませようと図った。

参照】2009年8月4日~[お勝、潜入] () () () (

禁裏は奥が淵のように深く暗いので、次は役人の内証たちのほうから釣り針に喰らいついてくるように化粧指南所をお勝に開かせた。

参照】2009年8月24日~[化粧(けわい)指南師のお勝] () () () () () () () () (

御所役人の購入代金ごまかとし解決の糸口は、あっけない形で見つかった。

参照】2009年9月23日[『幕末の宮廷』 因幡薬師


役人の内証たちを釣り針にかける方策として刷りはじめた〔:化粧(けわい)読みうり〕が縁で、誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼と親しくなったことも、尼がすでにこの世の人ではなく、建部大和守にはかかわりがないことなので伏せた。

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (
2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2011.11.17

建部甚右衛門、禁裏付に

「若君は、鷹狩りはさほどにお好きではないようだ」
天明5年4月11日の亀戸村はずれで狩猟のあと、西丸ではお供をした近習の者たちからそんな噂がそれとなく洩れてきたが、道々、辻々の警備に専念していた平蔵(へいぞう 40歳)は、雨もよいの天候のせいであろうぐらいにしか受けとらなかった。

ちゅうすけ注】『徳川実紀』をたしかめたところ、この年、秋から冬へかけての狩猟期に、家斉(いえなり 13歳)が鷹狩りに出かけた記録はない。将軍・家治(いえはる 46歳)はこの秋に3度ほど催している。

じつはこの11日、平蔵にかかわりのある仁の人事異動があった。
先手・鉄砲(つつ)の12の組頭の建部甚右衛門広殷(ひろかず 58歳 1000石)に禁裏付(きんりづき)が命じられたのである。

禁裏付は1500石格だから格高は先手組頭と変わらないが、爵位として従五位下が授けられ位階は一段すすんだといえようら

建部広殷平蔵との交流についいては、これまでにしばしば触れてきたが主なものは次のとおり。

参照】2011年4月6日~[火盗改メ・堀 帯刀秀隆] (1) () (
2011年4月18日~[火盗改メ増役・建部甚右衛門] () () (
2011年6月1日~[建部甚右衛門の免任] () () (
2011年6月14日~[建部甚右衛門と里貴] () () (

建部家へ都合を問いあわせ、一夕、祝辞を述べに訪(おとの)うた。
玄関で祝意と角樽をわたしてすますつもりであったが、客間へ招じ入れられてしまった。

「〔季四〕の女将が亡じたそうだの。惜しいことをした」
「お悔やみ、恐れいります」
「肌が抜けるほど白く、雪国育ちかとおもうたら、なんと紀州と聴き、存外であった」

800年ほど昔に百済から渡来し、血を混じえずに生きてきた村の生まれと聴いていたとぼかすと、
「20年前に出おうていたら、ただではすまさなかったろう、は、ははは」
笑いおさめると、ぎょろりと平蔵を見すえ、
長谷川うじは果報者よのう」
とうの昔に見ぬいていたがさすがに、深く知りあっておくといい仁は---と転じてくれた。

存命かどうかわからないが、御所の新在家門(しんざいけもん 通称·蛤門)前の、粽司(ちまきつかさ)の〔道喜(どうき)〕を紹介した。

参照】2009年7月31日[〔川端道喜〕]

「それはよいご仁をお引きあわせくだされた。われが入る禁裏付の上(かみ)の役宅の相国寺門前町からも近いから、かならず訪ねてみよう」

さすがに、〔千載(せんざい)〕のお(とよ 25歳=当時)とのことは口にできなかった。

参照】2009年7月21日~[〔千載(せんざい)〕のお豊]() () () () () () () () (10) (11

あれは、若気のあやまりであった。

あやまりといえば、建部組の仕事で東海道・島田宿の本陣・〔中尾(置塩)〕のお三津(みつ 23歳=当時)との一件もそうであった。

参照】201154~[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] () () () () () () (

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2011.11.16

お通の恋(4)

弘二(こうじ 22歳)どんは、ぜひに嫁にと---」<

横川に架かる菊川橋西詰の酒亭〔ひさご〕で、飯台を囲んでいるのは浅草・橋場の元締・〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 38歳)とその女房で料亭・〔銀波楼〕の女将の小浪(こなみ 46歳)、お(つう 18歳)の母親で〔三文(さんもん)茶亭〕の女将・お(くめ 44歳)とその夫で長谷川家の家士・松造(よしぞう 34歳)。
そして、長谷川平蔵(へいぞう 40歳)であった。

平蔵が、おの義理の父親・松造に、渋塗職の弘二の気持ちをたしかめろととすすめても腰をあげないので、このままにしておくと、おがじれて出会茶屋あたりで安っぽい交合を誘いかねない、弘二のほうはおなごの経験がないというから、ひょっとしたらあわてて不具合なことになり仲がこわれるかもしれないと、今助弘二の気持ちを訊きださせた。

今助にいいつけたのは、婚儀となったら、今助小浪の夫婦の媒酌、〔銀波楼〕での披露までこころづもりしてのことであった。

弘二が踏みだしかねていたのは、病身な母親をかかえている負い目のある自分に嫁(か)すことは、おにとって幸せにはなるまいとおもっていたからとわかった。

平蔵のあしらいに、気のり薄だった松造もようやく愁眉をひらいた。
は、惚れた男と添うのがむすめにとっていちばんと割り切っていた。
それに、弘二の家業の渋塗りというのも気にいっていた。

あとでおがもらしたところによると、生渋(きしぶ)は椑柿(しぶがき)1斗(18㍑)を2.5倍.の水に入れ、臼で搗き、一晩おいてしぼったもので、黒渋はそれに灰墨(はいずみ)をまぜたものというところも合点がいった。
つまり、元手がほとんどかからず、手間賃が黒渋塗りで坪(1.8㎡)あたり100文(4000円)、灰汁洗(あくあら)いつきだと5割増し、1日に5坪はこなすと聴いたことによる。

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(渋塗り職 『風俗画報』1898.01.10号 塗り絵師:ちゅうすけ)


「もっとも、雨の日は仕事になりせんから、ならすと働けるのは年に300日あるかどうかです」
弘二のことばに、それでも年37両(600万円)と手早く暗算した。
(椑柿代をさっぴいても25両はのこる。おも安心してややが産める)

の計算を軽んじてはならない、女は所帯をもつとなればだれだって先のさきまで瀬ぶみする。
惚れたの好きだのは瀬ぶみが済んでのことだ。

いま日に5坪こなしているなら、添ったら尻をたたいて6坪塗る算段をさせればいい。
小僧をつかえば8坪もいけるかもしれない。

の胸のうちを読んだ平蔵松造に、
「〔三文茶亭〕の欄間に、渋塗り注文取次ぎどころという披露目札を貼ったらとおにいってみよ。ほかにも希望があったら取次ぎ料を5厘(5%)とでも決めておくんだな」
(この案は元締衆にも教え、それぞれのシマ内の茶店と銭湯を仕切らせるか。若い衆の小遣いかせぎにはなるだろう。いまは商い人によって世間がまわっておるから、ほかにもお披露目口はありそうだな)


