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2007.06.16

本多平八郎忠勝の機転(4)

これまでの記述を、もうすこし客観的に見るために、< 『徳川実記』[東照宮御実紀 巻3]から引用してみる。

天正10年 1582)
五月 君(家康)、右府(信長)の居城・近江の安土にわたらせたまへば、穴山梅雪もしたがい奉る。
おもただしき設ありて、幸若の舞申楽も催し饗せられ、みずからの配膳にて、御供の人々にも手づからさかなをひかれたり。
家康とその主従に上方能を見せるために幸若、梅若の太夫たちをよんで舞わせたり(略)、右大臣みずから立って膳をはこび、まず家康の前に据え、ついで石川(数正)の膝前、酒井(忠次)の膝前などにつぎつぎとすえた。『覇王の家』)。

右府やがて京へのぼらるれば、君も京堺辺まで遊覧あるべしとて、長谷川竹丸(後に藤五郎秀一といふ)といへる扈従(こじゅう)を案内にそへられ、京にては茶屋といへる家(茶屋四郎次郎。本氏は中島といふ。世々豪富なり)を御旅館となさるべしとて、万に二となく沙汰せらるれば、君は先立て都へ上らせ給ひ、和泉の堺浦までおはしけるが、今は織田殿もはや上洛せらるるならむ、都へかへり、右府父子にも対面すべし、汝は先参て此のよし申せとて、御供にしたがいし茶屋をば先にかへさる。
((茶屋四郎次郎は)京における織田家御用の呉服商で、信長とその一族の宮廷服や衣装はこの茶屋が一手で調整し、巨利を得ていた。彼にとって信長の死は自分の事業の崩壊であろう。『覇王の家』)。

又、六月二日の早朝、かさねて本多平八郎忠勝を御使として、今日御帰洛あるべき旨を右府に告げさせ給ふ。
君も引つづき堺浦を打立給へば、忠勝馬をはせて都へのぼらんと、河内・交野(かたの)の枚方(ひらかた)辺まで至りし所に、都のかたより荷鞍しきたる馬に乗て、追かけかけ来る者を見れば、かの茶屋なりしが、忠勝が側に馬打よせて、世はこれまでにて候、今暁、明智日向が叛逆し、織田殿の御旅館にをしよせ、火を放て攻奉り、織田殿御腹めされ、中将殿も御生害と承りぬ。
この事告申さんため参候といへば、忠勝もおどろきながら茶屋を伴ひ、飯盛山の麓(地図=下の赤○)まで引き返したるを、君(家康)遥に御覧じ、そのさまいかにもいぶかしくおぼし召、御供の人々をば遠くさけしめ、井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の輩のみを具せられ、茶屋をめしてそのさまつぶらに聞給ひ---

Photo_387
(赤=上:橋本 下:飯盛山 緑=左:枚方 右;尊延寺 黄=草内)

『覇王の家』 は、2007年6月13日[本多平八郎忠勝の機転]に記したように、家康たちと合したのは、枚方の近くとしている。
そのために、京から淀川ぞいに下ってきた茶屋四郎次郎とは、忠勝は橋本あたりで行きあったことに。
多くの史料を校勘する司馬さんのこと、そうかも---とおもう。
飯盛山麓では、以後の逃避行の時間割がいささか苦しい。
もっとも、本稿は家康の伊賀越えそのものが主題ではなく、本多平八郎忠勝の機転と勇気を主眼としているのだから、合流点には深入りしない。

私事を書くと、河内長野の郊外にあった大阪陸軍幼年学校で、たしか終戦の日、大阪港に米軍が上陸したから---とのデマ情報を司令室が信じ、夜中に乾パンを靴下につめ、運動着のまま、京都へ向かったときも柏原まで旧国道170号を歩いた。
西の堺からの道が柏原で交わる。
この柏原から16キロほど北行すると飯盛山の下へ通じ、さらに10数キロで枚方である。

本多平八郎忠勝はある予感から、後発の家康一行の誰かと、たどる道筋を、たとえば、往路を戻るとでも、打ち合わせていたにちがいない。
そうでないと、飯盛山の麓であれ、枚方であれ、出会える確率はきわめて少なくなる)。

家康は)御道の案内に参りし竹丸を近くめし、我このとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深し。
もし今少し人数を具したらんには、秀光を追かけ織田殿の仇を報ずべしといへども、此無勢にてはそれもかなふまじ。
なまなかの事し出して恥をとらんよりは、急ぎ都にのぼりて知恩院に入、腹きって織田殿と死をともにせんとのたまふ。
竹丸聞て、殿さへかく仰らる。まして某(それがし)は年来の主君なり。一番に腹切てこのほどのごとく御道しるべせんと申す。
さらば平八御先仕れと仰ければ、忠勝茶屋と二人馬をならべて御先をうつ。
御供の人々は何ゆえにかくいそがせ給ふかと、あやしみあやしみ行くほどに、廿町ばかりをへて、忠勝馬を引返し、石川数正にむかひ、我君の御大事けふにはまりぬれば、微弱の身をも顧みず思うところ申さざらんもいかがなり。
(うーん。本多平八郎の熱弁がはじまる山場だが、一言。
茶屋が信長の変事を家康に告げるとき、<御供の人々をば遠くさけしめ、井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の輩のみを具せられ>と前に書いている。
さすれば、重臣たちは事情をわきまえているはず。
『実紀』の編纂者の思い込みが、ちと、激しすぎるのでは---)

年頃の信義を守り給ひ、織田殿と死を共になし給はんとの御事は、義のあたる所いかでか然るべからずとは申べき。
去りながら、織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば、いかにもして御本国へ御帰り有て軍勢を催され、光秀を追討し、彼が首切て手向給はば、織田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれと申。
(忠勝は、信長の死を聞いて1時間近くたっているから、善後策をあれこれ練る時間もあったろう。家康をはじめ、重臣たちは、咄嗟のことゆえ、動転している。情報を早くつかむことの大切さの教訓)。

石川、酒井等是をきき、年たけたる我々此所に心付ざりしこそ、かへすがへすも恥かしけれとて其よし聞え上しかば、君つくづくと聞めされ、我本国に帰り軍勢を催促し、光秀を誅戮(ちゅうりく)せんは固(もと)より望む所なり。
去りながら、主従共に此地に来るは始めてなり。
しらぬ野山にさまよひ、山賊一揆のためここかしこにて討れん事の口おしさに、都にて腹切べしとは定たれと仰らる。(この項、つづく)

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コメント

家康一行の無事とはちょっと話が逸れますが、大阪陸軍幼年学校が終戦の際に京都に向かったというのは、それはどういう意図の下に行われたのでしょう?もしかするとゲリラ戦の展開を考えていたとかでしょうか?呼んでいてちょっと驚いた歴史秘話でした。

投稿: えむ | 2007.06.17 02:50

>えむさん
ばかばかしい話なんですよ。
米軍が大阪港に上陸した。幼年学校の生徒は射殺されるかもしれない(無条件降伏とか、国際法に基づく捕虜の扱いなんて教育を受けていない将校・下士官たち)と、全員を出身地へ帰すについて、大阪駅は危ないから、京都駅から帰省せよという、茶番劇です。

でも、それで、旧国道170号を夜間てんでに歩き、いろんなものを見ることができました。

投稿: ちゅうすけ | 2007.06.17 03:21

昭和20年8月15日から16日にかけての夜ですね。戦地では投降した捕虜が虐待されたという話も聞きますし、先生方も生徒の身をそれほど案じられたのでしょうか。ともあれ六十年後もご無事で、なによりです。

投稿: えむ | 2007.06.17 19:41

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