カテゴリー「032火盗改メ」の記事

2011.09.01

火盗改メ・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)の栄転

天明4年(1784)という年は、長谷川平蔵宣以(のぶため 39歳)にとって、吉凶があざなえる縄のようにつながっていたといえた。

年の初めに、西丸・書院番4の組番士として出仕した平蔵を上から横から見まもり、里貴(りき 逝年40歳)とのあいだもほほえましいと許容してくれていた与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 享年64歳)が逝った。
麹町の心法寺での葬儀は派手ではなかったが、勝孟の人柄をしのばせ、弔問の列が長かった。

全盛の田沼主殿頭意次(おきつぐ 66歳)の力をさえぎるように、嫡男・山城守意知(おきとも 享年36歳)が、遠祖をたどると同根といわれている佐野善左衛門政言(まさこと 30代?)に斬られた傷がもとで無念死し、駒込の勝林寺へ葬られた。

夏に里貴も生命(いのち)が尽き、跡継ぎの奈々(なな 17歳)が平蔵との念願をはたした。

長谷川の家族へ横から割りこむように、辰蔵(たつぞう 15歳)の子を月輪尼(がちりんに 24歳)が産んだ。


生死とはかかわりがないことだが、火盗改メの頭(かしら)して異例の5年間も敏腕をふるった(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 45歳)が、堺奉行として7月25日に発令された。

徳川実紀』がしばしば諭告を書きとめているように、不作の予見からか年初より米の出まわりがよくないことを叱っていた。

もっとも、茶寮〔季四〕は米に不足きたすことも、高値を払うこともなかった。
前まえから、長谷川家の知行地(上総国武射郡寺崎村、同山辺郡片貝村)でとれた村方分の換金は、小関(こぜき)村(現・千葉県九十九里町小関)生まれで、香取郡(かとりこおり)佐原村の蔵元・伊能家へ入り婿した三治郎(のちの忠敬(ただたか))が江戸・鎌倉河岸(千代田区内神田1丁目)に出していた米問屋と契約していたからであった。

伊能忠敬が商売上手であったことは、18歳で齢上の子持ちの後家・達(みち 22歳)に入り婿したときの伊能家の資産を、50歳で引退したときには23倍の30万両に増やしていたと、資料が裏書きしている。

このブログでは、このところ1両を16万円に換算している。
30万両は、480億円。

天明3年(1783)の浅間山焼けよった田畑の被害、翌年の飢饉のお助け米などの放出も計算にいれた上での資産増である。
事実、佐原村からは1人の餓死者もだしていなかった。

忠敬の金銭才覚もさることながら、この時の名主としての善行を賞した采知主・津田内匠頭信之(のぶゆき 44歳=天明4年 6000石)が苗字帯刀を許した。

伊能忠敬と長谷川平蔵のつながりは、絵空ごとではない。
下にリンクしたコンテンツをお読みいただきたい。

伊能忠敬は延享2年(1745)の生まれだから、平蔵より1歳年長であった。

参照】2006年4月24日[平蔵のすばやい裁決

伊能忠敬をもちだしたのは、ほかでもない。

飢饉というむつかしい時期に、堺奉行に栄転する贄 壱岐守正寿へ祝賀の品をととどけた平蔵の祝辞を理解してほしいからである。

「非常時のご奉行、ご手練のほど、見習わせていただきます」
長谷川うじがこと、後任の横田源三郎松房(としふさ 41歳 1000石)どのへ、しかと申しおくっておいたゆえ、近く、あいさつなさっておかれよ」
「変わらぬご配慮、かたじけのうございます。しかし、足でまといのあつかいもうけず、おもしろうございました。

贄 壱岐守正寿の在任中に平蔵が関与した事件などは、

参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (
) () () () () () () 
2010年12月12日~[医学館・多紀(たき)家] () () () () () (
2010年12月18日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] () () () () () () () (
2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13
2011年4月30日~[おまさの影] () () () (
2011年5月4日~[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] () () () () () () (

「堺で奉行所の手にあまる事件がありましたら、お声をおかけくだされば、かけつけます」
平蔵の幕臣の分を超えた言葉に、 越前守は微笑しただけであった。

堺へかけつけたいのは、ちゅうすけである。
の善政を地元の研究家の方々に教えていただきたい。

堺奉行の発令とともに、爵称は越前守に変わっていた。

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2011.04.20

火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷(3)

