火盗改メ・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)の栄転
天明4年(1784)という年は、長谷川平蔵宣以(のぶため 39歳)にとって、吉凶があざなえる縄のようにつながっていたといえた。
年の初めに、西丸・書院番4の組番士として出仕した平蔵を上から横から見まもり、里貴(りき 逝年40歳)とのあいだもほほえましいと許容してくれていた与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 享年64歳)が逝った。
麹町の心法寺での葬儀は派手ではなかったが、勝孟の人柄をしのばせ、弔問の列が長かった。
全盛の田沼主殿頭意次(おきつぐ 66歳)の力をさえぎるように、嫡男・山城守意知(おきとも 享年36歳)が、遠祖をたどると同根といわれている佐野善左衛門政言(まさこと 30代?)に斬られた傷がもとで無念死し、駒込の勝林寺へ葬られた。
夏に里貴も生命(いのち)が尽き、跡継ぎの奈々(なな 17歳)が平蔵との念願をはたした。
長谷川の家族へ横から割りこむように、辰蔵(たつぞう 15歳)の子を月輪尼(がちりんに 24歳)が産んだ。
生死とはかかわりがないことだが、火盗改メの頭(かしら)して異例の5年間も敏腕をふるった贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 45歳)が、堺奉行として7月25日に発令された。
『徳川実紀』がしばしば諭告を書きとめているように、不作の予見からか年初より米の出まわりがよくないことを叱っていた。
もっとも、茶寮〔季四〕は米に不足きたすことも、高値を払うこともなかった。
前まえから、長谷川家の知行地(上総国武射郡寺崎村、同山辺郡片貝村)でとれた村方分の換金は、小関(こぜき)村(現・千葉県九十九里町小関)生まれで、香取郡(かとりこおり)佐原村の蔵元・伊能家へ入り婿した三治郎(のちの忠敬(ただたか))が江戸・鎌倉河岸(千代田区内神田1丁目)に出していた米問屋と契約していたからであった。
伊能忠敬が商売上手であったことは、18歳で齢上の子持ちの後家・達(みち 22歳)に入り婿したときの伊能家の資産を、50歳で引退したときには23倍の30万両に増やしていたと、資料が裏書きしている。
このブログでは、このところ1両を16万円に換算している。
30万両は、480億円。
天明3年(1783)の浅間山焼けよった田畑の被害、翌年の飢饉のお助け米などの放出も計算にいれた上での資産増である。
事実、佐原村からは1人の餓死者もだしていなかった。
忠敬の金銭才覚もさることながら、この時の名主としての善行を賞した采知主・津田内匠頭信之(のぶゆき 44歳=天明4年 6000石)が苗字帯刀を許した。
伊能忠敬と長谷川平蔵のつながりは、絵空ごとではない。
下にリンクしたコンテンツをお読みいただきたい。
伊能忠敬は延享2年(1745)の生まれだから、平蔵より1歳年長であった。
【参照】2006年4月24日[平蔵のすばやい裁決]
伊能忠敬をもちだしたのは、ほかでもない。
飢饉というむつかしい時期に、堺奉行に栄転する贄 壱岐守正寿へ祝賀の品をととどけた平蔵の祝辞を理解してほしいからである。
「非常時のご奉行、ご手練のほど、見習わせていただきます」
「長谷川うじがこと、後任の横田源三郎松房(としふさ 41歳 1000石)どのへ、しかと申しおくっておいたゆえ、近く、あいさつなさっておかれよ」
「変わらぬご配慮、かたじけのうございます。しかし、足でまといのあつかいもうけず、おもしろうございました。
贄 壱岐守正寿の在任中に平蔵が関与した事件などは、
【参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (1)
(2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2010年12月12日~[医学館・多紀(たき)家] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
2010年12月18日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
2011年4月30日~[おまさの影] (1) (2) (3) (4)
2011年5月4日~[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
「堺で奉行所の手にあまる事件がありましたら、お声をおかけくだされば、かけつけます」
平蔵の幕臣の分を超えた言葉に、贄 越前守は微笑しただけであった。
堺へかけつけたいのは、ちゅうすけである。
贄 の善政を地元の研究家の方々に教えていただきたい。
堺奉行の発令とともに、爵称は越前守に変わっていた。
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