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2009.05.03

火盗改メ・平岡与右衛門正敬

2009年4月29日の当ブログ[先手・弓の組頭の交替]に、天野伝四郎富房(とみふさ 700石)が、凡庸ながら勤勉につとめあげ、67歳にしてようやく、弓の1番手の組頭の席を射止めたものの、着任2ヶ月で病死してしまったことを告げておいた。
後任には、天野富房とおなじく小姓組の与頭(くみがしら 組頭とも記す)を15年間にわたって勤めていた平岡与右衛門正敬(まさよし 69歳 800俵)が、明和7年(1770)9月1日に発令された。

前にも書いたが、小姓組の与頭は1000石格、先手組頭は1500石格であるから、800俵の平岡正敬には700石の足(たし)高が給される。
足高で、1500石にふさわしい供ぞろえなどを補充せよ---というのが表向きの沙汰だが、たいていは、旧のままですましてしまう。

長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)のように、先手の組頭に任じられると、火盗改メの加役を下命されることを予想し、仮牢や拷問部屋、武具庫のために1200余坪もの敷地を手配した例は、きわめてまれである。

さて、弓の1番組という由緒のある先手の組頭となった平岡正敬に、待っていたかのように2ヶ月もおかずして、火盗改メ・助役(すけやく)が発令された。

平岡家は拝領屋敷として、湯島聖堂の西にあって江戸城にも近い、本郷桜ノ馬場(現・東京医科歯科大付属病院)の角を賜っており、よほどに裕福とみられたのかもしれない。

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(赤○=桜ノ馬場 緑○=平岡邸 近江屋板)

余右衛門正敬に火盗改メの下命が達したのは、明和7年10月21日で、1番手の与力・同心たちとすると、冬場の助役(すけやく)とはいえ、宝暦3年(1753)年以来、17年ぶりの火盗改メというので、先輩たちは若手を鍛えるいい機会とばかりに張り切った。

ところが、平岡組頭がいっこう沙汰をくださないばかりか、桜ノ馬場の屋敷に白洲や仮牢を設ける気配もない。
同心たちが不審におもっていると、余右衛門正敬が病気につき加役ご免の申請をしているらしいとのうわさが流れてきた。
筆頭与力・三宅喜之輔(きのすけ 53歳)が余右衛門に質(ただ)すと、腰痛と膝痛がひどいために乗馬もかなわぬゆえ、火盗改メ・辞退願いを上程していると打ちあけられ、与力たちは唖然とした。
それなら、先手組頭への昇進の諮問があったときに釈明して断るべきだ、というのが誇り高い1番手の与力・同心たちの総意であった。

それなのに、先手の組頭の役料1500石がほしいばっかりに、同職だけは受けたというこころねがいやしいと、聞こえよがしにいきまく同心もいた。

幕府が辞退願いを受理、病免あつかいにして平岡家の体面をかばってやりながら、火盗改メの代役には高齢の組頭に懲りたか、とってつけたように51歳の永井采女直該(なおかね 2000石)を11月23日付で発令した。

平岡政敬の火盗改メの期間は1ヶ月と1日であった。

永井直該は、鉄砲(つつ)の4番手の組頭であり、家禄2000石なので、1500石格の先手組頭は、いわゆる持ち高勤めであり、あまりありがたがられないところへもってきて、もの要(い)りな火盗改メは、いかに冬場の助役とはいえ、不本意であったろう。

先例がないわけではない。
本多采女紀品(のりただ 49歳=就任時 2000石)もその一人である。
本多紀品は、先手組の中でも同心が50名と多い、それだけに格も高い鉄砲の16番手の組頭であった、
さらに、火盗改メを2度こなした。
上から有能と見られていたのである。

参照】2008年2月9日~[本多采女紀品] (1) () () () () () () (
2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] () () () (

次の栄転を暗示され、引き受けた気配がある。
永井一門も、本多家同様に名家が多く、引きも強い。

ま、そういった永井直該のその後のことは、向後に託し、これきりでこのブログからは消えるはずの平岡与右衛門正敬の個人譜を掲示しておく。

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(平岡与右衛門正敬の個人譜)

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