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2009.10.04

高杉銀平師の死

高杉先生が正月3日に亡くなりました。
葬儀は、門下一同で、春慶寺にて簡単にすませました。
遺骨は、縁者のことをお打ちあけにならないので、臼井へ持ち帰り、わが家の墓域の隣にささやかな墓をつくり、祀ることにしました。

先生のおられない江戸にとどまっていても詮(せん)ないので、臼井で兄に小さな道場でも開いてもらうつもりです。

そうえば、先生がお逝きになる前の日に、「(てつ)に、くれぐれも申し送れ」とおっしゃったことがあります。

「3歩、退(ひ)け。1歩出よ」
は、これだけでわかる」
と。
修行、怠りなくおつとめのほどを---。

剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 28歳)からの飛脚便てあった。

「3歩、退(ひ)け。1歩出よ」
の行まできて、押さえきれなくなった銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、嗚咽を殺して泣いた。

辰蔵(たつぞう 4歳)が、
「母上---」
久栄(ひさえ 21歳)を呼びに走ったが、文を見て事態をしった久栄は、辰蔵の手を引き、静かに部屋をでていった。

銕三郎銀平師から「3歩、退(ひ)け。1歩出よ」と最初に聞いたのは、初お目見(みえ)の祝辞のあと、
長谷川は、幕臣と定まった。剣客ではない。3歩、退(ひ)け。1歩出よ---を餞(はなむけ)として贈るゆえ、受けてくれ」
銕三郎の気性を知りつくしている師の、こころからの処世訓であった。

(先生。せめて、拙が江戸へ戻るまで、どうしてお待ちくださらなかったのですか。無念です。京における銕三郎は、つねに3歩、退(ひ)いておるつもりです。もし、退き方がたりないとお感じになったら、どうぞ、あの世から木刀で撃ってください)
いつまでも、自分に言いきかせていた。

父・備中守宣雄(のぶお 55歳)が表の役所からさがってきたとき、 
「江戸へ、いえ、下総・印旛沼の臼井まで行ってきてもよろしいでしょうか?」
じろりと銕三郎を見、
「なにをしに行くのじゃ」
「先生にお別れを申しに---」
「無駄じゃ。京へのぼるときに、お別れをしたはず。会うことは、別れのはじまり。生まれたことは、死へ向かっての歩みはじめていること---と心得よ」
「しかし---」
「先生は、お望みではあるまい。お心を察せよ」

あとは、無言のまま瞶(みつめ)ていたが、銕三郎が一礼して立ちかけると、
(てつ)。そなたが〔読みうり〕で得た金は、いかほどのこっておる?」
「8両(128万円)と2朱(2万円)ばかり---」
「2両(32万円)はわれが出す。10両(160万円)にして、墓標のたしにと、左馬之助どのへ、明日にでも送金してやれ」
「遺漏なく---」

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2009.07.19

高杉銀平師が心のこり

高杉道場内の北側の隅で、銕三郎(てつさぶろう 27歳)と岸井左馬之助(さまのすけ 27歳)が声をひそめて語っている。
左馬さん、道斎先生のお診立てはどうなのだ?」
「それが、はっきりとはおっしゃらないのだ」
「左馬さんの訊き方が手ぬるいとはおもえないし---」
「先生の病室でははばかれるから、道斎先生の家まで行き、何を食べさせれは精がつくかとせがんだのだが、首をふられるばかりであった」

高杉銀平(ぎんぺい 66歳)師も、銕三郎左馬之助井関録之助(ろくのすけ 24歳)へそれぞれ皆伝を授けたから、剣師としては、もう、思い残すことはないと言いつづけてきた。
「人は生まれ落ちたときから死に向かって歩いている。人はとりあえず50年も生きれば、与えられ生命はまっとうしたとおもわねがならぬ。しかるに、わしは、さらに16年も生かしてもらっている。わが身にはすぎたことよ。いつ、どうかなっても頓着するでないぞ」

「もしものときに、お知らせする高杉先生のご縁の方々のお名は?」
「お訊きしても、その必要はない。中川の土手の端にでも穴を掘って埋めてくれればそれでいい。墓など無用である---とおっしゃっているのだ」

左馬さん。拙は4,5日のうちにも、父に代わって京へ先発しなければならぬ風向きなのだ。先生のことは、くれぐれもろしく頼む。もしもし、金が入用なら、父が離府していたら、用人の松浦与助 よすけ 先代 56歳)に遠慮なく言いつけてくれ。父からもようく言い聞かせておいていただくから---」
「こころ強い。まあ、ほどほどのことなら、臼井のわが里(臼井 現・千葉県佐倉市臼井)の方でもなんとかしてくれるとはおもうが---」

「それより、そなた、精の吐きだしはどうしておるのだ?」
率直に訊く。
独り身の青年の悩みの半分はこれである。

「懐(ふところ)しだいだ。あまっている時は、入江町の鐘楼下の娼家〔浦安屋〕で放出(ほうでん)しておる、それがどうかしたか?」
「〔橘屋〕のお(ゆき 27歳)どのとは---?」
「ちかごろ、とんと顔をあわしていない。かの人とだと、音羽の出会茶屋のかかりがたいへんなのだ」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻1[本所・桜屋敷]では、銕三郎は、青年時代を入江町の鐘搗堂(時ノ鐘)のまん前の家ですごしたことになっているが、そこにあった長谷川家(同じく400石)は、京都系統の家。鐘搗堂の下には3軒の私娼家があったと史料に記されている。

Photo
(入江町と池波さんが想定した長谷川邸と、邸前の時ノ鐘屋敷 近江屋板)

参照】2008年10月22日~[〔橘屋〕のお雪〕 () () () () () (

青年がとおりすぎなければすまされない道しるべだった。
とすれば、いちど嫁いだ躰ではあるし、あとへのかかわりがなしに楽しめた相手であったのであろう。

高杉先生は、まさかのときの道場を、左馬さんに任せるとはおっしゃらないか?」
(てつ)さんが旗本の嫡男でなければ---とは、おっしゃったことがある」
「おれが駄目なことはお分かりのはずだが---」
「剣は、腕よりも人品だとおもっておいでなのだ」
「無欲ということでは、左馬さんのほうが、おれなんかより数段上だ」
「人品と無欲はちがう」
「そうかな」

