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2007.06.15

本多平八郎忠勝の機転(3)

いまでは、、ほとんどの考察が[家康の伊賀越え]と総称しているが、随身した家臣たちが、もっとも危険を感じていたのは、枚方から多羅尾郷(地図=左端上・黄○)にいたる逃避行だったといえる。

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多羅尾から御斎(おとぎ)峠(地図=左端下・黄○))を越して伊賀へは、多羅尾四郎右衛門光俊(みつとし)の手配による息子兄弟をはじめ、百数十名の甲賀者たちが護衛した。

多羅尾の小川城(地図=左端緑○)を発つ朝、織田信長の家臣から浪人となり、甲賀に住んでいた和田八郎定教(さだのり)もやってきて、守護についた。のち、幕臣に取り立てられた和田の『寛政譜』は、「東照宮、和泉の堺より甲賀の山路を渡御のとき忠節をつくせしかば、6月12日御感の誓状をたまふ」。岡崎まで随行したらしい。

峠から東の伊賀国へは、家康に扈従(こじゅう)していた服部半蔵正成(まさなり)が手をまわして集めた伊賀者たち200人弱が周辺を固めている。

本多平八郎忠勝(ただかつ)の『寛政譜』も、多羅尾以後は「これより伊賀路をこえさせたまひ、ゆえなく岡崎城に入御あり」と、ただの1行ですませる。

本能寺の変は天正10年(1582)6月2日未明。
明智光秀の軍が山崎において秀吉の軍に敗れたのは13日。
そのあいだの12日間、近畿一帯は明智軍の支配下にあったはず。
光秀は、近隣の各実力者たちに親書を届けまくって同盟を呼びかけるとともに、家康一行の探索も依頼していたろう。
というのも、安土城での家康接待役を変更された上での中国遠征命令であったため、光秀家康主従の堺遊覧も熟知していたからである。
土豪で、光秀の天下に賭けるものも少なくはなかったと見る。

近江国信楽の多羅尾光俊光秀へは、手がまだ届いていず、家康の命をねらわなかったのは、まったくの僥倖といえる。
ただ、甲賀超えをする一行に不審はもったろう。
それが殺意にまでいたらなかったのは、家康にしたがっていた100名を越す武士団との、彼我の力関係であったかもしれない。

家康扈従の重臣たちも、御斎峠をくだって伊賀国に入り、「虎口を、これで脱しえた」と安堵するまでの、駆けに駆けた2日間は、生きた心地もしなかったはずだが。

さて、服部半蔵『寛政譜』---。
「(天正)10年6月、和泉の堺より伊賀路を渡御の時従ひたてまつり、伊賀は正成が本国たるにより、仰をうけたまわりて郷導したてまつる」
功を誇らず、あっさりとまとめている。
もちろん、服部家が提出して『寛政譜』の基となっている[先祖書]は未見。
服部家が功自慢を抑えたのか、家譜の編纂者が削ったか、あるいは、三河生まれの半蔵に想像されているほどの影響力はなかったのか、判断は控えておく。

伊賀忍者の家元の一つ---柘植(つげ)三之丞清広(きよひろ)の『寛政譜』。
「天正10年、堺より伊賀路をすぎさせ給ひ、下柘植村(地図=右から4つ目緑○)に渡御のとき、清広仰をうけたまはりて同邑(むら)の者数人をひきゐ、伊勢国白子(地図=右端緑○)への御道しるべして、関(地図=右から2つ目の緑○)のこなた鹿伏兎(かぶき)にいたらんとす。

時に清広言上せるは、鹿伏兎の輩(やから)と柘植の者とは常に讐敵たり。我輩したがいたてまつらば還て御大事を引出さむもはかりがたければ、某等はこれよりいとまたまはるべし。
御供に列せしうち米地九右衛門政次は近郷の者にも面体しらせず隠し置きたる4,5人のうちにて、しかも近国方30里の間、鹿の通ひ路に至るまでつぶさに知るものなればとて、彼米地をして案内者にたてまつり、清広等は下柘植村にかへる」

これにより、本多平八郎忠勝たちも、忍者の周到さをかいま見て舌をまき、かつ、身に冷や汗をおぼえたろう。
米地家の名は『寛政譜』にはない。お目見以下の家柄の者にでもなったか、本多、酒井家にでも雇われたか。

「いや、本多家でそのような人物を雇い入れたという話は、たえて耳にしたことはない。どうじゃな、采女(うねめ)どの?」
「仰せのとおりです」
本多采女紀品(のりただ)が、本多侯(駿州・田中前藩主)へ答えた。

忍者集団話を、目を輝かせて聞いていた銕三郎は、いかにもがっかりしたような顔になった。

参考
[伊賀越えルート]
[神君伊賀越え考]

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コメント

服部半蔵正成の『寛政譜』は思ったより、あっさりしていました。
それより、柘植三之丞清広の『寛政譜』が面白い。
池波さんも、忍者者をたくさん書いていますが、たぶん、目を通したとおもいますよ。

まあ、池波さんの場合は、伊賀者より、甲賀忍者の肩をもっているみたいですが。

投稿: ちゅう | 2007.06.17 12:26

『武野燭談』の逃避行コースの音聞峠は、やっぱり「御斎(おとぎ)峠」で正解だった。
それだと、司馬遼太郎さん『梟の城』(新潮文庫)の冒頭の場面だし、『街道をゆく』(朝日文庫)第7巻にも、再訪されている。しかし、この記では、家康伊賀越えには触れていない。重複ほ避けられたのか。

投稿: ちゅうすけ | 2007.06.18 14:43

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