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2011.11.15

お通の恋(3)

「ほいでね、お(つう 18歳)はんが訊くん、最初の時、どこにどないして通すんって」
「きわどいな」
奈々(なな 18歳)に会うことをすすめたのは平蔵(へいぞう 40歳)ではあったが、おがあからさまに初会のことを訊くとは予想もしていなかった。

「そんなん、寺子屋---こっちゃは手習いどころとかゆうんやったね。あそこでおんなになった徴(しる)しらの月のものが始まった子同士、話しおうてるやん---ここからややがでてくるし、種が入るんもここやゆうて」

は10歳の時から昼間は〔三文(さんもん)茶亭〕で母・お(くめ 36歳=当時)の手助けにかかりっきりで、同じ齢ごろの手習い子たちと徴(しる)し談義)やふくらみはじめた乳房のくらべっこをすることを経験していなかった。

「月のものの手当ては、ぜぇんぶ、お(45歳=)はんから教わったゆうてた」
「そこが接合の門だということまで手引きしたのか?」
「まさか。相手の男はんのいわはるままにしたらええ、ゆうたら、弘二ゆう人は、まだ、おなごを抱いたことがないんやって自慢されたん。そんなん、自慢することやあらへん、いおうおもたけど、わけ訊かれたら(くら)はんの手練(てだ)れ---足練れ? をいわんならんし---」

「2人の閨(ねや)ごとは、ほかにもらしてはならぬ」
「せやから、奈保(なお 22歳)はんに訊いとおみ、ゆうといた」
(やっ)さん(多岐安長元簡(もとやす 31歳 奈保の夫)に「好女(こうじょ)」の条件をたれられたら、江戸育ちのおが自信を失いかねないから、さんに警告しておかないと---)

参照】2010年12月21日[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (

「おは、本気で弘二とやらに抱かれたがっておるようであったか?」
「思いつめとるようやった」
弘二が抱きたいといったのか?」
「いわれてぇへんよって、想うてくれてぇへんと---むすめやったら、だれかてそないに悩むもん」

奈々も覚えがあるか?」
はんのときほど真剣やないけど、ちょびっとはあった」
「誰だ?」
「忘れてもうた。忘れさせたんははんやけど---」

「いまが大事だ。奈々はわれの宝ものだ」
「うれしがせはるぅ。あんじょ腰まわしまひょ」

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2011.11.14

お通の恋(2)

「知りあったが去年の秋おそくだと、かれこれ半年になる」
「さようでございます」
しゃも鍋屋〔五鉄〕の2階で話しあっているのは、平蔵(へいぞう 40歳)と松造(よしぞう 35歳)の主従であった。

「それで、お(つう 18歳)は、処女(おとめ)のしるしを、渋塗り職の弘二(こうじ 22歳)に捧げてしまったのか」
松造の躰が、一瞬、震えた。

現代(いま)と違い、おとめの値打ちがもうちょっと貴重視にされていた。

もっとも、平蔵の室の久栄(ひさえ 16歳=当時)が挙式前に、
「躰にお徴(しるし)を---」
強く迫り、経験ずみのおんたちしかしらなかった銕三郎(てつさぶろう 23歳=当時)をうろたえさせたものであった。

参照】2008年12月16日~[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」] () () () () 

松造がなにかいいかけた時に、亭主の三次郎(さんじろう 36歳)が平蔵には冷や酒、松造には熱燗をもってあがってきたので、おの話題は打ち切られた。


別れぎわに、
〔おは、奈々(なな 18歳)と同(おな)い齢だし、礼法もいっしょに習った仲だ。相談ごとがあったら訪ねさせるがよい。母親にもいえないことでも話すかもしれぬ」
「伝えておきます」


それから4,5日の登城の往還に松造は、ほかの供の耳を気づかったか、おの名を口にしなかった。
そのあと平蔵は、4月11日と決まっている家斉(いえなり 13歳)の初鷹狩りの下見に刻(とき)をとられ、おのことは放念せざるを得なかった。

家斉の初鷹狩りの狩り場にあてられたのは東深川というより、もっと東の亀戸村の羅漢寺辺であった。
長谷川家の屋敷から小1里(3km)弱であったから登城よりも近まということで、奈々の家へは寄れなかった。


「お(つう)はん? 来たよ」
「なにかいってたか?」
「うん。(くら)さんとの始まりを訊かれた」
「おいおい。行水のことを話したのではあるまいな」
奈々はぺろりと舌をだし、
「いうはずない。事故で結ばれたって、口が裂けてもいわれへん。ええおんなとして恥さらしやもん」

参照】2011年8月30日[新しい命、消えた命] (

2階で並んで火事をながめていたとき、平蔵の掌がなにかの拍子に奈々の尻に触れ、そのまま布団に倒れこんのだというと、
「お尻、だしてたの?」
だから、この半纏(はんてん)みたいな閨衣(,ねやい)を見せると、着物を脱いで着てみ、
「あたいには、着てみせてあげる場所がないから無理や」
泣きべそかいてた。

里貴(ゆき 逝年40歳)ゆずりといってやったか?」
「ゆうわけないやん」
「こいつ---」
「でも、さんがあの時、これ着てたうちのお尻(いど)に触ったんはほんまやもん」

参照】2011年7月14日[奈々という乙女] (

「覚えてない」
「うち、ちゃんと覚えとる」
(おんなは、つまらないことでも、自分に都合がいいことはいつまでも覚えておる生きものだ)

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2011.11.13

お通の恋

松造(よしぞう 35歳)。心配ごとでもあるのか。浮かぬ顔をしておるぞ」

天明5年(1785)3月16日、幼君・家斉(いえなり 13歳)の王子近辺への遊行があり、平蔵(へいぞう 40歳)が組頭をしている西丸・徒(かち)の3の組は、駒込から飛鳥山までの半里(2km)ほどの辻々を徒士たちが警備し、役目をはたした。

月魄(つきしろ)で先まわりしての配備の手くばりにあわただしかった平蔵に、駆け足でしたがった供の家士たちと口とりのねぎらいの宴を、〔五鉄〕でもった。

おのおのを先に返し、松造に新しい銚子を頼み、注いでやりながら問うた。
「はい。うちのことでして---」
「お(くめ 45歳)が身ごもったか?」

苦笑した松造が首をふり、
「お(つう 18歳)に惚れた男ができたらしいのです」

は、おの連れ子である。
御厩河岸の渡し場の前で、母親とともに〔三文(さんもん)茶亭〕を切りもりしているというか、看板むすめとして8年ほどやってきていた。

参照】20101012~[〔三文(さんもん)茶亭〕のお粂(くめ)] (1) (2) (3

店にでたころは10歳だったから、可愛いという風情であったが、白粉問屋〔福田屋〕で化粧(けわい)指南師をしているお勝(かつ 43歳)が自分のむすめのように入念に手入れしてやっているので、齢ごろの艶っ気も加わり、人目を引くばかりになっていた。