「それはそうと、京へ先発するのは、なぜだ?」
「それが、おれにも、よくはわからぬのだ」
「お上には、隠しごとが多すぎるな」
「まったく」
さんがそう言っては、実もふたもない」
「はっ、ははは」
「う、ふふふ」
「しっ---」

「おんなのことで相談ごとがあったら、町駕篭屋の〔箱根屋〕の権七(こんしち 40歳)どのか、今戸の〔銀波楼〕の小浪(こなみ 33歳)どのに頼むといい」
「分かった」
小浪どのなら、いい遊び友だちを世話してくれよう」

(これで、左馬さんへの手くばりは、なんとかすんだ。おんなのこととなると、手近にしか目がいかない仁だから---)
銕三郎は、自分のことは棚にあげて、そう断じた。いい気なものである。

岸井左馬之助のヰタ・セクスリアス
参照】2008年10月22日~[〔うさぎ人(にん)・小浪] () (2) (3) (4) (5) (6) (7)


銕三郎のヰタ・セクスリアス
2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]
2008年1月2日~[与詩(よし)を迎に] (13) (14) (41
2008年6月2日~[お静というおんな] (
2008年8月14日[〔橘屋〕のお仲] (
2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2008年11月25日[屋根船
2008年11月26日[諏訪左源太頼珍] (

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2008.05.15

高杉銀平師(6)

高杉道場での同門者は、その精神的つながりや懐古的な感傷などから、いまでいうと、年齢差のある同級生に近いのではなかろうか。

とくに精神的なつながりで結ばれているのが岸井左馬之助であり、やや近いのが井関禄之助であろうか。
感傷性では、池田又四郎滝口丈助といっておこう。

鬼平犯科帳』における同門者は、精神的なつながりだけではなく、物語の端緒であったり、鬼平の引き立て役であったりと、じつに絶妙な活躍をする。

同門者のリストを掲げてみる(篇名は初登場の時)。
鬼平ファンなら、このリストを見ただけで、物語の大要がおもいうかぶはずである。

[1-2 本所・桜屋敷]  岸井左馬之助
[3-6 むかしの男]   大橋与兵衛(久栄の父親)
[5-2 乞食坊主]    井関録之助、菅野伊助
[7-5 泥鰌の和助始末]松岡重兵衛 食客。50歳前後。
[8-3 明神の次郎吉]  春慶寺の和尚。宗円。
[8-6 あきらめきれずに] 小野田治平。
                多摩郡布田の郷士の三男。
                不伝流の居合術。
                娘・お静 左馬之助の妻に。
[11-7 雨隠れの鶴吉]  妾の子・鶴吉
[12-2 高杉道場三羽烏]長沼又兵衛(盗賊の首領)
[14-1 あごひげ三十両] 先輩・野崎勘兵衛
[14-4 浮世の顔]     小野田武吉 鳥羽3万石家臣
               御家人・八木勘左衛門
                50石。麻布狸穴に住む。
[16-6 霜夜]         池田又四郎。兄は200石旗本。
[18-5 おれの弟]      滝口丈助
[20-3 顔]          井上惣助
[20-6 助太刀]       横川甚助。上総関宿の浪人。

_11 この10数人の中で、もっとも毛色が変わっているのが、文庫巻11[雨隠れの鶴吉]篇 の主役である〔雨隠(あまがく)れ〕の鶴吉である。

通り名(呼び名)が付されているところからも察しがつくように、盗賊である。女房も女賊のお
2人は、中国すじから上方を〔盗(つと)め場所としている〔釜抜(かまぬ)き〕の清兵衛の配下である。

参照】〔釜抜(かまぬ)き〕の清兵衛

うけもちは〔引き込み〕であった。
つまり、目ざす商家なり屋敷なりへ奉公人として住み込むか、または出入りの者になって親密となり、月日をかけて、押し込み先の内情を探(さぐ)り取り、これを一味(いちみ)へ告げると同時に、いざ、盗賊一味が押しこむ夜ともなれば、これを内部から手引きをするという、なかなかに重い役目だ。
引き込みをつとめるには、それだけの才能がなくてはならぬ。
鶴吉お民の夫婦は、その点、呼吸の合ったコンビで、なればこそ、「雨隠れ」の、異名をとったのであろう。

「雨隠れ」は、「雨宿(やど)り」の別のいい方だそうな。

この〔引き込み〕は、池波さんのみごとな創案にかかる盗人用語の一つだが、初出はたしか文庫巻4[五年目の客]で、遠州の大盗〔羽佐間(はざま)〕の文蔵一味の〔江口(えぐち)〕の音吉について、密偵・〔小房(こぶさ)〕の粂八鬼平に言った時であった。

参照】 〔羽佐間はざま)〕の文蔵
江口えぐち)〕の音吉
小房こぶさ)〕の粂八
_4「で、いまの男---江口の音吉というのは?」
「へい。これはもう引きこみがうまいのでございまして---」p51 新装版p53

巻1[唖の十蔵]での中年の飯たき女は〔手びき〕p22 新装版p23 だし、巻3[艶婦の毒]で京の絵具屋〔柏屋〕の後妻に納まってするおもまだ〔手引き〕p108 新装版p113 である。

〔引き込み〕役の詮索はこのあたりで止めて、〔雨隠れ〕の鶴吉高杉道場への仲間入りの経緯(ゆくたて)の一件。
いや、仲間入りは言葉の綾で、じっさいは、七つか八つのころ、道場での稽古を窓からのぞいていたにすぎない。

というのも、鶴吉は、日本橋・室町2丁目の大きな茶問屋〔万屋〕の当主・源右衛門が女中に産ませた子で、家つきの女房がうるさいので、小梅村の寮で乳母・おに育てさせていた。