旅程の打ちあわせが一段落したところで、平蔵(へいぞう 37歳)が訊いた。
原田与力どの。引き込みをした酌おんなの名前のおてつ(25歳がらみ)ですが、てつは、でしょうか、それとも、あるいは、拙のではありませぬか?」

原田研太郎(けんたろう 38歳)与力は、あらためて記録に目をおとし、
「金物のと書かれておりますが、これは、かの地でもう一度、お確かめください」

与力は、古室(こむろ)忠左衛門(ちゅうざえもん 30歳)へ記録をわたし、
「写しを書役(しょやく)へいいつけ、長谷川さまへお渡しするように---」

心得た古室同心が部屋をでて行った。

長谷川さま。われら一行と別の上りということになりますと、本陣への支払いなど、路銀はいかほど用意すればよろしゅうございますか?」
世慣れた年配者らしく、三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)が訊いてきた。

「供の者の分もあわせて、1日1分(4万円)でいかがでしょう?」
「では、20日分として5両(80万円)を、お屋敷のほうへおとどけしておきます」
ほっとした口ぶりで、三宅同心が原田与力の顔を見、与力がうなずいた。

平蔵が、
「先刻、こちらの殿が、柳営の上っ方々は、われわれ幕臣にできるだけ旅をさせて、世の中をひろく見聞するようにお考えとうかがいました。初めて耳にするご見識でした」

ぼんと膝をうった原田与力が、
「さすがは長谷川さま、お目が高い。われらの組頭は、齢相応に目と耳こそお弱りになっておられますが、視点が高いお方です」

使番から先手・鉄砲(つつ)の第12の組頭に任じたのは安永6年(1777)3月17日だが、その前年の家治(いえはる)の日光山参詣に列し、しもじもの苦しみを、再認識した。

その前は、いうまでもなく宝暦9年(1759)7月に秋田へ使いし、冷害を目のあたりにしたことであった。

火盗改メ・助役(すけやく)を命じられると、組の者たちに出羽の領民たちの貧窮ぶりを話し、あの者たちが城下町とか江戸へ流れてきて物乞いをし、悪心をおこして盗みをはたらいても、徒党を組んだ盗賊と一様に見ないように諭(さと)したという。
盗人の区別をいった火盗改メは珍しい。

聞いていて、平蔵は、本役の(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 42歳)が、少年のころに家治の伽役として側に仕えたときに学んだ話をおもいだしながら相槌を打っていた。

参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 

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2011.04.19

火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷(2)

もっぱら安西彦五郎元維(もとふさ 62歳 1000石 ただし隠居中)老が大声でしゃべりまくり、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)のほうは、
「さようであったな」
元維どのの叱声に、久保田(秋田藩)側は畏れいっておった」
と相槌をいれていることに気がついた。

建部増役は、亡父・宣雄(のぶお 逝年55歳)と同じ齢に達している。
宣雄は生命の灯が消えるまで頭脳ははっきりしていた。

安西彦五郎老の帰去をも送って戻ってきた建部甚右衛門は、
長谷川うじには、ご迷惑なところをお付きあいいたさせた。このとおりである」
頭をさげた。
「お目にとまったとおり、老耄がはじまっておるのでござるよ。むかしは明晰で俊敏な仁で、ずいぶんと教えられたものじゃが---」

秋田藩の藩政を監した2年目あたり、40歳を過ぎたころから言行に粗漏がではじめたという。
気がついた幕府が役をはずし、明和7年(1770)に致仕を強制したのは、元維が50歳のときであった。
いまでは、ともに出羽への監察を役した建部広殷だけが相手をしてやっていた。

「いや。われらが出羽へ遣わされたのは、循吏(じゅんり)たるもの、機会があれば広く世間を見ておくべし、とのお上のおぼしめしであったように存ずる。秋田藩をあれほどにいじめることはなかった}
甚左衛門広殷がふとこぼした。

ということは、こくんどの平蔵(へいぞう 37歳)の嶋田行きも、一つ上の循吏の地位へのぼるためのものであるのかもしれない。
書院番士として西丸へ詰めきるだけが極上の奉公とはかぎらない。

平蔵は、幕府の忌避にふれた秋田藩の銀札仕法の経緯(ゆくたて)を建部増役に質(だだ)そうとおもったが、
(いや。危ない質問を発すべき相手ではない)
尻毛しりげ)〕の長右衛門(ちょうえもん)かかわりで親交ができておる南伝馬町2丁目の両替商〔門屋(かどや)〕嘉兵衛に聞けばすむことであろう。