「18歳だからまだまだねんねとおもっておりましたが---」
母親のおにいわせると、むすめが18にもなって思いおもわれる男ができないようでは一人前のおんなではない、躰の芯から男がほしくてほしくてじっとしてられないが、いざ、身をまかすかとなると文字通り腰が引けるものだから、見守っていればいいのだそうだが、
「なさぬ仲の手前としては、あぶなっかしくて、もったいなくて---」
「もったいないって、松造が婿になれるわけでもあるまいに--」
「それはそうでございますが、あんな男にむざむざ---」

「あんな男とは---?」
「渋塗り職で、22歳になる弘二(こうじ)って青二才です」
松造。職人で22歳といえば、りっぱに一本立ちであろう」

弘二と知りあったのは、去年の晩秋だという。
御厩渡しで対岸の石原町の家へ帰る渡舟を待つあいだに〔三文茶亭〕でひと息入れ、よほどに喉がかわいていたのか、お代わりを2杯し、勘定という段に、おが、
「3文(120円)です---」
「そりゃあおかしい。お代わりを2度もしてもらってる」
9文(360円)を置こうとしたので、6文を中にお通ともみあいになった。
手と手が触れあった。
その時、お通の心の臓に衝撃が走った。

けっきょく、3文ですましたが、翌日、終い舟の前にやってき、表戸8枚を煮沸した灰汁(はいじる)での灰汁洗(あくあら)いからはじめた。
灰汁の熱沸は、弘二の指示でおがまめまめしく鍋や火の番をした。
乾いた板戸から色味の薄い生渋(きしぶ)を塗った。

1刻(2時間)後、茶代の返礼だと笑った。
双頬にできたえくぼに、おはころりと参った。

渡し舟があがってしまっていたから、対岸の石原町の家まで生渋と黒渋を入れた2ヶの小桶を両天秤で担いで大川橋をわたるのもおっくうだから、朝まで預かってくれといわれ、おは承知した。

迎えにきたおが、
「夕餉(ゆうげ)の用意ができているから、食べていきなよ」

食事のあいまに聞きだすと、母一人子一人、渋塗り職だった父親は3年前に亡じ、その得意先を引き継いでやっているのだと。
酒も呑(や)らず、寝たり起きたりの母親を看ていることもわかった。
松造は、始終むっつりと、やりとりを聴きながら呑んでいるだけであった。

干物を持たせて帰したが、翌朝、
弘二さんが桶をとりに見えるから---」
は六ッ(午前6時)には銭湯へゆき、朝飯もそこそこに店へでようとしたので、おが、
「男を待たせるほどにあつかわないと、軽いおんなに見られるから、じっくりお構え---」

「そういうおは、松造の布団にもぐりこんできたのであろう。は、ははは」
「殿。30過ぎて後家を立てていたおと、未通のおぼこむすめとを、いっしょになさらないでください」
「おの肩をもつことよ」


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2011.11.12

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(11)

「うち、初瀬(はせ)へはゆきまへん。江戸へ戻ります」
翌朝、月輪尼(がちりんに 24歳)が宣言し、ふっともらした。

「2年近く前、(たっ)つぁんに術をかけて法悦をむさぼったあの部屋でのこころの中の長谷寺は、桜花ざかりやった」

_360
(五重塔と桜花)

それが、呼び出しがかかって波羅夷(はらい 犯戒)罪を予感してからの長谷寺の心象は、寒々しい雪景色だと。

_360_2
(雪景色の長谷寺の庵への道)


「長谷寺へ帰らないのはいいとして、護持院の蓮華庵に戻ることはできまい?」
案じた辰蔵(たつぞう 16歳)に、
(たっ)つぁんと、いっしょに暮らしまひょ」
「うーむ」
「おいや、どすか?」
「そうではない」

月輪尼のいい分は聴くまでもなくわかっていた。
これほど庶民が困っているのに、新義真言宗の本山の僧たちは戒律だの宗律だのにこだわり、おのれたちの権威の保持を考えているだけだ、というのであろう。

「よし。引き返そう」
青みが増している尼の頭を掌でなぜて辰蔵が、
「江戸を発(た)ってより一度も剃らないから、帰俗(きぞく)する気だなとはおもっていた」
「尼頭巾かぶってましたのにぃ---?」
「毎夜、抱いて触れていたではないか」
「ほんに---そやけど、あんときは、っつぁんの指がくると、なんにもわからへんようになるよって---」

月輪尼の頭には半分(はんぶ 1.5mm)弱の毛髪がのびていた。
「じつは、夜ごと、ここに触れるたびに、帰俗して髪を結(ゆ)った裸の:敬尼(ゆきあま)をおもいうかべて昂(たか)ぶっておった」
「髪を結ったら、もう、敬尼やおへん。ただのどす」


4日後、戻ってきた2人を迎えても、平蔵(へいぞう 40歳)は驚かなかった。
「そうか。安中(あんなか)宿で決めたか。その先の碓氷(うすい)峠で月魄(つきしろ)が脚を痛めなければよいがと案じておった」
「父上は2人のことより、月魄の脚が心配でしたか?」

平蔵の応えに、敬尼が喜悦した。
還俗(:げんぞ)した於敬(ゆき)は、とりあえず、橋場の石浜神明の神官・鈴木大領知庸(ともつね)の養女となって仏籍を消す。

「そのことは、月番の寺社お奉行・堀田相模守 正順 まさなり 36歳)さまのお許しを得ておる」

月輪尼が破戒ではなく::還俗のあつかいになることは、護国寺の管長が内諾をくだした。

「あとは、石浜神明から旗本の家の養女に転じ、わが長谷川家の嫡子の室となる資格を得るばかりじゃ。その話は、どのの還俗の決心)を聴かないことには進められなくてな」
「お舅(とう)さま-----」
月輪尼が泣き伏した。

津紀(つき 2歳)も待ちかねておろう。いっしょに湯につかり、洗ってやれ」

参照】2011年10月30日[石浜神明宮の神職・鈴木氏] 
20071020~[養女のすすめ] () () ()

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2011.11.11

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(10)

湯をつかってきた辰蔵(たつぞう 16歳)が、隣りへはいってき、口をあわせた。
「酒くさ---」
「3杯だけであった」
「それでも、臭(くそ)おす」

:敬(ゆき)は口をつけなかったからな」
「これでも、尼やよって---う、ふふふ」
「そういえば、庵(あん)でもわが屋敷でも口にしたことがなかった」
「葷酒山門に入るを許さず---」

