〔笹や〕のお熊(その6)
「長谷川さま。お熊婆ぁさんの用心棒も、これでご用ずみでやすね」
「そうなってほしいが---」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、こころもとなげに〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)に応える。
「しっかりなさっておくんなさいよ。姥桜(うばざくら)ってえのは、長谷川さまみたいに精がありあまってるのに、あの技(て)この手筋を教えこんで、自分も法楽にしびれようってんでさあ---今朝のお熊婆ぁさんの顔つきだと、ゆうべあたり、気を引いてみたってことが、見え見えでやしたが---」
権七の観察眼は鋭い。
【参考】2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4) (5)
「一味は甲州とか駿州とかへ引き上げた---と火盗改メ方がいっているのを口実にして、お屋敷へお帰りなさいまし」
「頼んでみよう」
「長谷川さま。まさか、花びらももう残ってねえような姥桜に、数奇(すき)ごころをお持ちになっちまったんではねえでやしょう?」
「それは、ありません」
そう断言してみた銕三郎だが、昨夜、湯文字も取りすてて素裸で抱きつかれた時の肉(しし)置きのゆたかな腰や胸の重量感には、まったく無反応だったわけではなかった。
お熊が手をのばしてきて探りあてていたら、逃げ口上が通じなかったかもしれない。
(国芳『逢悦弥誠』部分 イメージ)
阿記(あき 23歳)の面影に加えて、母・妙(たえ 40歳)より齢上の女(の)とそのようなことになっては、親不幸の最たるもの---と、理にならないことを自分にいいきかせていたのであった。
両国橋をわたる。
大川の川面(かわも)が、初夏を告げるきらきらした陽を照り返している。
両国西詰・広小路に達した。
昼前にはまだ間があるというのに、あいかわらずの人出で、見世物小屋の呼び込みの声もあちこちから、かしましい。さすがに江都いちばんの賑わいどころだ。
(両国橋西詰 広小路の賑わい 『江戸名所図会』部分)
とりあえず、水茶屋へ腰を落ちつけてから、〔加納屋〕善兵衛(ぜんべい 60台半ば)に逢ってみるつもりである。
まだ、15,6歳の美形の茶汲みむすめが茶をはこんできても、2人は視線を向けもしない。
この春はじめ、谷中(やなか)の天王寺門前の茶店〔かぎや〕に出た看板むすめ・おせんの評判があまりに高いので、学而塾の悪童連とひやかしに行った銕三郎だったのだが。
(春信「笠森おせん」 イメージ)
ことのついでに書いておくと、庭番の頭(かしら)格・馬場家(100俵)のむすめであったおせん(14歳)は、ほどなく、同じ庭番・倉地政之助萬済(まずみ 25歳 60俵)に嫁ぎ、店から姿を消した。
2人は、〔初鹿野(はじかの)〕一味のことを、声をひそめて話しあう。
まわりの客が耳にいれても意味が通じないように、名前や事件を伏せている。
「寸前に着替える---ということでした。線香の匂いは、置いてある時に滲(し)みこんだものでしょう。為造の小屋に長く置かれていたのでしょう」
「水油は---?」
「横道にみちびくために、わざと付けたのかも---」
「こんど、付けなかったのは---?」
「そらす気がなかった---ことがなり次第、江戸を離れる算段をしていた」
「忘れたってことは---・?」
「いや。そんな手抜かりをする相手では---」
「ブツが入ったってことは---」
「見張っていたのでしょう」
「どっちを---?」
「双方を。配当がもらえるかどうかの際(きわ)です。みんな、やったでしょう」
「内通(つなぎ)は? 羽前同士とか---」
「留どの---なかったとおもいます。 それより、通いが---」
「日光の杉並木じゃなくって---と」
「東海道の松並木---」
「そう。松並木でやした」
「住まいなども聞き漏らしたままです。いまも、いるのか、どうか---」
その時、2人に声をかけてきた目つきの鋭い、若い男が、
「お話中、失礼さんですが---」
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