(【参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16

玄関脇の応対の間へ席を移した。
与力・原田研太郎(けんたろう 38歳)、同心・三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)、古室(こむろ)忠左衛門(ちゅうざえもん 30歳)が待っていた。

平蔵を引きあわせると、建部増役は、あとを与力にふって消えた。
古室同心が、事件のあらましを説明した。

地元の銘酒で、江戸へも船送されてきている〔水神(すいじん)〕の酒造りどころの〔神座(かんざ)屋〕が賊に襲われた。
新酒ができ、あちこちから注文の前金が届けられていたところを狙われた。
手がかりは、去年の晩秋に春先までという期限つきで雇い入れた直営の酒場の酌婦で孕みおんなのお(てつ 25歳前後)。
は、賊の入った晩から行方がしれなくなった。
もう一つの徴(しる)しは、頭目とおもえる男の尾張なまり。
(言葉を発するようでは、たいした心得のある一味ではにないな)

平蔵は、かつて小浪(こなみ 29歳=当時)から、盗人にとってお国なまりは獄門への本通りと聞かされたことがあった。

参照】2008年10月20日[〔うさぎ人(にん)〕・小浪] (

もっとも、当時はラジオもテレビもなかったのであるから、全国統一の標準語などなかった。なまりから生国が特定できないといえば、江戸言葉か京言葉であったろう。

三宅古室同心が嶋田まで出張るといった。

旅程を打ちあわせたとき、平蔵が、落ちあうのは、7日目の嶋田の本陣・〔中尾〕藤四郎方ということにしたいと提案した。

「ごいっしょでは、なんぞ不具合でも---?」
「いや。火盗改メが揃って道中しては、公儀ご用を盗賊たちに触れあるいているようなもので。ことは隠密にはこぶのが良策かと---」
三宅同心は感服したが、平蔵とすれば、里貴(りき 38歳)と朝まですごす一夜をつくりたかっただけのことであった。

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2011.04.18

火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷

「はあ? 建部(たけべ)さまからでございますか?」
平蔵(へいぞう 37歳)の不審げな声を、与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 62歳 800俵)がたしなめた。
建部どのの組からきた同心の口上では、おぬしとは入魂(じっこん)の間柄のようであったがの」
「とんでもございませぬ。たった一度、お目にかかっただけでございます」

「会話は交わしたのであろう?」
「はい」
長谷川。おぬしは、ここ(西丸)の書院番士となって、あしかけ9年になろう?」
「はい」
「それでもまだ呑みこめぬとは、困った仁よのう。役人同士というものは、1度言葉を交わしあえば、以後終生の知己になるのじゃ」
「はあ---」
「そうでなければ、役所ではことが進まぬ」

建部甚右衛門広殷(ひろかず 56歳 1000石)とは、火盗改メ本役・(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 42歳 先手・弓の2組頭)がもうけた席で出会っただけであった。

ところが、幕府直轄の嶋田宿本通りの酒元に賊が入り、500両余(8000万円)が盗まれたために、糾明に同心2名を出張らせることにしたから、助(す)けてもらいたいと頼んできたというのであった。

「組頭の水谷(みずのや)伊勢守勝久 かつひさ 59歳 3500石)さまはご承知なのでございますか?」
「組の名誉にもなるから、行ってやれと---」
「はあ---」

平蔵は嶋田宿往復104里(412km)の日数11日と糾明の3日を暗算し、
「それでは、18日ほど頂戴させていただきます」
「おお、20日でもいいぞ」
建部どのは、牟礼与頭に3両(50万円弱)も包んだかな)

早引けし、四谷南伊賀町の日宗寺前の建部邸へ出向くと、応接の間でなく書院へ通された。
先客があった。
安西彦五郎元維(もとふさ 62歳 1000石 ただし隠居)と紹介された。
建部増役と同じく耳がとおくなりはじめているらしく、声が大きかった。
笑うと、とりわけ大口をあけて腹の底から発した。

建部増役は、平蔵を呼びつけた用向きなどそっちのけで、23年前に2人で、出羽・秋田藩20万余石に藩の仕置の不始末を訊(ただ)しに行ったときの思い出話に興じていた。

話の具合から察すると、安西老人が使番で39歳、建部老は小姓組番士で32歳あったらしい。
安西老はいく度も平蔵の齢を訊いた。
「37歳」
応えても覚えようとせず、
広殷が32歳、わしが39歳のばりばりのときであっての。久保田(秋田藩)の宿老たちを[だまらっしゃい]と叱りつけて吟味をつづけたものよ。のう、広殷どの」
そして、わっははは、と歯が抜けた大口をあけて笑うのであった。

