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2008.04.28

ちゅうすけのひとり言(11)

長谷川平蔵宣以---いわゆる鬼平---の20歳のころ、といえば、明和2年(1765)だが。
そのころ、盗賊たちはどうしていたかを見るために、まず、〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへえ)と〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ)を登場させてみた。

基準としたのは、火盗改メの任に就いていた時の、平蔵の年譜である。

天明6年(1786)
     7月26日 (41歳)先手弓組頭
 〃7年(1787)
     9月19日 (42歳)火付盗賊改メ(助役)
 〃8年(1788)
     4月28日 (43歳)火付盗賊改メ(助役)免
 〃  10月 2日     再び火付盗賊改メ(本役)
 〃  12月23日     長男:辰蔵、お目見
寛政2年(1790)
    10月16日 (45歳)捕盗そのまま勤むべし
 〃  11月14日  人足寄場発議の件で時服2領、黄金3枚賜る
 〃3年(1791)
    10月21日 (46歳)捕盗、明10月まで勤めよ
 〃4年(1792)
     6月 4日 (47歳)人足寄場免。
             捕盗はそのまま。黄金5枚。
 〃  10月19日  捕盗加役、明3月まで勤めよ。
 〃5年(1793)
    10月12日 (48歳)捕盗、明10月まで勤めよ。
 〃6年(1794)
    10月13日…(49歳)火賊捕盗命ぜらる。
 〃  10月29日……時服3領を賜る。
 〃7年(1795)
     4月   (50歳)病に倒れる。
     5月 6日 家斉、側衆加納遠江守を経て高貴薬・瓊玉膏を賜
            う。
           辰蔵が受領に加納屋敷へ。
          実母死。
     5月 8日 辰蔵、父のお蔭もて両番となる。
     5月10日 薨じたが喪を秘す。海雲院殿光遠日耀居士。
     5月14日 同役彦坂九兵衛岩本石見守を名代として
         お役御免を願う。
     5月16日 勤続を賞して黄金3枚と時服1領を賜る。
     5月19日 喪を発する。

ご覧のように、42歳の秋から翌春までが助役(すけやく)。この時の本役は堀帯刀秀隆(ひでたか)。
平蔵は、43歳の初冬から50歳の5月まで、あしかけ8年間、本役。
当ブログのいまは、20歳の銕三郎(てつさぶろう)時代だから、小説の時代背景から22年から30年差し引いた時代になる。

さて、『鬼平犯科帳』を読んでいて〔舟形〕の宗平について、いくつかの疑問点が出てきた。

【参照】 〔舟形(ふながた)〕の宗平

鬼平ファンなら、宗平は、文庫巻4[(かたき)]p257 新装版p269で、目黒村で〔初鹿野〕の音松の盗人宿の番人をしていたところへ、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が訪ねていって面談したところが初登場であることは百もご存じ。

五郎蔵は、なつかしさで胸がいっぱいになった。舟形の宗平は、むかし、五郎蔵と同じ蓑火一味で、若いころの五郎蔵は何かにつけて、宗平の厄介になったものである。
いまの宗平は、たしか、七十をこえているはずだ。 新装版p270

五郎蔵は50をこえている。
]は、平蔵が火盗改メの本役について丸1年経つか経たないかという寛政元年(1789)の晩夏から晩秋へかけての事件である。天明9年が改元されて寛政になった。
疑問は、そういう細事ではない。
盗人宿の番人が、首領に断りなく密偵になっていいものか---という宗平側のことでもない。

宗平が突然に任務を放棄し、姿を消してしまったことを、首領および配下が、見逃してしまっていいものかということである。
盗人宿の地下室には、支度金も隠してあるかもしれない。それも消えていたら、音松はともかく、現役の右腕、左腕が黙っていたのだろうか。
草の根をわけても捜しだすのではなかろうか。

文庫巻7[泥鰌の和助始末]は、寛政4年(1792)の事件なのに、「六十をこえた」p193 新装版 と、10歳も若返っているのは、ほころびとして気にとめない

疑問は、もう一つある。
文庫巻9[雨引の文五郎]p21 新装版 p22 に、

舟形の宗平は、かつて初鹿野(はじかの)の音松の〔軍師〕などといわれたこともある老盗賊であったが---

この1行を拡大解釈して、ぼくは〔初鹿野〕の音松と宗平の20数年前を推定した。

【ちゅうすけ注】2008年3月31日~[〔初鹿野〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
2008年4月16日~[十如是] (1) (2) (3) (4)
2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
2008年4月26日~[(耳より)の紋次] (1) (2)

ところが、文庫巻12[見張りの見張り]に、こんなふうに書かれている。

むかし、二人(宗平と五郎蔵)は大盗賊・蓑火の喜之助のもとで、みっちりと本格の盗みばたらきを修行し、宗平は五郎蔵の面倒(めんどう)をよく見てやったからだ。
のちに、五郎蔵はひとかどの〔お頭(かしら)〕となり、宗平は老(お)い果(は)てて、盗賊・初鹿野(はじかの)の音松の盗人宿(ぬすっとやど)の番人となった。p114 新装版p120

軍師〕と盗人宿の番人とでは、まるで格がちがう。
70をすぎても、記憶力もしっかりしている〔舟形〕の宗平に、ぼくは〔軍師〕の残影を見た。
それで、〔軍者(ぐんしゃ)〕時代の宗平を報告した。
軍者とは、江戸時代の軍師の別称である。

ついでに記しておくと、[見張りの見張り]は寛政7年(1795)春の事件で、史実の平蔵は、このころから体調がすぐれなくなり、この年の5月10日に歿したのは、上の年譜のとおりである。
その最後の4日前の姿は、

2006年6月25日[寛政7年5月6日の長谷川家]

に記した。まもなく、新暦の5月6日がやってくる。ぜひ、偲んでいただきたい。

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コメント

平蔵宣以の年譜で、毎年のように火盗改メを「明年10月まで引きつづき勤めよ」と記しているのは、『続徳川実紀』です。

投稿: ちゅうすけ | 2008.04.29 18:46

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