_360_2
(日本橋通りの茶卸〔万屋〕 『江戸買物独案内』1824刊)

その境遇に同情した井関禄之助が、道場への行きかえりに相手になってやっていた。
禄之助とおがいい仲になっていたのは、言うをまたない。

それから20数年が経った。
京・綾小路新町西入ルの金箔押所〔吉文字屋三郎助方でのお盗めの報酬として〔釜抜き〕のお頭(かしら)から80両を分配された鶴吉・お民夫婦は、江戸へ骨休めに下ってきて、大川端で茶店をやっているおに再会したばかりか、禄之助とも会う。

_360_3
(金箔押〔吉文字屋〕 『商人買物独案内』)

このあたりの展開が、いかにもページ・ターナーの池波さんらしい筋はこびである。
物語は、鶴吉を〔万屋〕の跡取りにと願う源右衛門、小粋にのがれ去る鶴吉、見逃してやる鬼平---、小ざっぱりとした人情ものの結末なのは、ファンならご存じ。

高杉道場のけた外れの同門物語の一篇。

茶問屋の〔万屋〕にしても、金箔押の〔吉文字屋〕にしても、きちんと調べて実在の屋号を書いているところが、『鬼平犯科帳』のリアル感が強いところでもある。
(〔吉文字屋〕の右隣枠の〔井筒屋〕の名前の三郎助にもご注目)。一つの謎解き。

【参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (3) (4) (5)

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2008.05.14

高杉銀平師(5)

_130池波さんが、山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊 復刻=再建社版 1960.5.20)を口をきわめて称揚し、鬼平ファンなら、せめてその通論だけでも---とすすめているが、同書の入手はきわめて困難だし、古書店にあっても高値である。

通論の一部は、このセクション (3) (4) に引いたが、冒頭からの首要な部分を現代風の文に置き換えて掲げよう。
池波さんが高杉銀平師を造形するよりどころとした文である。

もっとも長文だし、「精神論だ」とおもう人は、きょうのところは黙視していただいてよい。


  第一章 通論

わが国の歴史がはじまってよりこの方、剣戟と人びとの心とは、いささかも離れることのない関係を保ってきている。このことは尚武を推奨したためばかりでは決してない。
上古、イザナミ、イザナギの二神が蒼海を探った事蹟以後、多くの史実は剣によって事を生み、剣によって跡を垂れている。

ご注目あれ、素盞男命(すさのおのみこと)天照大神と天の安河原に誓ったとき、大神は命(みこと)が帯していた剣を噛んで御子を生み、また命は山田に邪賊を撃って霊剣を奉じたなどのほか、剣の威徳を伝える話が少なくない。

三種神器の一つとして崇敬されているゆえんたるや、げにも深いというべきである。

謹んでおもうに、三種の神宝はわが国の人道の表徴であって、玉ととなえ、鏡と呼び、剣と名づけている。
名と形は異なっているが、じつは心霊一体を示現しているにほかならない。

したがって、剣を闘争の具としてのみかんがえるならば、とんでもない誤りを生ずる。
あるときは玉となり、あるときは鏡となり、あるときは鋭い剣となってはじめて用をなすもので、これを威とし、徳とし、愛となすのである。

剣道の道は、まさに、これに基を置く。不識篇に、
「剣術は打太刀の相手を立ててやるから、微塵ほども過ちがあれば、相手はこれをとがめる。打太刀の相手に立っている人は、すなわち、生きた本箱である」
といっているごとく、その理(ことわり)をいうときは書物は諄々と説いて自分の慢心をたしなめることが、老婆の戒諭にひとしいけれど、刺撃のほうは儼竣な乃父が鞭でもってわが懈怠をはげますがごとく仮借の余地がない。

_100上泉伊勢守秀綱を描いた長編『剣の天地』(新潮文庫 1997.8.25)p94 伊勢守との決闘に向かう門人・土井甚四郎に師・十河九郎兵衛が言う。「負けるやも知れぬとおもうこころには、遅れを生ずる。ゆえに勝敗をはなれ、わが一剣に。これまでの修行のすべてを托(たく)し、伊勢守へ立ち向って見よ」)

手段は異なっていてもどちらも慈悲の念は違ってはいない。

ゆえに、いやしくも道という以上は、そのうちに仁愛の意義をふくんでいなければ道ということはできない。

文教といい武教というも、いずれも人間道義を開発するための手段であって、文そのものが即、道であるのではない。
武そのものが即、道であるのではない。
七千余巻の仏典も五車の聖経も、みんな、道へいたるための手引きである。

剣術の撃ち合いも道へ進むための手引きにほかならない。
禅学が公案を練り、師家分証の竹箆の下に印可をよろこぶのは、本来の面目を知了するからで、公案そのものは常識をもってすれば愚もはなはだしいたわごとである。

剣術の修業が一挙手、一投足、師範の咎めをうけて次第に練りすすむのは、あたかも公案を苦想する禅徒のごとく、技が熟し、術を解し、ついに心要をうるにいたれば飜然として悟り、本来の面目をとらえるのである。

_15 (文庫巻15『雲流剣』p37 新装版p38 鬼平が言う。「高杉先生は、江戸も外れの出村町へ、百姓屋を造(つく)り直した藁(わら)屋根の道場を構え、名も売らず、腕を誇(ほこ)らず、自然にあつまってきたおれたちのような数少ない門人を相手に、ひっそりと暮しておられたが---名流がひしめく大江戸の剣客の中でも、おれは屈指(くつし)の名人であったと、いまでもおもうている」)

ここの哲理が酷似しているため、あるいは剣禅一致といい、禅の力を借りて剣道を修し、あるいは老荘の無為説を借りて剣道を行するものが出てくるのである。

右に述べたように説くと、非難の声をあげる者もいるかもしれない。

いうように、剣術が道をおさめる道具にすぎないならば、学習する必要は多分ないであろう。
精神修養に資するものは、むりに殺伐に近い剣戟を選ぶにはおよばない、古えはいうにおよばず、ましてや方今文化の競争時代に何を苦しんでこの技を必要としようぞ。