「酒気をおびておると、この門も入るを許されず、か?」
「大人っぽい冗談いうて---入らんと、すませられる?」
「すませたら---?」
「いやや」


平常は酒を口にしない辰蔵であったが、九蔵(くぞう 41歳)元締のすすめ上手にほだされ、3杯ほどあけただけであったが、湯で全身に酒がまわったのであろうか。
(たっ)つぁん、いつもより、永うおしたえ」
「いやか?」
「ううん。ええがってたの、わかった?」
「感じた」
「---このさき、閨酒(,ねやざけ)、したら?」
もふくめば、酒臭うはおもわぬかも---?」
「地獄に落とされるんやったら、ひとつ破戒するもふたつするもいっしょですやろなあ」


安中宿までは5里27丁(23km)。
高崎城下をでると碓氷川が左手に見えたり離れたりの、かすかな上り道になっていた。

「昨日あたりから、気の毒に、もの乞(こ)い人が目につきます」
月輪尼(がちりんに)が数珠をまさぐりながら眉をひそめた。

「1年半前の浅間山の山焼けで、家や田畑を失った者たちであろうか」
「お上(かみ)や比丘(僧侶)はんらは、なんしてはんねやろ」
「仕事はおいそれとは見つかるまい。できることは田畑づくりであろうから---」
「比丘尼がひとり、犯戒したからゆうて、江戸から初瀬(はせ)まで呼びもどすお宝で、何人のもの乞い人がおまんまにありつけることやら---。本山のありようは間違うてる、おもいます」

月魄(つきしろ)が敬尼(ゆきあま)のことばに同意するかのように首をふり、喉音を発した。

第4泊の安中で、脇本陣の〔須田屋〕にわらじを脱いだとき、陽は近くの山の頂からずっと上にあった。

はやばやと湯をつかった月輪尼が、手拭いを辰蔵へわたしながら、裏口に何人もへたりこんでいたので、宿に訊くと、客の食べのこしが捨てられるのを待っている,のだといい、
「きびしいことになってもうてい、子ぉらも痩せこけて-----お上がやってはる施しどころだけやと間にあわへんらしおす」

辰蔵が湯から戻ってみると、配膳された飯櫃(ひつ)から敬尼は握り飯を2ヶつくり、鉢にとりわけ、
「酒の分だけ、おまんまを減らしまひょ、な」

この宵はも盃をいくつかかさね、かなり酩酊し、口をあわせても酒臭いとはいわず、永々とまさぐっていた。

月魄(つきしろ)の飼葉代36文(1440円)との控えがのこっている。


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2011.11.10

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(9)

第3泊は、高崎の手前の落合新町の脇本陣〔三俣(みつまた)屋〕に宿をとった。
江戸から23里14丁(94km)。

月魄(つきしろ)は幸吉(こうきち 20歳)をせきたてるようにし、宿の裏手の烏(からす)川へ青草を食(は)みにいった。
もちろん、辰蔵(たつぞう 16歳)は宿主へ3日分の飼料の手くばりを頼んだ。
明後日の碓氷峠越えにそなえたのである。

宿への手前もあり、風呂をいっしょするのはひかえていた。
月輪尼(がちりんに 24歳)は下帯などを洗うために長湯になるから、投宿するとまっさきに湯をつかった。

部屋で道中案内をめくっていると、来客が告げられた。
「誰だ?」
告げにきた番頭がいいよどんだ。

「誰だと、訊いておる---」
「城下の九蔵町(くぞうまち)の元締でございます」
「九蔵町の---?」
「お会いになりますか?」
「拙を訪ねてきておるであろう?」
「できますことなら、ほかでお会いいただきとう---」
「あいわかった」

玄関へでてみると、引退した相撲取りともおもえる巨躰が待っていた。
長谷川です」
「8年前にお父ごどんに世話になった〔九蔵屋〕の九蔵でやす」
41歳とはおもえないほど高い声であった。

「連れがいるので---」
断って、番頭から聴いた小料理屋へ案内しようとすると、
「わしの宿で呑(や)りやしょう」

〔三俣屋〕から3軒上手の旅籠〔笛木屋〕へ案内された。
部屋には若い者が2人待ちまえており、上座に座布団を2枚並べた。
「〔音羽(おとわ)の元締から、お連れの姐(あね)さんのことはうかがっとりやす。本陣の番頭にご案内するようにいいつけときやした」

九蔵は、息子の十三蔵(とさぞう 18歳)を〔音羽〕の重右衛門(じゅうえもん 58歳)のところへやり、〔化粧(けわい)読みうり〕の中仙道板の板行の支度の修行をさせていると説明した。
深谷と浦和の元締の息子も預かってもらっていると話したところへ、九蔵が「姐さん」と呼んだ尼がみちびかれてきた。

膳がはこばれ、酒がすすめられた。
月輪尼が仏につかえる身なのでと謝絶すると、
「般若湯でやすから、形だけでも受けてくだせえ」
辰蔵も、不調法でと断ったが注がれた。

それでは、お父ごが高崎城下でのみごとりなお手並みをお聴かせしやすと、8年前の宝船の張りつけ刑の一幕を、とつとつではあるが、あちこちでいくどもしゃべっていたらしく、よどむことなく語った。

参照】2010年8月11日~[安永6年(1777)の平蔵宣以] () () (
2010年8月19日~〔〔銀波楼〕の女将・小浪] () (
2010年8月26日~[西丸・書院番3の組の番頭] (
2010年8月29日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] () () (

辰蔵は、父・平蔵(へいぞう 40歳)の妙智に驚嘆しながらも、盗人・仁三郎を独断で見逃したり九蔵のような裏社会の大物と平気でつきあう理不尽さに反発しながら聴いていた。
しかし九蔵は、姐さんが双瞳(りょうめ)をかがやかして聴きいっているのに気をよくし、
「お父ごどんのご配慮は、てめぇのような半端者をきちんと藩の役職のかたがたへつなぐところまで及んでいたことでやす」
辰蔵を気づかった月輪尼は、瞳だけで九蔵へ合意を送り、口では、
「因果いうもんでおますなあ」
つぶやいただけであった。


宴がおわり礼をのべると、
「高崎城下からここまで2里半(10km)ちょっとでやす。高崎でお待ちしようかともおもいやしたが、お引きとめしてはかえってご迷惑と断じ、かように押しかけてめえりやした。お会いできて満足でやす。よいお旅を---」

脇本陣へ戻っても、敬尼(ゆきあま)は平蔵の名を口にしなかった。

辰蔵が湯から上がってくる前に、湯文字ひとつをまとい、灯芯をさげて寝床で待った。


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2011.11.09

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(8)