秋田藩の仕置の不始末とは、藩財政の打開のために発行した銀切手にかかわるもので、家中が推進派と反対派に2分して争った---いつでも、どの藩にもある騒動だが、幕府による銀山の召しあげを藩が呑まなかった見せしめの気配もあった。

そういえば、銕三郎(てつさぶろう)時代、田沼意次おきつぐ)の木挽町(こびきちょう)の中屋敷で、秋田藩の鉱山から帰ってきたという平賀源内(げんない )に会ったことをおもいだしたが、老人たちの気炎に口をはさむ余地はなかった。

参照】2007年7月27日~[田沼邸] () (

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2011.04.12

贄(にえ)家の探索

先月---3月6日(日曜)の静岡での定例[鬼平クラス]の前に、島田市旭町に、贄家の分家を訪ね、徳川幕府崩壊後のあれこれをお訊きするつもりで電話をいれたら、歴代の位牌ていどしか残っていないとのことであったので、訪問を中止、代わりに、クラスの安池欣一さんに、機会をみて位牌のを写してほしと依頼しておいた。

4月3日(日曜)のクラス日に、頼んでおいたリポートが出来上がっていた。
添えられていたメッセージの一部は以下のとり。

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贄家訪問の報告

贄さんのお宅を訪問しましたので、結果を報告いたします。

1 .贄さんのお宅には、位牌以外には、先祖に関する資料はないそうです。
その位牌は6~7ありまして、一つの仏壇にすべてまつられておりました。

この位牌については、(江戸から菊川市へ移住後の菩提寺である)極楽寺の先代の住職が、ひとつひとつ、調べて過去帳に記載してくれたといいます。

そこで、この過去帳を転記させていただきました。

没年月日の1日から30日まで日付順に記載されています。
その内、女性10名、子供6名を除いて、男性のみ抽出し没年順に記載すると別紙のようになります。


2. 寛政譜の贄家分家の初代「正長」の法名は、寛政譜は「同朝」に対して、過去帳は「洞明」と違いますが、次代の正朝は同じです。
没日はすべて同じですから、これらの位牌は贄家分家のものである可能性がたかいと考えられます。


3. 没年を比較しますと、一番古い寛永4年からNO.2の元禄10年まで70年と間があきすぎますが、それ以外は概ね連続していると考えられます。
NO.2から戒名に「院」がつき、寛政譜に記載されているNO.5から「院殿」がついています。

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安池さんが訪問した分家の、贄家についてのデータなどは、
参照】2011年11月18日~[贄(にえ)家捜し] () () () 

長谷川平蔵の前に、先手・弓の2番手組を火盗改メとして鍛えあげた(にえ) 安芸守正寿についは、 
参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 


そういえば、港区の大国寺では、正寿(まさとし 享年55歳)の戒名を訊くのも手ぬかっていた。

歿地・堺市で葬られた南宗寺の墓石に彫られていた戒名は、

寛量院殿(従五位下前芸州刺吏)印紹(超?)信居士

インターネットで、贄 市之丞正寿で検索したら、堺奉行に在任中の飢饉のときの手当てもよかったとあり、そのことも再任要請の理由の一つだったのかなと。


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安池さんからの添え状のつづき---。


その他

1. 『南紀徳川史』の『南紀徳川史』に「名臣伝」の「贄掃部」が掲載されています。
概ね、寛政譜に記載されていることと同じでしょうか。

2. 歌山県史の資料「和歌山分限帳」(延宝5年 1677年に作られたといわれています。)によりますと贄家では「400石 寄合 贄一郎太夫」と「25石 大小姓 贄与五兵衛」が記載されています。
これによりますと、この当時、既に贄家分家が存在したということも考えられます。

3. 和歌山県史によりますと、正保元年(1644年)以降延宝5年頃までの間に、新参の家臣・与力を召し放し、家臣に分家を立てさせた時代があったと記載されています。
贄家もこのようなケースであった可能性もあります。

4. 和歌山県立文書館に贄家の「系譜並ニ親類書書上」の存在を確認しましたが、無いとの回答でした
5. 以上からの推測ですが、「贄家過去帳」のNO.2の人の時代から贄家分家は存在したのではないでしょうか。
寛政譜の資料を提出するにあたって、たまたま、正長が養子になっていたので、そこから系譜をかくことにしたのではないでしょうか。