この技が古今来永続してきているゆえんは、尚古の人情と、白兵戦の場合とを推想、一面体育として適しているために学校の教科へ採用したまでである。

武器の観点からいうと、すでに時代おくれである。業の観点からいうと蠻風である。
勝敗を外にして剣の用をいうのは帽子をもって扇子の代用としてその効用を誇るにひとしい。
いっときは清風を送ったとしてももともとそのための器ではないので長期の用には耐えられない。

剣も説くところの哲理はあっても、もともとの本意はここにはない。剣にはおのずから剣の勤めというものがあるのであると。
けだし、このような反駁論があったとすれば、根本から誤解しているといわねばなるまい。

なるほど、剣の用は物を斬るためである。剣の体は護身である。

いま、その用の術を修するに、勝つことを求めるのは理の当然ともいえるが、剣戟は弓、鉄砲、そのほかの練習と異なって、自分の前に立つ相手は自分とおなじ人間である。
自分は傷つかずに敵を斬ろうとおもったときには、敵もおなじようにおもってる。

そのとき、譎詐欺瞞を弄して相手に乗ずればあるいは撃てもしようが、かならずして撃つべき場合に撃ち、乗ずべきときに乗じようとおもっても、敵もその気でいたらどうであろう。
睨みあってときをすごすか。

碁で一目を天元へ打ったのち、両者がおなじ順路におなじく黒白をならたとすると先手が一目の勝ちとなる。
これは数理のおしえるところで、剣術もこの先手をとって天元を占領する意があるのである。

ただし、棋客は対局のはじめに先後の定めがあるが、剣術はいずれが先手になるか不明である。
さらに棋客のように数理に準拠して打算することももちろんできない。

ここにいたって吾人の常識で推理してゆく術なるものは行き止まりとなる。
しかるにこの境地をふみやぶって常識外に踴り出すと、いわゆる摩訶般若という大知識がわいてきて、意行自在をえる。

_8 (文庫巻8[明神の次郎吉]p97 新装版p103 高杉銀平師は銕三郎左馬之助によく言ったという。「剣術もな、上り坂のころは眼つきが鋭くなって、人にいやがられるものよ。その眼の光を殺すのだよ。おのれの眼光を殺せるようにならなくては、とうてい強い敵には勝てぬし---ふ、ふふ、おのれにも打ち勝てぬものよ」)

これで敵に勝つことも自由である。
ここで仁義道徳が学ばずしても了解される。

これを不可思議といわずしてなんといえばよかろう。
古人が精練の極、この界に入って一流を樹てた者が少なくない。余が道を得るに剣をいうのもここにある。

つぎに器財としては時代錯誤であり、業としては蠻風であるという説に対して答えよう。精鋭至便の武器発明がさかんな欧米になお剣闘術があるのでもわかるであろう。

たとえ、平常の知識をもって看察しても、その説が妥当でないことはあきらかになる。しかしながら、剣道がおうおうにして悪用され、古今不徳の曹漢をだしたこともこれまた多い事実である。

俗に生兵法といい、剣の道に徹底していない者ほどいたずらに自負心を増進し、わが腕力をたのみ、不正を行い、人を恐喝し、古えは人を殺傷して快をむさぼる者さえいた。
辻斬、試し斬などは、悪行のはなはだしいものである。

述べたように、剣術が大道をきわめる機縁となれば、それこそ至極の向上であるが、古来、この極に達した者は少ない。
剣聖とも剣哲ともいうべき人はおき、名人、達人もけだし少数である。針ケ谷夕雲、小出切一雲、金子夢幻、山内蓮真、寺田宗有たちは名人として称揚されている人びとであるが、ひるがえってかんがえてみると、列記の人びとはみな禅法に参じ、大悟の上で剣法と同化して妙を得たまでにとどまり、これを世用にほどこす気が薄かった。

それゆえ、これらの人びとは剣仙とでもいうべきで、後進を誘導し、人性を善化し、一般人間に与えるべき慈悲心を欠いている。
すなわち、みずからの徳性は養ったかもしれないが、仁愛惻隠の情にひややかで、社会という見地からするとむしろ無用の道具たるにすぎない。
剣道は乱世治世を分けて用をなすようではその価値はほとんど樗檪(無用の人)にひとしい。

_8_3 (『剣客商売』巻8[狂乱]p160 新装版p175 で、秋山小兵衛は石山甚市をさとして、「真の剣術というものはな、他人(ひと)を生かし、自分(おのれ)も生かすようにせねばならぬ」と。)

「およそ、武技は乱れた世であれば学ばなくてもいい。
平和な世に生まれた、武士という名で呼ばれる者は、武技に心身力をゆだねてこそ、その職業を忘れない一端とすべきであろう」といった古人もある。

剣道は精神をたっとぶこと、いまさらいうまでもないことだが、学んで浮き世をすて、塵をいとうがごときは本義に反している。

かつて勝海舟先生が在世中に、余らにおしえていうに、
「維新のさい、あれだけのことをやったのは、すこしばかり剣術をやったおかげさ。お前たちも精出して修業するがいい。剣術をやると万般に決断がつくよ」
と勝伯にしてはじめて剣道の応用が、幕府の衰減に際して百事を処理して遺憾がなく、江戸の地の焦熱たるをまぬがれしめただけでなくその殷富をして今日あらしめた鴻業ができたのであろうが、これらはその人を待ってはじめて用の大なるを知るので、しょせん、引例には適さない。

_4霧の七郎]p37 新装版p38 で鬼平辰蔵をさとす。「お前のすじの悪いのはわかっておる。なれど、坪井(主人)先生に日々(ひび)接することのみにても、お前のためになることだ」)

しかし、剣道の善用も極に達したらかくのごとく活用して意義あるものとしなければ、まったくもって無用論へ帰着してしまうのである。

【参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (3) (4) (6)