深谷(ふかや)駅は熊ヶ谷(くまがや)宿から2里27丁(11km)。
平坦で変わりばえのしない田園の景色がつづいた。

村落は、夏が近いというのに、浅間山の山焼けと冷夏つづきのために萎(しお)れていた。

A1_360
(中山道・熊ヶ谷宿西端-石原村 『中山道分間延絵図』道中奉行製作)

A2_360e
(中山道・石原村西はずれ-新嶋村 『中山道分間延絵図』同上)

A3360
(中山道・新嶋村西はずれ-玉井村 『中山道分間延絵図』同上)


馬上の月輪尼(がちりんに 24歳)は、昨夜のけだもののように荒(あら)ぶった辰蔵(たつぞう 16歳)のこころのうちをおもいやりながら、『般若心経』の一節を声を殺して唱えた。

是諸法空相(ぜしょほうくうそう)
不生不滅(ふしょうふめつ) 
不垢不浄(ふくふじょう) 
不増不減(ふぞうふめつ)
是故空中(ぜこくうちゅう) 
無色(むしき) 
無受想行識(むじゅそうぎょうしき)
無眼耳鼻舌身意(むがんびぜつしんい) 
無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)
無眼界(むげんかい) 
乃至無意識界(むいしきかい) 
無無明(むみょう)
亦無無明(やくむむみょうじん) 
乃至無老死(ないしむろうし)
亦無老死尽(やくむろうしじん)

空(くう)の世界を悟れば、
ありとあらゆるものは転生していることがわかり
生まれず滅せず、
垢つかず汚れず、
増すこともなく減りもしない。
目に見えるものにこだわることもなく
感覚・想念・行為・知覚にまどわされることもない、
視覚・言葉・匂い・味覚・肉体・情念にも左右されない、
目で見る境界も意識の限界もなく、
明かりがということもなく、明かりが尽きることもなく、
老いも死もなく、
さらに老いや死がつきることもない。

月魄(つきしろ)は尼の無声の読経を感得したのか、寺院の前でこだわらなくなっていた。
深谷までの道ぞいに寺が少なかったこともさいわいしたかもしれない。

大和の長谷寺で勤行していたころ、いくどとなく『般若心経』を暗唱したが、「空相(くうそう) 悟りの境地」がすっきり見えてきたことはなかったといったほうがいい。{
情念が強すぎるのだと諦めた。
情念を殺しきろうとはおもわなかった。

まして、仏に仕えたことのない辰蔵に、
無受想行識(むじゅそうぎょうしき)
感覚・情念・行為・知覚、見えるものにまどわされるな
といっても無理であろう。

少年らしいときの辰蔵は妻屋(つまや 閨)で、やしさく愛撫してくれる。
大人ぶろうとしている夜は、一変、猛々(たけだけ)しく動く。
昨夜がそうであった。
そんなとき、敬尼(ゆきあま)も若年増らしく乱れきる。
そのほうが辰蔵が悦ぶとおもうからであった。

深谷宿の東端で、はるかに国済寺の山門がのぞめた。

_360
(深谷宿・国済寺山門)


尼は馬上のまま念珠をかけた掌で遥拝し、駒をすすめた。

参照】2007114[深谷宿・国済寺
鬼平犯科帳』文庫巻22[迷路]で鬼平が出張り、ここを本拠とした。

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2011.11.08

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(7)

脇本陣を発(た)つとき、女中たちが全員とおもえるほど顔をそろえて見送った。
若い武家と相部屋した美形の尼をしっかり覚えておき、語り草にするつもりらしく、strong>月輪尼(がちりんに 24歳)が法衣の裾をはひらめかせ、鞍にまたがるのを、好奇の目を輝かせて瞶(みつめ)ていた。

これから先、毎朝、このような見送りをうけるのかと、うんざりしなからも、月輪尼は世間の思惑に反抗する気持ちをよりi昂ぶらせた。

尼の心情を察した月魄(つきしろ)も.首をのばし、一声嘶いてから歩みはじめた。

大宮宿から上尾駅までは2里(8km)。 
上町の遍照院(へんじょういん)の門前で月魄が脚をとめた。

月輪尼が首筋をやさしくたたき、
「月魄。ここは本山が違うとるの。うちのは長谷寺やけど、こちらは智積院(ちしゃくいん)はんや」

_360_3
(上尾宿 遍照院山門)

「この道中には智積院派のお寺はんが多ゆうおすと聞いてます」
馬上から辰蔵(たつぞう 16歳)にいいきかすふりで、むしろ月魄の耳へとどけた。

06_360
(桶川宿曠野之景 英泉)

上尾宿から30丁(3km)の桶川宿の上の本宿で、街道右手の多聞寺の山門前では、月魄はどういう勘のはたらきからか、脚をとめなかった。
多聞寺は智積院に属していた。、

_360_4
(竹本市 多聞寺山門)

_360_5
(多聞寺本堂)

「うち、月魄に迷惑かけたみたい---」
聞きとがめた辰蔵が、
「----?」

「先刻、いいましたやろ、この道中には新義のお寺はんが信州あたりまでぎょうさん。その前を通るたんびに月魄に判断を強(し)いた.んかも---」

ちゅうすけ注】『埼玉県史』は、文政年間(1812~29)調査を引き、足立郡内の総数638ヶ寺を宗派別に、
新義真言宗 377
天台宗     77
曹洞宗     56
浄土宗     44
日蓮宗     17
l臨済宗     11
古義真言宗   3
黄檗宗      2
浄土真宗     1
普化宗      1
本山修験    30
当山修験    16
羽黒修験     3
と記している。
五代将軍とその生母・桂昌院の意向の結果であろう。

第2夜の熊谷(くまがや)脇本陣〔小松屋〕の閨(ねや)で、辰蔵に抱かれた敬尼(ゆきあま)が思わずつぶやいてしまった。
「お父上は、仏道かて、時の権力者におもねっとると悟らせてくれはるために、中山道中をすすめはったんやなあ---」

睦みの床の中でまで、おんなが平蔵(へいぞう 40歳)のことをおもいうかべているので、辰蔵は、それが父であっても、嫉妬を感じ、その夜の行いはちょっと荒ぶったものになった。
尼もそれに応じていた。

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2011.11.07

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(6)

「尼どの。もし、長谷川家の人になってもいいという決心がついたら、いつにても引きかえしてきなさるがよい。津紀(つき 2歳も喜ぼう」
平蔵(へいぞう 40歳)の言葉に、月輪尼(がちりんに 24歳)は声をつまらせて返事ができず、頭(こうべをたれつづけていた。

津紀は見送りの場へ出なかった。

平蔵の出仕時刻が出立の刻(とき)であった。
新大橋を渡りきるまで、辰蔵(たつぞう 16歳)も無言で父親にしたがったが、西詰で、
「では、父上。行って参じます」
「うむ。ずいぶん、気をつけて行け」

