〔笹や〕のお熊(その5)
銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、裏手の井戸で顔を洗っていると、お熊(くま 43歳)が酒器の洗いものを持ってあらわれた。
笑顔で寄ってきて、銕三郎の尻をぽんとたたき、
「まんざらでもなかったって顔だね。汁っけもたっぷりだったろう?」
(北斎『させもが露』部分 イメージ)
銕三郎は、お熊の誤解のままにしておくことにした。そのほうが、お熊に恥をかかさないですむ。
『鬼平犯科帳』のファンを自認なさっている方ほど、
「おかしいじゃないか。酒気ふんぷんたる素っ裸のお熊に、布団の中へもぐりこまれて、さすがの銕三郎もあわてふためいて、青くなって逃げ出したのではなかったのか」
それを平蔵から持ちだされるたびに、70すぎのお熊が、たもとを顔にあて、
「恥ずかしいでねえかよ」
と舞台で演ずれば、観客はどっと笑う場面である。
たしかに、話としてはうまくできている。
しかし、である。
まず、銕三郎が〔笹や〕に泊まったのは、小説では、深川・本所でぐれていた時となっている。
17歳まで巣鴨の大百姓・三沢家で育てられおり、父のもとへ帰ると継母の嫌がらせ---それで家にも寄りつかなくなった。
とはいえ、何度も書いたように、史実では、継母は、銕三郎が5歳の時に病歿しており、生母は以前も以後もずっ長谷川家にいたのである。
さらに、銕三郎の20歳前後には、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 50歳半ば)が火盗改メの任に就いている。甥の銕三郎がぐれているわけにはいかないのである。
---ということで、苦労して、〔笹や〕に泊まる口実をこしらえた。
40代の前半で後家になったお熊は、孤閨にたえかね、たしかに、素っ裸で銕三郎に抱きついた。
が、銕三郎とすれば、据え膳をくうわけにはいかない。
ここのところは、池波さんの考えに同感---池波さんも、年上の女性は、若い男に手ほどきしてやるものという立場であるらしい---。
吉原があった時代の人だから、そういう体験もふまえての、助言とみたい。
が、ぼくが設定した銕三郎の立場では、お熊に恥をかかさないことのほうに力点をおかざるをえなかった。
池波少年だって、吉原での相手との年齢差は、10歳と離れていなかったようだ。
銕三郎の[ヰタ・セクスアリス]も書かないと、エンドレスのこのブログが持たないということもある。
で、お熊には、昨夜は酔いつぶれて夢の中で銕三郎と楽しんだとおもわせておくことにした。
問題は、収束の仕方である。
銕三郎は、お熊の用心棒にやとわれているのだ。さりげなく、任を解いておかないといけない。
朝食のあいだも、お熊は微笑をたやさない。
(これから先が、おもいやられる。いつも、昨夜のテで逃げられはしまい)
銕三郎とすれば、飯の味がしない。
食後も思案しているところへ、〔風速(かざはや)〕の権七がやってきた。
「長谷川さま。[読みうり]をご覧になりましたか?」
「いや」
「これです」
なんと、昨夜、盗賊がまたも、ここから近い竪川(たてかわ)の向こう岸、緑町2丁目の---こともあろうに、〔古都舞喜(ことぶき)楼〕を襲っていたのだ。
(お熊の〔笹や〕・〔古都舞喜(ことぶき)楼」 近江屋板)
行ってみると、火盗改メ方の次席与力・高遠(たかとう)弥大夫(やたゆう 46歳 200俵)と掛かり同心・大林源吾(げんご 30俵2人扶持)が出張って訊き書きをつくっていた。
「高遠さま、大林さま。お役目ご苦労さまでございます」
「やあ。長谷川の若どの。お耳がはやい」
「こちらの〔風速〕の権七どのに教えられたのです。いかがですか? 賊は、やはり、〔初鹿野(はじかの)〕一味ですか?」
「灰色装束に身を固めていたから、たぶん、そうでしょう。ただ、前回より少なく、5人ほどだったようで---」
「首領の音松(おとまつ 38歳)は?」
「いなかったようです。差配は、小男の---〔舟形(ふながた〕)の宗平(そうへえ 47歳)とおもわれるのがやっていた」
「被害はいかほど?」
「120両ばかり。あと、板場の男が、逆らって腕を傷つけられました」
「おなじ店を2度襲うとは、奴らも、よほどにせっぱつまったんでやしょう」
言った権七に、大林同心が、
「火盗改メの裏をかいたのよ。エサを2度噛むとは、ふつうは考えないし、〔初鹿野〕一味としても、初めての手口だ」
高遠与力と大林同心、それにつきそっている小者たちが引きあげたあと、銕三郎は、女将・福(ふく 38歳)と女中頭・留(とめ 32歳)にのこってもらった。
「女将どの。前回と異なっていたのは、大男の首領(かしら)の代わりに小男が差配をとったことのほかに、ほら、小男の水油(みずあぶら)の匂いは?」
「あ、そういえば、消えていました」
「やっぱり---。留どの。紅花の手拭いをつかいましたか?」
「いいえ。昨夜は、鼻をかみませんでした」
「女将どの。差しつかえなければ、盗(と)られた120両は、いつ手元にきた金か、教えてもらうわけにはまいらぬかな?」
「一昨日に」
「なんのための金で?」
「支払いをするためでございます」
「どこから?」
「------」
「言えませぬか? 両国広小路あたりですかな?」
「さあ---」
帰り道、銕三郎が権七に謎解きをしてみせた。
「あの120両は、手切れ金だったのかも」
「〔加納屋〕の?」
「あの料亭も、これから保(も)たせていくのが、たいへんです」
【参考】2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4)
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