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2008.05.13

高杉銀平師(4)

_11鬼平左馬の、高杉銀平師ゆずりの一刀流の剣の妙技を、あますところなく活写しているのは、文庫巻11[土蜘蛛の金五郎]が第一とおもう。

月はあっても、犬の仔(こ)一匹見えぬ道であった。
江戸湾の汐の香が高い。駕籠が、会津屋敷の手前掘割りに架(か)かっている小さな橋をわたったときであった。
ふわりと---。
闇の幕を割ってあらわれた黒い人影が一つ。
(略)
提灯を切り落とされた山本医生を突き退(の)けるようにして、黒い影が駕籠の前に立ち、
「長谷川平蔵。出ろ」
(略)
「何者だ」
駕籠の垂(た)れをはねあげ、偽(にせ)の長谷川平蔵---すなわち、岸井左馬之助が、
「盗賊改方、長谷川平蔵と知ってのことか」
叱りつけるようにいって、悠然と、駕籠からでた。
「まいる」
本物が、ぴたりと正眼(せいがん)に構えた。
「む!」
ぱっと飛び下った偽者が、すかさず抜き合わせて。下段。
ともに、故高杉銀平(たかすぎぎんぺい)先生直伝(じきでん)の一刀流である。
「鋭(えい)!」
「応(おう)!」
本物と偽者の気合声(きあいごえ)が起ったと見る間に、幅(はば)二間(けん)の道で、猛烈な斬り合いがはじまった。

ここから先は、文庫p82 新装版p85 でつづきをお読みいただく。
いや、ファンなら、読むまでもなく、一部始終をありありと想起なさるはず。

この斬りあいのものすごさの結果には、後日譚(ごじつたん)がある。
例の、額から鉄片をこじりだすくだりである。
下をクリックしてお確かめいただこう。

参照】2007年4月1日[『堀部安兵衛』と岸井左馬之助

話は変わる。

高杉道場での稽古だが、テレビ版のVTRで見ると、どうも、竹刀でなく、木刀でやっているらしい気配である。
池波さんが「不滅の名著」と絶賛した山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊 復刻版=再建社 1960.5.20)の、池波さんがその「通論(前文)」だけでも読んでほしい---と期待している文章から、関連箇所を現代風の文に改めて紹介してみる。

剣の教授法については、古くから木太刀(木刀)で稽古したのはもちろん、素面・素篭手(こて)であった。
そこへ、上泉信綱が柳生庄へ技を磨きにきたころ---戦国末期---袋撓(ふくろしない)の案出があり、うっかり勢いあまって木刀が身にあたって傷を負わせてしまう危険を避けるようになった。

その作り方は、今日のものとは異なっていて、三十から六十に裂いた竹を皮袋に包み、長さは3尺3寸(ほぼ1m)を定法とした。
柳生はこの上泉の発明を襲用して、その稽古はみな撓打(しないうち)として木太刀は使わない、
撓(しない)採用の弁ともとれる文が『本識三問答』にある。

他流には木太刀をもって剣術を教えている。木太刀は躰にあたる寸前で止めて、手には当てない。手の間際まで木太刀で詰めて、「はや、よく詰めたり」とほめておく。これでは、真の打ち込みの手ごたえを手がおぼえるはずがない。柳生流は「しなひ」で剣術をならう。撓だと、真剣の味わいが得られる。真剣はおしまずに打つ。撓もおしまずに打てるから、真剣とかわらない。(後略)

時代の趨勢は諸流とも次第に撓打ちに変わってきた。

というわけで、徳川200年を経ての高杉道場も、木太刀でなく竹刀を用い、素面・素篭手でなく、防具をつけていたと推察しているのだが。

もちろん、秘伝を伝える時には、真剣を使ったかもしれない。もっとも刃止めをほどこした太刀であったやもしれない。

【参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (3) (5) (6) 

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2008.05.12

高杉銀平師(3)

池波さんが、山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊 復刻=再建社版 1960.05.20)を「不滅の名著」と激賞していることは、すでに報じた。

同書に刺激をうけた池波さんが、[明治の剣聖-山田次朗吉](『歴史読本』1964.6月号 のち『霧に消えた影』PHP文庫に収録)をものにしたことも文末の【参照】(2)に紹介しておいた。

明治の剣聖-山田次朗吉]は、『鬼平『犯科帳』シリーズの連載に先立つこと、4年である。
同小篇を構想するにあたって池波さんが参考にした資料は、大西英隆著『剣聖山田次朗吉先生』ほかであった。

それらの中に、一橋剣友会が刊行した島田宏編『一徳斎山田次朗吉伝』もあったとおもわれる。
というのは、同書が振り棒修行にふれているからである。

山田師の)道場には榊原(健吉)先生時代より伝来の樫の棒がありました。長さ5尺(1,5m強)、末口3寸5分位(10.5cm強)、先太なる八角に削り手元1尺(約30cm)の部分だけ丸く握れるように造られたものでした。

この振り棒は、千葉県君津郡富岡下郡大鐘(おおがね)生まれで、22歳だった次朗吉青年が、師と見込んだ榊原健吉に入門をゆるされるくだりに登場している。

「およし。剣術なぞではおまんまが食えねえから---」
何度も、とめた。
しかし、次朗吉はきかない。
あまり強情なので、ついに、
「よし。それじゃあ、そこにある振棒を十回も振ってごらんな」
見ると、そこに長さ六尺に及ぶ鉄棒があった。目方は十六貫余もあったというが、こんなものを、とても次朗吉が振りまわせるものではない。

16貫といえば、64キロ弱である。16貫は池波さんのいつもの早とちりのような気がする。16キロ(4貫目)なら、まあ、納得できないこともない。4貫だって米1俵分の重さである。
(じつは、ひそかに、4キロ(1貫目)だったのではないかと推論しているのだが)。

