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2007.06.17

本多平八郎忠勝の機転(5)

『徳川実記』[東照宮御実紀 巻3](承前)

天正10年 1582 6月
(飯盛山か枚方かで、信長への殉死を決意した家康を、本多平八郎 35歳が、三河へ帰ってから軍を率いて光秀を討ってこそ、信義が果たせると説得)。

其時、(信長の秘書役だった長谷川竹丸(のちの藤五郎秀一)怒れる眼に涙を浮べ、我等悔しくもこたび殿の御案内に参りて主君最期の供もせず、賊党一人も切り捨ず、此侭に腹切て死せば、冥土黄泉の下までも恨猶深かるべし。
あはれ、殿御帰国ありて光秀御誅伐あらん時、御先手に参り討死せんは尤以て本望たるべし。
ただし、御帰国の事を危く思召るべきか、此辺の国士ども、織田殿へ参謁せし時は、皆某(それがし)がとり申てる事なれば、某が申事よもそむくものは候まじ。
夫故にこそ今度の御道しるべにも参りしなりと申せば、酒井、石川等も、さては忠勝が申旨にしたがはれ、御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにてと候といさめ進られて、御帰国には定まりぬ。
信長家康への馳走として上方見物をさせるにあたり、その案内役としてこの長谷川秀一をつけたのである。略。
「私が、案内しましょう」
と、たのもしげにいってくれたのは長谷川秀一であった。かれは故信長のもとで、
「申次(もうしつぎ)」
とよばれる仕事をしていた。地方々々の大名や豪族、寺社の者などが、信長に本領安堵(あんど)をしてもらいたいため、京に集まってくる。それら陳情者たちを長谷川秀一は応接した。かれらが持ちこんでくる用件を信長に取り次ぎ、場合によっては彼等の立場にもなってやって便宜をはからってやる。そういうことで、彼等のあいだで、長谷川秀一に対して恩に着ている者が多い。『覇王の家』)。

穴山梅雪もこれまで従ひ来りしかば、御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを、梅雪疑ひ思ふ所やありけん、しゐて辞退し引分れ、宇治田辺辺にいたり、一揆のために主従みな討たれぬ。
《これ光秀は、君(家康)を途中に於て討奉らんと謀にて土人に命じ置きしを、土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も、討ずしてかなはざる徳川殿をば討ちもらし、捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も、吾命の拙さよとて後悔せしといえり》

Photo_388
(黄○=草内で梅雪一行が襲われる。緑○=家康一行が渡河した井手)

(---梅雪、多知ノ男ニテ。

と、この当時いわれていたように、故武田信玄の族党のなかでは知恵があり、むしろ知恵誇りして信玄の相続者の勝頼と事ごとに言いあらそいをし、ついにその知恵を勝頼を裏切ることに使い、家康を仲介者として織田方に寝返り、巨摩郡もらった---略。 『覇王の家』 )

『徳川実紀』がことさらに梅雪に言及しているのは、家康が土人に命じて梅雪を殺させたといううわさが消えないからであろうが、司馬さんは、家康は「年少のころから一度も人を謀殺したこと」はなく、「この時期よりあともそういう所行はない」と断定している)。

竹丸やがて大和の(豪族)十市(とおち 常陸介)がもとへ使立て案内をこふ。
忠勝は蜻蛉(とんぼ)切といふ鑓(やり)提て真先に立、土人をかり立かり立道案内させ、茶屋は土人に金を多くあたへて道しるべさせ、河内の尊延寺村より山城の相楽(あいらく)山田村につかせたまふ。

「本多平八郎忠勝どのが〔蜻蛉切〕の槍をお持ちだったということは、ほかの扈従(こじゅう)のお方々も武装なさっていらっしゃいましたでしょうに。それでも土匪(どひ)を怖れられたのでございますか?」
銕三郎(のちの平蔵宣以 のぶため)が不思議がった。

扈従していた天野三郎兵衛景能(かげよし 46歳。のち家康の諡字をもらって康景に)の『寛政譜』に、
「(天正)十年、織田右府生害のよし告来りければ、堺より伊賀路を経て岡崎に還らせ給ふ。この時御料の鎧をあづかりたてまつりて御あとより供奉し、慕ひ来る野伏(のぶせ)等を追散す」
もちろん、鎧櫃(よろいびつ)は従者が奉戴していたろう。

「いや、鎧など持っていることが知れれば、野伏らの好餌であったろうな」
「戦えばよろしいかと」
「相手は鉄砲なども持って襲ってくるぞ」
「はあ」

銕三郎のために、同じく扈従していた高力与左衛門清長(きよなが 53歳)の『寛政譜』
「十年、御上洛ありて和泉の堺にのましますの時、六月二日明智光秀京都において右府を弑(しい)せしこと告来るにより、帰御あらむとて伊賀路を越えさせたまふのとき、清長小荷駄奉行となりて殿(しんがり)す。このとき所々の一揆馳むらがりて御道をさへぎるにより、清長しばしば返し合せ賊兵を撃、鉄砲にあたりて疵(きず)をかうぶる」

「おお、そうじゃ。宣雄どのは、この高力与左衛門清長が、伊賀路から帰ってすぐの8月に、田中城を預かったことをご存じかな?」
「不肖にして---」
「うむ。先手の寄騎(よりき)25騎とともにの。伊賀路での小荷駄の天晴れなる指揮ぶりの褒章であったろう。もっとも、御神君が関東に移られた時、武蔵・岩槻城2万石へ移されたがの」
「お教え、かたじけのう存じます」
「そうじゃ。田中城ゆかりの家々が相つどうて、先祖話に興じるのもおもしろかろうな」
(この項、つづく)

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コメント

今日の地図。
北流する木津川の西の道---北から田辺→三山木→菱田→祝園(ほうその)→---とあるのは、歌姫街道。
聖典巻3[兇剣]で、鬼平が浦部与力、木村忠吾、およねと、奈良をめざした道。
『仕掛人・藤枝梅安』シリーズでは、祝園あたりで彦次郎が前を行くのが女房を犯した浪人と気づき、京まで梅安と尾行する。

穴山梅雪の主従が土人たちに殺されたのは、歌姫街道脇の草内(現・くさうち 家康のころ=くさち)だったとは!

投稿: ちゅうすけ | 2007.06.17 06:18

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