尼を乗せた月魄(つきしろ)がひと声いななき、別れ告げた。
平蔵がその首をなぜ、
「頼むぞ」
あっけないほどの別れであった。

ちゅうすけ注】本郷通りへでてからの月輪尼辰蔵組の行程は、

2011年11月01日[月輪尼の初瀬(はせ)への旅] (

道中の景観は () () () クリック

戸田の渡しで、月魄のために舟を1艘、借り切った。
月魄にとっては初めての渡舟であったが、びくつきもしないで対岸を瞶(み)つめていた。

上り1丁半(160m)ほどの焼米坂の茶店でお茶にした。
午餐(ひる)は早めに板橋で摂っていたので、ころあいの中休みとなった。

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(浦和宿手前の焼米坂 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ:)


_180月輪尼が焼米を掌からあたえると、月魄はうまそうに食(は)んだ。
あと、幸吉(こうきち 20歳)がくんできた井戸水にも、満足したようであった。
いい水はわかるのだ。

茶店をでると、若くて目つきの鋭いのが、
長谷川さんで---?」
「そうだが---?」
身がまえると、手をふり、
「浦和の元締・〔白幡(しろはた)〕のとろで若者頭(わかいものがしら)をつとめておりやす万吉(まんきち 24歳)と申しやす」
江戸の〔音羽(おとわ)〕の元締から道中の安全をみるように回状がきたので、大宮宿まで少し離れて伴をすると告げた。

月輪尼が落ち着いて応じた。
「おおきに。〔音羽〕の元締はんに、あんじょう、お礼ゆうといて。〔白幡]の元締はんにもな」
万吉は、尼の美形をまぶしげに見上げ、赤らんだ

浦和宿で辰蔵が手控えをあらため、馬上の芳尼(ゆきあま)に、
「すぐ左手に長谷寺系の玉蔵院という名刹があるが---」
大きく首をふり、
「うちの汚名は、玉蔵院にもとどいとりまひょ。わざに、恥をさらすことはおへん」
,strong>万吉に聞こえないようにささやいた。
「5年前に落成した地蔵堂だけでも拝んでいかないか?」
「拝むだけなら---」

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(浦和宿 宝蔵院山門)

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宝蔵院・地蔵堂 安永9年(1780)に落慶)


大宮宿は江戸から7里4丁(29km)。
土手町の小じんまりした脇本陣〔畠(はた)屋」へ宿をとった。
陽まだ西の空にあった。

幸吉は月魄に新草を食(は)ませてくるといい、川辺へ連れていった。
万吉に小粒をにぎらせて労をねぎらってから、熊谷宿の元締の名を訊いておいた。

月輪尼は足首まである長股引(ももひ)きを脱ぎながら、
「お父ごが、ほんまの父上みたいにおもえてきよりました」
「うそもほんとうもない。父上は敬尼(ゆきあま)を、拙の嫁ごとおもっておる」
は、尼の俗界時代の名であった。

「もったいのうて、涙がわいてきよります」
「それゆえ、東海道の倍も泊まりの多い木曽路をわざわざ選び、一夜でも多くいっしょにすごせと---」
「うれしゅ、おす」

第一夜は2人にとり、短くおもえ、たっぷり甘かった。、

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2011.11.06

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(5)

「尼さまが大和の長谷寺で得度なさったとことを、失念しておりました。齢ですな、とっさに肝心なことが浮かばなくなってきました」
音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 58歳)がぼんのくぼをかきながら謝った。

「まだ、お若い---」
いいかけ、重右衛門の鬢(びん)にめっきりふえている白いものへ目をやった平蔵(へいぞう 40歳)は、
「そういえば、護持院も護国寺も元締のシマのうちだった」

重右衛門は、護国寺の檀家総代の一人であり、管長ともなじんでいた。
月輪尼(がちりんに 24歳)が、恩義のある平蔵の嫡男と密なかかわりがができ、本山の長谷寺へ召還されているが、管長の力で免じてほしいと申しでた。

「管長さまからは、手をまわしてみるとおっしゃっていただきました」
「忝けない。恩に着る」
「なにをおっしゃいます。わしらにできることは、それくらいのことです」

ただ、本山からの返事がくるのは1ヶ月ほど先になるであろうと予想をのべた。
「やはり、尼どのは、とりあえず発(た)たせ、本山の意向に恭順しているようにする」
こころを鬼にしていいきった。
「そのご決心、管長さまへお伝えしておきます」

翌日、また、重右衛門が顔をみせ、管長の真書と中山道ぞいの新義真言宗の寺々の名簿を持参してくれた。
真書は、本状持参の一行が難儀を訴えてきたら、便宜をはかってやること。要した諸掛りは証しとなるものを添え、管長あて請うこと---懇切なものであった。

道中の新義真言宗の寺号を現代の行政区分に則し、とりあえず熊谷宿までを書き写すと、

東京都 板橋区 
南蔵院  蓮沼
長徳寺  大原
興隆寺  ?
延命寺  中台
竜福寺  小豆沢

埼玉県 戸田市
正覚寺  中町
光明寺  上戸田

蕨市
成就院  ?
三学院  北町
東光寺(悉地院?)
吉祥院  ?
三蔵院  中央

さいたま市 浦和区
福寿寺  ?
玉蔵院  仲町
成就院  ?

大宮区
光福寺  大成町
吉祥院(大恵寺?)  宮原町
不動院  廃寺

上尾市
遍照寺  上町
西蔵院  (遍照寺門徒?)
持明院  (遍照寺末)
真福寺  ?
慈眼寺  (遍照寺門徒)
竜山院  上?

桶川市
南蔵院  ?

北本市
多聞寺  本宿
寿命院  深井

鴻巣市
金剛院  人形町
真蔵院  上谷新田?
満願寺  荒井
法要寺  北本町深作? 
真相寺  箕田?
勝願寺  ?
光徳寺  箕田?
平等寺  ?  
竜昌寺  ?
満願寺  ?
西光院  中井
宝蔵寺  ?
持宝寺  廃寺
東曜寺  ?