いずれにしても、榊原健吉師は老年になってもこの振り棒を毎朝軽がると100回振っていたという。

入門時に振り棒を振らせたのが、『剣客商売』の秋山大治郎であることは、ファンの方なら即座に了解であろう。
鬼平犯科帳』文庫巻5[兇賊]でも、高杉道場にも鉄条入りの振り棒があったと書かれている。
狡知(こうち)に長(た)けた土地(ところ)の悪党・〔土壇場(どたんば)〕の勘兵衛一味の悪行に---、

二十一歳の平蔵が、ついにたまりかね、高杉道場の同門・岸井左馬之助と井関禄之助に助太刀をたのみ、勘兵衛がひきいる無頼どもに十余人を向うへまわし、柳島の本法寺裏で大喧嘩をやったのは、その年(明和3年 1766)の十二月十日である。
こっちは三人で刃物はつかわず、高杉道場で使用する鉄条入りの振棒(ふりぼう)をもち出し、群(むら)がる無頼どもと闘(たたか)った。p206 新装版p216

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(横川東 緑〇=本法寺裏 赤○=高杉道場 橙=春慶寺 近江屋板)

兇賊]の初出は『オール讀物』1970年11月号、『剣客商売』の大治郎の道場に赤樫の振り棒があることが明かされたのは、[剣の誓約]が掲載された2年後の『小説新潮』1972年2月号だから、鬼平たちのほうが、一足先に使っている。

また、左馬や禄之助も携えて出動したらしいから、高杉道場には3本以上が備えられていたとわかる。
いっぽうの大治郎の道場は、開いたばかりだから、1本しかなかったろう。

こういう瑣末(ディテール)がどうして即座に比較できるか。じつをいうと、『鬼平犯科帳』も、『剣客商売』も、登場する全人物、町や村、橋や坂、神社仏閣、剣銘や武器、天候や花蝶風月、料理や菓子などを、膨大なデータベースに打ち込んでいて、あっというまに検索できるようにしているからである。
(このブログのアクセサーであるあなたも、第一ページ右欄の[検索]欄から「このプログ内で検索]を選択なされば、これまで入力ずみの1,278件から簡単に拾いだすことが可能)。

ついでだから、戦前刊の平凡社『日本人名事典』(193710.22)から、榊原健吉師の項を写しておく。
(同大事典には、なぜか、山田次朗吉師は収録が洩れている)

サカキバラケンキチ 榊原健吉(さかきばらけんきち) (1830-1894) 幕末の剣客。徳川氏累世の臣。天保元年十一月五日生る。友直の子。幼より剣術を好み、年十三にして男谷信友の門に入り直心影流を剣法を学ぶ。安政年間徳川幕府講武所を設くるや健吉に師範役を命じた。維新後静岡に移ったが明治十三年上京、下谷車坂に住し、専ら剣術の衰頽を憂ひ、六年撃剣会を創立して斯道の隆盛を図った。十一年八月上野公園に於て技を天覧に供し、ついで伏見宮の庭園に於て兜験の天覧を辱うするや、名声四方に聞え、内外入門するものが多かった。明治二十七年七月十一日歿、年六十五。(秋田)

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(榊原健吉撃剣会 『武芸流派大事典』新人物往来社より)

拙著『剣客商売101の謎』(新潮文庫 2003.3.2 絶版)に、池波さんは山田次朗吉師著『日本剣道史』のせめて通論だけでもと推しているその通論の一部を、当世流の言葉に置き換えて引用しているので、写してみよう。

「剣道が兵法と呼ばれた古(いにし)えより今日まで、幾多の変遷消長があったが、精細に事態をいうのはむずかしい。
けれども庶民が刀剣を腰に闊歩(かっぽ)する時代は、一消一長の屈伸はあっても撃剣の声はいたるところ絶えなかった。
足利氏が兵権をにぎったころから、この道の師範家はようやく定まり、流派も続出してきた。
刺撃(しげき)のみをこととした古風は一掃され、各派、剣理の考究に少なからず苦心した」

「すなわち、型と称するものが生まれ出たのである。
この型を平法と称する原則に基づいて、仕太刀、打太刀の順逆、利害を研究し、進んで敵手に打ち勝つ理法を案出した」

「この法式によっておのおの名称をつけ、家々の規矩準縄(きくじゅんじょう)とし、中には秘太刀と唱えてたやすく人には伝えないものを工夫して相伝と号した。
相伝を得た者はすでに師範の資格を備え、門戸を別に設けて一家をなすことができた。
これによって余技に達する者は、二、三の型を増減して、あえて名義を変えて一流を組織し、みずから流祖になる者が多い」

「だから詮ずるところ、流派を違えても実質は同じもの、流派は同じでも実質は異なるもの、あるいは同門から出ても個人の天賦(てんぷ)の特性によって技巧を異とするなど、一定一様ではない」

_100 秘太刀を授かることを免許皆伝ともいうが、これを主題とした池波さんの好短編が、[剣法一羽流](同題の講談社文庫の収録 1993.5.15)である。
初出は、『小説倶楽部』1962.11月号)。
同巧のオチが語られるのが『鬼平犯科帳』文庫巻12[高杉道場・三羽烏]。浪人盗賊・長沼又兵衛が、高杉銀平師のもとから伝書一巻を盗んで逃亡した。

_120 また、さまざまな流派名と秘剣をえがくのを得意とした作家が藤沢周平さんで、畏友の故・向井 敏くんが『海坂藩の侍たち -藤沢周平と時代小説-』(文藝春秋 1994.12.20)で勘定した剣技剣法は、「主人公側だけでも、驚くべし、五十に余」り、「これほど多くの剣技を扱った作家は他に例がない」らしい。
[邪剣竜尾返し]、[暗殺剣虎ノ眼]、[隠し剣鬼ノ爪]、[好色剣流水]などなど、題名を見ただけでも剣客ものファンは、手をださずにはいられない。