6. そのほか、贄正義さんは先祖の戒名に「院殿」がついていることから、相当な地位の人ではなかったかと言われたそうです。
三重県度合郡南伊勢町に「贄浦」という地名があるのですが、そこに贄島という所があって、親戚の人と訪ねて行ったそうです。
その時は、訪ねた寺の住職が不在で話を聞くことができなかったそうです。
また、位牌があるからにはお寺があるはずだとも思っていたそうです。
今回、「大安寺」のことを紹介し、本家のお墓はあることを説明し、電話番号も伝えてきました。


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つくってくださった『南紀徳川史』の「名臣伝」の「贄 掃部」のコピーには、先祖が家康の配下にあって、三河の各地に従軍、功を立てたことが列記されている。

寛政譜』は、慶長5年(1600)、秀忠が真田方の上田城を攻めたとき、牧野右馬充康成の組の旗奉行として、進みすぎたのは軍令に反する抜け駆けであると切腹をいいつけられたが、牧野康成が自分が命令したと弁護したため、改易ですんだことを記している。

その後、頼宣にしたがって紀州へくだり、「分限帳」には400石の寄合と載っている。

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2011.01.20

贄(にえ) 家捜し(3)

静岡県菊川市牛窪の極楽寺は、維新以後---すなわち、徳川幕臣の駿・遠州への移住により、 (にえ)分家が菩提寺としたしたのであろう。

先日も記したが、贄 家の本家、分家について再度、まとめてみよう。

享保元年(1716)、将軍・家継(いえつぐ 享年8歳)の危篤の報に、急遽、赤坂の紀州藩邸からニノ丸入りした吉宗(よしむね 33歳)にしたがった小姓組・贄 主計頭(かずえのかみ)正直(まさなお 25歳)が、そのまま将軍付きの小姓組番士として幕臣となり、300石を給された本家。

同年、吉宗の嫡子として西丸入りした長福丸(ちょうふくまる 6歳)付きの善之丞正長(まさなが 42歳 200俵)は、分家の祖である。
そして、善之丞正長は、本家・主計頭正直のもっとも近い叔父にあたった。
また、この贄 分家の屋敷は、鉄砲洲築地であったから、同じ区画で5歳から19歳までをすごした銕三郎(てつさぶろう)は、贄 分家の三代目・掬五郎正栄(まさよし 銕三郎より10歳年長)と顔をあわせていたかもしれない。

安池欣一さんが、資料をあたり、まず、見つけたのが、この分家・善之丞正長の末・善次郎(ぜんじろう 39歳=明治4年 1871)であった。
資料は、小川恭一さんの労作『寛政譜以降旗本家百科事典』(東洋書林 1997)であった。

主なところを書き写す。

贄善次郎 
養祖父:贄 弥市郎    書院番
  養父:贄 善右衛門   小十人頭
実祖父::三田:助右衛門 大番
  実父::三田助右衛門 小普請組頭 
200俵
文久3(1863) 小姓組入
慶応2(1866) 勤仕並小普請
明治元(1868)精鋭隊取締
明治2(1869) 金谷原開墾御用取締
    6人扶持手当150両


_160『金谷郷土史資料 牧之原開拓士族名簿』(金谷郷土史研究会)も、上掲とほとんど同じ記載だが、どちらの記述が先かは、後日、安池さんに確認してみよう。

善次郎(のち正善 まさよし)が金谷原開墾御用取締を勤めたことからであろうか、分家の菩提寺は菊川市牛窪の極楽寺になった。

同寺の住職夫人への、安池さんの問いかけ、
贄 家は名家であり、牧之原(金谷之原の改称)開拓に従事した方で、そのことを本に書いた人もいるようですが、そのようなこと、ご存じではないですか?」

住職夫人の応え---。
さんは、今はこちらにお住いではなく、島田へ移転されています」

安池さんからの資料に、島田市のハロー・ページのコピーが同封されており、贄 姓が5件登録されていた。
贄 善次郎家の子孫の色が濃い。

善次郎の項の「精鋭隊」について、前田匡一郎さん『駿遠へ移住した 徳川家臣団 第ニ編』(発行は著者 1993)に、

幕末の動乱のころから慶喜の護衛を任務としていた精鋭隊の中条金之助(景昭)以下ニ百五十名は、引き続いて慶喜の身辺の警護と久能山東照宮の警衛の任務を与えられて、大部分は久能山の周辺に住んでいた。
精鋭隊は移住後に「新番組」し改称したが、血気盛んな攘夷派でいずれも刀槍の達人揃いの十七人のさむらいが結成したもので、移住してからはね目的が変わったが同志を増やして、徳川家再興の先兵たらんとの意気iに燃えていた。