現地は未踏査。
上記地区にお住まいの方、またお詳しい方からコメントをいただき、修正・完成を希求しております。  

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2011.11.05

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(4)

「新義真言宗の総本山である大和の長谷寺は、大塚・富士見坂下の護持院内・蓮華庵の尼僧を邪淫の破戒を涜(おか)し、破門にあたると初瀬(はせ)へ召還しております」
平蔵(へいぞう 40歳)が、下総(しもうさ)国佐倉藩の江戸藩邸で、年寄(かろう)格の佐治茂右衛門(もえもん 48歳)に告げていた。

昨宵、藩主で寺社奉行の堀田相模守正順(まさあり)と正室を茶寮〔季四〕へ招き、女将・奈々(なな 18歳)の才覚になる朝鮮膳をふるまったおり、ささやかれた。
「用件は、いつにても佐治の爺ぃに託(ことづ)けられよ」

「新義真言宗と申せば、東国では、音羽の護国寺---」
「護持院はその支寺)(しでら)です」
「護国寺なれば、管長どのに知己があるはず---」
「尼と相思になったのが、われの嫡子です。できれば尼を破門でなく還俗(げんぞく)扱いに---」

護国寺は、護持院もその塔頭(たっちゅう)におき、新義真言宗の根本道場となっていた。


「とりあえず18日に 初瀬へ発(た)たせるようには手くばりをしておる」
亀久町の奈々(なな 18歳)の家で経緯を話した。
「佐倉の殿はん、あんじょうしてくれはらしまへんの?」
腰丈の桜色の閨衣(ねやい)で片立て膝の奈々と向きあうと、見なれているはずなのに欲情があらたになる平蔵であった。

小椀の冷や酒をすすりながら、見るともなく奈々のそこに視線をやりながら、
(40歳にもなって、このように硬直するとは、どういうことであろうか。それほどに好き者なりのか、それとも、奈々がなまめかしすぎるのか)

月輪尼(がちりんに 24歳)の乗馬の旅のために仕立てさせ、わたしただぶだぶの股引のことをおもいだした。
(法衣の下に着するものなので白でつくらせたが、奈々には桜色だな)
股の根元がひらくようにしたのを別にあつらえ、寝間着にしては?
(ま、尼どのの旅のあいだ、往還2ヶ月は月魄(つきしろ)は留守になるから、ゆっくりと談合すればよい)
おもってみただけで、顔がほてってきた

「なに、かんがえてはるん?」
奈々が裸の月魄に乗るときにはく猿股(さるまた)の色をな---」
「そら、桜色にきまっとる。つけ根がひらくようにしといたら、あの月魄(こ)も感じるんとちがう?」
(尼どのとはまったく異なった邦(くに)からきたおんなだ---)

参照】2011年10月4日[奈々(なな)と月魄(つきしろ) ] (


翌日、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 58歳)がやってきた。

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2011.11.04

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(3)

「先宵、宴をご一緒した茶寮〔季四〕で、ふたたび朝鮮膳をお召しあがりいただきたく、このたびはご正室さまもご同席のほどを---」
浜町の藩邸を訪れ、年寄格(家老)の佐治茂右衛門(もえもん 48歳)にじきじきの取次ぎを頼んだ。
佐治年寄格とは、3年前の佐倉城下の商家あらしの怪盗逮捕のことで知りあった。

参照】2011630~[おまさのお産] () () () () () () () (10

先宵の朝鮮膳とは、西丸・若年寄の井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳 与板藩主 2万石)の呼びかけで、同じ齢ごろの寺社奉行・佐倉藩主(11万石)の堀田相模守正順(まさあり 41歳)と同・高崎藩主(8万2000石)の松平右京亮((うきょうのすけ)輝和(てるやす 36歳)とともにもよおした宴にでた料理であった。

参照】2011年10月21日~[奈々の凄み] () (

その堀田正順が(天命5年 1785)3月の寺社奉行の月番となっていた。


先宵と同じ朝鮮膳に佐倉藩主の正室も大喜びであった。
正室は、松平讃岐守頼恭のむすめとあるが、『寛政譜』の索引の頼恭の項にも讃岐守の項にも、それらしい大名がみたらないので、未詳のままあげておく。

宴が終り、送りの黒舟の屋根船Iへ乗る前に、正室が平蔵に、
「今宵は、珍しいもののふるまいに、侍女たちも感激しておりますぞえ」
頭を軽くさげた。

そのあと正順が小声で、
長谷川うじ。用件は、いつにても佐治の爺ぃに託(ことづ)けられよ」

船が遠ざかったのを見すまし、見送っていた奈々(なな 18歳)に、
「尼どのに確かめておきたいことがあるで、今宵はこのまま去(い)ぬ。明晩、待っている」
平蔵の腕をとり、胸にみちびいて、
「きっと、ね」


屋敷では、月輪尼(がちりんに 24歳)を書院へ呼び、
墨染(すみぞ)めの法衣(ほうえ)を示し
「乗馬のとき、後ろの裾が割れるように燕尾に仕立てさせた。その下にはく白い長股引(ももひき)だが、ゆるゆるにしてあるゆえ、下衣(したえ)に見えよう」
「なによりのご報謝---おおきに」
双眸(ひとみ)をきらめかせた。

「ついでだが、帰俗(きぞく)し、長谷川家に帰嫁(きか)するお気持ちはありや、なしや?」
一瞬、硬くなった尼は、すぐに涙をにじませ、
「よろしゅうに---」

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2011.11.03

月輪尼の初瀬(はせ)への旅(2)

「それから、明日からは蓮華庵にて、尼どのの旅に携える品と、落ち着いた先へあとで送り荷するものとを仕分けし、後送りの荷はここへ運んでおくように---」
平蔵(へいぞう 40歳)は、月輪尼(がちりんに 24歳)が思案しそうな先の先まで見とおしたように、辰蔵(たつぞう 16歳)に指示した。

旅程にも気くばりを怠らなかった。
「尼どのは月魄(つきしろ)で馬上とはいえ、けっこう疲れがでるものだ、無理な里数をかんがえるでないぞ。そなたは4歳のときに京から中山道を旅しておる」
「幼いころのこととて、ほとんど記憶にありませぬ」
「ならば、ゆるゆると見物をしていけ。この際、見分をひろめておくことだ。尼どのも、急いで初瀬(はせ)へ着くことはのぞんでおるまい」

辰蔵がつくり、さし出した旅程は、
第1泊 大宮宿  江戸か7里4丁(28.5km) 
第2泊 熊谷宿  大宮宿から8里30丁(35km)
第3泊 新町宿  熊谷宿から7里20丁
第4泊 安中宿  新町宿から6里17丁(26km)
第5泊 坂本宿  安中宿から5里16丁(22km)
     うすい峠越え
第6泊 沓掛宿  坂本宿から5里16丁(22km)
第7泊 芦田宿  沓掛宿から7里27丁(31km)
第8泊 下諏訪宿 芦田宿9里36km)
第9泊 下諏訪宿 諏訪明神など
第11泊 贄川宿  下諏訪宿から7里10丁(30km)
第12泊 宮の越宿 贄川宿から5里1丁(20km)
第13泊 須原宿  宮の越宿から8里15丁(36km)
第14泊 妻籠宿  須原宿から6里弱(24km)b;w@
     これで京へ半分の旅程(後半略)

宿々の風景←クリック
  

馬丁の幸吉(こうきち 20歳)にも、月魄に尼を乗せて大和の長谷寺まで送りとどけることになるから支度をととのえておくように命じた。
「若いうちに諸国を見ておくことは、のちのちのためにもなる」