しかも、藤沢さんが書いた流派の直心流や無外流はいうよおよばず---無限流、雲弘流、空鈍流---なども、綿谷雪・山田忠夫編『武芸流派大事典』(新人物往来社 1969.5.15)に徴してみて、ほとんど実在していたと。

参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (4) (5) (6)


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2008.05.11

高杉銀平師(2)

年譜を見ると、池波さんは、1967年(昭和42)3月に、上州へ取材旅行をしている。
めぐった所は、前橋、上原、前川、伊勢守墓所となっている。

3_130その年の『週刊朝日』の剣豪シリーズで、[上泉伊勢守]を担当したための取材であった。
表題の小説は、同誌4月28日号を含めて3週連載され、翌年、『日本剣客伝 上』(朝日新聞社)に収録、刊行された。

池波さん41歳の時の作品である---というより、剣客ものが書ける作家として、シリーズの書き手に選ばれたことのほうに注目したい。

というのは、1967年の『オール讀物』12月号に、はからずも、[鬼平シリーズ]執筆の所以(ゆえん)となる、[浅草・御厩橋](文庫巻1収録)を発表、これがきっかけとなって、ファンならとっくにご存じ、高杉道場で磨いた剣技に冴えをみせる主人公・長谷川平蔵---いわゆる鬼平が誕生しているからである。

参照】2006年4月12日[佐嶋忠介の真の功績] に、鬼平シリーズ誕生の裏話を記した。
つづいて2006年6月28日[長生きさせられた波津]も併読をおすすめ。

2_200[上泉伊勢守]が『週刊朝日』こ載ったころ、ぼくは仕事柄、米国のDDBというクリエイティブな広告代理店に入れあげていて、年に春秋2回ずつニューヨークへ取材にでかけていて、この作品は読んでいなかった。
講談社から出た【定本池波正太郎大成 26 時代小説 短編3】(2000.8.20)で初めて接し、池波さんの読み手をうならせる達者な芸に、あらためて感服した。
鬼平犯科帳』に入れあげるようになって10年近くが経っていた。

[上泉伊勢守]につられて、【---大成 26 時代小説 短編2】(2000.7.20)に収められている[幕末随一の剣客・男谷精一郎](『歴史読本』1962.2月臨時増刊号)と[明治の剣聖-山田次朗吉](『歴史読本』1964.6月号 のち『霧に消えた影』PHP文庫に収録)のを読み、鬼平および秋山小兵衛の剣技が、幕末・明治のこの2人の剣客に負っているところが多いことを発見した。

ついでなので、戦前の『日本人名大事典』(平凡社 1937,.5.15)の男谷精一郎の項を抜粋する。

オタニセイイチロー 男谷精一郎(おたにせいいちろう)(1810-1864) 徳川末期の講武所奉行。剣道に達し、幕末の剣聖と称せらる。名は信友。文化七年元旦に生る。男谷忠之丞の長子。二十歳の時小十人頭男谷彦四郎
燕斎の養子となる。団野真帆斎の門に入り、剣法直心影流、槍術鎌宝蔵院流を修め、平山行蔵に平法を学び、文政中本所亀沢に道場を開いていた。文学を嗜み、また書画を能くし、蘭斎、静斎の号があった。天保二年に書院番となり、のち徒士頭となる。
のち、先手頭となり講武所奉行となった。講武所の設置は信友の建議によるといふ。
文久二年従五位に叙せられ、下総守に任ぜらる。元治元年歿、年五十五歳。人となり温厚寛大、かつて家人を叱したことがなかった。

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(本所・男谷家=緑○ 斜向いの本多寛司家前が五郎蔵・宗平の煙草店〔壷屋〕、二之橋北詰が〔五鉄〕)

池波さんが山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊)を「不滅の名著」として激賞していることも知った。
さいわいにも、同著は再建社による復刻版(1960.5.20)を秘蔵していたので、どの記述を、池波さんがどう換骨奪胎しているかまで察することができた。

ついでに記すと、男谷精一郎は、幕末、先手の組頭から講武所奉行に任じられている。
執筆時に池波さんもたしかめたはずの、本所の切絵図には、その屋敷も載っている。

寛政修諸家譜』は、小野次郎右衛門家について、こんな前書きを付している。

寛永系図に云、本(もと)は御子神(みこがみ 今の呈譜に神子上)と称す。忠明がときに外家の称によりて小野にあらたむ。今の呈譜に橘氏にして大和の住人・十市兵部大輔遠忠が後なりといふ。

Photo

十市〕---なにやら、かすかな記憶がある。
司馬遼太郎さんが徳川家康を描いた『覇王の家』(新潮文庫)だ。
明智光秀による本能寺の変の時、家康は、信長の秘書役・長谷川秀一の案内で堺に遊覧していたことは周知の史実である。
本多忠勝の提言で大和・伊賀越えをして危機を脱する経緯は、下記に。

【参照】2007年6月13日~[本多平八郎忠勝の機転] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

覇王の家』から引く。

もしこの家康の脱出に、
「竹」
というこの人物(長谷川秀一)の温和な才覚人がいなかったら、きわめて困難な状態になつていたかもしれない。
彼は、その顔を利用した。まず彼はかねて懇意の大和の豪族で十市(といち)常陸介(ひたちのすけ)という男に使者を送り、家康が一行の中にいることはいわず、
--自分は三河の徳川殿までこの変報を知らせにゆく。どうか、道々を保してもらいたい。
と頼んだ。十市、筒井、箸尾(はしお)などといった大和豪族は、他国とちがい、奈良の社寺領の俗務を請負っていていつのほどにか武家化した連中で、家系が古く、その姻戚(いんせき)は隣接地の山城国(京都府南部)や伊賀国(三重県伊賀地方)などにも多く、十市からの依頼があれば、十市の顔を立てて保護してくれる家が多い。