中には、近所の住民といざこざをおこす者もあり、そういう物騒な連中は遠くへ隔てろとの重臣の意見もあり、牧之原の荒涼地の開墾がわりあてられたらしい。

隊長の中条景昭は明治二十九年(1896)に島田で歿して墓は種月院にあり(中略)、幹部級の贄 善次郎は明治三十年(1897)に歿して墓は菊川町の極楽寺---(後略)

探索は贄 本家からやや離れたが、大安寺とのつながりがあるかぎり、いつか、連絡(つなぎ)がつくのではないかと希望を捨ててはいない。


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(贄 分家 善之丞正長の家譜 寛政10年まで)


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2011.01.19

贄(にえ) 家捜し (2)

_160コンクリート造りの本堂に付属している玄関脇のインタ-ホンで、
「アポをいただいている者です」
来意を告げた。

すぐに前住職夫人が招じてくださった。
背丈はそんなにないが、 ふくよかな面立ちの80歳前後の方。

用意してきた、贄 家の本家・分家と長谷川家の『寛政重修諸家譜』と旧著『江戸の中間管理職・長谷川平蔵』を進呈し、遊びの調査でないことを示した。

夫人のほうからは『泰嶽山大安寺誌』(1984制作)が差しだされた。
「10年もお参りがないと、無縁のほうへお移しするのですが、さまのはお残ししています。最後にお見えになったのは、30年以上も前でしたか、お父さまとお嬢さまのお2人で---お嬢さまはたしか、よし子とかとおっしゃったような---」

贄 夫人は療養中か他界されていたのかもしれない。

前住職夫人は、
「私が20代のころでした」
お嬢さまという言葉にまどわされたが、30年前ではなく、50年ほども前のことで、
「ご結婚なさったかどうか---」
疑問の言葉がつづいたから、贄 直系の本家は消えたのかもしれない。
しかし、子孫の住まいは東京か近郊であったふしもある。
また、支流がおられるかもしれない。

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(大安寺本堂 1961建立)

コンクリート造りの本堂ができたとき、墓も本堂左の建物群に収容したと。
風雨で墓標が退化したり、塔婆が風で騒ぐこともない。

供花を用意してお参りしたが、夫人が朝のうちに手くばりくださっていた。

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じつをいうと、供花は、安池欣一さんが送ってくださった、贄 分家の菊川市牛窪の墓標の写真を見、安池さんの気くばりに学んだのである。

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(菊川市牛窪 極楽寺の贄.分家の墓標3基 安池さん写す)


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2011.01.18

贄(にえ) 家捜し

火盗改メのお頭(かしら)としては長谷川平蔵の8人前、先手・弓の2番手の組頭としては3代前の、贄 安芸守正寿(まさとし 享年55歳 400石)のことを調べていることは、『個人譜』も掲げてすでに報じている。

参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 

安芸守正寿は、堺奉行として在職のまま任地で没し、同地の南宗寺(堺市堺区南旅籠町東3-1-2)に葬られたが、墓は空襲で焼失したと同寺の住職から聞きだしたところで、探索が停止してしまっていた。

贄 家は、維新のときに駿河へ移住したにちがいないと見当をつけ、SBS学苑(静岡JR駅ビル)の[鬼平]の1月9日のクラスでも、贄 姓の知人捜しを、再び依頼しておいた。

数日前に、クラスの安池欣一さんから大きな封筒がとどいた。
あけて、驚嘆・狂喜---贄 家の分家の探索史料が、きちんと整理されていたのである。

まず敬服したのは、ぼくがうっかり見のがしていた、贄 家本家・分家の菩提寺をおあたりになっていたこと。
菩提寺は、大安寺(港区西麻布2丁目)。

安芸守正寿の葬地と『寛政譜』に記されている南宗寺にばかり注意が向いてい、菩提寺を手ぬかっていたが、安池さんは、そこから手をつけていた。

じつは、大安寺は、わが家の壇那寺の隣地にある。
資料によると、この寺は永平寺系の曹洞宗とのこと。
永平寺の別院---長谷寺(ちょうこくじ 港区西麻布2)の北にあることの納得がいった。

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(近江屋板切絵図 緑○=大安寺 赤○=長谷寺)

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(渋谷長谷寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

