ちゅうすけのひとり言(16)
池波さんが『オール讀物』に発表した[錯乱]で直木賞を得たのは、昭和35年(1960)、35歳のときであった。
それまで、4回候補にのぼって、「5度目の正直」といわれた。
武田信玄と甲賀忍者・丸子笹之助が主人公の『夜の戦士』の地方紙連載を依頼されたのは、それから2年後である。
小説の舞台である川中島、信濃と遠江の境の青崩(あおくずれ)の峠、天竜川ぎわの要塞・二股城、武田軍と徳川軍の血戦がおこなわれた三方ヶ原(みかたがはら)などの取材は、受賞前の、流行作家になるはるか前に行ったものであろう。
池波さんはあるとき、
「なに。直木賞を受賞したからといって、当時は、すぐには原稿依頼なんかきませんでしたよ。だから、その間は、取材旅行ばかりしてました」
と話してくださったことがある。
その取材旅行が綿密なものであったことは、『鬼平犯科帳』に登場する盗人の〔通り名 (呼び名)ともいう〕に、静岡県の地名をつけられている者が25人もいることからも推察できる。
詳細は、当ブログのトップ・ページ左ウィンドゥのカテゴリーの[静岡県]をクリックしてご確認いただきたいが、2,3の例をあげると、文庫巻3[盗法秘伝]の憎めない老盗〔伊砂(いすが)〕の善八は、二股城の北の集落の村名(現・浜松市)だし、巻11[穴]の京扇の店〔平野屋〕の番頭・茂兵衛の現役時代の〔馬伏(まぶせ)〕は、家康の城があった(現・袋井市浅羽)ところである。
先日来、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳=当時)が、従兄・権十郎宣尹(のぷただ 34歳=享年)の死によって遺跡の継承が認許され、寛延元年(1748)4月3日に江戸城・菊の間で申し渡されたときの、仲間16人の氏名を、『寛政重修諸家譜』全22冊8,800ページを総ざらえして、やっと13人発見したことは、すでに記した。
その1週間延べ60時間におよぶリサーチで、いくつかの副産物があったのである。
その一つが、元亀3年(1572)12月22日---。
『夜の戦士 下』p277 から引く。
元亀三年、十二月二十二日朝。
ということは現在の新暦でいうと二月四日の朝である。
卯の下刻(午前七時)に、武田の軍団は二股城を発した。(略)
ときに家康は三十一歳であった。(略)
(このまま、信玄を、ぬけぬけと三河へ通しては---)
おれの威信は地におちよう、と家康は感じた。
(よし! たとえ信玄の首はとれずとも、一泡ふかしてやらねば---)(略)
こうして家康は、8000ばかりの軍団で、信玄の2万越える軍団に、三方ヶ原で戦いをいどみ、さんざんな敗北を喫した。
そのときの徳川勢の主だった戦死者のリストを、諸書から拾い、『寛政譜』で確認したものを、2008年6月[ちゅうすけのひとり言] (13)に掲出しておいた。
徳川の軍門へ入って3年目の長谷川平蔵家の祖---紀伊守(きのかみ)正長(まさなが 37歳)と弟・藤九郎(とうくろう 19歳)が先手となって討ち死にしたのも、この負け戦さでである。
もちろん、池波さんは、そのことは、『夜の戦士』には採用していない。
その執筆中には、『鬼平犯科帳』が始められるなどとは、露、思っていなかったこともあったろう。
もし、『夜の戦士』を読み返してみようとお思いになったら、文庫『---下』p255から10ページほどに注意を向けていただきたい。
天竜川ぞいの二股城の落城のくだりである。
川から水を釣りあけていたつるべ綱を、上流からの筏(いかだ)切られために城内の水が絶たれ、10日後に守将・中根平左衛門正照(まさてる)は降伏し、千数百人の将兵を引き連れて浜松へ向かったが、家康はこれを許さず、見付で待機させられた。
中根正照は、三方ヶ原を死に場所に選んだ。
戦死者リストの「な行」のトップに掲げてある。
リストの2人目・中根喜蔵利重(とししげ)は別家で、二股城の降伏・開城にかかわりはない。
3人目の中根喜四郎利重(とししげ)が、こんどの『寛政譜』の総ざらえで発見した戦死者の一人である。
どの史書にも名が記されていないから、『寛政譜』も、あいまいに、
元亀三年十二月二十七日三方ヶ原の役に討死すという。
編纂のとき、日の間違いも訂正していない。
しかし、近い子孫が530石を賜っているから、まんざら虚報でもなかろう。
発見のもう一人は、渥美善七郎親吉(ちかよし 17歳=戦死時)。
北畠家に属していて美濃国厚見郡(あつみこおり)を領していたための姓という。
伊勢国白子城に住し、没落後、家康に仕えた。
信長が本能寺で自害したとき、家康は危難の伊賀越えをして白子浜へたどりつき、船で三河へ帰った。
渥美家の家康に対する功績は、そのときのほうが、三方ヶ原での親吉の戦死よりも、大きかったかも。
(三方ヶ原の戦いで討死した渥美親吉の個人譜)
(渥美家の『寛政譜』)
【参照】家康の伊賀越えは、2007年6月13日~[本多忠勝の機転] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
『寛政譜』に記されているこの2人の戦死者が、なぜ、史書に採られなかったか、いや、これまで、ほとんど省みられなかったことも含めて、静岡県の郷土史家の方々と話し合ってみたいものである。
もちろん、当ブログを覗いてくださっている方であれば、もっと喜ばしい。
【これまでの、ちゅうすけのひとり言へのリンク】
(リンクの仕方 各項の頭のオレンジ色の番号を)
[18 『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん]2008.7.10
[17 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照]2008.7.3
[16 武田軍の二股城攻め]2008.7.2
[15 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日]2008.6.27
[14 三方ヶ原の戦死者リストの区分け]2008.6.13
[13 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗]2008.6.12
[12 新田を開発した代官の取り分---古郡孫大夫年庸]2008.5.9
[11 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問]2008.4.28
[10 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論文]2008.4.5
[9 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』]2008.3.17
[8 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち]2008.2.15
[7 長谷川平蔵と田沼意次の関係]2008.2.14
[6 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係]2008.2.13
[5 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期]2008.2.8
[4 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先]2008.2.7
[3http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/02/post_bc6e.html 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁]2008.2.6
[2 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿]2008.1.29
[1 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した]2008.1.17
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