_130 池波さん絶賛の『日本剣道史』は、小野派一刀流について、こう記述する。

小野次郎右衛門忠明の第二子忠常が嗣ぐところ。家督を受て三代将軍に奉仕した。忠常性質父に似て傲岸の風があった。故に格別の加恩もなく食禄素の侭で、精勤に対する報が無かったゆえでもあるまいが、一方技芸の自負心増長して狂を発した。寛文五年(1665)五十有余で歿して了った。
三代目次郎右衛門忠於(ただを)。忠常の嫡子でもっとも精妙と称されいた。この人の時にようやく小野派の型が大成されて、金甌無欠となったのである。忠於は四代、五代、六代の将軍に歴事して声誉すこぶる高かった。
正徳二年(1712)七十三で歿した。
四代は助九郎忠一、岡部某の子で小野の養嗣子である。
五代は次郎右衛門忠方。これで小野氏は絶えて系統は中西氏に伝わった。

_100_3 長谷川平蔵と先手組で同僚だった次郎右衛門忠喜は、六代目にあたる。

ちゅうすけ注】『週刊朝日』の[上泉伊勢守]は、5年後[剣の天地]との新題名のもとに大幅に加筆され、『山陽新聞』ほか10数紙の地方紙に連載、のち新潮文庫となった。

参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (3) (4) (5) (6)

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2008.05.10

高杉銀平師

池波さんは、長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶための)の高杉道場への入門を、19歳としている。
これは、史実的には、ちょっと無理がありそう。

というのは、銕三郎の19歳というと、明和元年(1764)で、2008年3月2日[南本所・三ッ目へ] (9)に掲出したように、この年の10月に、父・宣雄(のぶお)は懸案の三之橋通りの1238坪の土地を築地・鉄砲洲の屋敷と三角交換によって手に入れた。
家屋は、鉄砲洲の家を解体して移したしとしても、竣工は翌年の初春とみる。

【参照】2008年2月23日~[南本所・三ッ目へ] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

年が明けると、銕三郎は20歳になっている。

敷地がきまり、移転を見越して道場を変えるという考え方もできなくはないが、やはり、常識的には、転宅後に師を変えるとみるのがふつうではなかろうか。

ま、高杉道場への入門が、19歳であろうと20歳であろうと、読み手にすれば、大差はない。
気にかかるのは、高杉銀平師を、どういう経緯で選んだかである。

高杉道場は、一刀流である。
鉄砲洲時代も一刀流の道場で学んでいたと考えると、その道場主が高杉師を推薦したともいえる。
もうすこしドラマチックに想像して、そうとうの識者が高杉銀平を紹介したという見方もできる。
その識者とは---小野派一刀流の継承者・小野次郎右衛門忠喜(ただよし)である。

助九郎忠喜は、父・忠方(ただかた)の死によって、寛延2年(1749)に家督を相続している。18歳であった。
家禄は800石。うち、先々代からの知行地は、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)本須賀村の250石と、同国山辺郡(やまのべこおり)松之郷村の441余石。
察しのいい鬼平ファンなら、長谷川家の知行地のある郡といっしょ---とおもわれよう。
そのとおり。2村からの米の積み出しは、長谷川家もそうしていた九十九里浜の片貝(現・千葉県山武郡九十九里町片貝)の湊を使ったろう。そういう知り合いであったと想像する。

次郎右衛門を襲名した忠喜の出仕は、宝暦9年(1759)に小姓組番士として28歳の時。おそくなったのは、健康に問題があったから、としかおもえない。
その後は快癒したらしく、順調に推移している。
一刀流ということで、宣雄は、浜町蛎殻(かきがら)町の小野邸を訪れ、高杉銀平の名を教えられたのであろう。
宣雄のことだから、剣技もさることながら、人柄をとくに重んじて質したとおもう。

高杉道場は、文庫巻1の連載第2話[本所・桜屋敷]から、はやばやと登場している。

法恩寺の左側は、横川に沿った出村(でむら)町であるが、このあたりは町といっても藁(わら)ぶき屋根の民家が多く、本所が下総(しもうさ)国・葛飾(かつしか)郡であったころのおもかげを色濃くとどめている。
その一角へ、長谷川平蔵は歩み入った。
ひなびた茶店の裏道が、横川べりまでつづき、その川べりの右側に朽(く)ち果てかけた藁屋根の小さな門がある。門内の庭もも、かたく戸を閉ざしたままの母屋(おもや)にも荒廃が歴然としていた。人も住んではいないらしい。
平蔵の唇(くち)から、ふかいためいきがもれた。
この百姓家を改造した道場で、若き日の平蔵は剣術をまなんだものだ。
師匠は一刀流の高杉銀平といい、十九歳の平蔵が入門したころ、すでに五十をこえていたが、この人が亡くなったことを平蔵は京都で耳にしている。
同門の岸井左馬之助(さまのすけ)が知らせてくれたからだ。 
p52 新装版p55

元の高杉道場だった農家は、主を失って15年ほど経っている。

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(法恩寺 左下=出村町 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

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(上絵の部分 出村町)

文庫巻6[剣客]には、高杉師の没年は67歳とある。
遺骨は、岸井左馬之助によって、佐倉在臼井の寺に葬られた。

銕三郎が父・宣雄に随伴して京都の西奉行所の役宅に滞留していたのは、史実では、安永元年(1772)10月から翌年夏までのわずかに8ヶ月とちょっとであった。
父の没後、平蔵を襲名した銕三郎が27~8歳のあいだのことである。

それはそれとして、銕三郎は27歳まで江戸の南本所・三之橋通りの屋敷におり、23歳で将軍・家治にお見得(めみえ)したわけだが、何歳まで高杉道場に通ったか、池波さんは明らかにしていない。
もちろん、そんな史料があるわけもない。

ついでながら。
ずいぶんと先のことだが、長谷川平蔵宣以が天明6年(1786)年7月26日、41歳で先手・弓の2番手の組頭に抜擢された時、鉄砲(つつ)の17番手の組頭に小野次郎右衛門忠喜がいた。3年前に51歳でその任に就き、66歳までの足かけ16年つづけた。
ちなみに、平蔵より13歳年長であった。

【参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (2) (3) (4) (5) (6)
 

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