3人の出発前に、平蔵は一行の旅程を〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 58歳)にわたし、中山道で顔のきく元締衆へそれとなく伝え、見守ってやってほしいと頼んだ。
「いったい、誰が長谷寺へ告げ口をしたか、わかったらただではおきません」
「いや、元締。いずれしれるとおもっておりました。決着がついて、かえってすっきりするというものです」
長谷川さまがそのようにおかんがえであれば、探索はひかえておきます」
「いつもご配慮いただくばかりで、恐縮です」
「なに、辰蔵さまを尼どのにお引きあわせ申したのは手前でございますから---」゛

参照】2011年8月5日[辰蔵のいい分][()]

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2011.11.02

月輪尼の初瀬(はせ)への旅

「あと7日後、この月(天明5年(1785) 3月)の16日に、若君が王子のあたりへご遊行になる」
平蔵(へいぞう 40歳)が辰蔵(たつぞう 16歳)に告げた。

若君とは、将軍・家治(いえはる 46歳)の養子で、西丸の主(あるじ)の家斉(いえなり 13歳)である。

家斉が外出するとなると、西丸の徒(かち)の3の組頭の平蔵はとうぜん、道々の警備にあたらなければならない。

「われの組は、駒込から飛鳥山までの半里(2km)ほどの辻々に徒士を配備するようにいわれておるが、組子30人では手不足である。ご幼君がお通りすぎになった辻の組子は、裏道をかけてさらに先の辻へ走らねばならぬ。組頭のわれには月魄(つきしろ) が必須である」

したがって、月輪尼(がちりんに 24歳)の本山・長谷寺への出立(しゅったつ)は、17日以後になる。
「あの、月魄をお貸しくだされますので---?」
「あたりまえだ。われが家の子・津紀(つき 2歳)の産みの母ごを、初瀬まで歩かせるわけにはゆかぬ」
「かたじけのうございます」
辰蔵。口とりはそなたじゃ」
「はい---」

「尼どの。お聴きとおりである。この7日があいだに、蓮華庵へはもう戻れぬとおもいきわめて、整理をなされよ。
もっとも、ここ、長谷川の家へお戻りになるのはおこころのままに--」
「きっと、うけたまわりました」

平蔵は、目で辰蔵に部屋へくるように示した。

辰蔵。東海道は厳禁である。中山道をとれ。わかるな」
「はい」

嶋田宿を通ってはならぬということであった。
嶋田宿の本陣〔中尾(塩置)〕には、若女将・お三津(みつ 25歳)がいた。
もちろん、辰蔵はお三津と睦んだとはおもっていない。

三津が手配したおんなと寝たとおもいこんでいた。
しかし、いずれにしても、月輪尼によけいなおもいをさせるなということであった。

「尼どのには、東海道は川渡りが多く、月魄の渡しが厄介と話しておけ」

拝辞して去ろうとすると、
「待て。尼どのを室として迎える気持ちはあるか?」
「お許しいただけるのですか?」
「旅のあいだに、尼どのの気持ちも訊いておけ」

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2011.11.01

平蔵の先祖の城址ウーキング

いささか遅れ気味だが、先月2日の午後に静岡[鬼平クラス]が行った、長谷川平蔵の先祖が城郭屋敷としていた小川(こがわ)城址を訪ねてのウォーキング報告。

長谷川家のそもそもが藤原鎌足であるのは周知のこと。
寛政重修l諸家譜』も「藤原氏 秀郷流」とある。

静岡[鬼平クラス]の中林正隆さんによる系統図では、

藤原鎌足--8代--藤原秀郷(ひでさと)--5代孫--
-下川辺四郎政義(下野国)--小川次郎左衛門政平-

秀郷は大百足退治の俵藤太(たわらのとうた)の別名でも知られている。
秀郷稲荷を都下の府中市でみつけたことはすでに報じた。

参照】2011年4月1日[長谷川家と林叟院] (

また、下川辺家あたりまでの系図は、ハンドル名「居眠り隠居」さんからも報告がされている。

参照】2011年3月31日[長谷川家と林叟院] (

政平--大膳亮長教(大和・初瀬→駿河・小川)--5代孫--
-長谷川(小川)藤兵衛長重(今川家臣・塩買坂で戦死)-政宣(法栄長者)

参照】2011年3月31日[長谷川家と林叟院] (


クラスは、JR焼津駅からバスで小川西下車。
地元在住のクラスメイトの大久保典子さんの先導で熊野神社へ。
この社は、小川城主であった長谷川元長が大永6年(1526)紀伊にのがれ、熊野三社を勧請して帰り、社殿を造営して奉斎以来この神を産土神とした。

参照】2008723[明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)] () 

10分ばかり歩いて小川城址。

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(発掘調査されたあと宅地として分譲され、中心部は遊歩道。城址)


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(説明板を読む)


クラスの村越一彦さんからコピーをいただいた『焼津市史研究』(第2号 2000.年3月 焼津市)に掲載された大塚 勲さんの講演記録「北条早雲と長谷川氏」から引用すれと、

法永長者といえば小川に「長者屋敷跡というのがありましたが、これが法永長者の館跡とされています。
明治のはじめに作成された地籍図には「城ノ内」と記された一区画が堀で囲まれていた様子がうかがえます。
そこでこの地籍図をもとに昭和54年(1979)から断続的に発掘調査が行われました。
その結果「城ノ内」は南北140m、東西90mの方形敷地で、敷地は堀で区切られた2つの曲輪で構成されていて、周囲の堀は幅15~16m、深さは浅いところは1m、深いところでは2.6,mであったことがわかりました。

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(小川城址 前掲誌)


この「小川城 発掘報告書」(焼津市 2003)に、

長者屋敷 小川の西北にあり、三ヶ名(さんがみょう)不動院の前、田中の古土囲あり、長谷川次郎左衛門尉正宣の屋敷跡なり。

これを真にうけ、不動院探しで大いに迷った経緯は、以前に記し、誤謬をクラスの安池欣一さんが正してくださったことも報告した。

参照】2011年4月17日[長谷川家の祖の屋敷跡を探訪2011年5月15日[長谷川豊栄長者の屋敷跡

このブログは、多く方々のご援助でつづけられているようなものだ。感謝。


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(三ヶ名の不動院の沙弥壇)

今回の再訪では、SBS学苑の片野さんのご尽力で本堂まであげてもらうことができた。

つづいて、小川城の出土品を展示拝観のために、焼津市歴史民族資料館を訪れ、片山学芸員から明時代の窯のものとおもわれる皿や容器の説明などを聴いた。
豊栄長者が海外との交易によっても富をきずいていたことが発掘・展示品からも裏付けられたといえそう。

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(小川城址から発掘された磁器類 上掲『小川城』より)

A_360_2
(焼津市歴史民族資料館で片山学芸員から解説を受ける)


ウォーキングは1万歩に近かった。

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