わが家の壇那寺である隣の寺は、切絵図の時代には廃寺であったらしく切絵図には収録されていないが、現在は中興し、長谷寺のれっきとした支院である。

支院の住職に教えられた。
大安寺は、その長谷寺の兄弟寺で、赤坂一ッ木に開基(元和元年 1622)、類焼により、文政8年(1825)に長谷寺の寺域の一部が割かれ、現在地へ移ったと。

いや、待て---大安寺という山号には針先でついたほどのかすかな記憶があった。
聖典『鬼平犯科帳』の、リスト化している寺社データベースを検索してみた。
ヒットした。

文庫巻5[兇賊]。p186 新装版p195、
青山通りで表向きには飯屋をやっている独りばたらきの〔板尻いたじり)〕の吉右衛門の店で、〔鷺原さぎはら)〕の九平(くへえ)が倶利伽羅峠で目にした曲者を見かけて尾行(つけ)た。

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(青山通りに面している梅窓院 池波さん愛用の近江屋板)

男は、通りの向うの梅窓院(ばいそういん)という大きな寺院の脇道(わきみち)を南へぬけた。
突き当たりは青山侯の下屋敷で、その塀沿いにながれている小川に添って、男は、まっすぐに南へ行く。
さびしい畑道となった。
このあたりは土地の起伏が多い。雑木林の向うに、日中なら大安寺の大屋根がのぞまれようという丘の上の百姓家に、男は入っていった。

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(梅窓院は泰平観音堂が有名。池波さんは左手の屋根を大安寺のものとみたのかもしれないが、梅窓院の虚空蔵堂ではなかろうか。鬼平のころの大安寺はかなり離れた赤坂一ッ木にあった)

いまは、些事にこだわっているときではない。

時は天明の大飢饉がはじまろうかという時期でもあったが、ちょっとさかのぼる。

贄 本家は、吉宗にしたがって江戸城入りしていたが、贄 分家は、吉宗の赤坂の紀州藩屋敷で生まれた長子・長福丸(6歳=享保元年)付として西丸入りした善之丞正長(まさなが 42歳=同 200俵)が祖であった。

延享4年(1747)に73歳で歿した正長も、本家の菩提寺・大安寺に葬られた。

贄 一族で最初に大安寺に葬られたのは、小姓として吉宗にしたがって二ノ丸入りした本家の弥次右衛門正直(まさなお 300石)で、享保3年'(1718)に28歳という若さで逝った。
家を継いだのは、次弟・正周(まさちか)で、安芸守正寿(まさとし)の実父である。

維新のときに本家・分家とも静岡へ強制移住させられてからの子孫の記録を、安池さんが追跡したのである。

安池さんが大安寺へ電話で問い合わせたところ、墓は残っているが遺族の参詣はないとのことであったと。

墓が残っているのであれば、香華を手向けないわけにはいかない。、
参詣者が絶えているために花立てもなくなっているのでは---と案じながら、花屋へ走った。

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2010.12.11

先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(8)

有徳院殿吉宗 よしむね 享年68歳=宝暦元年)さまが復活なされた徒(かち)の士による大川の水練、水馬も、再興されておる」

(にえ) 安芸守正寿(まさとし 39歳 300石)の言葉に、平蔵(へいぞう 34歳)は躊躇なくうなずいた。
たしかに、家治(いえはる)は、祖父・吉宗の教えをよく守っていた。

「われを火盗改メにお命じになったのも、盗賊どもがはびこっては町々の者が安眠できまいとのご温情からであった」
「いかにも---」
応じた 組の筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 52歳)は湯呑みを茶托へ戻し、平蔵へ、
「秘報であるが、先夜、神田佐久間町の躋寿館(さいじゅかん のちに医学館)に侵入した賊があった---」

正寿がすぐに言葉を足した。
「躋寿館の敷地つづきに居宅を賜っておる多紀(たき)法眼(ほうがん)どののほうだがな」

医科学校ともいえる躋寿館の学頭が多紀家であった。
当夜、学頭の法眼・元孝(もとたか 69歳 200俵)は、持病の血のめぐりの具合が悪く、駒込追分村の本屋敷に臥っており、敷地内の居宅には息・元悳(もとのり 50歳)夫妻と孫・元簡(もとやす 25歳)が起居していた。

長谷川うじ。このような供応の席で披露する話題ではない。あらためて、お暇なおりにでも役宅へお越しになって脇屋筆頭から聞くなり、係りの同心を呼ぶなりしてくだされ」

組頭が鷹揚にいい、お開きとした。

玄関で、脇屋筆頭に、、
「あさって夕刻でも、深川の{季四}で---」

耳に入れた正寿が微笑をたたえ、
相良田沼意次 おきつぐ)侯がおこころ入れをなされておる店とか---。今宵もそこでと、おもわぬでもなかったが、お客の陣地というのもどうかと案じての---はっ、ははは」

玄関を出た 組頭は、脇屋筆頭に
脇屋は中坂を上ったほうが組屋敷への近道であろう」

脇屋と小者が消えるのを見きわめ、俎板(まないた)橋西詰まで歩きながら、
「組の者たちの重荷になっては---と気づかい、座敷ではあのようにいったものの、法眼元悳どのはお上の脈もとっておっての」
「承りました」
「頼みますぞ」

くぐり戸から門内に消えたのを見送った平蔵松造(まつぞう 28歳)は、小石川橋のたもとで提灯をふり、それを合図に雪洞に灯をいれて船宿〔黒舟}と筆書きの字を浮きあがらせた小舟へ乗った。

小舟は神田川をくだり、浅草橋で松造をおろすと、大川から上(かみ)の橋をくぐり、油堀に入り、その先を曲がって〔季四〕の舟着きへつけようとした。

参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () (

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2010.12.10

先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(7)

長谷川うじは、煙草を喫するや?」
酒食が果て、茶を手にした(にえ)越中守正寿(まさとし 39歳 300石)が、平蔵(へいぞう 34歳)に問うた。

心得ていた料亭〔美濃屋〕の亭主・源右衛門が、茶とともに煙草盆を運ばせていた。

「いたって不調法でございまして---」

傍らに置いていた煙管(きせる)入れから抜きだした、小ぶりの銀煙管の雁首に薩摩(きざみ煙草)をつめながら、
「いまどき、珍しいの。実はわれが覚えたのは、伽衆として竹千代ぎみに近侍しておった14歳のときでの---」

{上さま(家治 いえはる)もお嗜みでございますか?」
「公けの席とか、人前ではお遣(や)りにはならないから、藩侯たちのほとんどは存じおるまいが、薩州侯長谷川うじが伺候しておる西丸の少老・鳥居丹波守忠意 ただおき 63歳 下野国壬生藩主 3万石)侯などは、定例の時献上(ときけんじょう)とは別に、領内産の煙草を呈しておられる。なに、大奥では老女たちも嗜んでおる」

ただ---と、正寿はつけ足した。

家治が上に立つ者の自戒の資となしている『貞観(じょうがん)政要』に、「嗜欲喜怒の情は賢愚皆同じ。賢者は能(よ)く之を節して度に過ぎしめず。愚者は情を縦(ほしいまま)にして、多く所を失うに至る」とあり、自らを律することひととおりではない。
火壷は真鍮の器にかぎり、煙管は銀づくりまでしか用いないと。

太宗は即位してすぐに、侍臣たちにいっている。
「人、明珠有れば、貴重せざるは莫(な)し。若(も)し以て雀を弾ずれば、豈(あ)に惜む可きに非ずや」
雀を撃つのに宝石を飛ばす者を正気の沙汰とはいわない。
ものに執着しないことが肝要である。

煙草といえぱ---と、平蔵は、12年ほど前に、東海道・六郷の渡しで出会い、煙草をすすめてくれた小柄な40男の述懐を話した。

参照】2008年6月25日[明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)] (

「しかし、煙草というのは便利なものですな。いままで存じあげてもいなかった、お逢いしたばかりのお若いお武家さまへ、煙草をおすすめしただけで、このように話の糸口がほぐれます。お武家さまが煙管におつめになるのは、1文するかしないかの寸量です」

話している平蔵も、聞いている正寿も、その男が大盗・〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 57歳)と知ったら、どれほど驚いたことであろう。

「そのような功徳もあろう。試みますか?」
「いえ。亡父の遺訓でありますので---」

備中(びっちゅう  享年55歳)どのは、火盗改メとして、われの目標でもある」
「恐れいります。父が聞いたら、どれほど喜びましょう」

ちゅうすけ注】聖典では、宣雄が京の西町奉行時代に、新竹屋町寺町西入の煙管師・後藤兵左衛門に50両(800万円)で替え紋の釘抜きを彫った煙管をつくらせたとある。
ちゅうすけは、愛煙家であった池波さんが創作の一つと推測していることはたびたび書いた。

その一つ---、2005年10月16日[名工・後藤兵左衛門作の煙管


参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () 

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